いつか見た夢

B&B

第63章

 
 ザクザクと、雪を踏み締める音がしていた。視界には見渡すかぎりの白、一面、白銀の雪世界だ。
 なだらかな傾斜になっている雪の平原を、一人黙々と進んでいる男がいた。登山用の装備で全身を包み、一歩、また一歩とゆっくりと進んでいる。
 積もった雪は深く、少なく見ても七十センチから八十センチはあるだろう。場所によっては、一メートル以上の積雪になっているところがあってもおかしくない。
 けれど積雪量は、これでもまだ例年よりは少ない方だし、時期的にも徐々に雪の季節も終わって暖かくなり始める時期であるため、少しずつではあるが雪も溶けはじめている頃でもある。
 けれど男にとって、今回の気象の変化は意外なことだった。もう今年はまた雪の時期にならない限り、ここまでの積雪はないだろうと思っていた。
 だというのに、昨晩はこの時期にしては珍しく、吹雪いていたのだ。おかげで、せっかく溶けはじめていた雪も、朝には再びこの通り降り積もっていたのだ。
 しかし今日は、昨晩の吹雪が嘘だったのではないかと思えるほど、空は晴れ渡っている。しかし、油断はできない。ここは平地とは違う山だ。山の天気は変わりやすいため、ほんの二十分か三十分後ですら、瞬く間に天気が変わって吹雪くことすらあるのだ。
 男は思う。季節はずれの吹雪によって、歩くことすら思った以上の苦戦になってしまった。そもそも、こんな雪の中をスノーモービルもなしに進む方がおかしいというものだ。しかし、そのスノーモービルが朝になると動かなくなってしまっていたのだ。
 元々、たいして良いマシンでもなかった支給されたスノーモービルだが、それでも無いよりはマシのはずだった。その唯一のアシが使えなくなったのは、不運としか言いようがない。
 しかし、それももう少しの辛抱だ。この調子であれば、あと三十分かそこらで目的の場所に着くはずだ……。そう自分に言い聞かせながら、道なき道を進んでいた。
 雪の平原を進み続ける男は、ただの地元の人間ではない。もっと言うなら、民間人ではなかった。男はこの国に仕えている軍人だった。彼は数日前、上官に呼び出された時のことを忌ま忌ましげに思い出していた。
 雑務に追われていた彼は、突然の上官からの呼び出しに内心、憂鬱にさせられた。なにゆえ呼び出されたのか……。まさか、たまに遊び代欲しさに地元のチンピラや悪徳警官から、金を巻き上げていることがバレたのだろうか。あるいは書面を改ざんして、少しばかりの金を横領していることだろうか。小悪党ともいえる自分の行動の数々を思い出すと、いても立ってもいられない。
 緊張した面持ちで上官の執務室の扉をノックし、部屋に入った。そこで彼を待っていたのは、ある任務を任されるという全く予想だにしないものだった。
 彼の行ってきたことが、上官の口から明るみに出なかったことに心底、安堵してしまったためか、彼は、その任務の内容を詳しく聞く前に承諾してしまったのである。
 今はその時の自分を殴ってやりたい気分だが、こうなってしまった以上はもう諦めるしかなかった。ともかく、自分の悪行が表ざたにならなかっただけでもありがたいと思うようにした。もし上官の耳に入ろうものなら、懲戒免職は免れない。
 昨今、この国では就職難のため、年々失業者が増え続け、未就業者がすでに十数パーセントにまで膨れあがっていた。
ある民間のリサーチ社によれば、その数字ですら良い方で実際には、失業者の数は二十パーセントをとっくに超えているという話すらある世の中だ。そんな世の中で懲戒免職で職を失おうものなら、再就職の道は困難をきわめる。
 それに比べれば、この任務ははるかに楽だろう。辛いのは今だけなのだ。
 男が言い渡された任務とは、なんとも変わったものだった。数日後の今日、ある地点にて某国からの亡命者が届けられることになっているので、そこでその人物の身柄を確保、保護しろというものだ。
 そういった話そのものは、格段おかしいことではない。国境に一番近い基地に配属されている以上、そういったことはあることなのだ。
 変わっていると気付いたのは、迂闊にも早合点してしまった後に上官から亡命者の詳細を聞いた時だった。その人物は某国の人間ではなく、東の島国、日本からの亡命者らしい、ということだったのだ。
 なぜわざわざ日本からこの国へ……そんな疑問が沸き起こったが、上官は承諾してしまった彼に、これ幸いとにんまりと笑い、今すぐ出立するように言って下がらせたのだった。
 今思い出しても、あの時の上官の薄汚さそうな笑い顔が脳裏に浮かぶと、なんとも腹立たしい気分になる。だが、いまさら文句も言えない。だから、こうして黙々と進んでいるのだ。
 男は一息つこうと足を止め、光の反射によって七色に光るバイザーを額に上げて、頂上のあたりを見上げた。頭全体を寒さから守るためのフードは目元だけが開いていて、隙間からは金色の細い髪の毛がはみ出ている。
