いつか見た夢

B&B

第53章


 フラフラと、何ヶ月か前まではよく歩いていた道を歩いていた。全く足元がおぼつかないため、それに合わせてグラグラと視界も揺れている。
 今の俺の視界は、灰色だった。人も犬も猫も、車や建物全てがモノクロに見える。いや実際には、色がついているというのは理解しているが、うまく認識できないという方がいいのだろうか。とにかく、今の俺には何が何色で、何がどんな色をしている、というのが頭でうまく処理できていなかった。
 そんな俺を見て道を行く人達は、皆一様にぎょっとした顔を見せている。千鳥足になっている人間がそんなに珍しいのだろうか。
 通りすがりの人間などどうでも良く、俺は電車に乗り、学校へとたどり着いた。確かクラス替えはしていないはずなので、そのまま教室に行きさえすれば、後はなんとかなるだろう。教室すら、二年の頃の教室のすぐ下にあるのだ。
「……」
 授業中の教室に何も言わずに入る。
 突然開かれたドアから入って来た俺に、教室中から視線が集まる。その顔は通りすがりの人達のように、怪訝な顔つきだった。人の顔なんてそこまで面白いものでもないだろうに、無遠慮に見てくるクラスメイト達の顔を見れば、そそくさと視線を外した。
(……なんだっていうんだ)
 教室の後ろの方にただ一カ所ある空席が、灰色の世界の中にいる俺にも確認することができた。あれが俺の席なんだろう。
「あ……九鬼、か?」
「……そうですが」
 授業を担当している教師が、目を丸くしながら俺に問いかける。その顔は級友たちと全く同質のものだった。教室中が奇異な目で見ていることを気にすることもなく、俺は空いている席まで行って椅子に座る。
「九鬼おまえ、大丈夫か……?」
「はい」
「はいっておまえ……」
 そう言ったきり、その教師は何も言おうとはしなかった。俺の周りの生徒たちも同様だ。
 突如として空気の変わった教室に漂う雰囲気に戸惑う生徒たちをよそに、俺はぼんやりと、黒板に書かれている文字をノートに書き写し始めた。なんとも不思議な体験だった。頭はこの上なくはっきりとしているのに、身体の方はこっちが考えているようには上手く動かせないのだ。話しかけてくる人の声もワンテンポ遅く聞こえ、映像と音のピッチがずれているような錯覚すらしてしまう。
 そのうち、頭蓋の中を大きな音が響いた。一瞬なんのことか分からなかった俺は、少し遅れて、それがチャイムの音だと理解できた。それほど、今の俺の感覚はおかしくなってしまっているらしい……。

 再びチャイムの音が聞こえた時、すでに授業は終わっていた。自分の感覚ではまだ一時間かそこらだと言うのに、もう何時間も経っていたのだ。
「九鬼君」
 クラスの女子が呼びかけてくる。声のした方に首だけを動かして、声の主を見やる。
「あ、あの、小町先生が呼んでるって」
「……そうか」
 まるで腫れ物でも扱うかのような物言いの女子に、ぶっきらぼうに言って荷物を持って職員室へ向かおうとすると、再び誰かが俺のそばによってきた。
「……九鬼くん」
 青山だった。普段はなかなかのポーカーフェイスぶりを披露している青山も、今日は心配そうな顔ぶりだ。
「久しぶりだな、青山」
「う、うん。久しぶり」
「どうしたんだ?」
「うん。前に依頼された例の人物のことなんだけど……」
「ああ、そのことか……。悪いが、今はそれどころじゃぁないんだ。また別の時に頼む」
「あ、う、うん」
 確かにそんなことを依頼した記憶があった。しかし今は、そんな面倒事に首を突っ込みたいと思わない。自分で依頼しておきながらこんなことを言うのもなんだが、正直、もうどうでもよかった。今の俺は自分でも驚くほどの無気力人間だし、そんなことに気を廻してなどいられない。
「すまなかったな、また聞かせてくれ」
 まだ何か言いたげな青山を尻目に、俺は揺れる視界の中、職員室まで行ったのだった。

 フラリと職員室に入った俺の視界に真っ先に飛び込んできたのは、三月以来、久しぶりに会う顔ぶれだった。一人は去年と同じ、クラスの担任を受け持つことになった小町ちゃんと、もう一人は俺の記憶している姿とは違って、初々しいながらもどこか大人びたような印象を受ける綾子ちゃんだった。それにもう一人。全く顔の知らない男の教師だ。
