いつか見た夢

B&B

第69章

 摩天楼群からはずれた場所にある、カフェの路上テラスでコーヒーを飲みながら俺は、反対側にある、ほんの半ブロックも離れていない場所に建っているビルをさりげなく眺めていた。
 ビル自体の高さは、せいぜい百メートルちょっとといったところだろう。しかし、摩天楼群からは離れている地区にあるためか、この辺りではかなり目立っている。
 俺はコーヒーに口をつけてビルの中に入っていく、いくつもの男女のペアを見つめる。みな、ドレスアップして華やかな装いで、これから、あのビルの上階であるパーティーの参加者たちだ。
 そんな連中に気を向けながら、俺はある人物がくるのを待っていた。時間にうるさいやつなので、そろそろくる頃のはずだが……。普段はほとんど身につけることもない腕時計に目をやれば、十八時半になる二分前だった。
 それにしても、やれやれだ。俺がまさか、こんな大層なタキシードなんざ着ることになるなんて、思いもしなかった。タキシードなど一生縁のないものだと思っていたのに、人生わからないものだ。
 まぁ、これも仕事のうちだ、仕方のない話だといえよう。それに縁がなかっただけで、こういった堅苦しいのもたまには悪くないかもしれない。こんな服は、こんなことでもない限り着ることがなかったのだから、いいチャンスだと思うことにしよう。
 俺はそんな風に自分に言い聞かせて、二日前のことを思い出していた。アルグレンの紹介で出会った、テイラーとの一件だ。今日のことにしたって実のところ、廃人と化していたテイラーから取引の内容を聞き出したことに始まる。
 ドラッグのキメすぎで、記憶障害すらおこしていそうなテイラーの言い分には少しばかし不安があったが、なんとか聞き出すことに成功したのだ。
「み、三日前に、港で取引したんだ。取引のな、内容はま、麻薬だ」
「それはわかってる。麻薬以外に、他にもあったはずだ。これくらいの小さいケースに入れられた」
 俺は手で大きさを示してみせる。するとテイラーは、コクりコクりと二回頷きながら、呻くように言葉をつむいでいく。
「あ、ああ、確かにあった。あれは日本から送られてきたもので、ある血液サンプルと、や、薬品をまぜたものだと聞いた」
「血液サンプル」
 なるほど。やはり赤く見えたあの液体は、血液だったというわけだ。しかし、密輸で血液サンプルを手に入れようだなんて、馬鹿げた話ではある。そうしてまでしないと、手に入れられないものだというのか。
「それで」
「あ、あれは、ふ、普通の血液じゃない。特別製なんだ」
「どういうことだ」
「わ、判らない。ただ、奇跡を起こすと」
「奇跡……」
 なにやら、とたんに胡散臭い代物だと思えてくるのは俺だけだろうか。まぁ、薬品をまぜたものだという話だし、そこからなんらかの化学反応をおき、それが奇跡とでも呼べる何かを引き起こした、とも考えられなくはない。血液はまだ、意外とブラックボックスと呼べる部分があると聞いたことがある。
 有名なところでは七十年代に発見されて以降、八十年代にかけて一躍世界的に有名になったエボラウイルスだ。
 フィクションの話なんかでよく見られるようになったウイルス兵器は、もとを辿れば、このエボラウイルスがベースにされていることが多い。九十年代に日本で流行った、ウイルスに感染してゾンビになるというゲームがあったが、あれもエボラウイルスを彷彿とさせる。
 このウイルスによって引き起こされる病気は、消化器官や体中の粘膜からの大量の出血、常に四十度に達する発熱をおこすのが特徴で、これらの特徴を引き起こすことから、エボラ出血熱と呼ばれている。その致死率は九十パーセントともいわれ、知られている限り最も凶悪な殺人ウイルスなのだ。
 それでも、人体の不思議とでもいうのか、感染したにもかかわらず、これを自然治癒させた者がいるのも事実だ。ある研究者が彼らの血液を採取して分析したところ、普通の血液にはない反応をしめしたらしい。他に遺伝的にも、わずかながら突発的なパターンも確認されたという。
 俺は専門家ではないから、小難しい単語や血液の種類などわかりようもないが、彼らの血液を使って実験が行われたこともあったのは確かだ。しかし、同じ血液型の人間に血液を投与しても、あるいはその血液から血清を造ったにしても、感染者が改善することはなかったそうだ。
 つまり、この血液に宿る力を引き出すには、生まれもった体にその血液をもった本人そのものにしか、効果が得られないという結論にいたったわけだ。