 彼の瞳は青く、視界の先や足元に広がる雪が太陽光を反射して眩しいために、目を細めている。彼はおもむろに、着ている白のウィンドブレイカーの中から地図を取り出して、辺りの地形と見比べた。
「間違いない。あそこを登った先だ」
 頷きながら、また地図をウィンドブレイカーの中にしまい込む。バイザーを目元に下ろすと、彼は気合いを入れ直し、またなだらかな傾斜の頂上へ向かって歩きだした。
 傾斜の頂上は、スキーやスノーボードで滑降する出発地点としてはちょうどよさ気な雰囲気で、周りには針葉樹が幾本も立っている。目指す地点は、頂上を超えて百メートルほど先だ。また、そこが国境にもなっている。
 ようやく、なんとか頂上まで登ることができた。ここからはほとんど平淡なので、進むのはいくらかマシになる。針葉樹に覆い隠されているにも関わらず、ここらにもかなりの積雪があった。
 五分と経ったろうか、やっとのことで目的地のあたりにまで来ることができた。男はバイザーを上げ、視界に広がる銀世界の平原を眺めた。目的の地点は、針葉樹の林を抜けた先、突如として現れる平原だったのだ。
「後は、向こうが来るのを待てばいいだけだな」
 男はそばにある針葉樹に背中を預け、ぼうって平原を眺めていた。
 そうしたまま、数十分に渡ってその場にいた彼も、いい加減待つのに飽き飽きし始めていた。ウィンドブレイカーの胸ポケットから、時計を取り出して時刻を確認する。
 時間はすでに正午を大きく廻っている。予定ではちょうど正午のはずだ。なのに目的の亡命者はおろか、受け渡し人すら現れる気配がない。
 まさか、自分がルートを間違ったのではないか……あるいは向こうが……。周りの鬱蒼と覆いしげる針葉樹と、白以外なにも見えない中に取り残されている彼の脳裏に、任務失敗の文字が浮かぶ。
 いいや、そんなはずはない。自分は決して間違ってなどいないはずだ。何度もルートを確認しながらここまでやってきたのだ、間違ってなどいない。
「くそ、まだかよ」
 男は深呼吸して気持ちを落ち着けるために、そう自分を言い聞かせて悪態をついた。
 その時だった。周りには自分以外、誰もいないはずだと思っていたのに、突然、背後から声がしたのだ。
「待たせたな」
 男はひどく驚いて、後ろを振り返る。しかし、後ろには誰もいない。
「ど、どこだ、どこにいるっ」
 彼の声は、明らかに狼狽しているのが窺える。
 いつの間に来たんだ。つい今の今まで、自分以外いないはずだったではないか。それとも、すでに自分が到着する前にはいたというのか……。いや、いくらなんでもそれはない。ここに来た時は、確かに自分以外は誰もいなかった。いなかったはずなのだ。
 なら、声の主は一体いつ……。少なくとも近くまで来ていたなら、雪の踏み締める音が聞こえるはずだ。彼はなんだかとても嫌な予感がした。
「ここだ」
 彼からほんの七、八メートルほど後ろの樹から、一人の男が現れる。彼は突如として現れた男を前にして、ごくりと生唾を飲んだ。
 男はどうやら東洋人らしい風貌をしていた。らしいというのは、なんとも不思議なことかもしれないことだが、確かに東洋人特有の真っ黒な髪と瞳の色をしているのに、どこか西洋人を窺わせる顔立ちをしているのだ。
 そして、なによりも雰囲気だった。男の醸し出す雰囲気は、これまで出会ってきた全ての人間の、誰とも重なり合わない雰囲気を持っていた。それでいて、どこかで会ったことがあるような、懐かしい気分にもさせられたのだ。
「ぼ、亡命するっていうのはあんたか」
「いや、私ではない」
 彼の問いかけを否定した男の眼は、まるで彼のことなど映していないようにすら思わせる。彼ではなく、ずっとずっと遠くの情景を見ているかのようだ。
 それにどこかおかしい。亡命者でないのなら、この男は受け渡し人であるはずなのに、肝心の亡命者の姿が見えない。彼は何か不吉な予感に、緊張感を漂わせる。
「そ、そうかい。だったら」
 彼が皆までいえることはなかった。なんとも奇怪なものが視界の先に映ったためだ。男の真後ろから何かとてつもなく黒く、そして大きな何かが迫ってきていたのだ。
 混乱していた、というよりも、頭が現実を理解できないでいた。なんなのだ、あれは。
 猛スピードで迫ってきた黒い影は、男のすぐ後ろにきた時、視界から消えた。いや、跳躍したのだ。
 彼は頭上を見て黒い影がいないのを確認すると、すぐさま後ろを振り返った。後ろには一面の雪原だ。
 しかし雪原には、ありえないほど巨大な姿をした何かがそこにいた。
 猿……? いや、あそこまで大きい猿なんているはずが……。
 彼が無意識に後ずさる。……違う。あれは猿などではない。獣のように四肢を使っていたが、あれは猿というよりもむしろ……人間に近い気がした。大きさも垂直に立てば、二メートル以上はありそうだ。
 人の顔を青黒くさせて少し面長にし、口は裂けているようだった。そして耳は長く尖って、眼は鋭く赤に光っている。
 全身が顔同様の色をしていて、ところどころが毛むくじゃらになっている。さらには人というには手足が長くもあるが、あれは確かに人といった方が近い気がする。
