いつか見た夢

B&B

第51章

 部屋に沈黙が降りていた。目の前の綾子ちゃんは、黙って俺が話し出すのを待っている。俺はどう切り出そうか考えあぐねていた。ある程度の予想はしているかもしれないが、さすがにセックスしたとは言えない。
「まず……まず君に謝っておきたい。……本当にすまない」
 綾子ちゃんに向き直り、頭を下げた。それを見て、どう思ったかは分からない。けれど、謝らずにはいられなかった。
 なにもいわない綾子ちゃんを頭をあげて見れば、無表情とでもいうのか、今まで見てきたどの表情ともしれないものだった。美人なだけあって、その沈黙がやたら恐い。
「……もう君が考えているように……あの後、沙弥佳からの接触は確かにあったよ」
「……やっぱり。それでどうしたんです?」
「……」
 本題はここからだ。なんと言えばいい。多分、何を言っても結局のところ、綾子ちゃんを傷付けることになるのような気がする。
 それでもやはり本当のことは言えない。他の女であれば最悪とは分かっていても、寝てしまったと言えばまだ救われる。だが今回ばかりはそんなこと言えない。近親相姦しましただなんて言えるわけがない……。たとえ彼女がそいつを容認できるような人間であってもだ。
「……何を言っても、もう許されないと思う。……だから言うよ。あいつとキスをした」
 俺は彼女と目を合わせないよう、静かにそう言った。別に間違ったことは言ってない。言ってはいないが、保身に廻った自分に自己嫌悪してしまう。
「……そう、ですか」
「……」
 彼女の悲しげな響きを含んだ言葉を最後に、再び俺達に長い沈黙がおりた。空気が重いというのは、まさにこういうことを言うんだろう。その間にも、次はなんと言えばいいのか考えてはいたが、情けなくも全く何も浮かんでこない。
「九鬼さんは……九鬼さんはそれでどう思ったんですか?」
「どう……ってのは?」
「さやちゃんとキスしたんですよね。その時九鬼さんは、どういう気持ちになったんですか?」
 静かに、とても静かに彼女は尋ねてくる。まるで聖母のように……。
「……正直に言うと、よく分からない。良いとは思わなかったが、悪い気にもならなかった……戸惑いこそあったけど、それ以上は何も……」
「……キスしたんですか? それともされた?」
「もちろん、されたんだ」
「拒否しなかったんですか? 私、言いましたよね。絶対に拒否してくださいって……」
「ああ、そうだ。……だけど、俺はそれができなかった……綾子ちゃんに対して悪いとは思ったんだ、だけど……」
 あいつを傷付けたくなくて、結局こうなってしまった……だけど今度は綾子ちゃんを傷付けてしまった。いや、二人を傷付けたくないという身勝手な思いが、二人を傷付けてしまったのか……。
「すまない綾子ちゃん……」
「……ねぇ、九鬼さんは私のことどう思ってるんですか」
 不意に綾子ちゃんの雰囲気が変わった。今までのひどく感情の篭っていない声から、責めるような、それでいて悲しくもある、そんな声だった。
「もちろん好きだ。綾子ちゃんと付き合えることができた時、すごく嬉しかったんだ」
「なら……なんでさやちゃんとそんなことしたんですか。拒否してって言ったじゃないですか」
「……すまない」
「ねえ、なんで? 九鬼さんは私のこと好きだから付き合おうって言ったんでしょ? ならなんでさやちゃんとそうなっちゃうんですか? それとも私のことはただの良い友達なんですか? さやちゃんを騙すための形だけ? ねえ、黙ってないで答えてっ」
「そんなわけない。俺だって綾子ちゃんが好きになったから付き合おうと言った。最後に会った時言った言葉に嘘はない」
「ならどうしてさやちゃんとキスするのっ。なんで私とはしてくれないのっ」
 つい数分前まで物静かだった綾子ちゃんは、泣きそうになりながら叫んだ。
「私だって九鬼さんのこと好きなんだよ? その九鬼さんから付き合おうって言われた時、私もすごく嬉しかったっ。
 ……なのになんで? 九鬼さんの彼女になったんだから、私だって何から何まで全部を許せるわけないんだよっ。それとも何? 私だったら許してくれると思ったの? そんなわけないでしょっ。
 ねえ、私は九鬼さんの何? 体の良い友達? 都合の良い女?」
 一気にまくし立てた彼女の目には、涙が浮かんでいた。それを見て、俺はなんと言えば良い?
