いつか見た夢

B&B

第39章

『…………』

 なんだろう。このふわふわとした感覚。

『……ちゃ……!』

 これはたまに見るあの夢か。
 いつも曖昧で、いつも誰かが俺を呼んでいる夢。

『目を……お兄……』

 そんな夢の中であっても、誰かが俺を呼んでいるみたいだ。誰かが呼んでいるなら、そこに行かないと。

『お願い! 目を開けてぇ!』

 俺の意識の中で急速に、現実味を帯びた声が響き渡る。妹の……沙弥佳の声だ。沙弥佳が呼んでいる。
 俺の意識は、その悲痛さに満ちた声に導かれるように、どこかに吸い込まれていった。





 なんだ、今のは……夢か?
 ここのところ、やけに変な夢を見るような気がするが、また見ていたようだ。
「お兄ちゃん!」
 耳元で沙弥佳の声がする。
「う……」
 手を動かして、体を起き上がらせようとしたが、腹部を鋭く強烈な痛みが襲う。そうだ、俺は確か……。
「お兄ちゃんっ。良かった」
 今にも泣きそうな沙弥佳の表情と声に、わずかに安堵感がにじんだ。
「ちっ」
 少し離れたところで舌打ちする声が聞こえる。
 そうだ。頭がぼんやりしていて忘れていたが、俺は確か奴に刺されたんだった。どうやらその激痛により、少しのあいだ気を失っていたようだ。
「わずかに急所がズレていたようだな。運の良い奴だ」
 勝手なことをいいやがる。ストーカー野郎はやれやれといったジェスチャーをしてみせる。
「ひどいっ! こんな……こんな、刺すなんて」
「くっくっくっ。大層な言いようだな。言ったろう? そいつは殺すとね。それをするのに、刺すのを躊躇う必要はないさ」
「だ、だからって……」
「良い……沙弥佳。どいてるんだ……」
「お兄ちゃん、立っちゃ駄目っ」
 無理に起き上がろうとする俺に、沙弥佳が抱きかかえようとする。
「……気が動転してたみたいで、うまく身体が動かせなかっただけだ。大丈夫さ」
「ふん、減らず口を」
 強がっては見せるが実際のところ、かなり厳しい状態だ。
 くそ、このままじゃ……。
「さ、沙弥佳。奴は今俺を狙ってる。おまえは今のうちに逃げろ」
「そんな……お兄ちゃんを置いていけないよっ」
 沙弥佳が悲痛な面持ちで訴えるが、ここは四の五のいっている状況ではない。奴は本気だ。今のは本当に運が良かったに過ぎない。
「いいから行けっ、足手まといだっ」
 奴を睨みつけながら、まだやれるんだというのを意志表示して見せた。
「お兄ちゃん……」
「大丈夫だ。俺がなんとかするから、おまえは早く行け」
 そう言って体を支えてくれていた沙弥佳を突き放す。
 激痛を堪えながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……よう、俺はまだ死んじゃいないぞ」
「ふん。あのまま気を失っていれば、もしかしたら死なずにすんだかもしれないものを」
「……そういうわけにもいかないんだよ。……沙弥佳、行け。綾子ちゃん、君もだ」
「で、でも」
「いいから行けっ!」
 沙弥佳と綾子ちゃんは、心配そうな顔をしながらもゆっくりと後退し始めた。
「……人、呼んでくるからっ」
 そういって二人は走って行った。
 これでいい……あまり情けない姿は見せられない。
「くっくくく。その強がる精神、嫌いではないがな。だが、お前は一体何者なんだ? 普通であれば、一緒に逃げようとするところだろう」
「……あんたと、決着つけなきゃならない、からな」
 嘘だ。
 実のところ、すでに立ち上がって威勢を張るのが精一杯で、走ることなどできもしないだろう。
 気付けば足腰が震えていて、このままだと歩くことすらままならないかもしれない。
 一歩奴に近付こうと踏み締めようとするだけで、とんでもない激痛が走る。しかも、足から力が抜けそうにすらなった。正直な話、誰かに助けてもらわないと、こいつからは逃れられないのは間違いない。
「まあ、いい。運よく急所を外したようだが、今度はそういうわけにもいかん。俺の邪魔をした報い、受けるがいい」
「くっ……」
 辺りはもう限りなく夜になっている。街路灯に明かりが灯り、奴の持つナイフにその光が反射している。
「人が来たら色々と厄介だし、それにお前もすでに、立っているのがやっとというところのようだしな」