 いうならばあれは、幼い頃によく言って聞かされた、狼男のような風貌をしているのだ。
「そうそう、ここに君の待ち人は来ない。彼らには眠ってもらったからね」
 男が淡々という。眠ってもらった……この言葉が意味するのは一つしかないだろう。
 それを理解した時、彼は後ずさりから体を反転させて一目散に駆け出した。装備としてアサルトライフルを所持していたが、戦おうなどとは一切思わなかった。とにかく逃げ出したかった。この場から、あれから、そしてこの男から。
 彼は何十センチとある雪の地面を、何度も転倒しながら必死に逃げた。わけが分からなかった。なんなのだ、あれは。あの男は。一つだけ分かっていることは、あの男達が普通でないということだけだった。
 先ほどの傾斜の頂上付近にまで来た時、彼の進行方向を遮るように一人、何者かが現れた。あの男の得体の知れない雰囲気や、狼男といっても良い化け物と出会った後では、その人物は至って普通の様相だった。
 彼はとまどった。彼と同じような、白と黄色、それにピンクと明るい色のウィンドブレイカーを身に纏って現れたのは、女だったのだ。いや、少女と言ったほうが適切だろう。
 晴れているとはいえ、この雪の世界にいるにもかかわらずフードをつけていなかったため、少女の顔がよく分かった。
 彼は思った。美しい……。背中のあたりまである、長く艶やかな黒い髪。日の陽りが当たっているために黒髪が光って見え、白銀の世界によく映えていた。
 なによりも目を引いたのは、その顔立ちだった。何を思っているのか、彼を見つめる切れ長の瞳と整った眉、すっと通った鼻筋。唇は小さいめながら肉厚でみずみずしく、健康そうなピンク色をしていた。
 髪の色や同じ色をした瞳から察するに、彼女は先ほどの男と同じ東洋人だろう。しかし、東洋人にあまり縁のない彼だが、そうだとしてもほとんどお目にかかることのないほどの美少女だった。
 そして、実に神秘的でもあった。これが東洋の美少女というものなのか……。彼は逃げてまどっていたことすら忘れ、思わず言葉にしてしまっていた。歳はまだ十四か十五といったところだろうか。いや、東洋人は童顔だと聞くから、もう二歳か三歳は上かもしれない。
 けれど、少女のあまりの落ち着きぶりと神々しさすら感じる容姿からは、その年齢よりも上のようにすら感じさせた。
 彼はそんな美少女を前に生唾を飲み込んだ。一体この子はなんなのだろう。どうしてこんなところにいるのだろう。そんな疑問の数々が、脳裏に浮かんでは消える。
 もう彼に、少女の呪縛から逃れることはない。たとえ今、殺されることになるとしても。いや、彼女になら命すら捧げたっていい……。一瞬、そんな考えすら思い浮かべてしまったほどだ。
 少女が動く。一歩、彼の前に足を踏み出すと同時に、彼女の手には、一丁の拳銃が握られていた。
 彼もそれにはぼんやりとだが気付いた。しかし彼は動かない。少女に釘付けにされたままで、動こうとしない。あるいは魅了されてしまい、動けなくなったのかもしれない。
 少女が彼に向かって銃口を向ける。彼は動かない。
 次の瞬間、少女が笑った。少しだけ困ったような、そんな笑みにも見える。しかし、彼にはそれがまるで、聖母マリアが微笑みかけてくれたかのように感じたのだ。
 直後に、パンッという意外なほど短く鋭い音が、針葉樹の森に響きわたる。
「……」
 少女は無言のまま銃を下ろして、物言わなくなった男の死体を眺めた。雪の上には真っ赤な鮮血と、脳漿が飛び散っている。
 向こうからザクザクと雪を器用に足で掻き分けながら、男が少女のもとへやってくる。それとともに、あの狼とも人間とも知れないものも後ろに従えながら。
 男の瞳には、目前で人が死んだというのに何も映していない。映しているのは、自分にとって最もお気に入りともいえる、黒髪の少女ひとりだけだ。
 死体をよけ、少女の前に男が立った。
「ふふ……なんの躊躇いもなく人を殺せるなんて、初めてとしては上出来だ。いや、素晴らしいといってもいい。
 だから言ったろう? 君になら、こんなことは難無くこなせるとね」
 少女の頬に男の指が触れる。触れられた瞬間、人を殺したにもかかわらずぴくりともしなかった少女の瞼が、わずかに震えた。
 そして少女は、頬に触れている指をゆっくりと何度も上下させている男の顔を、静かに見上げた。少女に殺すよう指示していたのは、間違いなくこの男だった。
 少しだけ、ほんの少しだけ少女は頬を緩めるような仕種をして見せる。男には、それだけで歪んだ心が洗われていくような気にさせる。あの狼のような姿をして見せる人間も、その二人にかしずいていた。
「やはり、おまえこそ私の聖母に相応しい。さあ、いこう。マリア」
 男に促されて少女は頷く。
 男の一歩後ろについて、彼らは緩やかな傾斜をおりていったのだった。





 しとしとと雨が降り続いていた。この時期にしては珍しく、ここのところ毎日降り続ける雨は、もう何日目なのか分からない。おまけに今は夜だった。
