いつか見た夢

B&B

第80章


 西の空に茜色の残光があるだけで、太陽は完全に空の彼方へと沈んでいった。広い室内に佇む二人のあいだにかすかな息遣いをまじえ、沈黙が降りていた。目の前には、全く予想もしなかった人物がいたからだ。
「お、親父、なんでこんなところに……いや、親父が俺を呼んだのか。どうして俺を……?」
 かつて家族として過ごしていた頃の記憶の奔流によって、出る言葉もやや混乱気味になっていた。なんだってこんな場所に親父がいるのだ? そもそも親父はO市に栄転して……いつこっちに戻ってきたのだ? そんな言葉ばかりが、何度も頭の中でリフレインしていた。
「久しぶりだな。最後に会ったのは確か、五年前だったか……家の前で、綾子ちゃんと一緒だった」
 そういう親父の顔は穏やかで、その言葉通り目を細めている表情は、本当に懐かしみを抱いているものだった。親父のいうように確かにそうだけれども、こちらとしては今そんなことはどうでも良かった。劇的な再会なんて、ただ自分の感情を混乱させるだけでしかない。
「ああ、そうだった。だけど今はそんなことはいい。それよりも俺の質問に答えてくれ」
 まだ混乱気味の頭で俺は早口にまくし立てるが、親父が穏やかな表情を崩すことはない。
「……驚かせたみたいだな。まぁ、それも無理はないだろうが……こちらとしても驚いたよ。まさか、自分の息子が犯罪者になるなんてね」
 さすがにそこを突かれると返す言葉に困るものだが、それは一先ずおいておくとして、今は親父のことだ。第一、引越しのとき以来、一度だって会っていない俺達は、断絶に近い状態だったはずだ。その親父とどうしてこんな場所で会うのだ。
「俺が犯罪者だってのは否定しないぜ。だがそれは必要があったからで、それ以上でも以下でもない。ただ一つだけいうとすれば、テロリストだってのは単なるでっちあげだ。テロ行為をした記憶なんて、一度もないね。
 それより今はそっちが答える番だ。俺達は、なかば絶縁に近い状態だったはずなのに、なんだって突然俺の前に現れるんだ。
 ガスを使って俺をここに呼んだのは親父だろう? あいつは普通に生きてりゃぁ、決して交わることはない人種の人間だ。そのガスを使うなんて……いや、それを知っていたからこそなんだろ? だとすれば……親父は今、カタギじゃぁないってことだ。違うとはいわせないぜ」
「そこまでいわれてしまうと……違う、といっても信じてはもらえなさそうだな。だが言っておく。誓って私はおまえがまさか、そんな危険な世界に身を投じていたなんて知らなかったんだ。数日前に、テレビでおまえの顔写真が流されたのを見たとき、衝撃を受けたんだよ。まさかそんなはずはない、とね。
 それで急遽、前に住んでいた我が家へと向かったがもぬけの殻だ。私はてっきり残るといったおまえが、ずっといるとばかり思っていたんだ。高校卒業後に戻ってくるかもしれないから名義は全ておまえにしておいたし、その際に必要な蓄えも残しておいたからな。だからあのニュースを聞いたとき、我が目を疑ったよ」
「……」
 目を伏せて告げる父の態度からは、それが本当であると窺い知れるものだけども、こんな世界に長いこと身を浸かっていると、どうしても本当にそうなのかと疑ってしまって仕方がなかった。もちろん、親父がそんなことに嘘をつくような性格でないのを知っていてもだ。
「……わかったよ。今はそうかもしれないと信じるさ。だが、それでガスを使って俺を呼ぶことへの答えにはなってない。
 親父……何か知ってるんじゃぁないのか? 裏で何かが動いてるってことを……」
「ああ、知っている。といっても、全てじゃないがね。
 本当のところは、おまえの友人に聞いたというのが正しいんだ。今、おまえが大変な目に遭っているとね」
「俺の友人?」
 父から出た思わぬ言葉に、俺はつい口にしていた。親父の言葉をそのまま受け止めるとすれば、おそらく友人というのは田神のことだ。あの田神なら、こうした演出だってしかねない。
「田神……そいつは田神だろう」
