いつか見た夢

B&B

第58章

 大小様々なコードやコンセントがあり、部屋のあちこちに延びている。しかし足の踏み場がないというわけではない。きっちりと人が通れそうなくらいには隙間ができていて、よく見ればそのコードの類いも、なるべく絡まらないよう配慮がなされていた。
 東側と南側にある窓にはカーテンがされていて、昼間だというのに随分と部屋が暗く感じる。そんな中、カタカタとタイピングする音が響いていた。タイピングの速度はといえば、俺が知りうる限り最高速といっていい。
「何か掴めそうか?」
 それを横で見ていた俺が、不意にそう聞いた。
 区切りの良いところまできたのか、タイピングする指を止めて肩を軽く回しながら青山が答える。
「さすがにそう簡単には……。だけど、加藤さんの家は分かったよ」
「本当か?」
 俺は思わず身を乗りだし、画面に顔を近づけた。けれど、画面には俺には理解できそうにない文字列ばかりが列んでいて、全く分からなかった。
 青山はマウスで画面を操作し、分かったという加藤の家の住所を示した。
「K県K市……」
 意外だった。俺に待ち合わさせた場所がより都心に近いところだったせいか、てっきりその近くに住んでいるものとばかり思っていたのだ。画面に映し出されている住所を携帯のアドレスに登録し、頷いた。
 それを尻目に青山は脇においてあったカップを手にとった。中にはミルクたっぷりのコーヒー……というよりは、カフェオレといった方が正しいかもしれないが、それが注がれている。青山の姉貴がそいつを運んできたのだ。
 そいつを盛大に一口飲んでカップをおくと、再び画面に向かった。同時に指も高速で動き出した。昨日立て続けにショッキングな出来事が起こったが、かといってへこたれているわけにもいかない。そう考えて俺は今、青山の部屋に来ているのだ。
 理由はもちろん、加藤の死に起因している。そして、あの男達もだがとにかく今は、加藤が俺に話すはずだったことを調べてみる必要がある。何か重大なことが隠されているのではないか……俺にはそう思えてならないのだ。
 そこで俺はまずは青山に頼んで、加藤が掴んだかもしれない情報を調べてみようと思い立った。青山は有能なハッカーであるし、もし加藤がパソコンから何かしら情報を得ていたなら、何か分かるかもしれない。
 それにこの昨今、青山やあの加藤といった人種の連中が、パソコンなしで情報収集するだなんて考えられない。全てじゃないまでも、何かヒントくらいは掴めるはずだ。そこで今回、青山に探ってもらっているところだった。
 青山も今回ばかりは人一人が死んだとあって、あまり乗り気ではなかったが、主にこちらの事情ばかりではあるが説明すると、本人もやる気になったらしい。
 なんせ元はと言えば青山と加藤は、チャットで知り合ったとはいえ顔見知りなわけだし、加藤を俺に紹介したのも他ならぬ青山なのだ。
「うーん、いくつか気になるサイトを見てはいるね。だけど、どれも直接加藤さんの死に繋がるようなものはないなぁ」
 画面と睨めっこしていた青山がぽつりとつぶやいた。本当に作業中の思わずでた、独り言といった感じだ。
「やっぱり直接、加藤の家に行くしかないかな」
「うん。その方が早いかも」
 俺は頷きながら携帯を開き、今しがた登録した加藤の家の住所を眺めた。こうなったら加藤の家に行くしかない。
「分かった。俺は今から加藤の家の方に行ってみる。青山は何か分かったら連絡してくれ」
「うん。……九鬼くん。気をつけてね」
「ああ」
 青山はきっと一昨年の今井のことを思っていったのだろう。俺は重々しく頷くと、青山の部屋を出ていった。



 青山の家を出てすでに三時間近くが経過していた。その間、昨日の奴らとは出くわすことはなかった。それでも油断は禁物だ。昨日はたまたま三人だったが、他にもまだ仲間がいないとはいえない。昨日の今日なのだから、俺は周囲に対して昨日以上に気を配っていた。
 もっとも、望遠カメラなんぞまで使われていたりしたら元も子もないのだが。
 加藤の家の近くにまできた俺は、近所に住んでいそうな主婦に声をかけ、詳しい住所を聞いた。なんの疑いもなく教えてくれた彼女に礼を言い、教えられた通りに道を進むと、ほどなくして加藤の家に着いた。