 昼と違い夜になると、この街では急激に温度が下がり始める。もっというと、体感温度が違うのだ。そのため、テレビなんかで表示される温度と実際に感じる温度とでは、かなり異なって感じる。
 遠くでは、街をいく車の走る音が雨のしぶく音と紛れ、この寝座にまでかすかにだが響いてきている。
 けれどそれを除けば、今日は比較的静かな夜だった。こんな日は、部屋に買いためてあるスコッチでも飲みたい気分にさせられるが、残念なことに、今はまだそういうわけにはいかなかった。今日はまだ仕事がある。たいしたことではないが、サボタージュするわけにもいかない。全く面倒な話だ。
 まだ時間はいくらかあった。見てもいないテレビのスピーカーからは、濃い茶色の髪をしたタレント達が数人で、何かについて言い合っている。
 今部屋の灯りは、テレビの前にあるテーブルの上にあるライトスタンドだけしか点いていないため、部屋の中は非常に薄ぐらい。
 その部屋の中で俺は一人、窓の脇に寄りかかって外の景色を眺めていた。見つめる先には何もない。ただ空に向かって、暗闇がひたすら続いているだけだ。雨があがっていれば、見つめる先に大都会の摩天楼がかすかに見えるのだが、生憎の空模様だ。
 もう、どれほどの時間そうしている分からない。いい加減、この代わり映えのしない景色にも飽きてきて、俺は窓からはなれた。まだ少しばかり時間があるとはいえ、そろそろ準備して出たほうがいいだろう。仕事なんて、さっさと済ませるに限るのだ。
 テーブルに置いてあるリモコンでテレビを消す。そして続けざまに、ライトスタンドの灯りを消した。十坪かあるいはそれ以上あろうかという、広い部屋に、ほの暗い沈黙がおりる。
 この街に住み着くようになった最初の年、たまたま街に繰り出した時に一目惚れして買った、焦げ茶色の革ジャンを羽織って部屋を出た。ドアを閉めると同時に、鍵穴に鍵を挿してロックする。別に盗まれて困るようなものなど一切ないが、なんとなく習慣というやつだ。
 ドアの外は、そのまま階段の踊り場になっている。昔のレンガでできた壁。階段もレンガになっているが、現代風にみせるためなのは知らないが、コンクリートによって塗りかためられている。手抜きもいいところな階段だ。
 俺の住む部屋は、古ぼけた五階建てのアパートの一室だった。部屋は全部で十部屋あり、一人で住むには広すぎるといえるアパートだが、実際には住人は俺を含めてわずかに三人しか住んでいない。
 なんでも十九世紀に建てられたというこのアパートは、当時の面影を残したまま時代に取り残されていったのだ。エレベーターはおろか、部屋に電話線すら通っていないようなボロアパートなのだ。おまけに、階段の各踊り場の横の壁に設置されている電灯も、ところどころチカチカと点滅していて消えそうになっていたり、すでに中のフィラメントが切れてしまったのか、点いていない電灯もあるほどだ。
 そんな、綺麗好きと知られる日本人である俺が、こんな薄汚いボロアパートに身を寄せたのが今からもう二年以上も前のことだった。
 アパートを出ると、頭にぽつぽつと雨の滴が降ってきた。この程度の雨なら傘は必要ないだろう。こんなのはこの街であれば日常茶飯事なのだ。
 ジャンパーのポケットに手を突っ込み、人通りの全くない道を南東のほうに向かって進み始めた。たいした雨でなくても、やはりあまり濡れたくないせいか、つい足早になってしまう。
 周りには、俺の住むボロアパートと大体同じ造りになった薄汚さそうなレンガの壁でできたアパートや建物が、いくつも密集している。
 今俺が歩く道は、幹線道路に抜けるためのここら一帯のメインストリートではあるが、夜になると人っ子一人歩くことはなくなってしまう。というのも、建物と建物の間の小さな隙間にあるゴミ箱を、野良猫なんかと一緒になって漁っている浮浪者や、何を考えているのか分からない、気違いじみた者もこの辺りには多いためだ。いわゆる、不良と呼ばれる若者も多くいる地区だった。
 今はさほどでもなくなったが、かつてこの地区は街では、指折りの貧民街の一つとして有名だったらしい。しかし七十年代後半頃からこの街は、大規模な区画整理を行うようになってからというもの、大分そういった人種も少なくなったと聞く。
 だがそれは表向きだけで、実際には人目のつかない路地裏や古い建物の裏手なんかでは、いまだそういった輩はいくらも存在している。
 ちょっと前にはアパートからほんの一ブロック先のところで、ティーン達の間でちょっとした抗争があったと聞くし、この地区には、裏でドラッグを売りさばくディーラーも存在しているのだ。また、そんなガキどもやディーラー達の背後には、ギャングと呼ばれる連中がおり、この地区ではやはり、よく見かけることのある連中でもある。
 そして、ほとんどお目にはかからないが、俺と同業者も存在している。最も危険なのはこのタイプの連中だ。一般人にはさほど見分けはつかないかもしれないが、一度でもこの裏世界に身をおくと、よく分かる。どんなに巧妙に雰囲気を隠していても、直感が囁いてくるのだ、こいつは危険だと。