「お、来たな九鬼……って、おまえ、なんて顔してるんだ」
 小町ちゃんは相変わらずの調子で挨拶してきたが、俺の顔を見るなり、途端に驚いたような表情を見せた。隣にいる綾子ちゃんも少しだけ驚いているようだが、それ以上に嬉しそうだ。
「別に。普通ですよ」
「普通っておまえ……ちゃんと鏡見てるか?」
「鏡? ……そういえば、どれくらいか前からかは知らないけど、鏡なんて見てないな」
「ちょっとこっちに来い。渡邉も」
 自分の椅子に座っていた小町ちゃんは、綾子ちゃんにも着いてくるように言い、俺の手を掴んで立ち上がって職員室隣の休憩室まで連れてきた。そして、ここで顔を洗うよう言い付ける。
 顔を洗うといくらかマシになった視界に、鏡に映った自分を見た。
 ……酷い顔だった。頬は痩せこけ、肌はガサガサになっている上、目の下には黒ずんだクマができていた。食べていないせいもあり、眼窩に窪んでいるようだった。おまけに死人のような目をしている。
 とてもこれが自分の顔とは思えない。まるで、二十歳も三十歳をとったような気すらした。そう思えるほど酷い顔していたのだ。
「……」
 なるほど。これならば、すれ違う人やクラスメイトらが驚くのも頷けるというものだ。うまく笑おうと口元を歪ませるが、全く笑えない。いや、顔の筋肉が強張るように硬直し、萎えてしまっているのだ。
「……少しは良くなったか」
 小町ちゃんが横からタオルを渡してくれる。確かに水道蛇口の前に立つなんて、いつぶりだろう。思えば今日だって二、三日前にあった電話のおかげで、ようやく家を出てきたほどで、日付の感覚なんてまだないのだ。
「……先生、今何日?」
「ん? ああ、今日は五月の二十八だが」
 五月二十八日……あれからもう二ヶ月も経っているのか。感慨もなく、渡されたタオルで顔を水に濡れた顔を拭く。もう沙弥佳がいなくなって二ヶ月も過ぎているなんて、全くと言っていいほど実感が沸かない。俺の中では、まだ昨日の出来事のようにすら感じているのだ。
 顔を洗い終え、部屋のソファーに座らされた。隣には綾子ちゃんも一緒だ。
 背の低いテーブルを挟み、目の前には小町ちゃんが、その横に男の教諭が座る。この男はどうやら、綾子ちゃんを受け持つ担任であると同時に、沙弥佳の担任にもなるはずだった男らしい。
「さて、おまえたちを呼んだのは他でもない、九鬼の妹のことなんだが」
「はい」
「……」
 小町ちゃんは俺と綾子ちゃんを見据えながら話し始めた。内容そのものは大したことじゃない。小町ちゃんが沙弥佳が姿を消してからのこの二ヶ月、どういうことがあったかを聞くだけだった。
「それじゃ、渡邉は何も知らないんだな?」
「はい」
「九鬼は?」
 俺も首を横に振るだけだった。公開捜査にすると電話をもらってからは、母が倒れた時と、後は数度刑事が姿を見せただけで、その度に捜査に進展がないか聞きはしたが、進展は見られないということだった。
「……そうか」
 小町ちゃんだけでなく、綾子ちゃんも男性教諭も表情に影を落とす。今度は二人が綾子ちゃんに向かって何か聞いているようだったが、俺の耳には入ってこなかった。
「九鬼。九鬼っ、聞いてるか?」
「ああ……」
「……やれやれ、その様子じゃ全然聞こえてないみたいだな……」
 ため息をつく小町ちゃんが再度説明してくれた。要するに、俺にあまり引きこもるなと言いたいらしい。
「妹さんとお母さんがあんなことになって気の毒とは思う。だけどな、九鬼。それで引きこもるようになってしまったら駄目だ。余計に辛くなるだけだぞ。一人になってしまえば、いらないことまで考えてしまうんだからな。
 とにかく。今すぐにおまえに立ち直れとは言わない。こちらとしても考慮するから、九鬼もなるべく学校には来い。いいな」
「ああ……」
「……まあいい。渡邉、すまないが君も頼む」
「はい、分かりました」
 話はそれで終わりのようで、俺はフラリと立ち上がり、部屋を出た。
「あ、待って。失礼します」