 そこにはどこか俺を見下し、嘲りが含まれているように聞こえた。元々俺と奴では、どうにもならないと言う風にだ。
 しかし、それはごもっともな話で、今までまともに部活だなんだとしたことのない俺は、そこそこに運動はできはしても、鍛えるということをしたことがないのだ。素人目で見ても、奴は何かしら訓練されたような動きをしていると思われる。そんな奴とでは、最初から勝ち目はなかったんだろう。
 体格もほとんど同じであれば、その差はとんでもなく大きい。きっと蒲生の家での出来事は、偶然だったに過ぎないのだろう。ビギナーズラックというやつだ。
 いや、それでもあの時奴が最後に突然苦しむようなことがなければ、俺はやはり今回みたいなことになっていたのかもしれない。どのみち、勝ち目などほとんどなかったのだ。
(だが、そうだとしても逃げるわけにはいかない)
 そう、逃げるわけにはいかないのだ。敵わないにしたって、一矢報いてやるのだ。素人にだって少しはやれるんだというのを、この野郎に教えてやる。
 だから、絶対に逃げるわけにはいかないのだ。
「……死ね」
 次の瞬間、男が一気に距離を詰めてきた。その手のナイフが俺の喉元にせまる。
 不思議な感覚だった。あの蒲生の家の時のように、スローモーションに見える。見える気がするのだ。
 これなら……。
 腹部に力を込め、腰を低くした。その反動をつけたまま奴の顔めがけ、拳を振り上げる。
 これが俺にとっての最後の策だ。
「!?」
 奴のナイフは空振り、俺の拳が柔らかいようで固いものを撲る。
「がっ?!」
 そんな呻き声とともに、奴に最後の一撃を食らわしてやった。
 野郎は予期せぬカウンターに足元をふらつかせる。当たったのは顎の辺りだったのだ。
 だが俺にとっても、渾身の一撃といっていいカウンターは無理に動いた代償として、刺された腹から血があふれ、更なる痛みをもたらした。
 無理して立たせていた足にも、もう身体を支えるだけの力がないようで、がくがくと大きく震えだし、ついには膝がくずれて地をついた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、」
 おかしな呼吸が口から漏れ、意識が朦朧とする。
 全身から嫌な汗が引っ切りなしに噴出し、白いシャツを肌に張り付かせている感覚がある。
 なにより白いシャツは赤に染まって、ブレザーにまでその赤が染み込んできているのが分かった。
 今のカウンターで駄目なら、俺にはもう何もできそうにない。そんな俺の願いが叶ったのか、足をふらつかせた奴の手と片足がついに地をついた。
 先程の手の感触は、やはり顎に当たった感触だった。奴は何度となく立ち上がろうとしてはいるが、その都度下半身がふらつき、まともに立ち上がることができないでいる。
「ふっ、うっ……」
 吐息とも呻き声ともつかない声を漏らし、がくがくと足腰が震えている。
 俺の最後の策は、見事に成功していたのだ。
(でも……もう、駄目だ)
 未だ血が流れる腹部の激痛を堪え、気迫だけで立ち上がり、更にそんな身体の叫びを無視した代償は俺にも大きかった。
 すでに俺の周りには血だまりができている。暗闇の中でもわかるほど制服も色が変色し、元の色が判別できないほどだ。
 痛みに耐え切れず、傷口を押さえはするがまるで効果などなく、血がとめどなく流れているのが感触としてあった。
(くそ……もうここまでか……)
 それでも、沙弥佳と綾子ちゃんを無事逃がすことはできた。
 それで、もう十分ではないのか?
 そう思って地面にぶち倒れそうになった時だった。誰かに倒れ込みそうになった身体を抱き支えられたようだった。
 のろのろと顔を上げると、最近見慣れた生意気な女の顔があった。
「おまえは……」
「あなたは死なせないわ。救急車を呼んだから安心なさい」
「そうか……」
 俺を抱き支えたのは、あの藤原真紀だった。
 真紀は俺には目もくれず、あの野郎の方にだけ目をやっていた。奴を見るその目は、俺が今まで見たことがないものであり、どこか冷たい印象を与えるものだった。
(だが、なんであんたがこんな所にいるんだ……)
 だんだんと全身が弛緩し、痛みに混じりながらどこか心地良さのようなものを感じながら、俺は目を閉じた。