 もっとも連中は馬鹿ではないから、人目はつかないよう工夫をしているのは分かる。中には目立たぬようこんな危険な地区ではなく、もっと安全で、清潔な地区に住んでいる者もいるだろう。理由は簡単だ。普通にしていることこそが、最も目立たないことだと知っているからだ。
 そうとは知りながらも俺がこんないかがわしく、後ろめたい地区を選んだのは単純に、ここならば多少危険なことであったとしても、すぐに雲隠れできると踏んだためだ。
 この手の地区には、土地柄もあってかあまり人気のある地区ではないため、何かあった時のためのアジトになりそうな空き部屋が、いくつも存在しているということ。また、俺みたいな外国人であっても、金さえ出せば簡単に住まわせてくれるというのも利点だったのだ。
 しかし、そんな土地に住むことになるなんて、俺もとことん落ちぶれてしまったものだ。だが、別に後悔しているわけでもない。元々好奇心旺盛な俺だ。かつて、日本を離れて外国に住んでみたいというささやかな願いは叶ったのだ、その点に関しては、一切なんの文句もない。
 それに、仮にこの地区で何か危険があったとしても、その危険な何かをしでかす怖れが一番高いのは、間違いなく俺のような人間なのだ。
 ギャングに絡まれたことも一度や二度ではすまないが、皆、瞬く間に返り討ちにしてやった。中には永久に病院の世話にならないといけない奴だっているだろう。あるいは俺に絡まなければ、まだ生きていた奴もいたはずだ。
 自分では単に身を守っているだけに過ぎないつもりでも、そんなことばかりあれば自然と、俺が一番の危険な奴だというふうに認識されていってしまうのだ。それを望もうと望むまいと。

 アパートから三十分も歩いただろうか。今晩の仕事場に着いた。俺の住むアパートのボロいが、この建物も負けじとボロそうだ。いや、壁にヒビが入ってなかったり、裏手に金属の螺旋階段がある分、まだ向こうのほうがマシだろう。
 そんな建物の横から裏手に回って、俺はジャケットの内ポケットからナイフを一本取り出した。これくらい古い建物だと裏口のドアには鍵があったとしても、ナイフ一本で、簡単に開けることができてしまうほど安易なものであることが多い。もしかしたら、鍵がかかっていない可能性すらある。
 裏に回って簡単に周囲を見回し、頭上も確認する。四階建ての建物の三階の窓に、うっすらと灯りが洩れているのが見えた。
 あそこか。俺は横に現れた裏口の横の壁に背をもたれさせ、ノブを静かに回してみた。案の定、そこは鍵がかけられていなかった。ニヤリと薄ら笑いを浮かべ、音を立てぬよう、ゆっくりと中に身を滑り込ませた。
 床は板張りかとも思ったが、杞憂だった。この建物もやはり、申し訳程度には改装してあり、床はコンクリートが塗り固められていた。これなら、足音はあまり気にしないですみそうだ。おそらく、階段も同じだろう。
 中は当然、真っ暗なのでなにも見えない。見えないが、俺には物体の形やある程度まで進めば、明るい色合いのものならそれがどんな色なのかくらいは理解することができる。夜目がきくためだ。元々夜目がきいた方だが、訓練によってそれがさらに研ぎ澄まされることになったのである。
 つま先立ちに近い形になりながら先を進む。どうやらこの建物は、今でこそ朽ち始めて誰からも見捨てられているようだが、昔は商業ビルだったようだ。
 アパートであれば、一階であっても居住スペースがあるはずなのに、ここにはその居住スペースといえるものがなく、どこか事務的な広間が階段の先にあるのが分かったのだ。
 そのまま足音を忍ばせたまま、階段をのぼって二階まであがる。ここまで来ると、さらに上の階のターゲット達の何かを話す声が響いてくる。この建物は今、連中と俺以外は誰もいないし、周辺もいたって静かだ。本人達も、格段大きな声でしゃべっているわけではないだろうが俺の耳には、はっきりと聞こえる。これも俺の特技の一つで、訓練されたことにより、小さな音でも判別できるようになっていた。
 三階に向かって階段を上り始める。なんの話をしているかは知らないが、決して世に公表できることではないのは間違いないだろう。
 この国のギャングの偉大なる先輩たちはかつて、アジアは中国で大量のドラッグを売りさばき、それに怒りを覚えた中国がこの国の政府に、売るのを禁じるよう訴えたことがある。アヘンとして知られるものだ。
 アヘンは知られている通りドラッグの一種だ。ドラッグである以上、一時的には嫌なことから解放させ、ある種の爽快感すら生む。
 そこに目をつけて、そんな嘘を謳い文句に、現在の中国は広州を中心に、全土に広がっていった。アヘンは現在のヘロインやコカインなどに比べると危険度は低いかもしれないが、やはりドラッグはドラッグだ。当然ながら、それに味を覚えた中国人たちは、だんだんと廃人へと変わっていった。 だからこそ中国と、中国に密輸し国益をあげていたこの国は戦争をすることになったのだ。それがのちに、アヘン戦争と呼ばれた戦争だ。