 そう直感して、思わず少しばかし声を荒げてしまった。
「いや、悪いが名前まではわからない。ただ、今日この時間にここにくれば、おまえと会えるだろうとね。今自分はここから動けないからと言い残し、後はガスと名乗る情報屋に言づてたようだ」
 親父の説明を聞いて、ますますそれが田神である可能性が高まった。死んではいないはず……そう思っていたが、やはり田神は死んではいなかったのだ。
「そうか……やっぱりそいつは田神だ。ずっと探していたんだが……そうか、生きてたのか……」
 話を聞いて田神が生きていると知ると、途端に肩から力が抜け安堵のため息を漏らした。だが、やはり奴は奴だった。全く田神め……人を心配させておいて、とんだサプライズをけしかけてきたものだ。
「その男と会うことはできないか。できれば今すぐにでも」
 興奮気味に問いかけるものの、親父は目をつむり首を振る。
「彼は今いる拠点を今日にでも引き上げるといっていたから、おそらくはもう、そこにはいないだろうな。自分にはどうしてもやるべきことができたと、彼はいっていたよ。
 だが代わりに、おまえに会うことができたらこれを渡してほしいといわれている。なんでも今後、おまえにとって重要なことになるに違いないと」
 そういってダークグレーのスーツの内ポケットから白い便箋を取り出し、俺に差し出してきた。
「手紙……田神からの……」
 重々しく頷いた親父に小さくつぶやく。それをゆっくりとした動作で受け取ると、中に入っている数枚の手紙を取り出して広げた。
 手紙を見ると、予想通り田神からのもので、はじめに……という書き出しで、なぜこれまでのあいだ連絡をとれなかったのか、エリナが掴んだ情報、それと今後の俺のとるべき行動について田神からの案、といったものが予想を超える綺麗な字で書き連ねてあった。
『はじめに……これを受け取ってくれているのは九鬼、君であることは疑いようもないことだと思っている。おそらく、ここまでに大変な目に遭っていることだろう。君が指名手配を受けたという情報をもらったとき、すでに遅すぎた。何者かに、俺の部屋に君を匿っているという情報が流された後だったからだ。
 だが君のことだから、きっとどうにかして難を乗り越えていることだろう。唐突に君の指名手配が解かれたことからも、何かしらの裏取引がなされたに違いない。同時に君もこっちを探しているかもしれないだろうから、先に告げておきたい。
 今俺は、ある者に狙われている。君もこうなる前には、何者かから狙われていたろう? どうもその連中とは仲間らしいが、決して信用するな。この連中を信じてはならない。もっとも、君のことだろうから鵜呑みにはしていないとは思うが、たとえ何があっても信用してはいけない。』
「信用してはいけない?」
 田神からの手紙なんて初めてのことだから、普段書くとすればどんなものになるのかはわからないけれど、文面からは田神にしては珍しく、強い嫌悪にも似た拒絶を感じられた。一体どういうことなのかと、さらに手紙を読み進める。
『連中は九鬼、君を手籠めにしようとしているんだ。そのためには手段を選ぶことはない。もちろん今こうして手紙を読んでいるのなら、それは強く感じているはずだ。
 また連中にとって、君以外の人間はとても不都合があるらしい。その理由は残念ながら、現段階では窺い知ることはできない。一つだけいえるのは、君と関わりを持つ全ての人間を始末するつもりだということだけだ。』
 そこまで読み終えると、一枚目が終わる。田神はその連中からの執拗な追撃から逃れるため、しばらく姿を消すと二枚目に書かれてあった。このことから、もう田神があの古ビルに戻ることはないのは間違いない。それと、やつが今どこに潜伏しているのかは、知りようもないというのも。
 なぜ俺なのかという疑問には答えてくれていないが、続きに田神がなぜ、ああも寝座を変えていたのかには答えていた。ヨーロッパに移ったあと、俺と係わり合いをもつようになってから度々何者かに狙われることがあったそうで、それで数ヶ月ごとに居場所を変えていたというのだ。これが本当のことであれば、俺はかなり前からこの連中に付け狙われていたことを意味する。