 職員室を出たところで綾子ちゃんが追い付いた。けれど俺は綾子ちゃんに目もくれず、いくらか視界が明瞭になったとはいえ、相変わらずフラフラとした足取りで下駄箱につく。外履きに履き変えるため別々になるが、スニーカーに履き変えて校舎を出ると、すでに綾子ちゃんが外で待っていた。
「……」
 何か言葉をかけようかとも思ったがなんと声をかけていいのか分からず、何も言わずに校門へと向かって歩きだした。
「ぁ……」
 綾子ちゃんの小さな声を最後に、俺達の間に声が発せられることはなく、沈黙がおりる。彼女からしてみれば、色々と話したいことがあるのかもしれないが今の俺は、とてもそんな気分じゃない。できれば一人にしてほしいと言いたいところだ。
 地元の駅を降り、改札を抜ける。学生ラッシュの時間ということもあり、同世代かそれよりいくらか年上の連中から、押されるように電車を降りたのだ。
 綾子ちゃんは、そんな俺を転ばないように支えてくれる。
「しっかりしてください」
「……ああ」
 改札を抜けた後は再び、おぼつかない足で家路につく。一刻も早く家に帰って、倒れ込みたい一心だった。というのも今日一日、途中からではあるが学校に出てみると、実に体力が落ちていることに気が付いた。何ヶ月か前となんら変わらないはずの持ち物だと言うのに、えらく重く感じ、心臓の鼓動が速いのがなんとなくだが分かる。
 だからこそ早く帰って寝てしまいたい。小町ちゃんはなるべく学校に来いと言っていたが、はっきりいって、行く気など毛頭なかった。こんなに体力が落ちているのに、行く気力など起きるはずもない。
 それにしても、まさかここまで体力が落ちているなんて思いもしなかった。たかだか二ヶ月かそこらの間、家に篭っていただけだというのに。思えば半年ほど前に入院していた時ですら、ここまで体力の低下を感じはしなかった。
「危ない!」
 突然背中を誰かに引き止められた。
 次の瞬間、目の前をダンプカーが通り過ぎていく。
「九鬼さん、前をもっとしっかり見て。今赤なんですよ」
 横で綾子ちゃんが叫ぶように言い、俺は適当に頷いてその場に立ち尽くす。どうやら彼女が俺を引き止めてくれたらしい。そしてここは交差点で、車の往来が激しい場所だった。
 普段なら、車に轢かれそうになれば冷や汗のひとつもかくものなんだろうが、全くそんな気ひとつなかった。
 周りの人々が交差点を渡り始める。それを確認し、俺も真似をするように歩き出した。横には綾子ちゃんが支てえくれている。
「九鬼さん、しっかり」
 道中、幾度となくふらつきながら、ようやく家に辿り着いた。こんなにふらついているのに、行きはよくぞ事故にあわずに学校まで辿りつけたものだ。
 妙な感心をしつつ、鍵を取り出して鍵穴に差し込もうとするが、うまく鍵が入らなかった。それを見ていた綾子ちゃんは、俺から鍵を取って、代わりに開けてくれる。
「ほら、つきましたよ」
「ああ」
 靴を脱ぎ捨てリビングに入るやいなや、ソファーに俯せになって倒れこんだ。
「何これ……」
 頭上で綾子ちゃんの声がする。ソファーに顔を埋めていた俺も、顔を横にして部屋を見た。
 綾子ちゃんが驚くのも無理はない。空いたカップ麺の容器や、使いっぱなしになったままの皿などの食器類が乱雑にテーブルに置かれており、部屋は当たり前のように埃っぽくなっているのだ。掃除なんてもう何週間もしていないだろう。
「……こんなところで何週間も過ごしてたんですか」
 綾子ちゃんが一人つぶやいた。久しぶりに家の外に出て帰ってみると、確かに部屋が汚くなっているのがよく分かる。こうなる以前のうちを知っているなら、とても同じ部屋とは思えないだろう。俺とてそう思えるのだ。
 しかし、そうだとしても動く気になどなれない。人が住んでいようといまいと、どうせ掃除をしたって汚れていくなら、放っておいたって構いはしない。きっと父もそんなことを考えていたのだと思う。
 そう考えると、なんだかんだで父もかなり参っているのかもしれない。そもそも、俺はほとんど食事をとってないし、大部分は父の食べた後だ。
「……私、片付けます」
「……したいなら好きにすればいい」
 そう言ったきり、俺は再び顔をソファーに埋めた。綾子ちゃんも綾子ちゃんで、それを合図に部屋を出ていった。きっとゴミ袋や道具を取りに行ったのだ。どうも、本気で掃除をする気らしい。