 結果はご存知の通り中国が敗北し、今、香港として知られる都市が、この国の植民地となったのは周知の事実だ。
 そして、その戦争が今から数えること百数十年前。どの国でもギャングたちの、最大級の稼ぎになるのがドラッグだ。もちろん、この国のギャングであっても例外ではない。
 おそらく、今日この場で行われているのは、そのドラッグの受け渡しと取引だ。俺がこんな古ぼけた建物に来たのも、その取引を中止するためだった。すなわち、その場にいる連中を、全員あの世に送るということが今晩の仕事の概要だ。
 こんなくだらないことなんて引き受けるべきでないのは分かっていたが、どうしてもと頭を下げられたのだ。プライドの高いこの国の人間がそうまでしたのだ。乗り気でなかったのに、つい請け負ってしまったというのが真相だ。
 全く、つくづく俺は変なところで人が良い気がしてならない。
 今日の連中はどうも、この辺り一帯を取り仕切っている連中らしく、全く違う組織でありながら、何を考えたのかドラッグを取引することで、事実上の結託をすることになったらしい。それを快く思わない第三の勢力が、俺にこんな依頼をしてきたというわけだ。
 正直いって、今回の仕事はどうにも乗り気にはなれない。別にギャングそのものが怖いとか、報復が怖いというわけじゃない。たんに面倒なのだ、ギャングというのは。
 それぞれの領分というのが存在しているうえ、領分で何か起これば、巻き添えを食わないとも言い切れない。奴らのくだらないいざこざに、幾度か巻き込まれたことすらあるのだ。そんな連中を殺すことに、俺はなんのためらいなどない。
 はっきりいえば、連中などいくら死のうとも構わない。もし俺が独裁者であれば、ギャングなど問答無用で死刑にしてやっても良いような存在だ。
 それ以上に気に入らないのは、連中はまるで銃を持てば、たちまち自分が殺しの世界で生きているとでもいった顔をし始めることだ。
 連中は、自分達こそが人を脅しつけ、場合によっては人を殺す権利があると勘違いしている。そんな権利は連中にはあるはずがない。
 奴らが自分たちの領分の中だけでそれを振る舞うなら勝手にすれば良いが、領分を超えてしまっているのにそんな態度は許せない。連中は所詮は素人だ。決して、その道の訓練を受けているわけではないのだ。
 脅しつけて何もできないことをいいことに、ただよってたかって弱者を嬲る。そんなのはプロとして認められない。それでいて奴らはいざ真のプロを前にすると、己の愚かさを知り身をすくませたり、惨めに命乞いをし始めるのだ。
 少なくとも俺は、権力を傘にする連中をプロとして認めるわけにはいかない。プロとはどんな世界であっても、誇りを持たなければならないと考えている。ましてや殺しのプロとして、スーツを着ているだけでプロ慄然としてもらっては困る。真のプロとして黙ってなどいられない。
 だからこそきっちり教えてやるのだ。銃を持つということは、自分が殺されても当然だという、覚悟がなくてはならないということを。当然、それを知る時は、死ぬ時だろう。
 よって、本来ならギャングどもの依頼など受ける気にはならないのだが、いい加減前回の仕事で稼いだ金が尽きようとしているため、仕方なく引き受けることにしたのだ。いつもの何十倍の金をふっかけてだ。 その依頼金を少しでも渋れば、即刻断るつもりだった。支払いで連中が明日食う金がなくなろうと、借金苦になろうと俺の知ったことじゃない。なのに依頼人は、二言返事で了承したのだ。
 そして翌日、つまりは昨日、金額の半分を持ってきた。となると、こちらとしても仕事せざるを得なくなるということだ。もう断るわけにもいかず、その場で前金は受け取った。
 こんなわけで俺は今、連中の潜んでいる三階にある部屋のドアの前にきて、息をひそめていた。連中はすんなりと商談がまとまったようで、そろそろお開きといったところのようだ。
 おそらく中にいるのは、六人から八人だろう。取引に、たくさんの人員を動員するとは思えない。それでは目立ってしまう。
 俺は未だ持っていたナイフをしまい、脇の下に吊ってある拳銃を抜いた。銃口にサイレンサーを取り付けて一呼吸おいたあと、勢いよくドアを蹴ってぶち破る。
 すかさず、ほぼ正面にいた黒スーツの頭をぶち抜いた。
 中に素早く身を滑り込ませ、横にいるもう一人の黒スーツとダウンジャケットを着た野郎も道連れにする。
 商談中で椅子に座った奴は何が起こったのか分からずに、驚いた顔をしている。その額に弾丸が食い込んで倒れた。ついでと言わんばかりに、反対の椅子に座っている奴にもだ。
 ようやく状況を把握し、銃を掴んだ奴の喉を狙って引き金を引く。残った連中が物陰に素早く身を隠す。
 これで六人。まだ足音は二つ。やはり八人いたみたいだった。
「ちくしょう、殺し屋かっ」
 連中が叫んだ。俺は答えない。
 ふん、間抜けな奴らだ。おまえたちが隠れているの場所は分かっているのに、そんな場所に身を隠したって意味はない。