「ここか」
 念のため住所を確かめると、ここであることは間違いないようだ。加藤の家とはいうがなんてことはない、絵に描いたような古ぼけた木造二階建てのアパートだった。これなら似たような作りになってはいたが、斑鳩のアパートの方がまだマシといっていい。
 加藤の家、いやこの場合は部屋といった方が適切だろう。部屋は階段を上がって二階の一番端だ。階段は鉄製のものだがすでに錆びつき、ところどころ穴が空いていて下が丸見えになっている。おまけに一段上がるたびにギシギシという上る者を不安にさせる音をさせる。事実、二カ所ほど錆びついた手摺りが途切れていた。
 壊れたりしないだろうかと慎重に上っているうちに、二階に上りついていた。二階には一階と同じ三部屋あり、上った先一番端の部屋が加藤の部屋だが、ここでまず他に住人がいないか確かめてみようとした。が、多分誰もいないだろう。一階の階段横にある郵便受けには、加藤の名しかなかったからだ。
 念には念を押して二階二部屋のドアを強めにノックし、反応がなければドアノブを回す。しかし反応がない。やはり誰もいないのだ。俺は加藤の部屋のドアを開けようとして、思い戸惑った。一年半も前になるが、蒲生の家でのことを思い出したのだ。
(馬鹿馬鹿しい。同じようなことがそうそうあってたまるか)
 ため息をつきながらかぶりを振る。ドアノブを回すと、いとも簡単にドアが開かれたのだ。おかしい……。まさか加藤は、部屋を出るのに鍵をしなかったのだろうか。ちょっとの用事で部屋を出るなら、まあ、そいつは分からないでもない。誰も見てなければなんとかなるだろう。しかもこのアパートには加藤以外、誰も住んでいないのだ。
 しかし、たしか早朝に出かけたといい話だったが、ここから事故現場までは歩けば直線距離でも一キロ近くは離れている。それだけの距離があれば、ちょっとの用事にしたって鍵をしないというのはさすがにおかしい。
 俺は警戒しながらそっとドアを開けた。ドアが取り付けられている金属部分が錆び始めていたため音が出るかと思ったが、思いのほか、変な音がでることもなくすんなりと開いた。
「これは……」
 開けたドアを閉めながら、部屋の中を見回した。部屋は一人で住むには広めの2Kで玄関の横がすぐ台所という、ありがちな間取りになっていた。だが問題はそうじゃない。部屋の中に誰かが侵入した形跡があり、無惨にも荒らされていたのだ。
 俺は部屋に上がって考える。物取りの類いだろうか。当然まず最初にそれを思い付く。しかし、この部屋の主は昨日死んだのだ。俺に何か話そうという予定のその日にだ。
 そんなことのあった翌日に都合良く物取りが入るのかと思うのは、さすがに都合が良すぎな気がしてならない。しかもよくよく見れば、物取りが入ったように見えるのにあまり金めの物が取られていない。
 言ってはなんだが、こんな薄汚い部屋にあまり金めの物もないというものだが。とにかく先の侵入者が何をしていたのかは、俺としても知っておきたいところだ。
 部屋に入ると万年床になっていたと思われる布団が無造作に剥がされ、おまけに靴の後がしっかりと残されていた。足跡から察するに、侵入したのは男だろう。
 隣の部屋にはその足跡はほとんどなく、中もあまり荒らされていない。侵入者はあくまで、加藤が寝床に使っていた部屋で何かをしていたらしい。
 では金めの物を盗るのでなければ、その野郎が何をしていたか。本人の死と何か深く関係しているものに違いない。手短に部屋の中を探ってみるが、それらしいものは何もない。せいぜい風俗店のカードが、何十枚も荒らされついでにぶちまけられているくらいだ。
 まぁ、あの感じでは特定の恋人はいなさそうだったので、格段驚くようなことでもないが。
 ふと、部屋のやや中央の壁の前に置かれたテーブルの上にあるパソコンが目に映る。
「……パソコン。そうか、パソコンなら何か分かるかもしれない」
 俺は生前、きっと死ぬ何時間か前まで使っていたと思われる機械の電源をつける。パソコンはただちに起動し、順調に立ち上げ作業をこなしていくがアカウントの選択画面で、思わぬことになった。アカウントを立ち上げるにはパスワードが必要だったのだ。