 そんなことからも、血液学を含めた遺伝子学の分野では、まだまだブラックボックスが存在していることがうかがえる。決して世間がいうほど、科学は万能ではないのだ。
 とにかく、あの血液サンプルが何かしらの効果をもったものである可能性はなくもない。ただし、強い効果をもつものは必ずといっていいほど副作用をもたらすので、血液サンプルがその副作用を引き起こしかねない、何かを含んでいることは否めない気はする。
 マフィア連中は、何か効果をもたらすかもしれない血液サンプルを、わざわざドラッグと一緒に密輸したということになるが、ドラッグの取引が失敗したのにその話が、ほとんどといっていいほど噂されないのは、本来の目的がこの血液サンプルであったということを隠すための、カムフラージュだったことを示唆しているようにも思えるのだ。
 末端価格でどれほどの金が動くかもしれないドラッグよりも、あのサンプルのほうが価値が上だという結論に、いまいち納得をもてない俺だが状況としては、間違いなくそう示唆しているのだ。
 つまり今回の事件は、ベケットらの組織と残り二つのうちの一つがこのサンプルをめぐって水面下で争い、最後の一つがベケットらでなく、もう一方に手に入れたサンプルを渡そうとしたところ、そいつを渡せるはずもないベケットが俺に殺しを依頼した、というものだ。
 これなら、今まで与えられてきた情報が一点に繋がる。ベケット自体は組織として関与でなく、個人でこれらに関わったのかもしれない。だが一点だけいうと、ベケットが殺されたにもかかわらず、所属する組織が一切動いていないというのは、少しばかし気にはなる。
 ベケットが個人で動いていたにしろ、組織だって動いていたにしろ、組織の動きが何もないというのはやはり気になるところだ。それとも、動けない理由があるとでもいうのだろうか。それどころか、取引を邪魔だてされた他の二つの組織にしたってそうだ。何も動きを見せていない。
 こうして改めて考えてみると、おかしな話ではないのか? まるで、どこからか第三者の手で、今回のことが封殺されているみたいではないか。
 そしてその中心に、あの血液サンプルのケースだ。テイラーの言い分によれば、あれは奇跡だというが果たしてそれが意味するのはなんなのか。くしくも、連中のいざこざに巻き込まれた当事者の一人としても、こいつは知っておいたほうがいい気がしてならない。それにまだ、自分の安否が決まったわけでもないのだから。
 その後も、テイラーから取引に関することを聞き出した。取引に応じて現れたのは、あの日、俺が撃ち殺した連中だったというのと、元々ベケットもあの取引に応じようとしていたという事実もあった。
 なにがなんでも欲しかったらしいサンプルを奪取するために、俺に依頼してきたのはこれで明白になった。殺される何時間か前にベケットが見せた必死な表情からも、それはうかがえる。しかし依然として、連中がなんであんなものを欲しがったのかは判らない。
 そこで俺は、キマッていた状態から効果が切れ始めたのか、妙な痙攣をし始めたテイラーを揺さぶった。さらにベケットと関わり合いを持っている人物がいないか問い詰めたところ、チャールズ・メイヤーなる人物の名を口にして、テイラーは事切れたみたいに動かなくなった。
 なんとか息はしているようだが、ここで医者を呼ぶわけにもいかない。テイラーには悪いがそのまま放置して事務所を出た。
 こんなことをいうのもなんだが薬漬けになるなんて、そんなのは自業自得だ。現在では誰しも、ドラッグの危険性を知っているにも関わらずこの様だ。そんな自業自得のことのために、足がつくかもしれないような行為はしたくないというのが本音だ。
 それに、もしこのまま逝けるならある意味で幸福といえるだろう。好きなドラッグにまみれて逝ったとあれば、きっと本望にちがいない。ドラッグをやっている連中の気持ちなど知りたいとも思わないが俺は、これからそう思うようにしようと心に決めた。

 テイラーの事務所を出た俺は、ロンドンのホテルに滞在しているはずの真紀を呼び出し、チャールズ・メイヤーという人物を探ってほしいと伝えた。すると、小さなため息のあと少し待たされ、この人物が遺伝子学の方面では名の知れた人間であることを教えてくれた。
 と同時にメイヤーは、学会の論文発表のためにバーミンガムからロンドンに出てきているとも。スケジュールでは明日、ロンドンにある商業多目的ビルでパーティーを行うことになっているという。