 そうか……あの時、田神の部屋で狙撃された理由がわかった。あれはきっと、田神を狙っていたのだ。俺からすればとんだとばっちりとしかいいようがないが、田神からしたら幸いだったわけか。スナイパーからすれば、とんでもない誤算だったに違いない。あの時間、普段であればあまり出歩くことのない時間帯であったことが、良くも悪くも、それぞれの運命を別けた。俺や田神だけでなくスナイパーにとっても。
 そして次に書かれていたのは、俺が知らなくてはならないことのオンパレードだった。
『おそらく次に記すことは、君にとって知りたくて仕方のないことだろうと思う。いや、君は知らなくてはならない。奇しくもそれは俺自身の仕事とも重なってくるが何かあったときのことも考えて、以下のことを伝えておきたい。
 島津研究所で君が手に入れたデータは、一部破損してしまっていて修復できなかったり中には何も入っていなかったものもあった。が、いくつかはまだデータが残されていたのでそこから判明したものだ。
 まず坂上が研究していたNEAB−2からだが、坂上が遺伝子に作用するといっていたろう。あれは正確にいえば遺伝子のもつ繋がりを爆発的に振動させて、大量の熱を発生させることによるり変質させるものしい。』
 読み進めていくと、驚くべきことがわかってきた。遺伝子の形が二重螺旋状になったものであるのはよく知られているが、そこに、X状になっている染色体に遺伝情報が納めらたものだ。これらが幾重にも繋がり形作られることにより、数多の生物それぞれの姿やなんかが決定されていくそうだ。
 これはたとえどんな生命体であっても例外なくいえることなんだそうだが、遺伝子が結合したり、あるいは変質したりするとそこに必ずその状況に合わせた熱が発生する。その熱量を利用することで染色体のもつ性質が働きはじめ、細胞が活発化することによってそれぞれを組み合わすことが可能になり、多種多様な生命体が生まれる。
 人間のハーフやクォーター、犬や猫の種類にしたって理屈は全て同じだ。それどころか遺伝子は同じに見えても、実際には所々で違いもある。核と呼ばれる部分が種の基本情報を司り、二重螺旋状の遺伝子がそのオリジナル(この場合は親と呼ぼう)の掛け合わせによって新しいオリジナルとは似ていても、やはりどこか違う形のものが生まれることで新しい生命が誕生するわけだ。
 ところがNEAB−2は、この熱量を爆発的にあげるというのだ。遺伝子が動く際に発生する熱がこの動きに比例するならば、逆にいえば、その熱量を超えては思い通りに遺伝子は動かせないことにもなる。しかも、その発生する熱量にも限界がある。そのリミッターを外すことを可能にしたのが、坂上が開発したこのNEAB−2らしい。
 つまり言い換えれば、これは全く違う別の種と種を、組み換えることも可能になるというのも意味しているんではないのか。その疑問はすぐに文面にそうであると記してあり、同時に研究所の地下で見た、あのグロテスクな生物達を即座に思い出したことで合点がいった。
 ただし手紙には、だからといって必ずしも全ての組み合わせが可能になったわけでもなかったらしく、組み合わせるにはある一定条件が必要だとも書かれてあった。熱量が同じ一定の速度と、共通の膨張反応を見せたもの同士でなくてはならない、とされている。
 同じ一定の速度とは、その速度で互いがぶち当たることにより互いの熱量を相殺し合うことで、これが新たな結合に導かれる。宇宙で小惑星同士がぶつかっていき、一つに纏まっていく行程と同じものだと思えばわかりやすい。大きく結びつくことで、さらに大きな拡散を見せることにも繋がる。
 共通の膨張反応は、一定の速度でぶつかり合ったもの同士によって結び付いたものの数、とでもいえばいいのだろうか。これらの反応があることで、新たな全く違う生物が生まれていくことを可能にした実験を、坂上は何年も行っていたのだ。ましてや最終的には人間に施し成功させなくてはならないから、何人もの子供を使って人体実験を行っていたというのだ。全く坂上という男は、やはり地獄に堕ちても文句などいえようはずがない。惜しむらくは、奴をこの手で地獄の底に突き落としてやれなかったことだ。