 普段、自分が使うパソコンには自分以外使わないのだからと、そんな面倒な設定はしていない。そのため、まさかパスワードが必要だったなんて思いつきもしなかったのだ。仕方なく自分で思い付く限りのパスワードを入力していくが、どれも受け付けない。
「くそ。なんでパスなんて設定してあるんだ」
 感情にまかせてディスプレイを殴りつけたくなる衝動にかられるが、そんなことをしたって意味はない。少しの間どうすべきか考えてみるが、何も思いつかない。と、そこで携帯が鳴りだし、俺は思わずビクリとしてしまった。
 驚かせやがってと毒づきながら携帯をとると、着信は青山からだった。電話してきたということは、何か掴めたのかもしれない。
「もしもし?」
『九鬼くん? 僕だけど』
「ああ。何か分かったのか」
『やっぱりいくら探しても、それらしいのは分からないよ。
 なんとか分かったのは、加藤さんはいつも仕事の前に必ず誰かしらとメールでのやり取りがあったっていうことくらいだな。
 多分、肝心の情報そのものは、直接会って集めていたみたいなんだよ』
「つまり加藤が死ぬ前、最後に会った人物を当たってみた方が良いということか」
『かも……』
「分かった。その人物のことを教えてくれ。待て、メールにしてくれないか。口頭よりそっちの方が確実だ」
『うん、分かった』
「ところで今加藤の家にあるパソコンを見ようとしてたんだが、どうだ。何か入ってると思うか?」
『パソコン?』
「ああ。起動させてみたんだがパスがかかってて、見ようにも見られないんだ」
『うーん。あの人がどこまでパソコンを使っていたか分からないけど、多分中にはあまり重要なものは入ってないんじゃないかな。
 データとしてやり取りできるものであれば、わざわざ人と会ったりしないと思うし……』
「……そうか。何かあるかもしれないと思ったんだが、言われてみればそうかもしれないな」
 パスワードを入力するよう示しだしたまま画面は止まっている。その画面を見ながら俺は小さく頷いていた。
 どうすべきか考えを巡らそうとした時だ。
「ここです」
「!?」
 ドアの向こうで声がしたのだ。このアパートの管理人かもしれない。それともう一人、誰かいるらしい。
 俺は咄嗟に電話を切り、慌てふためいた。ガチャガチャとドアに鍵を差し込む音がする。しかし俺が鍵をしなかったため逆に鍵がかかり、おかしいななどと言いながら、再びドアを開けようとしていた。
 俺はそのあいだにも、ここから逃げ出そうと窓を開けて、下を覗きこむ。すぐ下は幅わずか十数センチのブロック塀だった。一瞬迷いがあったが考えている暇などない。
「ん? 誰かいるのか?」
 ドアの向こうから俺の気配か音かに気付いたのか、男の声がする。俺は窓を乗り越え塀の上に足をやり、そのままアパートの入口の方とは逆に向かって伝いはじめた。
 ほんの数秒だが時間を稼げているだろうが、見つかるのは時間の問題だ。だったら確実に捕まりそうな入口方面より、建物の裏手に回った方がいい。そう考えたのだ。
 案の定いくらもすると、背後から待てという声が響いた。俺に向かって言ってるのだ。
(後少し)
 塀の上はけっして幅があるとは言えないが、その両側には昨今の耐震基準を確実に満たしていなさそうな古いアパートのおかげで、両手を伸ばせば簡単にアパートの壁に手をつけるので、バランスにさえ気をつければなんてことはない。
「待て、コラァ」
 再度怒声を響かせた男のことなど気にもかけず、俺は塀の端にまできた。すると塀の下に男がいるのが脇目に窺えた。よく見れば男は深い紺色をした制服を着て、同じ色をした帽子を被っている。
 そう、その男はなんと警察官だったのだ。後ろから怒声を響かせた男かとも思ったが、多分違う。
 あまりに下に到着するのが早過ぎる。警察官であれば、大体二人組であることが多いので、事情を察した一人がこっちに先回りしたといったところだろう。
 だが、その警察官も俺に向かって怒声を響かせてきたが、こちらに来ることはできない。
 なぜなら、アパートと壁の間はほんの三十センチもないのだ。体を横にしながらであれば来れなくもないが、どのみち俺を捕まえることは無理に近い。