 なんだ……? 体がとても重い。
 いつもと違う意識の覚醒は、堆積してぬかるんだ、ヘドロのように纏わり付く感覚だった。
 そんな気持ちの悪さを覚えながら、だんだんと清浄な水の世界へと浮かんでいく……たとえるならこんな感覚の目覚めだった。
 目を薄く開ければ、真上には真っ白な天井。それと、ふわりと風がそよいでいた。
「……」
 どれほどそうしていたかは分からないが、ただぼんやりと呆けたように天井を見つめていた。
「……どこだ、ここは」
 のろのろと首を動かして、自分のおかれた状況を考えてみた。多分、ここは病院だ。天井よりもさらに際だった白いシーツは、それを物語っている。おまけに自分には今まで着たこともない、入院患者か何かが着ているようなパジャマを着けていた。
 つまり俺は今、病院のベッドに寝かされているということだ。それに見たところ、今部屋には俺一人で、他にベッドにないことから、ここが個室であることも理解できた。
 しかし、問題はなんでそんな所で寝ているのか、それだけが分からない。俺は確か……。
 カチャ
 そんな控えめな音とともに、一人の女が入ってきた。
「……」
 お互いに目と目が合い、動きが止まる。いや、俺は首を動かした先で、たまたまドアが開いたのを見ただけであって、単に女の方の動きだけが止まっただけだ。恰好から見て、この病院の看護師だろう。
「あ……」
 看護師は俺を見て、みるみるうちにその瞳を大きくさせていった。
「あ……えと、せ、先生呼んできますね。……先生っ」
 それだけ告げると彼女はドアを閉め、慌ただしく出ていった。
「……なんなんだ、一体」
 まるで珍獣かなにかでも見たような反応だ。
 しばらくすると勢いよくドアが開き、沙弥佳が入って来た。心なしか顔が赤く、息が荒いようだ。
「お、お兄ちゃん」
「……よう」
 挨拶に手を挙げようとした時、それが遮られる。
「って、うわっ! なんなん――」
「お兄ちゃんのバカッ!」
 突然、入ってきた勢いのまま沙弥佳が抱き着いてきて喚いた。鋭く、はっきりとした声は怒っている証拠だ。
「バカバカッ、バカッお兄ちゃんのバカッ!」
 胸元に顔をうずめて何度もバカと連発しながら、次第にその声は小さくなり、鳴咽が混じり始めた。肩が小さく震えている。
「なんであんなことしたの……もう、どうにかなりそうだったんだよ……辛かったんだよ……」
「沙弥佳……」
「うう……ずっと……ずっと心配してたんだよ、お兄ちゃん。このままもう二度と目を覚まさないんじゃないかって……ずっと……そう考えたら私、私……
 でも良かった……良かったよぉ……お兄ちゃんが死なないでくれて、本当に良かったよぅ……」
「沙弥佳……」
 抱き着いてきた妹の頭を抱こうとした時、腹部に痛みが走った。
「うっ」
 抱きしめてやろうと身体を捩ろうとしたのだ。
「あ、いかんよ君、まだ無理をしては。傷口が開いてしまう」
 身体を動かそうとした時、その脇から白衣を着た白髪混じりの男が制止する。その出で立ちと言葉遣いから、この男が医者だろう。
「この方があなたの担当のお医者さまよ。手術もして下さったのよ」