 となると、すぐにでも行動に移ろうとする俺に真紀は、今日は学会の関係者らとの懇談会なんかも控えているそうで、押しかけるには分が悪いわよと一釘してきた。
 そこで真紀は、明日のパーティーのときが一番いいと言い出したのだ。というのも、パーティー自体は学会とは一切関係あるものではないようで、知り合いの祝いの席であるらしい。だったらと明日、つまり今日これからそのパーティー会場にいくため、こうしてカフェで待ち合わせしているわけだ。
 そして、その待ち合わせしている人物は――。
「待たせたかしら」
 いつものように淡々として、全く待たせたというのをなんとも思ってなさそうな口調だ。
「いいや、大して待っちゃぁないぜ、真紀」
 刺のある言い方で、皮肉をいいながら後ろを振り向いた。
「そう。ならよかったわ」
「相変わらず時間通りだな。なんだってこんなに時間に正確なのか、今度教えてくれ」
 タキシードを着た俺にたいして、真紀は見事にドレスアップしていて、一瞬だが我が目を疑ってしまった。おまけに、いつもしているはずの眼鏡は、今日は取り払われていて裸眼だ。眼鏡をかけてない真紀を見るのは、昔、日本にいるときにこいつの部屋に泊まったとき以来だ。
 しかし今日は、その眼にはっきりとわかる、ややピンクがかったベージュのアイシャドウがひかれ、いつもはナチュラルメイクの化粧も別人かと思えるほど気合いが入っている。
「……真紀?」
「なに?」
「ああ、いや。なんでもない」
 ほんのごくわずかな時間といえど、まさか目を奪われただなんて口が裂けたっていえない。もしそんなことが知れたら、俺には一生ものの恥といっていい。
 確かにこの女は女狐だが、造形自体はけっして悪いわけではない。それだけに俺は、こいつの女狐が気に入らないのだ。美人であれば、なんでも許されるなんていうのが嘘だというのは、このことからも然るべきことだろう。
「……そう。だったら行きましょう」
 どことなく鬱屈としたような態度で、真紀がそういった。俺はそうだなと頷きながら椅子を立って、目標のビルへと歩きだした。
「待ちなさい」
「なんだ」
 歩きだしたところを突然よびとめられて、振り向いた。すると、真紀は俺の腕に手をかけてきたのだ。
「……なんだ、こいつは」
「なんだとは失礼ね。こういうときは、女性を男性がリードするものよ」
「そんなのはわかってる。だからといって、あんたにこんなことしろだなんて頼んだ覚えはないぜ、俺は」
 正論のはずだ。そもそも今日、真紀と一緒になることになったのだって、ただの成り行きでしかない。
 というのが、今日のパーティーは男女同伴でなくてはならないということだったためだ。始めは、マーロンのところで働いているレベッカを誘おうとしたのだが、残念なことに、レベッカはまだ店に来ていないので連絡をとれなかった。そのどさくさに紛れて、彼女の携帯番号を入手できたのでさっそくかけてみたが音沙汰なしだった。
 それで仕方なく真紀に再度、連絡をとったのだ。真紀は、いつものように一言二言いって、なにかに理由をつけるみたいにして、結局了承したのだった。
 それが昨日の夜の話で、俺は早朝から街に繰り出してこのタキシードを調達した。さすがはロンドンというもので、ショップには手に入りにくそうなタキシードも、種類豊富に取り揃えてあった。常に、客のニーズに応えようとすり姿勢には、なかなかに好感がもてたものだ。
 とにかく、そうなると真紀としてもきちんとしたドレスを着なければならなくなるというもので、今日の待ち合わせ場所に、きちんとくるようにと念を押さえられたのだ。
「別に男女同伴だからといって、そこまでする必要はないんだ。どうせ、中に入れば、俺はなるだけ早くに仕事に取り掛かるつもりだ。
 同伴していた奴がいなくなると、あんたとこうしていれば逆におかしなもんだろう? 怪しまれちまうかもしれない」
「あら、一流の工作員ともあろうあなたが、女一人いるだけで狼狽するの?」
 メイクのせいもあるのだろう、薄く浮かべる笑いがやけに妖艶にみえる。希代の魔性の女とは、こういう女のことをいうのかと考えてしまったほどだ。
「なんだと?」
「安心なさい。別に同伴だからといって、他人のパートナーのことまで見ている人間なんていないわ。それに、きっとあなたは私を頼ることになるはずよ。
 それまでは、それらしく見せておいたほうが逆にいいわ。ほら、行くわよ」
 俺に有無をいわせずに真紀は、腕を引っ張るようにして歩きだした。つられて俺も歩きだすが、なにか納得のいかないために口を開く。