「違う……そんなわけない」
「ならどうしてっ! 私はこんなに好きなのに……なんでっ」
 ついに彼女は俯いて泣き出してしまった。俺はその様子の綾子ちゃんを、ただ阿呆のように眺めていることしかできずにいた。本当は抱きしめたいのに、罪悪感からそれすらできなかった。
「……すまない、本当に」
 彼女から目を逸らして伏せた。何を言っても結局は彼女を哀しませるだけだ。それに綾子ちゃんの言うことに、なんの落ち度もない。全ては俺が悪いのだ。
 第一、俺だってこうなるかもしれないと分かっていたからこそ、思い悩んでいたはずではないのか。
 部屋の中では、綾子ちゃんの啜り泣く声だけが響いていた。

 どうすることもできずにいた俺に、いや、俺達の空気を一変させたのは、綾子ちゃんの携帯からと思われる着信音だった。
「……」
 綾子ちゃんは鼻をすすりながら両手で何度も涙を拭い、着信が鳴り続ける携帯に出た。
「……もしもし」
 涙を拭いさっても、泣き腫らした目からは再び涙が浮かんできている。
「……ううん、なんでもないよ。ちょっと感動しちゃって。それよりもどうしたの?」
 綾子ちゃんは、電話の主に嘘をつきながら続けるうちに、一瞬だがこちらに目を向けて言った。
「……ううん、いないよ。でもどうしたの? うん。…………うん、分かった。それじゃあまたね」
 電話を終えた綾子ちゃんが、小さなため息をついて俺に向き直った。
「……さやちゃんからです」
「沙弥佳から?」
「はい。……九鬼さんの携帯にかけたけど出ないからって」
「……そうか」
 制服のポケットから携帯を取り出して確認すると、確かに数回に渡って沙弥佳から着信があったことが表示されていた。マナーモードになっていたために気付かなかったのだ。
「今更だけど仲、すごく良いんですね。……やっぱり私が入り込む隙なんてないくらい」
「綾子ちゃん……俺は」
「言わないでっ! ……もう、もう帰ってください……」
 一際大きな声で言った綾子ちゃんは、それきり俯いたまま何も言わずにただ手を握って震わせた。
「……そうだな、もう俺は帰った方がいいな……本当にすまなかった」
 俺はそれだけ言うと、隅に置いた鞄をとって部屋を出た。
 階段を下りて靴を履き、玄関を出る。
「……お邪魔しました」
 自分でも小さいと思えるほどの小声だ、きっと家の主には聞こえなかっただろう。しかし、とぼとぼと自分でも情けないと思えるような足取りで、門を出ようとした時だった。
「九鬼さんっ」
 後ろから綾子ちゃんの呼ぶ声が聞こえ、俺は振り返った。
 綾子ちゃんは玄関を出て走り寄ってくる。
「……あの、なんて言っていいのか分からないけど、我を忘れてしまったというか……私、感情的なってしまって」
 つい今の今まで激昂していたかと思えば、随分と変わり身が早い。しかし、感情的になりつつも、悪いのは俺であるはずなのに嫌わないでくれている綾子ちゃんには、感謝の言葉もない。だが、今は一旦身を引いた方が良い。話し合いはまた日を改めてだ。
「いいさ……綾子ちゃんの言ったことは間違いなく正論だ。言い訳はしないよ。悪いのは俺なんだ」
 バツの悪い気分の俺は、苦笑して言った。
「九鬼さん……。っ!」
 俺を呼ぶ綾子ちゃんが、突然、驚愕に目を見開かせる。怪訝に思った俺は、その見つめる視線の先を追った。
「なっ……沙弥佳」
 絶対零度という言葉があるが、今の俺達を包む空気はその表現が恐ろしく似合いそうなほど、冷ややかなものだというのが理解できた。そんな中、沙弥佳は俺達のことなど、まるで他人を見るかのような眼で見つめている。
「あ、さ、沙弥佳。これは……」
 言うが早いか、沙弥佳はつかつかと俺達の方へとやってきた。その間に、一度たりとも瞬きをしないのが余計に恐ろしい。
「……なんだ。やっぱり、あやちゃんのところにいたんだね。多分そうじゃないかと思ったんだぁ」
「……」
 その沙弥佳の表情に、綾子ちゃんはためらいがちに目を伏せる。さっきまであんなに激昂していたはずの彼女すら、今の沙弥佳の前ではいささか後ろめたい気持ちになったのかもしれない。
「さ、沙弥佳おまえ、どうしてここに……」
「簡単だよ。お兄ちゃんの学校に行ったら、もう帰ったって聞かされたから。それで電話したのに、お兄ちゃんたら全然出てくれないんだもん」
 うっすらと笑みを浮かべながら話す沙弥佳に、俺達はどうしてか緊張してしまっていた。周りから見れば、ただ恋人の仲を冷やかす友人、に見えなくもない状況かもしれないが、当の本人達からすれば、とんでもなく嫌な予感がしてならない。
「そ、そうか。そいつはすまなかったな……」
「別に良いよ、こうして見つかったし。それよりもさ……一つ聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
「……なんだよ?」
 先ほどからなんら変わらない表情のまま話す妹に、俺はかつてないほどの緊張感を覚えていた。
