いつか見た夢

B&B

第64章

 不愉快なデジタル時計の目覚ましが鳴り続けている音に、俺は目を覚ました。
 不機嫌なのは、安物のデジタル時計のせいなのか、はたまた気分良く寝付いていたためにそう感じるのかは、さだかではなかったが。
 枕元に置いておいたデジタル時計の頭を、腕の振り下ろすがままにたたき付けた。ガシャンとたたき付けられた音のした後、音が鳴りやむ。
 このまま寝てもよかった。いや、寝ていたかったが昨晩のことが脳裏に浮かんできたために、仕方なく起きることにした。
 両手をあげて大きく背伸びし、頭に血液をめぐらせる。寝る前に飲んでいたアルコールも、頭には残っていないようですっきりとしている。
 ベッドの上に片ひざを立てたまま、上体を起こす。時計を見れば、時刻は十三時を廻ったばかりで、カーテンのない窓からは気持ちの良さそうな陽の光りが射していた。
 なんとなく気を良くした俺は、ベッドから跳ね起きるように立ち上がった。まだ休日ではないが、昨晩の仕事で金は手に入ったのだから今日は、豪勢に肉料理でも食べに行くとしよう。
 この国では、休日や週末となると大食になるという変わった風習がある。イギリスの文化は、他のヨーロッパの国と違っているのだ。もちろん、ヨーロッパといえど、国ごとに文化が違うのは当然といえば当然だが、島国だからなのか、あるいは、かつて世界の海を制覇し、一大帝国を作りあげた賜物なのかは俺には知る由もないが。
 ともあれだ。昨晩の金をどうにかする必要はある。さて、どうするか……。こうは考えるが、すでに分かりきっている考えだ。
 いつもの場所に預けるしかないだろう。シティの銀行に知り合いがいるので、そいつに預けるのだ。そうと決めたら、早々と着替えてでかけるとしよう。
 しかし、その前に汗を流してからだ。昨晩は部屋に戻ってからシャワーを浴びていないため、着替えの前にまず軽くシャワーくらいは浴びた方がいい。寝汗になんとなくだが、アルコール分が混じっているような気がするのだ。
 もちろん、そんなのはただの気のせいでしか有り得ないが、なんとなく、そんな気がしてならないのだ。

 着替えを終えた俺は、早速、昨晩手に入れたケースの一つを持って部屋を出た。
 治安が決して良いとはいえないこの地区も、さすがに昼間はそうでもない。ただ通り抜けるだけであるなら、女子供であってもたいしたことではない。危険なのはあくまで日が沈んでからなのだ。
 ロンドンという街は、中央にシティと呼ばれる世界最大の金融街がある。イングランド銀行は当然、世界に名だたる銀行がいくつもあり、保険会社から証券会社とその取引所、株の取引など金が動くものであればすべてが集まるといっても過言ではない場所だ。
 これこそがこの街最大の、果ては都市のすべてといっていい。物価なども、このシティに巣くう連中によって取り決められているのだ。金の価値は、つまるところ黄金との対比によって取り決められたとも、一説にはささやかれている。いや、それらはまだ現在進行形だろう。
 もちろん、それだけではない。そんなシティを中心においてロンドンという街は、流行のファッションはそうだし、医療から文化や音楽、モデルケース、思想……その他もろもろ、無いものはないともいえるほどの最先端の情報が、世界中にむけて発信され続けているのだ。
 この点においては、近年、いくら世界的に注目が集まる東京でもまだロンドンには及んでいない。
 そんな、常に莫大な金額が動き続けているロンドン、いや、シティ・オブ・ロンドンの存在は、その巨大さゆえに歴史の影にシティあり、と呼ばれるほどだ。
 事実、ロンドンには各国の裏世界の最重要人物たちが連日、日替わりで訪れているほどなのだ。
 裏世界の最重要人物とはようするに、政治家たちのスポンサーだ。アメリカは当然、フランスにしろどこにしろ、どこの国の大統領であっても例外ではない。みな相談役という肩書で、金を持った連中こそが世界の真の支配者なのだ。
 連中にとって、政治家などはとるに足らない傀儡にすぎない。政治家にすることでどこまで利用できるか。あくまで、自分に利益が生み出せるのかどうか。政治家など、その一点にしか価値はないのだ。