 さらに手紙の中で告げられていたのは、進化の過程でより複雑な遺伝子、細胞を持つようになっていった生物は、その一定条件の範囲が非常に個体さがあるため、それに当て嵌まる条件は万に一つでもあれば良いほうで、あるいは億よりも少ない可能性だという。
 そんな実験をしていた坂上にとって、沙弥佳はまさに希望ともいっていいものだったといえる。たとえそれが、三週間に一度はNEAB−2を投与しなくてはならなかったとしても。
 この事実とともに、このふざけた薬の副作用も記されてあった。何度となく投与された場合、だんだんと恒常性をもつようになるとあったのだ。要するにこれは、NEAB−2にはドラッグと同じような常用性をもたらす効果もあるということだ。
 だから坂上はあの観察のためにとっていた日記に、最後にまずいと書き記していたのだ。田神の手紙によると、坂上にとっても沙弥佳が脱走するなんて思いもよらぬ事態だったのが、あの一言からも十二分に読み取れるが、投与し続けた結果は坂上自身にも未知数だったというのだ。
 それでも、いくつかの仮説は立てていたらしい。もっとも可能性が高いのは今までの実験と同じく、死亡する可能性だ。とはいっても、行き着いた可能性は結果、ほとんど死に至るものばかりだそうで、そんなものは可能性ともいえないものばかりだ。
 けれど、これまでの実験から導き出された可能性と、さらに確証はなくとも理論上有り得るかもしれない可能性……これらをクリアしていれば、あるいは今までにない新たな可能性が見えてくるという。それに至るまでは段階分けされていて、次の段階に進むごとに投与するというプロセスを、田神らしくつらつらと手紙には書かれてあった。
 NEAB−2の投与は遺伝子、ならびに細胞分裂の際に発生する熱量を、爆発的にあげるのは説明された通りだ。その熱量は、当然ながら被験者の体温も爆発的にあげていく。被験者はその熱に、体が耐え切れなくなりいずれ高熱で死に至る。
 これは誰でも知っていることだが人間は四十度を超える熱が出ると、致死率が急激に高くなる。四十二度に達したまま放っておくとその確率は、実に三人に二人が死ぬ割合だというから、被験者は確実にそれ以上の熱が出ていたはずだ。これを乗り切れるかどうかが、最初の段階だ。
 これを乗り切った第二段階では、体温が正常値に戻ったあとで普段となんら変わりなく生活し、ある程度の運動ができるかどうかが焦点になっている。乗り切ったあとであっても、次の日、あるいは明後日の朝にはベッドの上で冷たくなっていることがほとんどだったとされている。普段の生活においても、手足を動かしたり食事をすれば内臓が活発化することで体温が上昇するので、そんなちょっとしたことでもすぐに不安定になってしまうわけだ。
 そしてここからが第三段階になる。ここでは安定後にどういう反応を見せるのかが焦点になっていて、ここまで残ったのはわずかに六名しかいなかったらしい。データから判明したのは、この六名が見せた反応は、それぞれで全く違ったということだ。
 ある者は急激に老化が進んだり、ある者は突然奇行に走って自殺、またある者は飢餓状態に陥って衰弱死したりもした。また、ある日突然それまでの記憶を失い、記憶喪失になって脳みそが零歳児と同じかそれ以下になって動くことすらままならなくなった者もいたというから驚きだ。
 これはつまるところ、第二段階の延長ともとれなくもないが段階分けされていることから、ここに至るまでなんらかの理論があってのことなんだろう。しかしその辺りの詳しい経緯は、手紙には書かれてはいなかった。
 これらの異常を見せなかった状態で、初めて第四段階になるとされていた。そしてここまでにたどり着いたのは、沙弥佳たった一人ということになる。だからこそ坂上はEVEなどと、ふざけた呼称をつけたのだ。