 俺は警察官たちを無視して、隣の家の庭にジャンプした。着地の衝撃がほんのわずかに足に響くが、そんなことに構ってはいられない。
 幸いにも、住人の趣味か庭にはガーデニングのための柔らかい土が敷き詰められていたのだ。衝撃がほとんどなかったのは、そういう理由からだ。
 直ぐさま上体を起こし駆け出した。駆け出した先、突如として目の前に大きな犬が現れて、俺に向かって吠え立てた。
 いや、吠えるというより、半ば唸り声になっている。不幸にもこの家には、大型犬が放し飼いにされていたのだ。
 俺は犬に対して申し訳なく思いながらも、容赦なく蹴りを繰り出した。まず犬の鼻っ面に当て、怯んだ隙にボディにもう一発くれてやる。
 俺のためにこうなってしまったという罪悪感からか、最後の一撃はわずかに加減できていたはずだ。キャインと泣き声をあげて、痛みにうずくまるようにしている。
 少なくとも、俺がこの家から逃げるだけの時間くらいは稼げる。
(そう睨むなよ)
 まだ俺に小さく唸りながら睨みを利かせているが、これなら大丈夫だろう。
 犬に向かって肩をすくめてみせた俺は、再び家の門に向かって走りだし、塀を飛び越えた。この家の塀はあまり高くない、所謂デザイナーズ建築という種類のものであるためだ。
 ほんの一区画分走ると、すぐにやや大きめの道に出た。来た時とはまるで逆方向になるが仕方ない。俺は携帯を取り出して履歴から、青山に折り返してかけなおす。
『九鬼くん? 大丈夫? 突然切れたみたいだけど』
「ちょっとな。それより加藤が最後に会ったという人物のことを教えてくれ」
 早口になっている俺に何か悟ったようで、青山はすぐさま加藤が最後に会ったという人物のことを口にし始めた。もしかすると、すでにいつでも教えることができるよう準備していたのかもしれない。
『うん。まず、その人物の名前はハンドルネームでしか分からないんだ。加藤さんとはメールで定期的に連絡を取り合ってたみたいで、kaolってハンドルネームを使ってるみたいだね。k、a、o、lで”かおる”って読むのかな?』
「かおる」
 中性的な名だ。男ともとれるし女ともとれる。おまけにこの手のハンドルネームは実名のようでもあり違うようでもある。人を混乱させようとするのが狙いなのかと、つい邪推してしまうようなハンドルネームだ。
「最後はどこで会ったのか分かるか?」
『今それを調べてるところだよ。メールにはいつもの場所でって書かれていたから、そこに行けば会えそうだけど……』
「いつもの場所……」
 そんな場所など思い付くはずもない。思い出すことができたのは、例の喫茶店くらいだ。
「仕方ない。一旦加藤と知り合った喫茶店に行ってみるとするよ。あの店の常連だったみたいだから、マスターなら何か知ってるかもしれない」
『分かった。僕ももう少し調べてみるよ』
 そう言って青山が電話を切った。俺はため息一つ、どうしたものかと考えようとするが、何も思い浮かばない。
 それにしても、最悪なタイミングで警察官が出てきたものだ。おそらく彼らは昨日死んだ加藤の身辺調査にでも来たのだ。部屋の中が荒らされているのに気付いた彼らは、間違いなく俺を犯人だと決めつけていることだろう。
 それに伴い、一刻も早くここから立ち去った方が良さそうだ。向こうは、パトカーでまだ辺りを探している可能性が高い。
 気付けばいつの間にかどこかしらの公園にまで来ていた俺は、足早に対岸の出入口まで突っ切った。どことなく憂鬱な気分になっていた俺と裏腹に、公園の桜は今が盛りと淡いピンクをもってして公園に彩りを与えている。そいつがまた、俺にはどうしようもなく気分を下げさせるのだ。
「……そうか。もう一年も経っちまったのか」
 否応なく視界に映りこんでくる桜を尻目に、俺はぽつりと口にしていた。だってそうだろう。あの日から俺の人生は変わってしまったのだ。
 他人からすれば、家族がいなくなったから学業も修了できなかったなんてという奴もいるかも分からないが、それが引き金となって母が倒れ、父はほとんど家に寄り付かなくなった。おまけに頼りになるはずの警察は、今もまだきちんと捜査しているのかと疑いたくなるほど、何の音沙汰もない。