「待てよ。それとこれは別だろう。なんだって、あんたと恋人同士みたいなことしないといけないんだ」
「細かいことは気にしないことよ。要は、あなたの仕事に支障がなければいいんでしょう? あなたの仕事のために、こうして付き合ってる私のことも考えてもらいたいわね」
 そこまで言われると、もうぐうの音もでない。俺は観念してため息をついた。
「……もう勝手にしてくれ」
「ええ、そうさせてもらうわ。ほら、私の歩調に合わせて歩きなさい」
 俺はもうひとつ盛大にため息をつき、仕方なしにいわれたように歩調を合わせる。もうこうなったのなら、これで通すと決めたのだ。真紀のいう通り、別に仕事に支障をきたすわけではない。
 たんに真紀にこんなふうに寄り添われるのが、どうにも恥ずかしく、気が重く感じられてならないだけだ。もちろん、この女の女狐ぶりを知っているだけにだ。
 ゆったりとした歩調で進みながら、ちらりと真紀のほうを盗み見た。
 シルクと思われるクリーム色をしたドレスは、首元から鎖骨、上胸元にかけてあいている。ヒールを履いているために背がいくらか伸びひているとはいえ、俺からは真紀の胸の谷間がしっかりと見えた。
 下は横が切れているため、そこから時折、足と足首を覗かせる。
 それによく見れば、耳には七色に輝く宝石がついたイヤリングがされている。眉と横は肩で綺麗に切り揃えられている真っ黒な髪も、今日はどこか輝いてみえる。
 全く、こいつの気合いの入れようがうかがえる服装だ。そして、いつも仏頂面をした真紀に、不覚にも目を奪われた俺がいうのだから間違いないが、きっと男の目を奪わずにはいられないだろう。
「……ねえ」
「なんだ」
 気付けば、俺がほんのわずかに真紀の前をいく形で、俺達は歩いていた。
「……この恰好、どう?」
 真紀にしては珍しく殊勝なこともあるようで、どこか恥ずかしげに聞いてきた。そんなこというなと言いたいところだが、さすがに気が引ける。
「馬子にも衣装だな」
 肩をすくめて一言そういうと、真紀はとたんに綺麗に整った眉をひそめた。
「……やっぱり、あなたにそんなことを期待するのが間違いだったわ」
「悪かったね、期待外れで。でも、別にいいだろう。所詮は形だけなんだ。
 もし俺が、嘘でもあんたを褒めるようなことをいえるような奴であれば、こんな人生、歩んでなんかない」
 小さく吐き捨てるようにそう口にした。真紀との腐れ縁に、いまさらロマンスなんざ感じるはずもないのだから、仕方のない話だ。
 それにもし、もしの話だが、このまま真紀と人生をともにするとなれば、とてもじゃないが気が気ではなくなるというものだ。仕事の上ではそれなりに上手くいっているにしても、プライベートではいかがなものかというのが正直なところではある。
 それと何故かと聞かれて、はっきりとした理由をいえないのが辛いところだが、真紀のことは、どうにも異性として見れないのだ。個人的には、真紀は俺の女性観というものからすると、どうも苦手で、一緒にいたくないと思えるタイプの人種だとしかいえない。
 いわゆる、永遠の平行線とでもいえるようなやつなのだ。きっと真紀もそう思っているはずだ。もし俺が真紀の立場なら、絶対に俺みたいな人間と一緒になんかなりたくない。
「あなたは今の人生が嫌なの?」
「好きとか嫌いってのとは少し違うな。だが、あえていえば、今は好きとは言い難いかもな。
 俺は好きで人を殺すようになったわけじゃぁないんだ。できるものなら、時間を巻き戻せたらと思うタイプの人間なんでね」
「そう。あなたって、意外とネガティブなのね」
「格段、そういうタイプでもないさ。だけど、どうしてもそう思いたくなることがあるんだ。あの時、違う選択をしていたらと、夢にさえ見ることすらあるからな。
 それでも、そのしがらみから抜け出すわけにもいかないからな。結局、またこんな人生を生きるしかないってことになるわけだ。ネガティブというより、現実的にものを考えた結果だろうさ」
 真紀は何かいいたげにしていたがそれを口にすることはできなかった。ビルに入ったところで、ドアマンに呼び止められたためだ。
「失礼ですが、紹介状をご提示いただけないでしょうか」
 ドアマンがそんなことをいってきたため、一瞬どうするかひやりとしたところ、隣の真紀がすぐに切り返した。
「待ってくださる?」
 そういって、手提げバッグから一枚の紙を取り出し、ドアマンに渡した。ドアマンは渡された紙を一瞥したあと、その紙を真紀に戻す。