 だがすでに知っているように、問題はないと思われた沙弥佳にも三週間に一度という制約がついた。坂上のレポートには、これが最終段階である可能性が高いと書かれてあったらしく、坂上……ひいては島津の連中が求めた不死への第一歩に繋がると見ていたらしい。
 全く、どうしようもないといえばどうしようもない思想ではあるが、気になることもあった。通常、次の段階に進むまでに十日前後の期間を設定してあったのに、その倍の時間を使い、さらに再び投与されたにも関わらず何も起こらなかったというのは、少なくとも沙弥佳がそれらを克服し体内で、何か免疫といっていいのかわからないがそれに似たものを持った、こうとれるのではないだろうか。
 やはり同じことを坂上も思ったようで、沙弥佳の血液を採取し、これを培養していたようなのだ。今まで到達することのなかったところにまで到達した者の細胞を使えば、そこから別の実験にも使えるはず……こう考えるのは科学者なら当然のことだ。ましてや沙弥佳を最高の研究成果だとのたまうような奴だ、嬉々として血液を採取して悦になっていたに違いない。
『さらに次のことは俺にとっても少々信じがたい部分はあるけれど、坂上の持っていた研究データを見ると最終的な答えは、これまでにない新しい遺伝子を創った、こう結論できるそうだ。
 遺伝子組み換えだとか、そんなものの話をしているわけではない。ある研究所に依頼して専門家にデータを分析してもらったので間違いないだろうが、あのデータからはこの世のありとあらゆる遺伝子のパターンとは、全く別のものになっているということだ。
 言い方を変えれば、進化したともいっていいかもしれない。この世のいかなる生物とは違うパターンであるといったが、進化の到達点といわれる人間の遺伝子パターン……ヒトゲノムと呼ばれるものだ。このヒトゲノムとは全く違うパターンを持ち、かつ、より複雑化していたと分析官がいっていた。念のため、他の研究所にも同じ依頼をしてみたところ、やはり得られた解答は同じだったことから、間違いない。』
「進化……だと?」
 思わずそう口にしてしまわざるをえないほど、手紙に書かれていた内容に驚愕した。眉唾だとか、頭がどうかしてるだとか思っていた坂上の研究が、まさかそんなところにまで話が飛躍するだなんて、とても考えが及ばなかった。
 俺が手紙を読みはじめ静かにそれを見つめていた親父も、なんのことだといわんばかりに眉をひそませている。手紙の内容になにが、とでも思っているのかもしれない。
 それだけじゃなかった。採取、培養された血液からはまた違う薬が造られたようで、これは他のいくつかの研究所や一部がレポートとして世に発表されていると書かれてあるのだ。これは一年数ヶ月前までいた、イギリスでのことがすぐに記憶の彼方から引き出されてきた。確か、ヒトゲノムの謎が解けたとか……そんな内容の論文だったはずだ。
 あのときも、日本の研究チームによって解明されたと聞いた。だが、まさかそれが坂上の研究チームだったとは……。
 ここまで読み進めたとき、ここでもまた一つ謎が解けた。坂上がゴメルと呼んだ、あの化け物のことだ。
 あれは、採取した血液を使って生み出されたものだったのではないのだろうか。あの化け物を坂上は、やはり沙弥佳に次ぐ成果といっていたので、そう見ていい気がする。
 けれど同時に、あまり考えたくないことまでわかってしまった。そうだとするなら、あのときベケットの奴が欲しがっていたサンプルは……。
 ゴクリと、無意識のうちに喉を動かし唾を飲み込んでいた。あのとき手にした瞬間、思わず魅入ってしまったのは、あれが人間であったものから、人間を超えたものになったものへの何かを、俺の遺伝子が感じとったとでもいうのか。
 俺は小さくかぶりを振った。いや、だとしても手放したくないとまで思ったことへの説明にはならない。あれはきっと、そんな理由なんかじゃない。別の、もっと別の理由があったからに違いない。単なる気の迷いだ。絶対にそうなのだ。