 誰がいい始めたのかは知らないが、この世界は、金を持っている奴こそが支配者になれるという。こんな裏事情をちょっと知るだけで、たちまち、こんなにもこの言葉に説得力があるとは思いもしなかったほどだ。
 この街にそんな裏の顔があると知りつつも、なんだかんだでその一機能である銀行に赴こうとしているなんて、全く苦笑せざるをえない。
 シティに向かってのびる、メインストリートに出た。メインストリートではあるが、日本人の感覚からするとこじんまりとしていて、道幅も日本の都会の道と比べて狭い。場所によっては四車線か五車線ある道もあるが、だいたいは片側が三車線しかない。特にシティに向かっていくと、ところによっては二車線の箇所すらある。にもかかわらず、車線はやはり日本と比べて狭い。
 しかし、それも仕方はないだろう。車が走れるよう、しっかりとコンクリートやアスファルトで路面は補修されてはいるが、道幅までは無理もない話だ。
 東京やニューヨークなどといった比較的新興の都市に比べると、ロンドンは道幅の整理うんぬんの前にすでに、世界で一、二を争う人口を誇っていた都市だ。江戸ですら、全盛期には百万人から百二十万人だったといわれているが、この街はその頃、すでにその三倍からの人口があったのだ。
 おまけに当然ながら、当時は今のように車が走っていたわけではない。走っていたのは馬車なのだ。
 そんな時代に、現代のような車時代のことを考えて都市機能を持たせろなどとは、言えようはずもないだろう。
 このためロンドンでは、大都市であれば必ずといっていいほど見る渋滞が、時間を問わず起こる。朝方の通勤時間帯や帰りの時間帯には、シティ中の道という道が車で埋めつくされる。そして合間を縫うようにあるく人々、といった具合だ。
 おまけに渋滞が起こりやすい要因として、横断歩道では歩行者がいれば、歩行者の前を車は横断してはいけないというのが徹底されている。大都会にしては珍しく、あくまでも歩行者が優先されているわけだ。
 ちなみに、もし歩行者がいる前を車が横断した場合、運転手は切符を切られてしまうほど徹底されているとのことだ。
 なので、近くまではタクシーあるいはバスを使って行き、近くまできたところでおりて歩くというのが、この街での基本だ。あとはチューブ、地下鉄を使うことだろう。
 チューブと呼ばれる世界初の地下鉄も、東京同様、ロンドンのいたる地に張り巡らされ、巨大な蜘蛛の巣状になっている。いや、東京がロンドンを真似たというのが正しいわけだ。
 さて、今いるこのストリートは交通量もそれなり、少し行けばチューブの駅もある。安さをとればチューブ、早さをとればタクシーになるがどうしたものか。
 まぁ、いい。チューブまで着けばそれでいいし、その前にタクシーがくればそいつに乗ればいいだけの話だ。この時間であれば、シティ以外の地区は大いして道も混んでない。そのため、タクシーが俺のような人間目当てに周りの地区をうろちょろしているのだ。そう納得させて俺は真っすぐチューブの駅に向かって歩く。
 歩道をいく俺の横を数台の車が通りすぎていく。チューブまであと、ほんの四、五十メートルといったところで、脇を一台のタクシーが通り過ぎようとした。
 俺はすかさず右手をあげてタクシーを停めさせた。運転手も俺みたいな人間を狙ってか、あえて普段よりもスピードを押さえているのだ。タクシーはそいつを窺わせる停まりかたをしたように感じる。
 停車後、すぐにドアが開いて、中に乗り込んだ。
「シティの近くまでやってくれ」
 そう告げると、運転手はしっかりと頷いてドアを閉める。ドアの閉まる音のあと、運転手はアクセルを踏んで車を発進させた。



 走る車内から、流れていくロンドンの街並みを眺めていたところ、日本人と思われるカップルが歩いているのが目に映った。二人とも手を繋いで、楽しげに笑いあっている。
 すると普段はほとんど気にすることもなかった、自分が日本人であることを不意に思い出した。