 肉体と精神というのはコンピューターで例えると、ハードウェアとソフトウェアの関係である、というのを聞いたことがある。肉体というのは、感情という名のソフトウェアが表示したいことを表現するための、ハードウェアだとか言われているやつだ。
 今の沙弥佳は、そのハードウェアとソフトウェアの間に、致命的なバグが生じ、それらがうまく機能していないように見える。
 ……そんな風に考えてしまうほど今の沙弥佳には、とても違和感を感じずにいられないのだ。
 俺の陰に半ば隠れてしまっている形だが、綾子ちゃんも俺と同じように感じているようだ。明らかに今の妹に対し、俺達は畏怖する気持ちがあった。
「私さ、さっきあやちゃんにお兄ちゃんがいないか電話したんだけど、いないって言ってたんだよね。なのにそのお兄ちゃんが、どうしてあやちゃんの家から出てくるの? それってどういうことなのか、きちんと説明してほしいな」
「ぁ、さ、さやちゃん」
 凍りつかせているかのような沙弥佳の笑顔は、向けられた者の体温を、急激に奪っていくほど薄ら寒くなるものだった。
 なんだってこいつはこんな……。
「ね、あやちゃん。あやちゃん、さっき言ってたよね。お兄ちゃんはいないって。なのにお兄ちゃんがあやちゃんちから出てくるのって、明らかにおかしいよね? どういうことなの?」
 その薄ら寒い笑顔を綾子ちゃんに向けて沙弥佳は、途端にその笑顔が崩れた。
「ねえ、どういうことかって聞いてるんだよ、あやちゃん。答えて」
 もし視線で人を殺せることができるなら、きっとこんな眼になるのかもしれない。それほど沙弥佳の視線は、鋭いものだった。なまじ美人なだけあって、向けられていない俺すら足がすくむ。
「さ、沙弥佳。こいつには理由があるんだ。俺が綾子ちゃんに言うなと言っただけで、綾子ちゃんは悪くない」
「……そう。なら、なんでお兄ちゃんはそんな嘘つかせたの? 理由は?」
 鋭い視線の標的を綾子ちゃんから俺に変える。向けられた瞬間、思わず息を飲み込む。
「ぇ、あ……」
 とっさに綾子ちゃんを庇うための嘘だけに、全く理由など考えていない。沙弥佳は無言で俺を見つめたまま、微動だにしない。そんな無言のプレッシャーを打開したのは、意外にも綾子ちゃんだった。
「……やめてあげて、さやちゃん。九鬼さん困ってるよ」
 綾子ちゃんは、一歩俺の横に出て沙弥佳にそう言った。
「なに、あやちゃん。今はお兄ちゃんに聞いてるんだよ。邪魔しないで」
 再び刺すような視線を、沙弥佳は綾子ちゃんに向ける。自分に向けられた眼に、少しだけたじろいだように見えた綾子ちゃんだが、それでも沙弥佳から視線を逸らすことはなかった。
「……今のは私をかばって言ってくれただけで、九鬼さんは何も悪くないよ。確かにさやちゃんから連絡もらった時、九鬼さんはすぐ横にいたよ? でも、電話の相手がさやちゃんだなんて気付いてなかったし、携帯の着信があったのに気付いてなかったのも本当。今日だって予定がないか分からなかったのに、話があるからって、私のわがままで家に来てもらったんだよ」
 なるべく落ち着いて、ゆっくりと冷静に綾子ちゃんは沙弥佳に説明する。それでも沙弥佳は、険しい眼を緩ませることはない。
「だから九鬼さんが悪いわけじゃないよ」
「……そう、ならいいけど。それでお兄ちゃんが出てきたってことは、話は終わったんだよね? ならお兄ちゃん、早く帰ろ?」
「おい沙弥佳」
 一方的に決めつける沙弥佳に、少しながら腹が立った。そもそもなんだってこいつはこんなにまで怒る? よくよく考えてみれば、そっちの方がおかしいのではないのか?
「何よ」
「そんなに綾子ちゃんを責めるな。第一、予定が何もなければ会うことになってたんだ」
「何? 二人して庇いあって」
「そうじゃない。本当のことを言ってるだけだ」
「ふーん、そう。でもあやちゃんもあやちゃんだよね。私との約束よりも恋人取るんだもんね」
「約束?」
 沙弥佳の口から出た言葉に、横にいる綾子ちゃんを見た。彼女はバツの悪そうな顔をしている。
「そうだよ? 前々から今日は遊ぶ約束してたの。でもそれが、土壇場になっていきなりキャンセルされたから、もしかしてって思ったの。予想が当たってすごく嫌な気分だけど」
「本当なのか?」
 問いただしてみると綾子ちゃんは、黙って小さく頷いた。どうやら本当のことだったらしい。
 それをキャンセルしてまで、今日俺と会ったというのはつまり……。綾子ちゃん。君はどこまでも俺と、沙弥佳のために考えてくれていたんだな……。
俺は綾子ちゃんへ、本当にどうしようもないくらいに感謝の気持ちでいっぱいになった。
「……そうか」
「そうだよ。さ、お兄ちゃん帰るよ」
 そう言って沙弥佳は俺の手を握って引っ張ろうとするが、こっちもそうですかと黙ってはいられない。
「待てよ、第一おまえは何だってそんなに腹を立ててるんだよ。約束を反故したってのは確かに分かるが、何もそんなにまで怒らなくたっていいだろ」
「……そんなの私の勝手でしょ」