「失礼いたしました。ではどうぞ、あちらへ」
 ドアマンがエレベーターホールのほうを指し示した。
「エレベーターで二十四階へどうぞ」
「ありがとう」
 優雅な立ち居振る舞いで、真紀はドアマンをあしらった。まるで本当に、どこだかのセレブにでもなったように思える振る舞いだ。俺はエレベーターホールに向かう途中、そんな真紀に向かっていった。
「……あんた、最初から知っていたな。必要になるって、こういうことだったのか」
「ふふ。もし私がいなかったら、あなた、門前払いだったわよ」
 俺はなにも言わず、ただ、ため息をついただけだった。こういうのが真紀の有能なところであり、俺の癪に障るところでもある。
 別に有能な女が嫌いというわけではない。むしろ、知的なタイプの女は好みの部類といってもいいが、どうしてか、真紀みたいなタイプだけは好きになれない。生理的に受け付けないというのはこういうことなのかと思った次第だ。
 あるいは、同業として見ているからなのかもしれない。いや、だとすれば、初めてあったときから感じているこの気持ちに説明がつかない。やはり、生理的にうけつけない、これが正解なのだ、きっと。
 エレベーターが到着し扉が開く。そこは豪華絢爛な空間だった。ホール内ではクラシックな音楽が流れ、中央では何組ものペアがその調べにのって、優雅な舞を見せている。
 まず遠目から見えたのは、巨大なシャンデリアだ。幅はいうに、六、七メートル……いや、あと一、二メートルはあるかもしれない。とにかく、馬鹿でかいシャンデリアだ。おまけにシャンデリアは当然というべきなのか、クリスタルでできている。
 それに小さい、何百かあるいは千数百にも及ぶ数の照明が取り付けられているが、その照明が下にむかって螺旋をえがくように吊り下げられている。一番下に取り付けられた磨かれたクリスタルには、真上、横、斜めからの光をうけ、乱反射していてやけに眩しい。
 壁も白を基調にして、縁には金の塗料が塗られている。天井も聖書かなにかからのワンシーンかと思われる絵が一面に描かれていた。さらに、床と正確に配置された柱は、つるつるに磨かれた大理石でできているみたいだった。
「ほら、行きましょう」
「ああ」
 真紀の一言で、ホールの中へと進んでいく。みんな、タキシードとドレスを着ていて、それに混じって黒服をきた幾人かの給仕の姿もあった。
「さて、チャールズ・メイヤーはどこかな」
 ホールに入ると俺はさっそくメイヤーの姿がないか、さりげなく人込みに視線を向けた。前もってメイヤーの顔写真で、どんな顔のやつなのかはすでに判っている。
「ねえ、あっちに行ってみない?」
 メイヤーを探しだした俺に、真紀が止めるようにそういった。
「なに言ってるんだ、あんたは。俺はさっさとメイヤーを見つけて、仕事をすませたいんだ」
「いいじゃない、少しくらい。入って楽しみもしないでメイヤーを探そうとするなんて、そっちの方がおかしいと思わない?」
 ごもっともらしいことをいいながら真紀は、いうが早いかホールの真ん中へと導いて、手を肩の位置にまであげさせる。俺と踊ろうというのだ。
「自慢じゃないが、この手のダンスなんてしたことがないぜ、俺は」
「クラシックに限らず、あなたがダンスなんてしたことがないことくらい、分かってるわ」
「そうかい。だったら、ご教授願おうか」
 皮肉たっぷりにいう俺に、真紀は任せてと囁くようにつぶやいた。ダンスなど全く経験のない俺を、ゆっくりとリードしてくれた。旋律に合わせて、ここで右足をだとか、ここでターンさせるだとか……何が悲しくてこの女とこんなことをしないといけないのか、自分がわからなくなってくる。
 曲が二曲三曲と変わっていったところで、ふとホールの端にメイヤーの姿が目に飛び込んできた。メイヤーは一人のようで、佇むように大きな窓のところにいて、ワイングラスを持っている。
 曲が終わるまで待つべきかとも思ったものの、つい今しがた曲が変わったばかりでは、あと数分はこのままだろう。となると、とるべき行動は決まってくる。
「メイヤーがいた。一番大きな窓のところだ」
 そちらのほうから目を逸らさずに、真紀にそっと耳打ちした。
「……捕捉したわ。行くの」
「ああ。悪いが、ダンスはまたあとでだ」
 そう告げると俺は真紀の手を放し、すぐさま優雅に踊る連中のあいだをすり抜けて、メイヤーのいるところまでゆっくりと、やや大股で歩みよっていった。
「メイヤー教授ですよね?」