 誰かが外国にいると、日本に帰りたくなることがあるといった。しかし、俺にはそうは思えない。何もかも、かなぐり捨ててきた日本。確かに俺にとっての母国だけども、だからこそ帰りたくないと思うことがある。それだけこのロンドンという街は、俺にとってはとても居心地の良い街なのだ。
 外国人ゆえの開放感とでもいうのか、俺はあまり日本に帰りたいとは思わない。全く帰りたくないかといえば嘘になるが、正直にいえば、帰るのは必要がでた時だけだと思っている。
 そのうち、否応なしに帰らなくてはならない時がくるだろう。そうなったら帰ればいいだけで、自分から今帰りたいとは思えないのだ。
 また、日本を出て良かったと思えることとして、この世は本当に物事を見えにくいようにしているのだと気づかされたことだろう。政治家も、警察も、ギャングも……そして、世界中の金持ちども。こいつらはみんな、どこかで必ず繋がっているというのに気づくことができたのは幸運だったかもしれない。
 おそらく日本にいたんでは、こういった事実に気付くのに後何年もかかったろうし、気付くことすらなかったかもしれない。世間に公表されない事実が、実にたくさん知ることができたのは真紀のいった通り、非常に大きなメリットだった。
 しかし同時に、知れば知るほど世界の大きさを思い知らされていったのも事実で、なぜ権力者が権力を欲しがるのかもまた理解できた。そうしなければ、自分が消えてしまうからだ。
 人は大なり小なり自己権威欲とよばれるものを持っている。スターになりたいだとか、万人に羨望の眼差しを一身にうけてみたいだとか、あるいは面白おかしいことをしてみたいだとか……。これらは全て、自己権威欲があってのことだ。
 中には、普段目立たない者が突然饒舌になったりするのもそうだし、周りとペースを合わせないといったのも、それに当て嵌まる。自分で作ったものを、後世に残したいというのもまたしかりだ。
 おそらく、人の歴史は裏返せば、この自己権威欲から発生しているものと言ってもいいかもしれないのだ。
 権力もまた同じだ。むしろ、この上ないほどの強烈な自己権威だろう。なんせ、何千何万、何百万何千万の人々の上に立つのだから、当然のことだろう。ましてや金があれば、自身のいうことを聞かない奴などいようはずもない……かもしれないのだ。
 究極ともいっていい自己権威欲にとりつかれた連中にとって、その権力を失うことがもっとも恐れていることであり、もし権力を手放してしまったら、同時に自身の価値というものすらも失ってしまうと考えているのだ。だからこそ権力者は、今いる立場より上に立とうとする。
 そして権力者たちは、己の権力を保つために権力という目に見えないもので他者に縛りつけ、同時に圧力もかけるわけだ。そうでもしなければ、自分というものの価値を見いだせないからだろう。
 全く、へどが出る。別に自己を目立たせたいという欲を否定するつもりはないが、何事も欲をかきすぎると、ただの亡者にしか見えない。弱いから集まって物事を画策して世を支配する……そんな構図の中心にこの街がある。
 しかし、その中で一つ分かったことがある。たとえ俺の考えが正しいにしても、連中は確かにこの世、ひいては人の上に立っているのは間違いない。こんな連中の中には直接、人を支配したいという強い欲求を持っている者がいる。
 こいつらはどれだけの数がいるかは見当もつかないが、なんとも強欲で、その欲求を満たすために人買いに手をそめているものも珍しくない。
 少し前に仕事で、人買いに手を出している連中を始末してほしいという依頼を受けたのだが、こいつらは、なんともどうしようもない連中だった。
 俺が殺し屋だと判った瞬間、依頼された額の三倍出すなどといってきたのだ。もちろん容赦なく地獄へ送ってやった。というのも、その野郎は自分の欲求のために、何人もの女を拷問し殺したのだ。依頼を受けたのだから、命乞いしようが結果は変わらないがその野郎を始末するのに、一切の躊躇いはなかった。
 なぜなら、始末をつける際に野郎の屋敷に侵入したかところ、たまたま拷問にかけられていたのが日本人らしい少女だったというのも、俺から一切の感情を消し去ったのに一役かったのは決して気のせいではなかっただろう。