「いいや、そんなわけいくか。どう考えたって、そんなにまで怒りをぶつけるのは綾子ちゃんに対して理不尽だ」
「何よ、そんなにまであやちゃんを庇いたいの?」
 沙弥佳の鋭い眼は、ますます険しさを増して俺を射ぬく。だが、俺としてもそうそうたじろいでばかりはいられない。
「そうじゃない。そこまでおまえが怒る理由を知りたいんだ、俺は」
 妹の態度にだんだんと腹が立ってきた俺は、思わず叫んでいた。これでもし大した理由がなければ、さすがに今回ばかりは少しお灸をすえてやった方がいいかもしれない。
「……」
 沙弥佳はここでようやく、射ぬくような鋭い視線を俺達から外した。その様子は苛立ちながらも、なんて言うべきなのか考えているようだ。
「どうした、何もないのに怒ってるのか、おまえは」
「……違うもん」
「ならはっきり言うんだ。なんでそんなに苛立ってるんだ? 約束を反故されたからか」
 沙弥佳は小さく二回首を振る。
「違うよ。……それも少しはあるけど……それだけじゃないの」
「じゃぁ、なんなんだ」
 まだまだ険しい表情をしている沙弥佳だが、ちょっと前に比べるといくらかしゅんとした態度になっているところをみると、いくらかは落ち着き始めているようだった。
「……逆に聞いていい? お兄ちゃんはなんで私がこんなに悲しい気持ちになった理由、分からない……?」
「悲しい?」
 逆に反問されて、思わず眉をひそめて聞き返してしまった。
「どういう意味だよ。それが分かるなら、こんな風に聞いてなんかない」
 一瞬だけ目を大きくさせて、驚くような顔をしてみせた沙弥佳は、たちまち眉をひそめ、目を細くして唇を噛んだ。
「……お兄ちゃん。それ、本気で言ってるの……?」
「あ? ……なぁ、さっきから何言ってるんだ。はっきり言ってくれよ」
 沙弥佳は次第に小刻みに震えだし、俯くように顔を背けた。腕を掴むその手にも力が加わり、指が筋肉に食い込んで痛い。
「お、おい沙弥佳」
「そっかぁ……お兄ちゃんには分からないんだ……昨日、あれだけ愛し合ったのに、分からないんだ」
「え……?」
 沙弥佳の呟いた言葉に、今度は綾子ちゃんが何を言ったなのか分からないという顔になって、俺と沙弥佳の二人を見た。
「……ねえ、あれだけのことして、私の気持ちが分からない? それともお兄ちゃんの中ではどうでも良いくらいのものだった?」
「さ、沙弥佳。それは……」
 まずい。沙弥佳の言葉によって、綾子ちゃんが勘づいてしまった。俺は慌てて沙弥佳を止めようとするが、沙弥佳はもう止めることはなかった。
「……お兄ちゃん、昨日最後に私のこと好きって言ってほしいって言ったのに、好きとは言ってくれなかったよね? ……あれはなんで? あの一言だけで私、全部諦められたかもしれないのに……私の初恋は終わりって決めてたのに……。なのに私、余計にお兄ちゃんのこと諦められなくなったんだよ? なんでお兄ちゃんはあの時言ってくれなかったの?」
「あ、あの時は……」
 言葉に詰まる。あのとき、もし俺が好きだと言えば、より深みに嵌まってしまうのではと恐れたためだ。だから言うのを戸惑った。だと言うのに沙弥佳は、それを最後にしたかったからだと言う。俺はてっきり、ただセックスの後だったから言ってほしいだけなのかと思ってしまったのだ。
「ねぇ、今言ってよ……」
「なに……?」
「今ここで好きって言って」
 強く、はっきりとした口調。たとえ人込みの中であっても、この声は一際澄んでよく聞こえそうな、そんな沙弥佳の声が冗談でなく、本気で言っているのが分かりたくなくても分かってしまう。
「な、なに馬鹿なこと……」
「馬鹿じゃないよ。本気で言ってるの」
 突拍子もない沙弥佳の発言に、俺も綾子ちゃんも言葉を失ってしまった。今、綾子ちゃんの目の前で、そんなこと言えるわけがない。いくら怒りの感情に支配されているとしても、我を忘れるような類いのものではない。明らかに分かって言っているのだ。
「いい加減にしろっ。そんなこと今言えるはずないだろ」
 怒鳴る俺に沙弥佳は、先ほどよりも怒りに満ちた眼で俺を見る。だが、俺とて腹のおさまりがきかない今、それに屈するわけにもいかない。第一、そんなこと言おうものなら、綾子ちゃんとの関係も破綻してしまう。俺だけならまだしも、間違いなく沙弥佳だってそうなってしまうはずだ。俺はそんなこと望んでいないし、綾子ちゃんもきっとそうに決まっているのだ。
「この際だからはっきり言ってよ、お兄ちゃん。あやちゃんか私、どっちが好きか」
 絶句するとは、こういうことを言うのだろう。沙弥佳は、ますます訳の分からないことを言い出した。
「どっちかっておまえ……さっきから訳が分からんぞ。そんなの意味がないだろ」
「意味なくないよっ。お兄ちゃんだって言ってたじゃない。私にも振り向かせる権利があるって。だから私もそうしたんだよっ?」
「だからって、それとこれは別問題だろっ」
 自分で言っていて、ぐちゃぐちゃに頭が混乱していた。なんだってこいつはこんなにまで喚いている? 何も、今ここでしなくたっていいじゃないか。そんなことを冷静に考えている自分がいる。