 カタが着くまでとことんやると決めた以上は、赤の他人になどなんといわれようが気にする必要はない。どうせ言ったところで、良くも悪くも何かあるわけでもないのだ。
 そうなると同時に俺には、自分の人生はこの先間違いなくまともな人生は送れないような、そんな予感があった。少なくとも平凡とは言い難いものになる気がして仕方ないのだ。
 理由は分からないがこの桜の花を見ていると、どうしようもなくそう感じさせるのだった。



 ガヤガヤと店内はうるさく、スーツを着た休憩中のサラリーマンやまだ春休み中のはずの学生らで賑わっている。
「やあ、待たせたね」
「どうも」
 加藤と待ち合わせに使った喫茶店のカウンター席で、仕事が落ち着くのを待っていると頼んでおいたブレンドコーヒー片手に、マスターがやってきた。
「それで加藤さんのことだったね。僕もニュースを見た時はさすがに驚いたよ。ほらあの人ってさ、どちらかというと殺しても死ななさそうなタイプの人だったし」
 マスターの言い方に思わず苦笑を浮かべる。たしかに加藤はなんとなくゴキブリみたいな、しぶとそうなタイプに思えたのだ。
「加藤は……加藤さんは、ここには良く来ていたんですよね?」
「ああ、それこそ週に一度は来てくれていたよ。探偵業?だったかな。そういうことをやってることもあってか、話もすごく面白い人でねぇ」
「なるほど。ところで、加藤さんはここに良く来てたということですけど、他に、誰かと一緒に来たりすることはなかったんですか?」
「んー……加藤さんがここに来る時はいつも一人だったな」
「もしくは待ち合わせに使っていたりとか……」
「待ち合わせ……ああ、そういえばたまーにだけど、ここに加藤さんと待ち合わせにしてたお客さんがいたな」
「どんな人ですか? 同じ人?」
 もしかすると、kaolなる人物かもしれない。そう思うと、ついつい身を乗り出してしまいそうになる。
「多分、同じ人だと……思うけどね」
 なんとも歯切れの悪い言い方だ。
「だと思う?」
「ああ。なんとも変わった外見をしてる人でね。毎回来店するたびに印象が違って見えてねえ……」
「男なんですか?」
「いや、悪いけどそれも分からないんだ。男のようにも見えるし、女の人のようにも見えるんだ。でも……多分、女の人だと思う。
 さらに言うと、声も随分と中性的でね。なんというか……不思議な声の持ち主だね、あれは」
「そう、ですか……」
 掴んだかもしれないと思ったのは、ただのぬか喜びだったらしい。あまりにも抽象的すぎる。
「ごめん、あまり役に立てなかったみたいで」
「いえ……半ば好きでやってることですから」
 落胆を隠すように半分本当、半分嘘で適当にお茶を濁した。
「趣味でやってるのかい?」
「趣味というわけでは。でもちょっと気になったんでね」
「なるほど。でもあるよね、そういうこと」
 爽やかな笑顔でマスターは自分の趣味を話し出した。いつもであれば話に耳を傾けるところだが、今はそんな気分じゃない。俺は適当なところでぐっとコーヒーを胃に流し込み、カウンターを立った。
「ありがとう。四百円になりますね」
 財布から五百円玉を取り出して、マスターに手渡した。
「はい、百円のお釣りです。
 あ、そうそう。趣味で思い出したんだけどね。趣味というか、半ば仕事とも言ってたけど、まあ、実益を含めてってやつなんだろうけど……加藤さん、よく風俗街に入り浸ってると言ってたな。
 ま、職業柄、色々な人が来るからだろうからと思うけど」
「風俗街?」
 そう言えば加藤の家にも、たくさんの風俗店のカードが落ちていた。もしかすると、新しい展望があるかもしれない。俺はマスターに礼を言って店を出て、携帯で青山に連絡をする。
『もしもし』
「俺だ。少し調べてほしいことがある。加藤が風俗によく行ってたというのは知ってるか?」
『知ってるよ。数少ない趣味の一つだといってたっけ……』
 懐かしげに言う青山に思わず口元を歪めた。俺よりは長い付き合いなのだから、当然といえるだろう。
「それで、加藤がどういった店に行っていたか調べられないか? あるいは常連だった店なんかはないかな」
『死んだ人の懐をあさるみたいな気分になるけどやってみるよ』