 少女は色白をした肌に、ほどよい大きさの乳房は無惨にも切り取られていた。死体となった少女は激痛に顔を歪めていて、生きたまま乳房を切り取られたにちがいない。死体の横に、切り取られた乳房が置かれていたのは、まだはっきりと脳裏に焼き付いている。女の象徴ともいうべきそこを切り取られるなんて、よくそんな惨いことができるものだ。
 あるいは野郎に、カニバリズムの習慣でもあったのかもしれない。もしそうであったのなら、銃弾一発などで始末をつけるのではなかったと、あとになって後悔させられたものだった。連中は死ぬにしても、楽に死なせるべきではない。被害者たちの何十分の一だろうと、何百分の一でも苦しみを味わって地獄に堕ちるべきなのだ。
 また、そう思わせるに至った一つの要因として、少女がどことなく妹に似た雰囲気をした容姿をしていたのもあった。妹との共通点といえば、長い黒髪と色白の肌くらいなものだったが、彼女もなかなかの美少女だったのも妹にダブらせることになったかもしれない。
 彼女にとって唯一の救いは、痛みと恐怖に歪ませた顔から察するに、乳房を切り取られる最中か、後かにショックで死ぬことができただろうということくらいだ。乳房以外は、ほとんど外傷がなかったことからも、おそらくはそうだろう。
 そんなわけで、俺はこの人買いの路線で何か調べることができないかと思い始めていた。ちょうどシティに向かうのだ、ここはひとつ情報屋から何か仕入れてみるとしよう。
「兄さん、そろそろシティだよ。まだ先まで行くかね」
 変わりゆく景色を眺めているうちに、シティに近づいていたようで運転手が声をかけた。
「ああ、行けるとこまで行ってくれないか。渋滞につかまったら、そこで降りる」
「了解」
 運転手はそう頷いて、言う通りに渋滞につかまり始めそうになったところで俺をおろした。
「釣りはいい。チップとして受け取ってくれ」
「ありがとよう、兄さん」
 チップとしては、いくらか多いかもしれないが構わないだろう。
 日本ではチップは必要としないので馴染みはないが、ここイギリスに限らず、海外では基本的にチップを支払う必要がある。
 日本では料金の中に、サービス料というのが含まれているためにチップを支払う必要はない。しかし、海外では料金にサービス料が入っていないため、このチップを支払う必要があるのだ。もちろん、出す金額は相手との親密度なり、良いサービスを提供したかによって常に変動する。つまり、その人次第ということだ。
 タクシーを乗り捨てた俺は、真っすぐにシティへ歩きだした。この街は歩道があまり広くないのに、似つかわしくないほど人の数が多いため、自分のペースで歩くことはほぼ不可能に近い。そのペースが自分に合っていれば問題はないが、少なくとも俺には少々窮屈なのは否めない。
 まあ、おかげで何かあった時に紛れる人ごみに困らないのはいいことだが。
 タクシーを乗り捨てて二十分も歩いたろうか、ようやく目的の銀行にたどり着いた。ここを訪れるのは、もう何ヶ月かぶりのことだ。
 やや灰色がかった白い石材でできた壁に、アーチ型の出入り口。まさしくヨーロッパといった雰囲気だ。
 アーチ型になった出入り口から中に入ると、いつも人の多い受け付けロビーは客でごった返し、今日も職員たちが入れ代わり立ち代わりで応対に追われている。
 そんなロビーの中央付近には、三人の警備員がいる。そのうちの一人に声をかけ、支店長を呼んでくるよう伝えた。別に窓口でも良かったが、窓口だと時間がかかりすぎてしまう。こういうときは警備員に言づてるのも、時間を有効に使うときのテクニックだ。
 とはいっても俺の場合、口座を開設したいわけでも、証券という名の商品プランを買いたいわけでもない。あくまで、この金を専用金庫に預けるためだ。
 日本人が金庫を使いたいと言っていると伝えれば分かると警備員に伝えた俺は、近くのソファーに座った。やや離れたところではテレビが設置され、ニュースが流れている。
 それによると、ロシアに面した中東の名も知らない国で、大規模のテロが起こったというものだった。死者は現時点で百五十人を数える。この昨今、あの地域でのテロなんて物珍しいものでもないが、ロシアにほど近い国でテロというのは少々ひっかかる。