 カサカサとビニールの擦れる音や、その袋の中に色々な物が放り込まれていく音を聞きいているうちに、俺はだんだんと眠りに落ちていったのだった。





 夢を見た。
 夢の中でただ一人、俺しか観客のいない映画館で一方的に流される映像を見ている……そんな夢だった。
 映し出される映像は昔の映画のように白黒で音がなく、映像の中で、妹である沙弥佳がどこともしれない場所に繋がれて、何かに脅えている、そんな映像だった。
 脅えている顔は俺の知っている沙弥佳と比べ、随分とやつれてしまっているように見える。それに、恰好も白い布切れ一枚だけで、それも所々黒ずんでいるのも分かった。その様はまるで、人に飼われ、人として扱われていないようにも思える。
 沙弥佳が何か叫ぶように顔を歪め、足をばたつかせている。恐怖や嫌悪感を滲ませた顔だった。
 直後に沙弥佳の前に一つの影が現れ、その影が沙弥佳の髪を引っ張りあげる。影の顔は見えない。見えないが、毛むくじゃらの大きな手で、影が男であることだけは理解できた。
 男によって立ち上がらされた沙弥佳は、そのままどこかに連れ去られてしまった。すると、そこでシーンが切り替わる。画面が黒くなり、次に映し出されたのはどこかの実験室か何かのようだった。
 台の上に寝かされている沙弥佳は、白衣を着た男が注射器で中の液体を注入するべく、腕に針を突き立てていた。
 沙弥佳は先ほどのボロ切れではなく、いかにも実験されているというのが分かるような、白っぽい服を着せられている。そのうえ、台に寝かされている沙弥佳は気を失っているのか、目を閉じたままピクリともせずに、ただされるがままだ。
『……』
『……』
 その様子を見ていた白衣の男達が、注射した男に向かって何か話しかけている。男は、この実験か何かのリーダーのようなものなのかもしれない。
『……』
 男が周りの奴らに何かを言おうとした時、沙弥佳がいきなり叫ぶように目を覚まし、肢体をしならせながらビクビクと震わせている。
 痛みがあるのか、とてもあの沙弥佳とは思えないほどの形相で絶叫している。震わせていた手足を、そのままめちゃくちゃに動かして虚空をかき、台を壊れるのではないかと思えるほど強く蹴る。
 周りの男達が、狼狽しながらも暴れる沙弥佳の手足を押さえた。例の男の指示だ。しかし、それでも男達は暴れる沙弥佳の体を押さえられなかった。
 華奢とは言わないまでもどこにそんな力があるのか、研究者とはいえ、大の男を両腕たったの一振りで吹っ飛ばしたのだ。足を押さえている男達はなおのことだった。
 なおも四肢を暴れさせ、もがき苦しんでいる沙弥佳に俺はどこか遠い出来事のことで、これが妹であるということにすら感慨が沸かずにそれを見ていた。
 しかしそれも長くは続かず、不意に沙弥佳はもがくのを止めた。最後に天に向かって手を思いきり伸ばし、何かを求めるように、何かを掴むかのようにして見せた後、事切れたかみたいに気を失ったのだった。
 映像はそこで途切れ、夢の中の俺は、どういうわけか漠然とこれで終わりなのだと知っていた。
 しかし、再び映像が映し出されると、口元が現れた。音がないので分かるわけはないのに、その口が困惑げに何かを言っているのが、なぜだか理解できたのだ。
「ん……」
 身体を揺すられる感覚に、意識が覚醒していく。誰かに起こされている感覚だ。
 久しぶりの感覚に、懐かしいとも嬉しいとも取れる気持ちが芽生え、目を覚まそうとした。
「……さやか……?」
 うっすらと目を開けると逆光でうまく見えなかったが、鼻孔をどこかで嗅いだことがある甘い匂いがくすぐった。この匂いは確かに記憶にある。しかしどこで嗅いだのか。この匂いをさせていたのは誰だったか……。
「……君は、綾子ちゃんか?」
 瞬きしながら逆光に眩しい目を手でかざしながら目の前の人物を見れば、綾子ちゃんがいた。
「おはようございます。朝ご飯、出来てますよ」
「朝ご飯……?」
 訳の分からない俺に、彼女は早く起きてと催促するように南側のカーテンを開けると、さらに部屋の中が明るくなった。
「んっ……」