「私にとっては別じゃないよっ」
「おまえ、さっきから支離滅裂だ。何言ってるのかさっぱりだ。第一、俺達の関係はあの一回きりのはずだったろうが」
 言葉の弾みだった。つい興奮してしまい、言わなくていいことを言ってしまった。言った後で思わず、小さくあっと漏らすが、そんなのは後の祭りというもので、あれほどエキサイティングしていた俺達に、一瞬にして静寂が訪れた。
「……っ」
 目の前の沙弥佳は当然だろうが、半歩後ろにいる綾子ちゃんもおそらく、驚いた顔をしているはずで俺はそんな二人の視線から、逃げるように目を伏せた。そうでもしないとこの空気には堪えられそうになかった。
「九鬼さん……」
 沙弥佳の一言によって、俺と沙弥佳の関係に疑心暗鬼になっていただろう綾子ちゃんは、うかつな俺の言葉で確信してしまったに違いない。だからこそ絶句ともとれる、俺の名を呼んだ。そして同様に、沙弥佳にも全く別の意味で絶句させてしまっていた。
「……」
 苦い気分でチラリと沙弥佳に目をやれば、沙弥佳は憑き物が落ちたかのように静かになり、切れ長の目を大きく見開いていた。そして、そのままポロポロと涙があふれ、頬を流れていった。
「あ……」
「……そんな、そこまで言わなくたって……」
 沙弥佳の涙を見て、ようやく俺も気を持ち直した。沙弥佳は、とめどなく流れている涙を拭くことなく身を震わせ、掴んでいた俺の手を放す。まるで死にゆく人が露のほども力がなくなり、握ることすらできなくなったかのような、そんな具合だ。
「さ、沙弥佳、今のは……」
 離れた手を逆に今度は俺が掴もうとしたとき、その手を沙弥佳によって払われた。
「触らないでっ」
「沙弥佳っ、待ってくれっ!」
 手を払った沙弥佳はそのまま背を向けて走り去ってしまった。
 俺は今すぐにも後を追いたくなったが、横の綾子ちゃんを置いていけるのかと思うと、足が動かなかった。
「あ、綾子ちゃん……?」
「……どうしたんです? さやちゃん追わなくていいんですか?」
 困り顔で呟く彼女は、明らかに無理をしているのが見てとれる。
「綾子ちゃん、俺は……」
 途中まで言いかけて止めた。今何を言ったってそれは、全てただの言い訳にすぎないのだ。
 今まで忘れていた綾子ちゃんへの罪悪感が、今更ながら甦ってきた。沙弥佳とはキス、それだけ。しかし脆くもそれが、どうしようもない嘘であったとばれてしまった以上、俺には綾子ちゃんになんて声をかければいいのか、分からなくなってしまった。
「……九鬼さんの様子がおかしいから何かあったんじゃないかって……もしかして、さやちゃんとそうなっちゃうんじゃないかって思ったりもしたけど……結局意味なかったんですね」
「……」
 沙弥佳とは違って、一語一語ゆっくりと話す綾子ちゃんは、妹とはまた違う恐ろしさがある。
「……なんか私、馬鹿みたい。好きな人に付き合おうって言われて、一人で浮かれちゃって……でも、その人は私とは違う人と関係結んじゃって……私、ただ二人の当て馬にされただけじゃないですか」
「っ。それは違う」
「じゃあなんなんですかっ。私、ただのお飾りじゃないんですよ? 私だって、好きな人と一緒にいたいって思う気持ちもあるんですよ? なのに、なんでさやちゃんとそんなことしなくちゃいけないんですか? 都合がよければ誰でも良かったんですか?」
「ち、違う……」
「じゃあどうしてっ」
 綾子ちゃんは一際大きく叫びながら、目を真っ赤にして泣いていた。
「……私、さやちゃんと関係を持ったこともショックだけど……それ以上に隠そうとして、嘘つかれたことの方がもっとショックです……。
 私、言いましたよね? たとえ九鬼さんたちが合意の上で関係をもつのなら仕方ないって……私とさやちゃんの間にはどうしたって、九鬼さんと過ごしてきた時間の長さも、お互いを理解し合っていることも、まだまだ敵わないんです……。どうしたって、さやちゃんに遠慮しちゃうんです。
 それが分かってるからこそ、九鬼さんがを選んでくれたのがすごく嬉しかった。これで少しはさやちゃんに追い付くことができるって……なのに……それなのに、こんなのひど過ぎますよ……」
 綾子ちゃんの悲痛な独白に俺は、苦い気持ちで聞いていた。聞くことしかできなかったのだ。
 これまでにないほど感情をぶつけてくる彼女に、かけれる言葉など何もありはしない。
「綾子ちゃん……」
「……九鬼さん。今あなたが本当に見ている人は誰ですか」
 唐突の問い。ついさっきまでなら、君だと即答できたはずだ。はずなのに、今それができないでいる。どうしても心のどこかで妹が、沙弥佳がひっかかるのだ。理性は嘘でも良いから、綾子ちゃんを選べと頭蓋の中で叫んでいる。なのにそれとは裏腹に、口は全く動こうとしない。
 何も言えずにいる俺を見て綾子ちゃんは、どこから出てくるのか知りたくなるほどの涙をあふれさせた。
「……っ」
「綾子ちゃんっ!?」