 母の九鬼遥子が沙弥佳の後ろから顔を覗かせた。自然に振る舞ってはいるが、どことなくやつれているような気がする。その瞳は少し潤んでいて、沙弥佳同様に今にも泣き出しそうになっている。
「母さん……?」
「なあに?」
 どうして泣いてるんだ、そう聞こうとしたが止めた。なぜかは分からないが、そう思ったのだ。
 しかし俺には、なぜ二人が泣いているのかさっぱりだった。そして、なんで病院にいるのかも。
「……なぁ、俺はなんで病院のベッドで寝てるんだ?」
「え?」
 俺の言葉に、沙弥佳は胸にうずめていた顔を上げた。母さんと二人、驚きの顔で俺を見た。
「な、なんだよ」
「……お兄ちゃん、覚えてないの?」
「覚えてない?」
 どういうことだ。
 そうこうしているうちに、医者の男が眉間に眉を寄せながら言った。
「ふむ。どうやら一時的な記憶の混乱が見られるね。……単刀直入に言おう。君は自分が刺されてしまったのは覚えているかね?」
「俺が?」
 言われてみれば、先ほどから腹が痛い。しかし、あれこれと俺がここに運ばれるまでの経緯を聞いているうちに、だんだんと記憶が蘇ってきたのだ。
「……そうだ。そうだった。確かに俺は刺された後、沙弥佳と綾子ちゃんを逃がそうと……」
 さらに記憶が甦ってくる。あいつに刺されて気がどうにかなりそうな中、心配する二人をどうにか逃がしたんだった。その後、あいつにカウンターを食らわして、それで……。
「……真紀」
「え?」
「そうだ、あの時俺を助けたのは多分、真紀だ」
 思い出した。あの女に助けられた俺は、確かに助けを呼んだという真紀の言葉を聞いた。その言葉に安心して、気を失ったのだ。
「俺がここに運ばれた時、もう一人女がいなかったか?」
 はっきりと記憶を思い出した俺は、沙弥佳に聞いた。沙弥佳はそんな俺の態度に困惑しながらも、首を振ったのだった。
「私が駆け付けた時には、お兄ちゃん一人だけが倒れてたんだよ。それにあの人も、誰もいなかったよ」
「誰もいなかった」
 だとしたら、俺が見たのは夢まぼろしだったっていうのか……。俺はかぶりを振った。ありえない。確かにあの時は朦朧として、前後不覚になっていた部分はあるかもしれない。だとしても、あの女が現れたのが夢やまぼろしであったはずがない。
「救急車を呼んだのはおまえか?」
「うん。呼んだんだけどすぐに来ちゃって……なんか早過ぎるかなって思ったりもしたけど。それとお巡りさんも連れてきたんだよ」
「そうか」
 なら、やはり藤原真紀が現れ、救急車を呼んでいたというのは本当かもしれない。いや、本当にあったことなのだ。
 しかし、沙弥佳が人を連れてきた時にはすでに、あの女は奴とともにそこから消えていたわけか。
 あの女狐には前々から得体が知れないと思っていたが、その疑念がますます強まった。女一人が大の男一人を連れ去ったというのは、にわかに信じがたい。それが引きずったにしろ、なんにしろだ。
 あの女には仲間がいたのだろうか。ありえない話じゃない。得体の知れない女に、一人や二人仲間がいないとは言い切れない。
「お兄ちゃん?」
「あ、ああ、すまん」
「ふむ、この調子だと記憶が戻ったようだね。今からいくつか質問するから、答えてね」
「はい」
 そういわれて俺は頷いた。