 さすがに眩しさで目が慣れるまで少しかかったが、一度目が覚めると大したことはない。
「どうしました? 早く起きないと遅刻しちゃいますよ」
「ああ」
 俺は頷きながらベッドから這い出て、すでに用意されていた制服を手にとった。
「それじゃ、下で待ってます」
 簡潔に言って、綾子ちゃんは部屋を出て行った。金城高校の制服に身を包み、母さんがつけていたエプロンを身につけた綾子ちゃん。この光景にも、いつの間にかすっかり馴染んでしまっていた。きっかけは五月の終わり頃、唐突に電話がかかってきたことから始まる。世間ではゴールデンウイークも終わり、とっくに五月病を抜け出している頃だ。
 その頃俺は、いや、俺達家族は、三月にあった沙弥佳の失踪というショッキングな事件に心神共にやつれさせながらも、なんとか頑張ってはいたのだが、ついに母さんが耐え切れなくなって倒れてしまった。それが四月の半ば頃だった。
 その頃周辺では、沙弥佳の失踪を知ってどこから嗅ぎ付けたのか、マスコミの連中がとっかえひっかえになって家の前を囲んでいたのだ。沙弥佳の容姿もあってか、美少女失踪事件なんていう、なんともありがたい見出しまでつけてくれていた。
 一日で何件もインタビューさせてくれという電話や、こんなことになることを覚悟してまで公開捜査に乗り出したにも関わらず、いつまで経っても何の進展も見せない捜査。おまけに、何日もまともに眠ることのない状況になっていたためだった。
 それらが重なり、俺の前で突然意識を失ったのだ。パニックになりながらも救急車を呼び、父に連絡をとった。幸いにも、前に俺が入院した病院に搬送され、その日かかりつけの医者が偶然にも俺の時と同じ医者だった。的確な指示と処置で大事には至らなかったものの、意識不明の重体ということで、一時は面会謝絶にもなったのだ。
 しかし、問題はここからだった。
 こうなるまで知らなかったことだが、母は免疫器官の疾患を抱えていたらしく、精神的な疲労が肉体的に最も弱い、この部分にダメージがいってしまっていたのだという。今まで月に一度か二度、病院に通っていたのは知ってはいたが、まさかそこまで重いものだなんて知らなかった。思えば沙弥佳がいなくなってからというもの、病院には行っていなかったはずだ。
 第一、処方されていた薬だって、その器官に対してのものであり、精神的なものからくるものに対してのものではない。だからこうなってしまったのだ。
 そんなことがあってからは、母は日に日に体力を奪われていった。意識が戻らず、ずっと寝たきりなのだ。それも無理はない。
 しかし母さんがそうなると、今度は俺達だった。父が有給休暇を取り、母に付きっきりになった。それでも三日かそこらに一度はうちに帰ってきていたが。
 俺も母の入院をきっかけに、ついぞ緊張の糸が切れてしまったらしい。精神的においやられ、家事も手付かずだった母の代わりに家事をこなし、かかってくる電話の対応や、顔色が良くなかった母を気遣っているうちに学校が始まった。もちろん行くつもりもあるにはあったが、絶望に打ちひしがれている母を見ると、とてもそんな気にはなれなかった。
 その母が、逆に俺を気遣って学校に送り出そうとした日、倒れてしまったのだ。一人、広い家に残された俺はここにきてようやく、沙弥佳がいなくなってしまったというのを強く実感した。
 大きすぎる喪失感は時に、その時にはうまく事実を把握できずに時間を置いてやってくることがあるというが、その通りだった。母の代わりに家のことを切り盛りすることで、俺はそのことから逃げていただけだったのだろう。
 結局、大きな喪失感は俺を襲い、あいつへのやり切れない思いが込み上げてきたのだ。そして気付けば、もう一月半も経っていたのだ。
 何を話しかけても反応しない俺に、さすがの父も心配したようで、ついに業を煮やしたのか、綾子ちゃんに連絡を入れたらしい。自分で駄目なら仲の良い女の子なら……そう考えてのことだろう。
 そして父の目論みは見事に的中し、俺は一ヶ月以上に渡る引きこもり生活から抜け出した。最初は電話がきても出なかったが、何度もしつこく電話を鳴らされたため、仕方なく電話に出たのだ。かけてきた主が彼女だと分かっても、全く何とも思わなかった。沙弥佳がいなくなったあの日、あんな別れ方をしたにも関わらず。