 彼女は俺の制止を振り切って、走って家の中へと入っていった。
 俺は阿呆のように、いつまでも綾子ちゃんの消えていった玄関のドアを見つめていた。



 綾子ちゃんの家からほどなくした場所にある、小さな公園。そこになにもかもやる気をなくして佇んでいた。
 二つだけのブランコとシーソー、それに小さな子供向けの滑り台。後はある意味がなさそうなほど小さな砂場と、至って普通のどこにでもある公園だった。
 俺はただ一人、ぽつんと人っ子一人いない公園のブランコに座っていた。ただ一人だ。他の誰もいない。
 小さくブランコをこいでみれば、ほとんど人が使うことがないのだろう、キイキイと錆び付かせた音が鳴った。
「……なにやってんだ、俺は」
 もう何度目かも分からないほど呟いた言葉だった。つい何十分か前に起こった出来事を思い返し、その都度ため息をつく。
 嫌だ嫌だと言いながらも、流されるがままに沙弥佳を抱き、そして結果は傷つけた。それが元で結局は、綾子ちゃんをも傷つけることになってしまった。
「綾子ちゃん……沙弥佳……」
 ブランコに座ったまま地面を見つめていた俺は、その場で頭を抱えてうずくまった。
 別に二人を傷つけたかったわけじゃない。傷つけたいなどと、思うはずもない。沙弥佳とはいつまでも仲の良い兄妹でいたいし、綾子ちゃんとだって周りが羨むとまではいかなくたって、人並みに付き合いをしたかった。俺が望んだのはただそれだけだ。それだけのはずだったんだ。それなのにどうしてこうなった……。
 口の中でギシリと音がした。無意識のうちに強く歯ぎしりしていたのだ。口の周りの筋肉に余計な力が入っているのに気付いた俺は、口元を緩めた代わりに、またため息をついた。それももう何度目か分からない。
 本当は分かっているのだ。綾子ちゃんの言う通り、俺がそうありたいと望むのであれば、何がなんでも沙弥佳を拒否すべきだったのだ。きっと沙弥佳には嫌われることになるのは目に見えていた。それが怖かったのだ。
 どうしようもなくブラコンで、俺が他の女と遊んだりしようものなら、その女に対して敵意を剥き出しにしたことすらあった。沙弥佳はそんなやつだったのだ。
 それが分かっていながら俺は、中途半端にあいつを受け入れた。それが間違いだった。嫌われてしまうことを覚悟で拒否すべきだった。仲の良い兄妹だったのだ。たとえ今はそれでギクシャクすることになったとしても、いずれは分かり合えるはずだったのではないのか……。
 よくよく落ち着いて考えてみれば、すごく簡単な話ではないか。一時的に嫌われることになったにしたって、親友同士の二人が本気で関係が破綻してしまうことになるような気はしない。仲の良い二人なら、俺と同じように分かり合えたはずではないのか。いまさらながら、そんな考えが浮かんでは消えていった。
 しかし……もう遅い。沙弥佳に嫌われるなんて、俺には考えられなかった。いや、甘えていたのは俺の方だった。あいつなら、俺がどうあっても分かってくれるはず。そんな甘えがあったのだ。その身勝手な考えのせいで、俺は二人を傷つけたのだ。
「くそ……」
 いまさらそんなことに気付いたって遅すぎる。悪態をつきながら、のろのろと携帯を取り出して中を開いた。
 履歴から沙弥佳の番号を呼び出し、通話ボタンを押そうとするがためらわれた。こんなことになっておきながら、どうして電話することができるというのか。かと言って家に帰ることもできない。もし沙弥佳が帰っていたらと思うと、帰ることなどできるはずがなかった。
 それに今はあいつに合わす顔がない。けれど……合わす顔がないと分かっていても、今すぐにでもあいつの顔を見たいと思うのは、あいつへの罪悪感からなのか……。
 大切なものというのは、失ってはじめて気付くというが、そうなんだと気付かされた思いだった。まだそうだと決まったわけではないが、思わずそんな風に思ってしまうような心境だ。
「沙弥佳……」
 間違った関係を結んでしまったかもしれないが、一番の良き理解者にして、何にもまして、いつだって俺を一番に想ってくれていた妹のことが、俺にとってとてつもなく大きな存在なのだと実感できた。
 綾子ちゃんにしたって同じだ。彼女の独白からは、沙弥佳への対抗心から、ずっと俺を理解しようと努めてくれていたのだ。そんな二人を傷つけるなんて、俺はとんでもない大馬鹿だ……。
 携帯を片手に手を膝の上に置いて頬杖をつきながら、大きくため息をついた。
「幸せが逃げちゃうわよ」
 突然かけられた声にはっとして顔をあげると、そこにはあの藤原真紀が立っていた。どことなく顔が上気しており、少しだけだが息が上がっているように見えた。
「……あんた、どうしてここに?」
「別に。この辺り、近所だもの」
「そうだったのか……」
 それきり俺は興味をなくし、再び地面を見つめるように俯いた。今はこの女に構っているような余裕はない。
「どうしたの、ちょっと見ない間にすごくやつれたように見えるけど?」
「……あんたには関係ない話だ」