 いつもなら気のせいだと受け流すことなのに、俺は必死になって否定した。自分自身なぜそうまでして否定しようとするのか、理由はわからないが。
『また、いくつかの機関へサンプルとして流された血液は薄められ、そこで他の薬品と混ぜ合わされて別の薬という形で世に出されたものもあったようだ。今となっては、それらを確かめる術はないが。
 だがその中で気になったものがあったので、書いておく。以前イギリスにいたことのある君だから、もしかしたら噂程度には聞いたことがあるかもしれないが、ヘヴンズ・エクスタシーと呼ばれたドラッグの噂だ。このドラッグを巡って、アンダーグラウンドで争いが起きたこともあるほど希少価値が高かったそうで、一説にその効果は、ヘロインも足元にも及ばないとすらいわれたりもしたらしい。
 その劇薬ぶりは、たった一度の吸引で人間を廃人にできるほどだが、そのあたりは定かではなさそうだ。ただ少なくともたった一度だけでも、えもいわれぬ壮絶な快感と生涯、後遺症に悩むことになりかねないレベルだというからとんでもない代物だ。話によれば、一時間おきに痙攣した直後に仮死状態に近い状態になって気を失い、突然息を吹き返すと、また仮死状態になる……といった症状を見せるのだとか。
 しかも驚くべきことだが、このドラッグも採取された血液から生成されたもので、ヘロインとの合成によって生み出されたものだ。
 このドラッグはたまたま、ギャングに関係している研究者の手に渡ったことから、そんなものが生み出される結果になったけれど、別の研究機関に渡ったものは新薬の開発に使われ、人体に急激な変化をもたらしかねない危険な薬として認知されてもいるらしい。ちなみにその研究自体はすでに、島津によって実験されている。どういう理由でその事実を隠蔽したうえで、他の機関に血液を流したのかは不明だ。』
 その内容を目にしたとき、以前、俺はそいつに出会っていると唐突に思い出した。忘れもしない。もう七年近く前になるが青山たちと共に向かった、あの蒲生の家でのことだ。運よく難を逃れたことはまだはっきりと記憶に残っている。
 手紙の内容から思い出したのは、このとき蒲生宅の一室に落ちていた小さなガラス瓶に入っていた、白い粉のことだ。後に青山が語っていたことと、どことなく似ている気がするのだ。おそらくは十中八九、あれは島津が八年前におこなった実験と研究の成果だとみていいだろう。
 ヘヴンズ・エクスタシーと呼ばれたドラッグに関してもまた然りだった。イギリスにいたときに出会ったジャンキーが、このドラッグの禁断症状の効果とよく似た症状を起こして、事切れたかのごとく動かなくなったのを見たことがある。あれこそデニスが口にしていた、アンダーグラウンドで流行ったというドラッグだったのだ。たった一度の吸引で廃人という触れ込みは、嘘偽りなしというわけか。
 生涯、後遺症を残すということは、あのときに出会ったジャンキーは一生あんな具合なのだろうか……ふと、そんな考えが頭の中に浮かぶ。ヘロインあたりでよせばいいものを、余計なものにまで手を出すから悪いという持論はこれっぽっちも揺るがないとしても、一生あのままという気持ちはどうなんだろうかと、柄にもないことを考えてしまった。
 けれど新薬作りにしろ、ドラッグとの合成にしろ、血液のサンプルがそれらに幅広い用途でもって扱うことができるのは間違いない。今井の奴があのとき突然苦しみだしたのも、ドラッグとしての摂取によって急激な廃人化や死に至る原因も、元を辿っていけば、全てNEAB−2にぶちあたる。
 手紙の内容を要約すれば、この薬が遺伝子のメカニズムを急激に変えようとする作用をもっていることから、むやみやたらに摂取していいというものでなく実際には、ごく限られた者にしか使えない、ということだ。そして、仮に適応することができたとすればそれは、人間の形を持ちつつも、人間とは違う別のものになってしまうかもしれないという可能性だ。
 坂上に飼われていた、あのゴメルとかいう化け物がまさしくそれに当て嵌まる。多分、奴はどことなくゴリラを思わせる外見的特徴をもっていたことから、元々はやはりゴリラだったのではないかと考える。つまりあの化け物は、坂上の数少ない成功に近いサンプルだったわけだ。