「悪いな。分かったらすぐに折り返してくれ」
 半ば事務的に頷いて電話を切った。全く、あいつをこき使ってばかりだが、今は少しでも情報がほしいところだ。青山にはもう少し付き合ってもらおう。
 すでに時刻は、夕方も六時になろうとしている。ぐうという腹の虫が鳴る音がした。思えば朝の八時くらいに食事をして以来、午前中に青山のうちと今の、たった二杯のコーヒーしか口にしていない。その間、隣のK県にある加藤のアパートまで行き、おまけにそこでは警察に捕まりかけた。思わぬ逃走劇を繰り広げてしまったせいで、余計に腹が減ってしまったのだろう。
 青山からの連絡を待つ間、どこか適当な場所で小腹を満たそうとした時、着信があった。多分青山だ。電話をしてからまだほんの、一、二分しか経っていないがそうだろう。
「青山か」
『うん。分かったよ、加藤さんが良く行っていた店』
「本当か」
 青山の話だと、加藤はいくつかの風俗店に足を運んでいたらしい。その中でも特に懇意にしていた店が、S区にある風俗街にあるという。
 その店は”楽艶”という名前の店で、月に二度か三度、必ずそこに足を運んでいるようだった。しかもだ。加藤はその店にほんの三日前に訪れたばかりだったのだ。
「分かった。そこへ行ってみよう」
 他にもいくつかの情報を聞き、俺は早々にその場から動いて駅へと向かう。S区といえば、ここからあまり離れていない。電車を使えば、せいぜい三十分かそこらあれば行ける距離だ。
 ともあれ、ようやく得た手掛かりなのだ。そこに行ってみないと始まらない。俺は気合いを入れなおし、地下鉄の駅の階段を下りていった。



 四月も始め、駅の改札を抜けて目的の店のある街に降り立つと、周辺には仕事帰りのサラリーマンで溢れかえっていた。中にはこのところ新しい季節とあって、昨日一昨日くらいから新社会人になったらしい者の姿も少なくない。
 そういった者はスーツの着こなしから、選択された色や柄といったもの全てが初々しさを醸し出しているから、すぐに分かる。きっと、つい最近までの学生気分でいたところを一気に奈落の底へと蹴落とされ、現実の厳しさを早くも思い知らされたやつもいることだろう。皆どことなく疲れた表情で、足早に下りてきた駅に向かっている。
 その人の流れに逆流する形で、目的の店である楽艶に向かう。時間帯もあるのだろうが、この街では俺のようなラフな私服姿のやつは妙に目だっているような気がする。なんせ、スーツ姿というのが当たり前といわんばかりの場所なのだから、当然ではある。
 オフィス街を抜けた先に、やや込み入った一画がある。そこら一帯のみ同じ街とは思えないほど、いかがわしい雰囲気に包まれている。その中に楽艶は確かにあった。
「お。お兄さん初めて見る顔だね。ここらは初めて? だったら安くしとくよ。どう?」
 客引きのいかにもらしい台詞に苦笑しながら肩をすくめ、看板の見える楽艶へ足を運ぶ。店の入口前に止まって看板を見て、どうしようか今更考えた。勢いでここまで来たものの、ここからどうするべきか見当もつかない。初めてなのだから仕方ないといえばそうなのだが。
 するとドアが開かれて、中からスーツを着たこれまた軽薄そうな客引きらしい、若い男が出てきた。
「お客さん、今なら良い子いるよ。どう?」
「あー……」
 なんて答えるべきか考える暇もなく、男が聞いてくる。こちらの意思をうやむやにして客を引こうとする、この男のやり方なのかもしれない。まぁいい。こうなったら俺もやれるところまでやってやる。
「良い子って言われても見てみないことには分からないな」
「ってこと遊んでくんだね?」
「そいつは見てから決めるよ」
 確か店に入れば、登録された女の子の写真を閲覧できるというシステムがあったのを、とっさに思いついた。
「OK、OK。ま、とりあえず中に入んなよ」
 軽薄そうな男はニヤリとして、俺を中に招き入れた。俺と同様、中に入れさえすれば後はどうとでもできると思っているのかもしれない。
 建物は五階建ての小さなビルで、ところどころ、老朽化が始まっていそうな箇所が見受けられる。建物の仕様が明らかに昭和の香りのある建物に、無理にそれらしく見せようとしているのが容易に見てとれる。