 一応、イスラム圏に入る地域だが何か、武装勢力の拠点になっているところでもあったのだろうか。
 公表は決してされることはないが、テロが起こる場所では、必ず英米露などの軍関係者や高官がいる場所であることが多い。武装勢力たちもまた同様だ。
 だから何かあったのではないか……そう訝しんでいたところ、視界の脇にイギリス仕立ての高級そうなスーツを着た男が現れた。
「久しぶりですな、ミスター」
 丁寧な英語で話しかけ握手のための手を差し出した男は、ここの支店長だ。いや、シティの銀行の支店長なのだから、相当の立場の人間だ。同じ支店長といっても、他の支店から見れば立場は上なのだ。
「ああ、久しぶりだ」
 俺は彼の差し出してきた手を握りかえすべく、ソファーから立って握手をかわした。
 彼はイギリス紳士らしく振る舞ってはいるが、実は俺と同じ組織の一員だ。組織には、現場の破壊活動などは行わないが彼のような、組織の人間のバックボーンとして実社会を支えるための部署に配属された人間がいる。
 組織を維持するのだって、決してタダというわけにはいかない。どんな理由であれ、やはり金は必要なのだ。だからこそ、彼はこの銀行に所属しているわけだ。
「忙しいところすまないが、金庫を使わせてほしい」
「かしこまりました。どうぞ、こちらへ」
 支店長の男にうながされながら、銀行の貸し金庫に向かう。銀行の金庫は、たいていはこういった支店長の管理する鍵が必要になるためだ。
「……昨晩、東地区のほうのビルでマフィア同士による抗争らしいものがあったらしい」
 金庫に向かう途中、支店長の男がぼそりとつぶやいた。俺が何か関わったのではないかと言ってきているのだ。まぁ、それは違いないわけだが。
 俺は肩をすくめ苦笑して、なんのことだかと答えておいた。
 エレベーターを使って一番下に降りる。というよりも、このエレベーターでしか金庫のある階まで行けない。つまり、金庫専用のエレベーターというわけだ。
 銀行の一番下の階につくと、扉が開く。開いた扉の向こうには、ご丁寧にも二人の警備員が配置されていた。侵入者にたいしてすぐに対処できるよう配置されているわけだが、こんなところにわざわざ侵入したりする者がいるのか怪しいものだ。ましてや、ここは今下りてきたエレベーターでしか、地上とは繋がっていないのだ。
 そう考えると、思わず苦笑してしまった。
「なにか」
 ひとり勝手に笑う俺に、支店長の男が聞いてくる。
「いいや、なんでもない。ただの思いだし笑いだ」
 適当にごまかしているうちに、金庫の前に来ていた。金庫に入るためには、警備員の二人が両端にそれぞれ設置されている鍵穴にキーを差し込み、同時に回す必要がある。
 男が二人に頷いて、警備員たちは即座にキーを鍵穴に差し込んだ。
「ワン、ツー、スリー」
 右の警備員がカウントし、二人が同時にキーを回した。すると、鈍い音を立てて金庫のロックが解除される。いつ見ても思うが、なんとも大掛かりな仕掛けだ。けれどシステム的には、これですら一昔前のシステムだと彼はいう。
 ではなぜ、一昔前のものが使われているのか。決して予算がないからではない。必要がないのだ。
 この金庫は地中深くに存在しているので、壁に到達するまで周りの土を掘り出すのには、何十年という時間がかかってしまう。チューブよりもさらに何十メートルも深い土の中なのだ。おまけに核シェルター並の強度を誇る壁には、地中を掘ってきたにしてもどうしようもないのだ。
「どうぞ」
 開いた扉の中に入って、俺専用の貸し金庫の前まで移動する。支店長の男は俺が金庫に移動したのを見届けると、いったん外に出た。やや間があって、重々しい金庫の丸い形をした扉が閉まっていく。中の人間が用を終えるまでは、ここに誰も入ることができないというわけだ。
 俺は閉まった扉を確認した後、すぐさま金庫の扉を開けるべく、専用金庫に取り付けられたロックを開ける。ロックは、八桁の数字を入キーワードとして入力することで開けることができる。
 キーワードは俺の生まれた年と、沙弥佳の生まれた月日を組み合わせた数字だ。赤色に光っていたロックが緑色に変わって、ロックが解除されたのがわかる。