 この男は、反社会的なことをする連中が嫌いだというのは、すでに真紀が調査済みだ。俺はなるべく好青年を装って、にこやかに話しかける。
「いかにもそうだが、君は……」
「これは申し遅れました。私、フリーのライターをしていまして、実は今度、遺伝についての記事を書こうと思っているんですよ」
「ほう」
 メイヤーは、どこか怪訝な表情をしていてこちらを見ていたが、俺がそういうとあからさまに食いついてきた。
 身長はこの国の平均的なもので、百七十五かそこらといったところだ。腹部はだらしなく大きくなっているせいで、せっかくのタキシードもきつそうに見える。
 頭頂部は見事に禿げあがっており、両サイドから後頭部にだけは白髪が残った、典型的な白人中年といった風貌だ。
 それに学者というのは研究のために篭りがちな人種で、物静かにしていてもこういう風に切り出すと、とたんに目の色が変わる。本当は知っている知識を、誰かに話したいという欲求を隠し持っていることが多いためだ。
 俺は遺伝子についての、基本的なことから教えてほしいというと、まず遺伝子がどういうものなのかということからメイヤーは話し始めた。

 目の前のメイヤーはこのうえないほどの饒舌になっていて、延々と遺伝学についての講義をしてくれていた。ちらりと壁にかかっている時計を見れば、午後十時になろうとしているところだ。
 話しかけた当初は二、三十分もあれば終わると思った談議も、気付けばもう二時間半、いや三時間近くに渡って、俺にはたいして理解できないことを論じている。俺が一をいえば十をいう、まさにそんな感じである。
 窓際で二人、話し始めたときが十九時ごろで、二十時半になろうという頃に、ようやく周りのことが目に入ったのか、二人で落ち着いて話せる場所に移動した。それからすでに一時間半ちかく、もういい加減うんざりしていた。
 二人ともテーブルを挟んでソファーに腰掛けながら俺は、半ば事務的にメイヤーのいうことに頷いている。頭の中では、どうやってベケットのことを聞き出そうか考えていたのだ。そのとき、メイヤーが遺伝子にはまだまだ隠された可能性があるといって、いったん話を結ぼうとした。
 そのときを聞き逃すはずもなく、すかさず俺は、例のサンプルのことを仄めかすように話しだした。
「遺伝子に隠された可能性という話を聞いて思い出したのですが、今、日本である血液がちょっとした注目を浴びた、という話を聞いたことがありますか。
 その血液がイギリスにも輸入されるだかされないだかといった話を、小耳に挟んだのですが」
 やれやれ、ようやく本題に入ることができそうだ。全く、ここまで自分の話をさせずにひたすら喋らせてやるなんて、俺もお人よしだ。
「うむ……君、その話どこで聞いたんだね」
 俺がそういうと、メイヤーは今までのテンションはどこへやら、トーンの低い声になった。
 どうやら、例の血液サンプルが合法的なものではないというのを知っている可能性が高い。あるいはそうとは知らなくとも、ベケットの稼業を知っている可能性もある。
 まぁ、いい。入手経路とベケットとの関係、さらにはあれの効果とはなんなのか、それが知れさえすればいいのだ。別にメイヤーをしょっぴきたいわけではない。
「……ベケット」
 囁くような小声で、ベケットの名をつぶやいた。すると、ベケットの名を聞いたメイヤーはたちまち苦い表情になっていった。やはり、この男もベケットの稼業に関わっていたのだ。
「この名前をいえば、あんたならもうわかるだろう」
 いい加減、堅苦しい好青年を気取るのにも飽きてきた。俺は普段と変わらない態度でメイヤーにぐっと迫る。
「し、知らん。そんな名前の人間など、私は知らんぞ」
「いいや、あんたは知ってるはずだ。ベケットはあんたの研究室に、もう何年も前から足を運んでいるはずだぜ。
 あんたはベケットと手を組んで、やつに血液サンプルを密輸させようとしたんだろう。違うか」
 好青年と思っていたはずの人物の豹変に、メイヤーは顔を青くしながら、ふるふると力無く顔をふるだけだ。もちろん、そんな態度はますますこちらを確信させるものでしかない。
「き、君は一体何者なんだね」
「誰だっていいさ。警察でないのは間違いないがな。
 それより、あの血液サンプルをベケットに密輸させたんだろ。とっとと吐けよ、痛い目にはあいたくないだろう」
 鋭い視線でメイヤーを射抜き、ニヤリと唇を歪める。男はそう告げられただけで自分の末路を思い浮かべたのか、観念したように小さく頷いてみせた。