 連中が飛び込んだのは上部に窓が取り付けられて、薄い木の壁だった。木の壁は真ん中に人が通るための通路によって分断され、両側の部屋の壁に向かって部屋を区切っている。その厚さは、ほんの一センチもないだろう。
 俺は連中が隠れているあたりを見定めて銃口を向け、一気に引き金を引いた。
 計六発の弾丸が連中の隠れているめがけ発射され、木の壁を貫いた。部屋に沈黙がおり、続けてカシャと二つの金属でできたものが落ちる音がする。
 その音を確認して壁の方へ歩みよった。念のために銃を構えながら壁の向こうを覗いてみれば、男が二人、頭をたれていた。死んだ直後のため、身体が小刻みに痙攣している。
 弾は、確実に連中の急所をえぐったようだ。俺はその様子をみて小さく頷いた。
 後は連中が何を取引していたかだが、ちらりと椅子に座ったまま死んでいる連中の、中間にあるテーブルのほうを見やる。二つのケースがあり、一方には白い粉が袋に入れられていくつも入っている。もう一方は蓋が閉じられているが、おそらく中は金だろう。
 興味などないが、一応確認しておくとしよう。
 念のために持ってきていた手袋をはめ、まずは白い粉袋を手にとった。一つは確認のためだろう、小さな穴が開けられている。
 続いて金が入っていると思われる、もう一方の閉じられているケースの蓋を開けてみた。やはり入っていたのは金だった。日本円にすればどんなに少なく見ても、間違いなく数億は下らないと思えるほどの大金だ。
「なんだ、これは」
 ケースの中に敷き詰められていた札束の一角が抜けていて、代わりにそこには液体か、別の何らか薬品でも入っていそうなものがサンプルケースに入れられて、一緒におさめられていたのだ。目の前の大金よりも、俺はそのサンプルケースの方に興味を持った。
 サンプルケースを手にとって窓から差し込んでくる、かすかな明かりの方に向かってサンプルをかざす。サンプルケースは銀色で、中指の半分ほどの大きさをした円筒形をしている。
 上部には小窓がついていて、そこから何かの薬液のようなものが入っているように見える。手にとった際、そこから気泡がかざした上部に向かって動いていったからだ。
 中の色までは正確によく判らないが、どことなく赤っぽい色をしている。血……だろうか。あるいは赤い色をした薬液というのも十分考えられるが……。
 怪訝に思いながらも、上部と下部にそれぞれ中指と親指を添えて円筒形のケースを回してみた。すると、裏側に何か文字が書かれているラベルが貼られていた。
 しかし残念ながら、そこに書いてあると思われる文字までは分からなかった。というのも、ラベルには水性のマジックで書かれていたようで、摩擦によって大部分の文字が、すでに消えてしまっているためだった。
 全くの謎だ。ドラッグの取引で金以外のものが動くなんてのは、そうあることじゃない。俺はなんでか、このサンプルケースの中身に入っている液体に興味を惹かれてしまった。
 すでに前金で報酬は半分だが得ている。それだけでも当分は働かなくたっていい額だ。後の報酬は、このサンプルケースというのはどうだろう。そいつも悪くないかもしれない……。
 なぜ俺がこんなにまでこれの中身に興味を惹かれたのかは全く判らないが、とにかく妙に欲しくて堪らなくなっていた。まるであの時の耐え難い、情欲にも似た不思議な感覚だった。
 ふと、冷静になってかぶりを振った。何を考えてるんだ、俺は。
 軽く肩をすくめてサンプルケースを元あった位置に戻し、ケースの蓋を閉めた。とにかく、この金は依頼した奴に引き渡さなければならない。そこでサンプルされたこいつの交渉をすればいいわけだから、ここで抜き取る必要もないだろう。ケースを手に、そう自分に言い聞かせて部屋を出た。



 すでに時刻は深夜の三時を過ぎている。そろそろ依頼人が姿を見せても良い頃のはずだが、一向に姿を見せる気配はない。
 待ち合わしている場所は、この地区のさらに南東にある小さな墓場だった。ここは周りに家らしい家がなく、この時間、暗闇に紛れれば人目につくこともほとんどない。
 闇に紛れているせいで、鬱蒼とした墓場特有のぬめる雰囲気が、昼間以上に増している。きっとガキの頃であれば、間違いなく近付きもしなかったろう。
 すると、闇夜に紛れて男が一人やってきた。片手には、おそらく残りの報酬を入れた金をいれたケースを持っていた。
「待たせたな」
 ぱっと見、紳士に見える男は、年齢は俺の四、五歳上といったところだろう。普通にしているようでいて、顔からは明らかに普通でない雰囲気が醸し出されている。墓場に相応しく、黒いスーツを着込んでいた。
「約束の金だ」
 男はそういってケースを俺の前差し出して蓋を開けた。確かに、相応の金額が納められていると思われる。金を前にしながら、俺は首を振った。
「どういうことだ? 金はきっちりと持ってきた。まさか、ここにきて足りないというのか」
「いいや、そうじゃない。金はもういい。その代わり、こいつをくれ」