 扉をあけて中から箱を取り出し、そばにある台に置いた。箱の中身はなんてことはない、銃に予備のマガジンが一つに、ポンドとユーロの札束がそれぞれ三つずつ。これら全てでしばらくは生活に困ることはないのだが、日本で長いこと生活していたせいか、予備の金というのはあまり手をつける気にはなれない。あくまで何かあった時の金なのだ。
 だが、それも今日までの話だ。しばらくは、金にあくせくすることはなくなったのだ。
 箱からポンドとユーロの札束を一つずつとって、左右にあるジャンパーの内ポケットに一つずついれた。ポンドの束をさらにもう一束、手にとって財布に無理矢理つめこむ。
 それと忘れずに、銃をとってジャンパーの中に吊されている革のホルスターに吊った。昨晩つかった銃は部屋に置いてある。予備のマガジンももうなくなっていたので、預けてあった銃を持っておく必要もあったのだ。
 マガジンも吊り革につめて一通り必要なことをし終えると、箱の札束を端によせて持ってきた金のケースを入れ無理に閉じた。もう一つの金のケースは金庫に直接いれることにする。
 金庫に箱とケースを閉まって開けたままになっていた扉を閉めた。再びロックがかかったことを示す、赤色にロックの色が変わる。
 出口に向かい中から出るために再度、金庫で入力したキーワードの数字を入力した。ここは誰か使っている場合、他の人間が入ることはできない。結果、出る際に、金庫を使用した人間が出ることが同一であることを示すための配慮らしい。
 もし金庫が破られたことを考慮してのことなんだろうが、もし壁が破られて金庫に侵入されたら、わざわざ金庫の出入口から出て行くはずもないと思ったのは俺だけだろうか。
「お疲れ様です」
 金庫から出た俺に、支店長の男が声をかけてくる。事務的に頷いた直後、再び金庫の大扉がゆっくりと閉まっていった。

 銀行を出て遅い、朝食兼昼食をとるべくシティから繁華街に向かって歩いていた。街の中にある時計に目をやるとすでに三時ちかく、ずいぶんと時間をくっていたようだ。
 さて、今から向かう店もまた久しぶりだ。というよりそこは、銀行にいくさいには必ずワンセットで立ち寄る店で、偏屈もののマスターと、イギリス人にしてはなかなかの顔立ちをした看板娘が切り盛りしている。
 パブが立ち並ぶストリートから少し入り組んだ場所にあるその店は、十九世紀の中頃に建てられた建物を改装しなんともこじんまりとしている。外装はまさしく当時そのままといった面持ちをしていた。
「こりゃあ、ずいぶんと久しぶりに顔見せたな、坊主」
 店に入ったとたん、ご挨拶なことを言ってきたのがこの店の主人で、名をマーロンといった。看板娘のレベッカは休みなのかいないようだ。
「グレンリベットと何か適当にくれ」
「なんでもいいのか」
 主人に頷いてカウンターについた。この国に限らず、欧米のカウンターには椅子のない場合がほとんどだ。主人がグレンリベットの瓶をとり、グラスに注いでいく。
「で、今日はなんの用なんだ」
「聞かなくたって、あんたならわかってるだろう」
「一応聞くのも仕事のうちさ。
 まあいい。今日の明け方、ハイドパークのほうで他殺体が見つかったって話をちらっと聞いたくらいだな」
「殺人だと?」
 スコッチの入ったグラスを受け取りながら、聞き返す。マーロンは静かに肯定し、目前で適当に食事を作りだした。肉を取り出したので、ステーキにでもするのかもしれない。
「別に殺人なんてこの街じゃ珍しくはないんだが、どうも発表されなかったというのがな」
「発表されなかった……」
「ああ。気になった話はこっちの話だな」
 マーロンの言い方では、他にもなにかあった口ぶりだ。俺は確かめるために他に何かあったのか聞いてみたところ、昨晩、東地区でも同様に他殺体が見つかったとのことだ。
 当然、そちら側は俺の仕事のことをさしているはずなので、どうでも良いことだ。
「また、何か事件に首を突っ込んでいるのか」
「いいや、ただの興味だな。いつものことさ」