 そんなビルの一階は、やはり思った通り受け付けになっていた。ほんの一畳ほどの広さしかなく、その背後には水色をしたカーテンがされている。それがまた安っぽさを際立たせていた。男は受け付けの台にまわって、中にある名鑑を出した。この中から気に入った女の子を選べということらしい。
「さ、どの娘にする? ちなみにこの子なんかは、おれとしてはかなりオススメだよ」
 そういって男が指差した女の子は、言うだけあってなかなかの、いやかなりの美人だった。正直、なんでこんなところで売りを出しているのか理解できないほどの美貌だ。
 俺がそんなことを考えているうちに、男は次から次へと商品である女の子のページをめくっていった。その様子はまるで、俺に決めさせず、自分の好みの露呈をしているみたいだ。しかし男が紹介する女の子達は、どれもなかなかの美人揃いだった。これならば、加藤が自宅から離れているはずのこの店に、足を運ぶのも分かる気がする。
 ふとこの時、自分がなかなかの粒ぞろいを前にしながら、あまり自分が無感動であることに気がついた。確かに男が薦めてきた女の子はどれも、街を歩けば少なくとも一度や二度は、ナンパされたことがあってもおかしくなさそうなものだが、俺はいまいちピンとこなかったのだ。
 その理由は明白だった。沙弥佳だ。あいつの美貌と、どうしても比べてしまっていることに気がついたのだ。沙弥佳を基準に比べたら、最初の子以外はどれも物足りなく感じる。あるいは写真と実物では印象が違うので実際に会ってみたら、また違うかもしれないが。
 そりゃあ、中には顔はそこそこでもスタイルが抜群という子もいたが、若さからなのか、やはり顔が判断基準になっていた。
「ま、この辺がオススメだよ。おまけにこの時間は今いった子皆いるから、より取り見取りだ」
 自信満々で言う男を無視し、名鑑を再度、頭から見直す。源氏名なのだろうが、俺は彼女達の名前が気になっていた。この中にkaolなる人物がいるのかどうか……それを確かめるためにこんな場所にまで来たという目的があるのだ。いちいち男の商売文句に付き合うことはできないし、その必要もないだろう。
「ところで話は変わるんだが、あんたに聞きたいことがある」
「なに? 俺に答えられるなら答えるよ」
「数日前、ここにある人物が訪ねてきてるはずなんだ。加藤という名前なんだが」
「加藤さん? ああ、彼ならつい二、三日前にも来たけど、彼がどうかしたのか?」
「ああ、いや。実はその人からこの店の話を聞いてね。それでkaolという名前の子を探してるんだ」
 俺は分かりやすく説明するため、教えてもらったkaolのアルファベットを、台の上で指を使って書いた。すると、今まで軽薄そうなにやけ面をしていた男が、みるみる真面目かつ冷淡な顔になっていった。
「そいつを聞いてどうするってんだい?」
 しかし俺としてもこの一年半ほどの間に、幾度となく死にかけたことがあった俺には、そのくらいではなんとも思わない。
「是非、会って聞きたいことがある」
「……あんた、何者なんだい」
「あんた、加藤が死んだのは知ってるか?」
「加藤さんが?」
 怪訝そうに眉をひそめ、男が聞き返した。その声は明らかに、驚きのニュアンスを含んでいる。
「ああ、つい昨日の朝のことだ。実はその日の昼に彼は、俺に会って何かを伝えるはずになってたんだ。それで生前ここに良く来ていたという話を聞いてね」
 どうしても確かめなくてはならないことがあるんだと付け加え、口をつぐんだ。男は訝しんだ表情のまま、俺を舐めるように見ている。どうすべきか考えているという顔に見えなくもない。
 しばしの間そうしていた男は、頷いて小さな声で囁いた。
「分かった。あんた、見たところ警察の人間には見えないし、その言葉を信じよう。
 だが、その前に加藤さんのことが本当なのか確認させてもらう。いいな?」
 俺はだまって首を縦に振った。それでkaolなる人物に会えるというなら、お安い御用だ。
「良し。それじゃあ、しばらく待っててくれ」
 すると男は携帯を片手に、水色のカーテンの向こうに消えていった。奥で、何かやり取りしているような声が聞こえてくる。ぼそぼそとした声で内容はうまく聞き取れないが、男が別のもう一人に話しかけている声だ。電話をしているあいだ、店番してくれとでも言っているのかもしれない。