 学校に行きましょうという簡潔な内容の電話だったが、俺は適当に相槌を打つだけで学校に行くことはなかった。それでも次の日も、また次の日も電話をかけてきた綾子ちゃんは、ついに家まで押しかけてきたのだ。
 鍵はかけてあるはずだが、父の持つキーホルダーが制服のポケットに入り切れてなかったのを見ると、それが父の鍵で、なんらかの形で父からの口添えがあったのは間違いなかっただろう。
 三月以来に顔を合わせた綾子ちゃんは、俺を見るなり、奇怪な生物を見たかのように目を細めたのが印象的だった。
 学校に行くようにと、その熱意にほだされたのか俺は、ようやく学校に二ヶ月以上ぶりの登校をすることになったのだ。もちろん、始めは綾子ちゃんも一緒に行くと言って聞かなかった。
 しかし、少なくとも自分より優等生の彼女に、俺のために遅刻させられないと先に学校へ行かせた。後で必ず学校へ行くと約束して。
 約束した手前、のろのろと、久しぶりに制服の袖に腕を通して家を出た時には、午前十一時を過ぎており、いつもなら三十分とかからない道のりに、一時間近い時間がかかっていた。
 それと、四月頃はあれだけいたマスコミ連中も、その頃には誰ひとりいなくなっていた。後に知ったことだが、この頃には他の大きな事件のせいもあり、新しい情報のない事件に連中は飽きていたらしい。世間なんてそんなものだと、改めて思い知らされたものだった。

 下に降りた俺は、そのままリビングの隣にある洗面所で顔を洗った。暦はすでに、しつこい残暑の残った九月を終え、十月に入っていた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 顔を洗い終えてリビングに戻った俺に、綾子ちゃんが朝の挨拶をしてきた。
 五月以来、ずっと続いている関係。そして新しい日常。朝になれば綾子ちゃんが朝食を作って俺を起こしにくる……これが俺にとっての新しく始まった日常だった。
 俺にとってそうであるように、綾子ちゃんにとってもまた新しい日常だ。いうならばこの状況は、通い妻と言っても過言ではないものなのだ。
 高校生になってまだ一年と経っていない彼女に、最近は申し訳ないという気持ちが出てきた一方で、彼女ともっといたいという気持ちもあるのも事実で、もう来なくて良いと言うタイミングを失ってしまっていた。
 それでもいい加減、彼女も迷惑であるかもしれないし、いつまでも好意に甘えているわけにもいかない。そろそろ切り出してみるのもいいだろう。
「さ、席に着いてください」
「ああ。ところで綾子ちゃん」
 座るように促されながら、俺は切り出した。
「なんですか?」
 綾子ちゃんは今出来上がったばかりみそ汁をお椀につぎ、俺の前に置いた。
「まぁなんだ。もうこういうこと、しなくてもいいんだぞ?」
「え?」
「だから、こうして毎朝俺を起こしにきたり、わざわざ朝だって作ってくれてる、そういうことをだよ。もうこんなことしなくてもいいんだ」
 別に強く言ったわけじゃない。だというのに綾子ちゃんは、何か信じられないとでも言った表情を見せたあと、みるみる悲しげな顔になっていった。
「なんでいきなりそんなこと……九鬼さんは嫌なんですか?」
「あ、いや……嫌ってわけじゃぁないが、ただいつまでも君の好意に甘えてばかりなのは、迷惑かなと思ってな……」
「私、全然そんなこと思ってません。初めこそ、おじ様に頼まれて始めたことですけど、今はみじんも迷惑だなんて思ってないです。私自身、この生活が気に入ってるんですから」
 芯が強く、言う時は言う彼女のことだから、そう言うのであればそうなんだろう。
 事実、この生活を始めるようになって、綾子ちゃんの顔が前にも増して明るくなったように感じるのは、そういうことなのだと思える。しかしそれでも、こちらとしてもどうしても遠慮というのが先立ってしまい、素直にそれを受け止められないでいるのだ。
「とにかく。私はやっと、自分のできることが見つけるができたんです。できることなら、まだしばらくこうさせてもらえませんか?