 このやり取りもいつものことだった。マーロンは、俺がなんでも屋とでも思っているらしく、よく色々とネタを提供してくれる。なんでも屋にとって、ネタこそ最大の稼ぎになるというのを知っているからだ。
 実際には違うが、まぁ似たようなものなのだ。人を殺すことがあるかどうか、違いなどその一点しかない。
 適当に世間話に華をさかせながら、食事をする。出されたのは、予想した通りステーキだった。スコッチにステーキとは、少々合わないのだがまぁいい。こういうおおざっぱさも、イギリスの料理を楽しむうえでのマナーみたいなものだ。



 俺以外、誰も客のいない店で食事をすませたあと、マーロンの親父から聞いたハイドパークで起こったとされる殺人現場にいってみることにした。
 別にただの殺しであるならなんてことはない。しかし俺が仕事を終えた直後に、また殺人が起こったとなると話は別だ。
 なにより、ハイドパークは昨晩の依頼をうけた場所に外ならない。そのような場所で殺人があったのが、どうも気になって仕方ないのだ。
 チューブを降りて、ハイドパークへと入っていく。明け方に見つかったというから、もう何時間も前だ。当然、現場に立ち入ることはできないだろうが、まだ何か近くにヒントが残されてないとはいえないかもしれない。
 ハイドパークを進んでいくうちに、黄色いテープでバリケードがされている場所が目に映る。そこが例の殺人現場なのだ。さすがに、やじ馬はすでにいなくなっている。
「何かあったのかい?」
 ここにはよく来る近隣の人間を装い、バリケードに立っている制服をきた警察官に尋ねてみた。
 警察官はまだ若く、おそらく俺と歳はほとんど差はなさそうだ。まだ制服姿もどこか初々しく、若さ特有の軽薄そうな雰囲気がある。
「なんだ、ニュースを見なかったのかい、あんた。今朝、ここで他殺体が見つかったんだよ」
「他殺体? それって殺人ってことかよ。勘弁してほしいね、ここにはちょくちょく散歩にきてるんだ」
「あんた、中国人か? この近くに住んでるのかい?」
「いいや、日本人だ。ここは仕事場が近いんでね、気分転換によく来るんだ」
 肩をすくめ適当に会話をしてみたところ、向こうも同じくらいの年齢というのもあってか、ぺらぺらとこっちの知りたいことから必要のないことまで喋ってくれた。もしくは、なんの変哲もなさそうな広大な公園で見張りを任された退屈しのぎかもしれない。
 ここで殺されていたのは、どうもマフィアらしい男であったというのと、抗争の『こ』の字も浮かんでこなさそうなこの場所で、額に銃弾を撃ち込まれていたなんて想像もしなかったなどといった情報だ。
 そのうち、死んでいた男の恰好を聞いたときのことだった。
「おいおい、まさかその男……」
 若い警察官から聞いた男の特徴は、昨晩、俺があった男の特徴とそのまま一致したのだ。怪しまれないために、大して驚きもないことに少々大袈裟に目を見開いていった。
「あんた、その男と知り合いなのか」
「いや、知り合い……そうだな、知り合いといえば知り合いかもしれない。だが、どうってことはない。ただの挨拶をする程度の仲だ。
 彼もよくこの公園に来ていたからな。だから、たまに見かけることがあったんだよ」
 事実、あの男がここを待ち合わせにしたのも、よく来る場所だからと言っていたのだ。
 説明を聞いて、若い警察官も頷いている。日本であればこの事実だけで、また色々と思案する輩もいるかもしれない。しかし、この国は幾度となく顔を合わせる人間には、挨拶やちょっとした世間話をする仲には簡単になれる。別に怪しまれはしないはずだ。
「そうか、彼が……」
 演技する俺の肩に若い警察官が手をおいた。元気をだせとでもいったところなんだろうが、演技をしてみせながらも頭の中では全く別のことを考えていた。
 依頼人だった男が依頼完了のすぐあとにくたばったとなると、さすがに無関心のままではいられない。もしかしたら、俺のことを嗅ぎ付けられているかもしれないのだ。
 まず、俺が殺した連中の同輩による逆恨みの線が最初にくるがどうだろう。もちろん、なくはない。しかし、だとしても早すぎる。これではまるで、始めから俺に目星がついているみたいではないか。
 あるいは、男は最初からマークされていたというのは? これなら、奴がこんなに早く殺されたのも頷ける。