 医者の質問に答えた俺は、疲れたというのを理由に医者を追い出した。もちろん、そんなのはただのこじつけで、実際には寝疲れこそあれど、大して疲れてなどいない。本当は、沙弥佳や母さんと、しばらくの間一緒にゆっくりしたかっただけだ。
 二人の話を聞くと、病院に運び込まれたときには大量の血が流れていて、かなりの出血量だったらしい。このままだと失血死しかねない、即座にそう判断され手術になったのだそうだ。
 言われてみれば、そうなってもおかしくない状況であった。気を失う前に見た、あの血だまりは自分でもやばいと直感したほどだったのだから。
「でも、本当に心配したのよ。沙弥佳から連絡があったと思ったら、あなたが刺されただなんて……。
 はじめ、何を言われたのか分からなかったんだから……あまり心配かけさせないで」
 母は嬉しさと哀しみの両方を兼ねたような顔で、俺の頭をゆっくりと何度もなでた。
「……ああ、本当にごめん」
 本気で心配してくれる母に、心の中でもう一度だけ謝った。
「お母さん、お兄ちゃんがここに運ばれてから、何日もまともに寝てないんだよ?」
「何日も? おい、俺は一体どれだけ寝てたんだ?」
「六日間だよ。今日で七日目、かな」
「七日って……一週間もか……」
 開いた口が塞がらないとはまさにこんなことをいうのだろう。いくら意識を失っていたといっても、自分が一週間もベッドの上にいたなんて、信じられなかった。
 しかし、納得もいった。身体を動かそうにもあまり力が入らない上、動かすと筋肉が鈍った痛みのような、疼痛があるのだ。人間、日常的に使う筋肉を一週間も使わないだけで、ここまで鈍るものなのか。
「お父さんもあなたのこと心配してたのよ。ここに運び込まれた日なんて、仕事を早退してまで飛んできたんだから」
「そうだったのか……」
 俺は鈍った筋肉に力を入れて、照れ臭そうに鼻の頭をかいた。しかし、普段からの癖すらも力を入れないといけないだなんて、なんだか自分の身体が自分の身体ではないみたいだ。
 それに普段、家にいる時はそうは思わないが、ここが病院だというだけでこうも家族みんなに心配されると、妙に気恥ずかしく感じるのはなぜだろう。もちろん、そんなことを気にする必要などないし、おまけにここは個室だ。しかし、なぜかそう思ってしまう。
 そんな気持ちを払拭するように、上半身だけ起き上がらせようとした。
「うっ」
「お兄ちゃん、無理しちゃ駄目だよっ」
「ああ、分かってる。だけど、ずっと寝たきりってのもすごく疲れるんだ。手伝ってくれないか」
 妹と母が二人して抱き起こしてくれた。一週間も寝たきりだったからか、上半身を抱き起こされるだけで随分と気持ちが良い。
 それにともない、腹の傷が痛みはしたものの、全身に新鮮な血液がめぐっていくような感覚は、やはり心地が良かった。
「沙弥佳。おまえこそ、何もなかったか?」
「うん。でも今はお兄ちゃんの方が心配だよ……。だけど、心配してくれてありがとう」
「いいさ。俺はおまえの兄貴だからな」
 沙弥佳の髪を優しくすいてやる。こいつはこうやって髪を撫でるようにすいてもらうのが好きだからだ。
「ほんと仲良いわね、あんた達は。でも、沙弥佳のいったことは本当よ。今は妹より、自分の体を心配しなさい」
 俺と妹を見ながら、母が苦笑する。
「ああ」
 その後も他愛もない話をしているうちに、母が一旦家に帰るということになり、部屋から出て行った。
「……なあ」
「ん、なぁに?」
 俺は先ほどから気になっていたことを聞いてみようと思ったものの、どうしてかためらった。また、あの時みたいになるのでは、そんな気持ちがあったからだ。
 一週間前のあの日、綾子ちゃんと斑鳩とまじえて街を歩いた、あの日。沙弥佳が唐突におかしくなった理由を知りたかった。なんで、急にあんな態度をとったのか。あの時はそれどころではなかったためなんとも思わなかったが、落ち着いた今、そのことが気になっていた。
 沙弥佳は、俺が喋りだすのをじっと待っている。気にはなるが、聞いた方がいいのか聞かない方がいいのか……。聞こうとして変に時間が経つと、不思議と聞かない方が良いような気になってくる。
「ああ、いや。なんでもない」
「ええっ、何それ。すごく気になるよ」
「いや、たいしたことじゃぁないんだ。だから聞くまでもないなと思ってな」
「むー。お兄ちゃん。そうやってはぐらかそうとする時ってたいてい何かある時だよ?」
 どことなく非難するような目をしながら、本当に何もないのかと聞いてきた。少しの間、そうやってにらめっこしているうちに、俺はため息をついた。
「……全く、俺の負けだ。本当にたいしたことじゃない。綾子ちゃんはどうしたのかって思っただけだ」
「綾子ちゃん?」
「ああ。今家にいるのか?」
「ううん。あやちゃんね、もうお家に戻っちゃったよ。……この一週間、お兄ちゃんもいないし、あやちゃんもお家に戻ったから、なんかね、すごく家が広く感じるんだよ。自分の家なのに、自分の家じゃないって感じがして……違和感があるんだよ」
 沙弥佳はベッドの脇に腰を降ろしながら、窓の外を眺めた。
 つい一週間前までは五人で暮らしていたのに、いきなり三人で暮らすというのは確かに一抹の寂しさというのはあるだろう。しかも俺はといえば、意識不明の重体ときた。そう感じるのもなおさらかもしれない。
「でもやっと安心した。お兄ちゃん、ずっと目を覚まさないし、寝てるはずなのに死んでるみたいだったんだから……」
「……すまん。心配かけたな」
「本当だよ。もう二度とあんなことしないでよ?」
「善処する」
 苦笑しながら、外の景色を見ている沙弥佳の長い髪に手をかけた。
 今まで考えもしなかったが、こいつの髪は綺麗だななどと思ってしまった。いや、口に出そうになったところを思い戸惑ったのだ。そんな台詞、とてもじゃないが妹にいうような台詞ではないだろう。少なくとも、俺がいう言葉ではない。
 けれど口にはしなくても、つい触ってしまいたくなるのは間違いないので、俺は時間の許す限り、その髪を撫でていた。