「……そう」
 そういったけれどそれでも、真紀はなにか考えているのか、その場を離れようとはしなかった。視界には真紀の足だけが映り込んでいる。
「……どうしたんだ。帰らないのか?」
「そうね。半ば冷やかしみたいなものだから帰るわ。でも、ここにいちゃダメというものでもないでしょう」
「そうかい。だけどできれば遠慮願いたいもんだね。しばらく一人になりたいんだ」
 ため息をつきながら、真紀を見ずに言う。
「そう……あなたがそうしたいなら、そうすればいいわ」
「ああ」
 それでもすぐにそこを動こうとはしなかった真紀も、俺と同じようにため息一つついて、ゆっくりと離れていった。
「……」
 何を思ったのか俺は、去っていこうとしている真紀を引き止めようと顔を上げるが、一人にしてくれと言った手前、それは思い止まった。
(なにを都合の良い……)
 自分で突っぱねておきながら、相手が去ってからは都合のいいように引き止めようなんざ、どうかしている。
 そんな具合に何事もなかったかのように俯いて、どれほどそうしていただろうか。再びジャリという音とともに、俺の近くに誰かがきた気配を感じた。
「……呆れた。本当にまだそのままだったの?」
 その声に思わず顔を上げ、声の主を見た。
「真紀……」
「はい、これ。少しは落ち着けるわよ」
 そう言って差し出してきたのは缶に入ったコーヒーだった。それを受け取ると、思いの外熱く、思わず声に出してしまった。
「あちっ」
 真紀はこいつを平然と手で持っていたため、てっきり冷たいのかと思ったのだ。
「熱いから気をつけなさい」
 言うのが遅い。相変わらず憎たらしい女だ。少しでもこの女に、そばにいてほしいなどと考えた俺が馬鹿だった。
「なによ」
「……別に」
 真紀は隣のブランコに座り、自分のコーヒー口を開けて一口飲んでみせた。飲んだ後に、思わずほっとさせる様を見れば、きっとこのコーヒーと同じ熱いものなのだろう。その様子を見れば、俺としても熱いから持てないなどとは言っていられない。
「……ごく」
 一口で大量にコーヒーを飲み込み、口の中と喉が焼けそうになる。だが構わなかった。今の俺にはこれくらいがちょうど良い。
 食道を流れていく熱い液体によって、途端に身体が、かあっと熱くなった。
「ふふ、そんなに慌てて飲む必要なんてないのに」
 穏やかな微笑をして見せる真紀に、少しだけ驚いた。この女と言えば、ピクリともしない無表情な顔か、人を小ばかにしたような含み笑いくらいしか見たことがなかったからだ。
「あんたもそんな顔ができるんだな……」
「え?」
「いいや」
 内心で舌打ちした。何を言ってるんだ、俺は。これではまるで俺が、この女を口説いているみたいではないか。
「それで、なんでまた戻ってきたんだ?」
「ただの気まぐれよ」
「……ただの気まぐれね」
 苦笑しながら肩をすくめた。ただの気まぐれでこうも都合よく、ついさっきまで、自販機だかコンビニだかで温められていた缶コーヒーを、持ってきたと言うのか。
「別にどうだっていいじゃない」
「ああ、そうだな。確かにどうでも良いことだ」
「……で、あなた本当にどうしたのよ。こんなこと言うのもなんだけど、まるでリストラされたサラリーマンみたいな顔しているわよ?」
「リストラされたサラリーマンね。こいつは言い得て妙だな」
 くつくつと手を額と腹にやって笑った。確かに、あながち間違った表現ではない。俺は人生で初めて恋人というのができたにも関わらず、その次の日には早くもその関係が終わろうとしているのだ。いや、そんなのはもはや、恋人という関係であったかすら怪しいものだ。
 おまけにそれでいながら、最も身近にいた人間にすら愛想を尽かされてしまった。今まで、こんなことなど一度だってなかったことで、俺はどうすれば分からなくなってしまっているのだから、そんな板挟みにされている今、リストラされたサラリーマンの心境に近いものはあるかもしれない。
「何よ、突然笑いだして」
 怪訝な顔をして見せる真紀を見て、おかしくもないのに笑いが止まらなくなった。
「もう。馬鹿にしてるんなら、私本気で帰るわ」
「く、くっくっくっくく。すまんな、別に笑いたくて笑ったんじゃぁないんだ」
「何よそれ。おかしくもないのに私を見て笑ったっていうの」
「いいや、あんたがそんな物珍しそうな顔してるからさ、それと相俟ってな」
 はあ、とひとしきり笑い終えてため息を漏らした。
「……ま、缶コーヒーのお礼くらいには話そうか。けど多分、あんたにはなんの面白みもない、くだらない話だと思うぜ」
 そう前置きし、俺は真紀にことの経緯を話した。当然だが、妹であるというのは話さなかった。妹の部分だけは、他の女ということで話を進めたのだ。
 長年一緒にいて、異性とは見れなくなっていた女から迫られ、一度だけという口約束で抱いてしまったこと。元々その女が俺のことを好きでいたなんて、思ってもいなかったこと。そしてそれが元で、付き合い始めたばかりの恋人と、早くも破局しそうになっていること。所々変えてはいるが、起こったこと自体は、なるべく真実に近い形で話していった。