 壁に寄りかかるように待っていると、店のドアが開かれ、赤っ鼻をしていかにも好色そうな親父が入ってきた。建設業にでも就いているのか、ツナギを着た五十代らしい親父はこれからのお楽しみの時間に、心躍らせているとでもいった風だ。
「あれ? なんだい、今日は待ち時間があるんかい」
 でかい声で親父が俺を見て、そう口にした。
 しかしその声を聞いてか、奥から眼鏡をかけた、これまた典型的なメタボ野郎が姿を現した。歳は確実に俺より十歳は上だろう。身長は日本人の平均といったところだが、とにかく横がでかい。真正面から見れば、恐ろしいくらいに菱形の体型をしていた。
「いらっしゃいませ。今日もいつもの子で?」
「ああ。頼むよ」
 店に入ったとたんでかい声を出した親父に、おそらく常連だというのは予想できたが、やはりそうだったようだ。
 こんな親父を相手に若い女の子があれやこれやと、言葉にするのも憚れるようなことをするのだろうか……想像したら、軽く吐き気でも催してきそうだ。俺はかぶりを振って想像しかけたことを無理矢理、頭の外に追い出した。
「それじゃあ、どうぞ」
「ああ、ちょっと待った。今日はそっちのお客さんが先なんだ。悪いね、おじさん」
 メタボが親父を案内しようとすると、カーテンの奥からさっきの男が出てきて、女の子に先約があることを告げた。
「おいおい、なんだそりゃあ。人がせっかく来たってのによぉ」
「ごめんごめん。その代わり、今日はサービスするからさ」
 男は親父に手刀を切り、この子なんかはかなりオススメだよとさっきも聞いた言葉でやり取りし、親父を納得させてメタボ野郎に案内させた。
「待たせたな。こっちだ」
 そういって男は俺についてくるよう言い、脇のエレベーターに乗った。
「ほら、早く来いよ」
「ああ」
 促されてエレベーターに乗り込んだ。小さいビルのためなのか、はたまた建物が古いためなのか分からないが、収容できる人数はせいぜい三人か四人も乗ればいっぱいというエレベーターだ。
 俺が乗り込むとすぐに扉を閉めた。階数を示す5のボタンがすでに押されている。
「少し揺れるから注意しな」
 直後、男のいう通りガクンと大きく揺れる。おまけに閉まったと思ったはずのエレベーターの扉は、完全に閉まりきっていなかった。多分、エレベーターの点検なんてもう何年としていないだろう。
 上にようやく上がりはじめたエレベーターはとても遅く、これなら階段でいった方が早いのではないかと思えるほどだ。あくびが出るほどの遅さで五階につくと、扉が開くのになぜか数秒待たされた。エレベーターに乗るのに、こんなに苛々とさせられたのは初めてだ。
 エレベーターを降り、そこから脇にある階段を上った。どうも、一階から五階までにある階段とは全く別の階段で、ここだけが独立しているようだった。
「この中だ」
 男の案内でビルの六階らしいフロアにくると、そこは小さな部屋になっていた。とはいえ、一人で居座るには十分すぎるほどの広さがあった。広さにすれば、六坪か七坪かそこらといったところだろう。
「俺はここまでだ。後は好きにしな」
 男はそれだけで、さっさと階段を下りていった。なんとも事務的だが、別にサービスを求めているわけでもないので、気にすることなく中へと進んでいった。
「……」
 俺は中を目を凝らしながら進んでいく。部屋の中は、なんとも毒々しい空間だった。壁には暗幕がかけられ、照明は紫にペイ
ントされたものが被せられている。そのため、異世界にでも迷いこんだかのような錯覚をおこしかねないほどだ。
 さらに、部屋の中は何かひどく甘く、それでいて何か腐ったものも混じっているような、爛れた匂いが充満していたのだ。
「あんたか? あたしに用があるってのは」
 数歩すすんだ時、突然声がした。
 思わず声のした方を見ると、そこにはなんとも扇情的な姿をした女が一人、怪しい光りに満ちた眼差しで俺を見つめていた。




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