 俺が目を覚ましてから、丸っと三週間以上が経っていた。リハビリをしながらそろそろ退院してもいいはずだと思い始めていた矢先、ようやく退院できることになったのだ。
 気付けばすでに、暦は十二月も半ばに差し掛かり、後二週間足らずでクリスマスになろうとしているところだ。
「お世話になりました」
 担当になった医者と看護士に頭を下げて、俺は沙弥佳と二人で病院を出た。
 元気にはなったが、リハビリやなんやらで、合わせて都合、一ヶ月以上も入院していたということになる。
 丸々筋肉を使わない生活を一週間も強いられたため、両足の筋肉が萎えてしまい、そのリハビリに十日、さらにそこまでいくのに、傷の経過を見るということで、二週間もベッドに縫い付けられていたのだ。
 もちろんその間に、家族は当然として、綾子ちゃんや青山、その他にもクラスの連中もこぞって、毎日病室に押しかけてきたため、あまり退屈することはなかったのは救いだった。
 入院生活は暇を持て余すと聞いていたので、その点は本当に助かった。とはいっても、数人は明らかに沙弥佳や綾子ちゃん目当てで来ていた奴もいたのが、腹ただしくはあったが。
「お兄ちゃん、こっちこっち」
 退院に寄り添って、わざわざ俺を迎えにきた沙弥佳がいった。
「おい、あんまり引っ張るなよ。まだ傷が痛むんだ」
「あ、ごめん」
「全く……。それにしても、ようやく外に出られたって感じで気分がいいな」
「そうだよね。この一ヶ月間、私も気分が落ち込んでいたから、こっちも気分がいいよ」
「やれやれ。おまえは本当にどうしようもなくブラコンだな。普通、そこまで落ち込むようなやつっていないんじゃぁないのか」
「何、お兄ちゃん。人がどれだけ心配したと思ってるのよ? それに私はブ、ブラコンじゃないよ」
「おい、それ本気でいってるのか?」
「当然だよ!」
「おまえでブラコンじゃぁないっていうのなら、世の中の姉や妹は、皆兄弟同士で愛し合ってない限りはブラコンじゃぁないってことだな」
「なっ……」
 沙弥佳は途端に顔を赤らめて、そっぽを向いた。やれやれ、本当どうしようもない奴だ。きっと卑猥な想像でもしたんだろうか。全く、そんな風にされると、ついついこっちまでからかいたくなるではないか。
 俺はニヤリと口元を歪め、妹の態度にあれやこれやと突っ込んで、からかってみせた。
 とは言いつつも、こうして心配されるというのは、決して満更でもないのも確かだ。
「あんた達、こっちよ」
 母が病院の敷地の外で、車とともに待機していた。それと、綾子ちゃんもだ。
「よう」
「九鬼さん、おかえりなさい」
 あの日、俺がプレゼントした髪留めを付け、綾子ちゃんは微笑んでいた。それにどことなくむず痒く感じて、鼻の頭をかく。
「ああ、ただいま」
 まだ普通に歩くには傷が痛むため、松葉杖を借りて車に乗り込んだ。
 車の中では最近何があったかなど、世間話に華を咲かせつつ、俺は流れていく景色を眺めていると、一瞬だが変なものを見た気がした。
(今のはっ)
 俺は後ろを振り返ってみたものの、それが人ごみに紛れてしまったためか、見つけることはできなかった。