 男と同じようにケースを開けて、中にあるサンプルケースを取り出した。
 そのケースを見た男は、とたんに驚愕した顔になっていき、急に喚きだした。
「駄目だ! 金ならいくらだってやるが、それだけは絶対に駄目だっ」
 持っていたケースを地面に投げ付け、俺からサンプルケースを奪おうとしてきたのだ。
 しかしこちらとしても、そうですかと渡せるはずがない。一応、こいつはきちんとした取引なのだ。俺は手をあげて男に奪われないよう、手の中にサンプルを握りこむ。
「何してる! そいつをよこせっ」
 突如として豹変した態度は、これまでの態度からは明らかに別人ともいっていいほどで、俺はそんな男に不審げに顔をしかめた。
 なんなんだ、こいつは……。金よりもこのちっぽけなサンプルケースの方が、この男にとってよほど大切らしい。
 思えばこの男、通常であれば眉をひそめてしまうほどの金を要求したにもかかわらず、いともあっさりとそいつを承諾したのだっておかしい話だ。
 ギャングなんてのはほとんどの場合、金の方が大切なはずなのだ。今時、仁義だ人情だとか抜かす輩は、いはしない。もしかしたら、この男がそんなタイプの人間であるかもしれなかったが、態度を見る限りそうでもなさそうだ。
「おいおい、金よりも大事だっていうのか」
「うるさいっ、早くそいつをよこすんだっ」
 喚き立てた男は、俺が放さないのを見かね、突然腕に噛み付いてきた。
「くっ」
 まさか噛み付くなんて思わなかった俺は、握りこんでいた手を放してしまった。
 男は落ちたサンプルケースをすぐに拾い、両手で抱き込むようにしてその場を走り去ってしまった。
 俺は左腕を革ジャンの中に入れて、噛まれた右腕をさすりながら走り去った男を見つめていた。
「……なんだったんだ、一体」
 全く、わけが分からない。たかだかサンプルケースのどこに、あんなにまで必死にさせるほどの何かがあるとでもいうのか。まあ、俺自身、急にあのケースに魅入られてしまっていたわけであるが。
 だが、手元からなくなったとたん、なぜ金と引き換えに固執してしまったのか、馬鹿らしい話だ。
 まあいい。そんなことより、この金をどうするかの方が今は先だ。報酬の残りと、それに片付けてやった連中から奪った金。
 もちろん、ちょろまかすることに躊躇いがあるわけではないが、とりあえず前者は俺のものだからいいとして、後者はこのまま俺が持っていては、少々面倒なことになるかもしれない。しばらくはどこか、別の場所に隠しておいた方がいいだろう。
 もし誰かにつきつとめられた場合は、返せばいいし、もし音沙汰なければ、そのまま俺がちょうだいすればいい話なのだ。散らばった札束を二つのケースにしまいこんで、この陰気な場所からさっさと退散するとしよう。

 部屋に戻ってスコッチを煽っていると、徐々に空が明るんできていたことに気付いた。時計を見れば、すでに午前六時を過ぎている。後十分か二十分もすれば夜明けだ。
 だというのに、空はうっすらと曇り空だ。夜に降っていた雨は、仕事を終えた時にはあがっていた。このまま夜明けまで雨は降らないと思ったが、そうでもなかったらしい。この分だと、また少ししたら小雨が降り出してくるかもしれない。
 全く、この国の天気は変わりやすいというが本当だ。俺は瓶に口をつけ、一気に喉にスコッチを流し込む。
 勝手なイメージだが、この街は霧と雨がよく似合う。窓から外を眺めてみると、テムズ河から発生した河霧によって、街が雲海に沈んでいるように見える。加えて、今にも降り出してきそうな天気。俺の思い浮かべるイメージにぴったりのコンディションだ。
 今はもうそんなイメージなんて、何十年あるいは一世紀以上も昔のイメージにすぎない。
 かつて十九世紀には、産業革命で巻き起こった蒸気機関の発達によって、煤煙ばいえんと呼ばれるものが大気中に巻き上げられていた。煤煙とは、石炭が燃焼することで生みだされる微粒子のことだ。その煤煙とテムズ河からしょうずる霧が混ざりあってできた、スモッグと呼ばれる濃霧が発生していたのだ。
 このスモッグは朝方に発生する河霧と、一日の天気が変わりやすい気象。このせいで、よく雨が降る前後に空気が湿ってくるために発生する霧が、ほぼ四六時中、過剰生産された煤煙と結びついて、常に生み出され続けていたとすら言われている。
 昔のある記事には、昼間だというのに煤煙のせいで、太陽が隠れてしまうほどひどかったこともあったという。
 今は石炭など燃やすこともなくなり、視界を遮るほどの煤煙やスモッグはなくなった。
 が、朝方の霧と一日のあいだに劇的に変化する天気のために、よく降る霧雨の時なんかは濃霧がやはり発生し、その時だけはまだその頃の面影は残していた。
 四六時中、濃い霧に包まれている頃この街は、こう比喩された。霧の眠らない都――と。
 そんな霧と雨の街、ロンドン。俺は今、この街に生きていた。




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