 別に本気で痛め付ける気はないがこういう風に、相手にいったんオープンにさせた後にどん底に落とさせるやり方は、脅しをかけるには最適なやり方だ。その方が相手も口を開くし、無駄に血に訴える必要もないのだ。これが俺と同業者であれば、また話は変わってくるのだが。
 メイヤーはぶるぶると口を震わせて、語り始める。
「わ、私はた、ただ研究のためにあの血液を手に入れようとしただけだ。決して、あの男と結託したわけじゃない」
「そんなのはどうだっていいさ。あんたはこっちの質問に答えてくれるだけでいいんだ。そうすれば、俺だって何もするつもりはない。
 では最初の質問だ。あのサンプルを手に入れたがっていたようだが、マフィアにあれを密輸するよう頼んだのはあんたか」
 そう告げるとメイヤーはまだ震わせている顔を小さく頷かせる。
「次だ。ベケットと面識のあるあんただ。なぜあれを、わざわざ他のマフィアを使って手に入れようとしたんだ。それこそ、ベケットを使えばよかったはずじゃないのか」
「あ、あれは確かに秘密裏にしか手に入れることはできない代物だが、出荷される数は限られているんだ。理由はわからない……い、一説には出荷する側も、そのサンプルをあまり所持していないというのを聞いたことがあるが……」
「あれは初めて出荷されたものだったのか」
「い、いや、知る限りでは過去に二回ほどあったと聞いたよ……今回の取引で出荷されるのは実に数年ぶりだと、ベケット本人が言ってたんだ、間違いない。
 だが……ベケットは、い、いや、ベケットたちには、それを手に入れることができなかった。なぜなら、他のマフィアらがそれの権利を手に入れていたから、らしい……」
 手に入れる権利……よほど、喉から手が出るほどの代物のようだが、あんな血液サンプルにそこまでの価値があるのだろうか。
 しかし、テイラーがあれを奇跡だといっていたのを思い出し、そのためなのかと再考して自分を納得させた。あれがどんな効果をもたらすものかは別として、あのサンプルケースが焦点になっていることだけは間違いないことなのだ。
 さらにメイヤーの話によれば、そのために今回、わざわざ三すくみになっている組織幹部らでの談合が行われたらしい。つまり、ベケットの組織はその談合のオークションに負け、取引をやめさせるために俺を雇ったということになる。
 とると当然、ベケットが俺を雇ったのは個人的なことではなく、組織ぐるみだったと見て間違いないだろう。組織の運営費から捻出すれば、いくら俺が高額な報酬を要求しても、たいした金額ではない。
 これで組織の連中がベケットを殺されたにも関わらず、ほとんどといっていいほど動きがなかったことも頷ける。いうならば連中のやったことは、強奪といっても良いのだから当然だ。
 そして、うちの一つは逆にベケットらの組織ともう一方を相手取り、商売に転じた……概要としてはこんなものだろう。さらに、大量の麻薬のおまけ付きとあれば、連中にとっては欲しかったいうのも仕方のない話だ。
「それで」
 俺はメイヤーをさらに追及する。
「べ、ベケットはそれはもう怒り狂ったみたいだった。し、しかし、私としてはそんなことはどうでも良かった。あれが手に入るのなら、ベケットだろうと誰であろうと……。それなのにあの男は脅してきたんだ、あれをよこせと。
 だが、そんなことができるわけがない。あれはマフィアなんかに渡せるようなものじゃないんだ……」
「ようするに、あんたが連中をけしかけたのに、ベケットは逆にあんたを脅して、例のサンプルを奪取しようとしたわけだな。
 結果がどうあれ、あんたが今回の件の発端だったのか」
 遠回しにいうメイヤーに、俺は端的にそういった。すると、ここで一つの答えが導き出される。
「そうか……つまり、あんたがベケットを殺した犯人だな」
「ちっ、違う! 断じて私ではない。あれは私が手をくだしたわけじゃないんだっ」
 メイヤーが焦りのためか、早口にそう告げた。その言葉を聞いて、俺は再び口の端を吊り上げていう。
「あんた、今ので墓穴を掘ったぜ。あんたが手をくだしたわけじゃなくても、他の人間にやらせたというわけだ。
 全く、たいしたもんだ。学者の身でありながら、人殺しを依頼するなんてな。まさしく世も末だ」
 嘲りを含んだ物言いをされて、メイヤーは渋い表情になる。渋くなったり青ざめたりと忙しいやつだ。
「あんたはベケットがマフィアの取引を止めさせ、あのサンプルを奪取しようとするのを読んだ、こういうわけだ。