 ……でももし、九鬼さんが迷惑だって思ってるなら止めます」
「迷惑だなんて、そんなこと思ってないよ。むしろ嬉しいくらいだ」
「そうですか。なら良かった」
 半ばまくし立てるような剣幕だった綾子ちゃんは、俺の言葉を聞いてホッとした表情を見せる。心底安堵した、そんな顔だ。
「それじゃあ朝ご飯、いただきましょう?」
「……ああ、そうだな」
 朝っぱらからこんなことを言ったあげく、結局はまたいつも通りになってしまったことに照れ隠しに鼻頭をこすり、俺は勢い良くかきこむように朝食を食べ始めた。



 朝食も食べ終え、歯を磨いたらいつものように登校する。横にはいつものように綾子ちゃんがついている。
 彼女が今日ある学校の予定や、最近あった出来事を彼女なりに面白おかしく話してくれている。俺もそれに話を合わせながらの登校だ。それは一年前までの光景そのものだった。
 ただあの頃は、横にいて話をしていたのは綾子ちゃんではなく、妹だった。今朝あんな話題をしたせいだろうか、ふとそんなことを思い出した。
 あの頃は学校に行く限り、これがずっと続いていくのだろうと、勝手に信じて疑っていなかった。それがまさか、一年たった今こんなことになってしまっているなんて、考えもしなかった。
「それで今日は――」
 思えばもう十月。笑顔で話をする綾子ちゃんと会ったのも、思えば去年の今くらいだった。沙弥佳の紹介で、今付き纏われているストーカー話を切り出されてからの付き合いだ。
 第一印象は、綺麗な子だがおとなしく、やや陰気な雰囲気を持った子だと思ったものだったが、付き合っていくうちに、それは間違いで、実際には控えめながらも良く笑い、しっかりと自分を持った芯の強い子なんだと気付いた。あくまであの時は、ストーカーに悩まされていたからだったのだと思えるようにもなった。
 俺はそんな綾子ちゃんを傷つけたというのに、彼女はそんなことなどとうに忘れてしまっているかのように……いやむしろ、無かったことにしているのかと思えるほど俺に良くしてくれている。
 今現在、俺がこうしてなんとか人並みに生活できるくらいまでに回復したのだって、間違いなく綾子ちゃんのおかげだ。仮定の話なんて意味はないかもしれないが、もし彼女がいなければ、きっと俺はまだ家に引きこもっていたことだろう。
 だというのに俺は、綾子ちゃんをあいつに見立ててしまう。朝俺を起こしに来て、朝食まで作ってくれている。その後、こうして横について学校まで一緒に行くということに、どうしても沙弥佳とダブって見えて仕方なかった。
 綾子ちゃんに対して失礼だとは思う。彼女と妹は全く別の人間なのだから、そんな風に見てしまうのは間違いだと分かってはいても、どうしてもそう見てしまっている自分がいるのだ。
 だからこそ、さっきだってもう来なくても良いと言ったのだが、結局は流されるがままいつも通りになってしまった。また明日も綾子ちゃんは家に来ることだろう。
 それでいながら、この心地良い関係に完全なまでに依存してしまっているのだ、俺は。
「九鬼さんっ」
「えっ?」
「もう。また何か考えこんでましたね? 一人で考えすぎるとすぐ老けちゃいますよ?」
「なんだそりゃ」
 下から、眉を八の字にしながら覗きこむ綾子ちゃんに、苦笑気味に笑った。彼女は全く話を聞いていなかった俺に、ちゃんとしてくださいと言いながら、また話を始める。
「それにしても、今更こんなことを言うのもなんですけど、九鬼さん、大分元気になってきましたよね」
「そうかな?」
「はい。一時は本当に酷かったですから」
 春頃のことを言っているのだろうが、自分がそう思えなくても、他人から見れば相当酷かったのだろう。当の本人は、全くそのように思ってもいなかったのだから不思議なものだ。