「……とりあえず話は、ざっとこんなとこだ」
「あなたって意外とモテるのね」
「俺も驚きだよ。モテた経験なんて、今の今まで一度だってなかったしな。まぁ、たまたま重なっただけだろうよ」
「そう……でも、分からなくもないけどね」
「何がだ?」
「いいえ、なんでもないわ。それよりあなた、これからどうするの?」
「……さぁな」
「私は部外者だからどうこう言える立場じゃないかもしれないけど、前者の方を選んだら?」
「前者って……」
「その幼なじみ?ってことよ。抱く気がなくても結局は抱いてしまったんでしょ? だったらそっちの子を大事にした方がいいんじゃない?」
「おいおい。俺は一応恋人ってのがいるんだぞ? それなのにそっちを取れってのか、あんたは。そんなの妥協にも取れるような気もするし……そんな気持ちで付き合ったって、あまりいいことないと俺は思う」
「じゃ、あなたはどうしたいのよ。私は別に妥協しろって言ってるわけじゃない。結局抱いてしまったのなら、あなたも満更じゃない部分があったんだと思うわ。長年一緒にいたんなら、お互い知り尽くしてる部分もあるわけだろうし、逆に言えばやりやすいんじゃないの?」
「……それが許されるような相手じゃぁないんだよ」
 真紀には聞こえないような小声で呟いた。真紀は幼なじみか何かだと思い込んだようだが、実際には血の繋がった妹だ。それを知っても同じことが言えるのか、と問いただしてやりたい気持ちになるが、ここはぐっと抑えるべきところだ。
「なに?」
「……いいや。まぁいい。仮に俺が前者を取ったとして、後者はどうすりゃぁいい?」
「別れるしかないでしょうね」
 にべもなく言ってのけた真紀に、言葉を失った。
「おいおい。それじゃぁ、その子を傷つけてまで前者と付き合えっていうのか、あんたは」
「そうなるわね」
「なんだ、そりゃぁ……」
「あなたね、そうやっていつまでもうじうじしてたって意味ないのよ? けじめくらいつけなさいよ」
「分かってるよ、んなことは。でもそれじゃぁ」
「じゃあ、あなたはどうしたいの? あなたが二人を傷つけたのは間違いない。結局あなたは、自分が傷つきたくないから、二人に嫌われたくないから、そう思ってるのよね? そんなのはただの独りよがりだわ。二人のことなんて何も考えてない。
 あなたはきっちり、どちらかを捨てて、どちらかと付き合うしかないのよ? もしかして、潔く別れようとか考えたりしちゃって
るんじゃないでしょうね? 一つ言っておくけど、どっちからも手を引こうだなんて、ただの逃げだからね」
 真紀は俺を見ながら、強くそう言った。
「……二人ともなんて無理なのよ。どちらかしかできないの」
 最後の言葉はどこか俺にではなく、自分に向けて放った言葉のようにも聞こえた。真紀はそれきり口を閉ざし、自分からは喋ろ
うとはしなかった。
「……なあ」
「なに」
「……もし許されない相手だと分かっていたら、あんたはそれでもそっちを取れと言えたか?」
「……さあ? 私、そういう今起きてる問題を無視して、もしだとかって質問は嫌い。ただの逃げじゃない」
「そうだな……」
 どちらかとも知れず、キイと錆びたブランコの鎖が軋んだ音が響く。
「……最後に一つだけいいか」
「いいわよ」
「あんたは前者を取れと言ったが、後者でもいいと思うか?」
「そんなの自分で考えなさい。私はただ、前者の方が後悔しないんじゃないかと思っただけ」
 真紀の物言いは、まるでこれから起こる何かを予期しているかのような、そんな風に感じさせる言い方だった。
「……そうか」
「ただ……あなたが本気で後悔しないのであれば、どちらでも構わないんじゃない」
 ぶっきらぼうに言い放つ真紀だが、これがこの女なりの優しさなのかもしれないと思った。だがそのおかげで、胸のつっかえが取れたというものだ。
 俺は、気付けば温くなっているコーヒーを一気に喉に流し込み、勢い良く立ち上がった。
「どうしたの?」
「いや、帰ろうと思ってな。
 ま、なんていうか、誰かに話したおかげで楽になれた。そしたら、俺のやるべきことが分かったんだ」
「そう」
「ああ、あんたのおかげでな。礼を言っておかなきゃな。ありがとう」
 俺は真紀に向かって、ほんの少しだけ俯くように頭を下げた。
「別にお礼を言われるまでもないわよ」
「……そうか。それじゃぁ悪いが、野暮用ができたんで帰るぜ」
「ええ。またね」
 俺はそばに置いておいたバッグを担ぎ、歩きだした。公園を出る際に、出口の脇にあったごみ箱に缶を投げ入れ、一度だけ後ろを振り返り、まだブランコに座っている真紀を一瞥した。
「ただの逃げ、か」
 真紀が口にした言葉をつぶやいて、足早に駅へと向かった。右手では携帯で、沙弥佳へのメールを書きながら。




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