「おい、あんた。大丈夫か?」
「大丈夫だ。色々と考えてたんだ」
 警察官の言葉に頷きながらいう。
「まあ、仕方のない話だよな。挨拶程度の仲でも、知り合いが死んだんだもんな」
 今度は彼が肩をすくめて、再び肩に手をやって軽く叩いた。
「悪いが、もう行くぜ」
 急にしゃべらなくなった俺に気をつかったのか、彼は軽く頷いただけで何もいうことはなかった。そんな彼を一瞥し俺はパークの西に向かって歩きだした。
 歩きながら考えると、あの男が始めからマークされていると考えるほうが現実的といってよさそうだ。
 かりに俺の仕事がすぐにわかったにしたって、その場合はまず俺のほうに殺し屋なりなんなりが差し向けられるはずだ。だが昨晩は、俺を尾行している者などいなかった。依頼されてからだって、そんな人間の影は一切感じなかった。
 そうなると男が俺に依頼したあと、殺されるまでの間に誰かにマークされたと考えるのが妥当だろう。
 また、誰が男を始末したかも重要だ。始末をつけた奴が誰かによって、俺の安否が決まるのだ。
 もちろん最初の容疑者は、当然ながら昨晩俺が始末をつけた、二つの組織の連中だ。どちらにしても、依頼した男と実行犯である俺の両方を見逃すはずがない。
 第二の容疑者は、男と同じ組織の連中だ。男は依頼のさいも、一人きりで俺の前に現れた。俺にはどうでもいいことだが、男が実は内乱者だったとは言い切れない。知られたくないゆえ、一人で俺に依頼をしてきたということだ。
 あるいは三すくみで協定でも組まれていた中、ドラッグの売買という条約違反をしたが男の組織は黙認し、それに耐え兼ねた奴が阻止するために……まぁ、いまいち信憑性のない可能性ではあるがなくはないだろう。
 第三はマフィアなどとは一切関係なく、誰かの個人的な恨みを買った可能性だってある。俺としては、この可能性にかけてみたいところだ。
 なんにしても安否がかかっている以上、事実の確認をしないわけにはいかない。
「さて、と。どうしたものか」
 言葉にしてみても何も変わるわけではない。それでも口にしないではいられなかった。
 やれやれ。全く、面倒くさいことに巻き込まれなければいいが……。



 店内には、罵声や怒声に近いほどの大声がいきかって、耳を塞ぎたくなるほどだった。あまりのやかましさに耳を塞ぎたくはあるが仕方ない。こういったやかましさも、日本ではなかなか味わえることではない。
 昔ながらの石畳に石の壁。それに古いウィスキー樽をそのままテーブルとして使っている内装は、近年、世界的に拡がりを見せつつあるリユース指向であり、百何十年前までの日常が味わえる趣向になっている。
 午後二十時。俺は今イギリスでは庶民的なパブにきて、ウィスキーを胃に流し込んでいた。そろそろ、あいつがくる時間だ。
 時間には少々口うるさいやつのことだから、ものの数十秒後には現れるはすだ。
 そう思ってまた一口スコッチを口に含んだとき、待ち人が現れた。
「相変わらず時間には正確だな」
「そうかしら。私に言わせてもらうと、あなたが単にルーズなだけよ」
 開口一番、皮肉げにいう女。別に皮肉をいったわけじゃないのに、なぜかそんな風に感じてしまう。
「ま、いいさ。とにかく座んなよ」
 椅子もどこか昔らしさを出すためか、木でできている。その椅子を引いて座るよう促した。現れた女は、ずいぶん久しぶりに会うことになった藤原真紀だ。
「あなた、よくこういう場所にくるの?」
「どうだろうな。気が向いた時はきてる」
 本当は週に一度か二度は、飲みあるいているがどうでもいいことだ。
「まあいいわ。それで、こんな場所に私呼んだ理由を聞かせてもらえるわよね。
 こんなこというのもなんだけど、あなたが私に逢いたいなんて理由で、呼び出すはずがないですもんね」
 手に持ったカクテルのグラスを傾けて、じつに一年ぶりに会う真紀が聞いてきた。
「もちろんだ」
 こくりと顎を縦にふり、俺はことの経緯を話し始めたることにした。




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