「前のようにとは言いませんけど、私も元気になってくれたらやっぱり嬉しいですし」
「君にはほんと、迷惑かけてると思ってる。……ありがとうな」
「良いんですよ。さっきも言ったけど、私が好きでやってることだから」
 先を何か言おうとした綾子ちゃんは、はたと、喋るのをやめたかと思うと突然手を口にやって、くすくすと笑いだした。
「どうしたんだ、突然」
「いえ、なんか逆だなって」
「逆?」
「はい。だってまだ知り合って間もない頃は、いつも私が謝ってばかりで、その都度九鬼さん、そうじゃないって言ってくれてたのを思い出したんですよ」
「あー……言われてみれば、そんなこともあったっけか」
「ありましたよ」
 思い返してみれば確かにそうだった。去年の綾子ちゃんは、どことなく俺に遠慮していたように思う。きっと、今の俺のような気持ちだったのかもしれない。そして、今は彼女がその時の俺のような気持ちになっているのだ。
「……今なら、あの時の君の気持ちが良く分かるみたいだ」
「ふふ。私も今ならあの時の九鬼さんの気持ち、分かりますよ」
「だろうな」
 互いに笑いながら、穏やかな時間を楽しむ。
 一年前までは誰かとこうすることが、こんなにも良いものだと思いもしていなかった。自分の隣にいて、にこやかに話しかけてくれる存在が、こんなにもありがたいことだったなんて考えたこともない。
(もしこれがあいつだったら……)
 楽しそうに話かけてくれている綾子ちゃんに、一瞬、沙弥佳の姿がダブって見えた。
『これでまた、今年からお兄ちゃんと一緒だね』
 四月なら、きっとこんな言葉の一つも言ってきただろう。
『明日から夏休みだね、お兄ちゃん。プールか海に行かない?』
 これも夏休み目前になれば、一度は言ったに違いない台詞だ。
『そう言えば来月の文化祭、お兄ちゃんのクラス、何するの?』
 先週発表された文化祭の出し物についてなら、こう言ってきたに違いない。
 あいつも着るはずだった金城の制服を着て横を歩く綾子ちゃんに、俺はどうしても沙弥佳の面影を求めてしまう。
 この時俺は、ふとこんなことを考えてしまった。俺はもしかして、綾子ちゃんに対して、”恋人としての綾子ちゃん”ではなく、”妹と同じような部分を持った綾子ちゃん”を見ているのではないか。そんな考えが浮かんだのだ。
 現に俺達の間には、暗黙の了解とでもいうのか、沙弥佳の話題は一切あがらない。俺も綾子ちゃんも、あの時以来、一度だって沙弥佳の名をお互いの前で口にしたことがない。いや、口にできないというのが本当のところだった。
 俺の中にある罪悪感がそうさせているのか、それとも別の何かがさせているのかは分からない。だが俺は、綾子ちゃんの前では意識的に沙弥佳の名を口にしないようにしていたのだ。
 綾子ちゃんからしても似たようなものだろう。あんなことがあったその日を最後に、一番の親友を失ったとなれば、後味の悪いものであることは間違いないのだ。
「あ、少し急ぎましょう。電車、来ちゃう」
「そんな時間か。そうだな、急ごう」
 女の子らしい、革のベルトをした小さな腕時計を見ながら綾子ちゃんが言い、それに頷いた。
 まるで俺をリードするように駆け足で駅に向かう彼女の背中を、俺は申し訳ない気持ちで見つめる。俺が春のことを引きずっていることを間違いなく気付いているだろう綾子ちゃんは、なるべく落ち込まないようにと、こうして毎日明るく話しかけてくれている。
 その好意と優しさに依存しながら俺は、綾子ちゃんの中に、第二の妹の姿を見出だしていたのかもしれない。




「いつか見た夢」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「現代アクション」の人気作品

コメント

コメントを書く