 そして始末したあとに、死体からそいつを持ってこさせればいい……あら方、こんなところなんだろう。違うかい?」
 その言葉にも、メイヤーは力無く頷く。
「……まぁいいさ。俺としては、別にあんたが殺人の依頼をしようが知ったことじゃぁないからな。
 それで、ベケットをやったのはどんなやつなんだ」
「と、東洋人の男だ。多分、おまえと同じ国の人間だ」
「日本人?」
 なんとまぁ、殺し屋は俺と同じ日本人だとメイヤーはいうのだ。もちろん俺以外にも、日本人でありながら殺し屋なんていう、どうにも救いがたい職についている奴が他にいないはずはない。けれど、まさか日本人だとは思いもしなかった。
「不思議なやつで、人を魅了するとでもいうのか……と、とにかく、神秘的といってもいいような雰囲気を持っていた……そいつに頼んだんだ」
 なんとも抽象的すぎるメイヤーの説明だが、今後そいつと鉢合わせすることもあるかもしれない。極力、避けたいところであるが。
「で、受け渡しはもう終わったのか」
「い、いや、まだだ……」
「なら、次だ。あんたは随分とあのサンプルにご執心だったな。いや、今もか。
 俺にあんたのことを教えてくれたやつがいっていた、あれは奇跡だとな。これはどういう意味なんだ。まさか、知らないとか抜かすんじゃぁないぜ」
 釘をさすように睨みつける。メイヤーはこれに関して、あまり言いたげではない。しかし人間、そんな風にされると逆に知りたくなるというもので、俺は続きをうながした。
「あ、あれは……」
「あれは、なんだ」
 いい淀む男に俺が台詞を反濁する。
「……あ、あれは……あの血液は、あるヒトゲノムの培養液なんだ」
「培養液だと」
 ヒトゲノムとは、ようするに人間の遺伝子のことだが、その培養液とはどういうことだろう。しかも、あるヒトゲノムと強調したということは、普通のものとは少し違うのかもしれない。
「確か三年ほど前のことだ……ある論文が発表された。その論文はヒトの進化に関してのもので、日本のある研究チームが、ヒトゲノムの培養に成功したと書かれていたんだ……。
 短い文章でそれだけしか書かれていなかったが、私はその論文のどこよりもその短い文章に注目したよ。なぜなら、ヒトゲノムの培養を成功したなんて話は聞いたことがなかったからだ。
 ……これは、ヒトゲノムプロジェクトと呼ばれる人類史に名を刻むことになるだろう、壮大なプロジェクトの一環なんだ……。その培養に成功したとあれば騒がれるはずなのに、そんな話は全く聞いたことがなかった……どういうことなのかと、私はこの論文の発表者に連絡をとった。
 すると……この研究チームはある筋から手に入れたものを、二年がかりで解析することに成功したんだという。その、ある筋とは誰なのかと聞き返したが、彼らはそれ以上は教えてはくれなかった……誰かから口止めされているみたいだったんだ……。
 私はそれをなんとか解析してみたいと思っていたところ、学会の集まりでたまたま、その研究チームのスポンサー企業にいた人物と知り合うことができた。だから掛け合ったよ、どうにかそれを譲ってくれないかと……」
 渋い表情のまま、顔を伏せた。それを暗示しているのは、譲ってはくれなかったということだろう。メイヤーが続ける。
「……一部だけでもいいからと必死に頼み込んだが、企業秘密だからと断られたよ。 しかし彼はあとでそっと耳打ちしてくれたんだ。どうしてもというならできなくはない。だが、これは正規のものではない、もし欲しいというなら……」
「密輸でしか手に入れられない、そういったんだな」
 俺は言葉の先を読んでそういった。
「……そ、そうだ。彼らには正規に海外に流せるルートがないからと……」
 メイヤーはそう告げたあと、口をつぐんだ。それにしてもどういうことだ。たかだか実験サンプルを正規で流せないだなんて……。どうやら、よほど噂されるのにも憚れるような代物のようだ、あのサンプルケースは。
 流せるルートがないものを、人目につかずに流そうと思えば密輸しかない。なるほど、確かに密輸で扱われる類の品というのに相応しい一品であるわけか。
「で、サンプルケースはいつあんたの手元に届けられるんだ」
「き、今日……このパーティーが終わったあとで……」
 メイヤーは顔を伏せたまま、消え入るような小さな声でいった。こいつは運がいい。だというなら、俺もそれに付き合ってやろうではないか。




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