「九鬼さん? どうかしましたか?」
「え? あ、いや、今……見なかったか?」
クエスチョンマークを頭に浮かばせながら、綾子ちゃんはつられて後ろを振り返るが、すぐに前になおった。
「どうしたの?」
「あ、ああ、いや……多分見間違いだろう。最近、リハビリでちょっと疲れていたし」
 そういって、沙弥佳の頭に手をやった。沙弥佳は綾子ちゃんと顔を合わせ、首をかしげていた。
(そうだ、きっと見間違いだろう。まさか奴なわけがない)
 自分に言い聞かせはするが、今ひとつ腑に落ちなかった。俺が見かけたのは、あの野郎の姿だった。全身黒づくめで、フードをかぶったその出で立ち。こうして助かったので忘れていたが、奴がどうなったのかは分からずじまいだったのだ。
 奴は一体どうしてしまったのか。こればかりはやはり不安が残る。沙弥佳や綾子ちゃんが無事でいることが、何にもまして、何もないという証拠なのだろうが、奴がどうなっているかは、きちんとした形で知っておいた方が良い気がしてならなかった。
 今まで、ストーカー被害がほとんどないというのを理由にしていた警察も、人的被害が出たとなるとようやく、その重い腰をあげた。
 俺が意識を取り戻した翌日には、早速刑事がやってきた。今回の事件を担当することになった刑事は、南部とか言う刑事で、
三十代後半の叩き上げといった風な雰囲気を持った男だった。
 あれこれと質問してきた南部刑事は、三、四十分もすると、また何かありましたら、と言い残して署の方に引き返していった。その際に、あの野郎のことを聞いてみたが、首を横に振るだけだった。
 一応、その男を傷害や殺人未遂などの容疑とあわせて、指名手配はするかもしれないとは言ってはいたが、それから丸きり音沙汰がないことを考えると、それも本当だったか怪しいものだ。
 まぁ元々、綾子ちゃんの親父さんに関係があるというだけで、それ以外の関係は一切分からなかった奴だ。そうなると警察にだって、一朝一夕というわけにもいかないだろう。もとより大した期待もしていたわけでもないが。
 なんにしても、そのせいかは分からないが先ほどの黒づくめが、ただの目の錯覚であることを祈りたい気にはなる。俺も当然、こんなことはもう二度とごめんだ。だというのに、なぜこんなに後ろ髪を引かれるのか……全く、俺の悪癖だ。
 さっきの黒づくめはきっと、見間違いだろうと俺は思い込むことにした。逮捕の期待はしていなくとも、抑止力にはなるだろう。
 それにもう一人、どうしても会わなくてはならない人間がいる。そいつには会って確かめておかなくてはならないことがある。藤原真紀……あの、どこか得体の知れない女。
 あの場に確かに居合わせた女。とにかく真紀には聞きたいことがいくらもあるのだ。
 あの女狐がどこまで真実を語るかは分からないが、とにかく聞いておかなくては、こっちも気持ち悪いままだ。俺は学校に行ったら、真っ先に真紀に会おうと決めた。




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