 おまけに島津製薬のエージェントだった松下薫も口にしていた、不死の研究に確実に役に立っていたにちがいない。俺自身、あのわずかな時間のあいだに、死んでもおかしくないはずの攻撃から再生し立ち上がってきた瞬間を、何度も目撃したことからもそれは疑いない。もっとも最期には、生物としての理性はおろか、脳みそすらどこにいったのかわからないという具合に奇形化していったのも確かだが。
 ともなると、進化の先にあるのが不死ということになるのだろうか。近年の研究で、生物は生きるために老いる、という研究論文が発表されテレビやインターネットで見た記憶がある。詳しくは見なかったのでなんともいえないけれど、確か生きるために、同じ遺伝子の細胞を堪えず生産し増やすことで成長させるのだとあった。逆説的にいえば、単細胞生物こそが長寿であり、不死なのだということもいえるのが面白いものだと思った記憶がある。
 もっといえば死というのは、生きるということに関し崇高なプロセスの一つであり、死ぬことまでが確かな生ともとれる。こういったプロセスから見れば、多細胞生物である人類が不死を目指そうとするなんて、ちゃんちゃらおかしい話ではないか。
 自然界には必ず、あるメカニズムが存在しているのは誰しも知っていることだ。これは細胞にもいえることで、古くに生み出された細胞がその生物の核たる部分を作り、次にそこから生まれた細胞が古い細胞を守るために、さらに新しい細胞を作る。そこで生まれた細胞がまた前に生まれている細胞を守るために新しく……これは、単細胞生物以外全ての種にいえるプロセスだ。
 しかし細胞分裂にもエネルギーがある。この細胞のエネルギーは同時に、その生物にとってのエネルギーともとれるものだがこれを発散するとともに、次の新しい細胞を作るためのエネルギーの確保をするために、他の種の持つエネルギーを奪う。だからこそ何もしていなくても、腹が減ったりするわけだ。次々と体内の、目に見えないレベルで細胞分裂を行うためにだ。
 こうしてある時がくると、古くに生み出された細胞たちは生成を止める。これが一般的に老化が始まるとも呼ばれる時期になるのだろうがこうしなくては、その生物はいつまでも細胞が分裂し続けるために、さらに多くのエネルギーを必要とすることになり、古い細胞のエネルギー維持のために新しい細胞は弱って分裂できなくなってしまうからだ。
 こうして生産をやめた古い細胞たちに構うことなく、新しい細胞たちはまだまだ過剰に生産を続けエネルギーを作りだそうとする。そして古い順番に細胞は新しく細胞を生成しなくなっていき、細胞としての活動をやめていく。
 こういった細胞が増えつづけると、エネルギーの消費と、そのための生産が追いつかなくなっていき、ついには限界がくる。限界が全ての細胞が生産を止める。もうエネルギーを作っても需要がないからだ。
 そしてこの状態こそが死、ということになる。これが生という一つのプロセスなのだと、研究者がいっていた。
 これらの考えとあのゴメルの例をとってみると、おかしなことに矛盾しているようで互いの欠陥を補っているようでもある。爆発的に熱量をあげるということは、言い方を変えると遺伝子は当然だが細胞の活性化にも繋がることなのだから、理論的に考えてみれば確かに正論であるかもしれない。なんせ、本来なら活動しなくなるはずの古い細胞にも常にその熱量、つまりエネルギーが与えられつづけるわけだから、細胞は若さを保ったまま分裂し続けることになり、新しい細胞も同様に常にエネルギーを保ち続けることが可能だ。そうすれば、ずっと生き続けることもまた可能だということになる。
 俺個人の考えでは、松下薫がいっていたことと同じで、家族や恋人がいなくなり、友人や知人が死んでいなくなるのを傍目に見続けていかなくてはならないなんて、それこそ生き地獄に近いものがあるかもしれない。
 やはりこの世に生まれた以上、地球の一生物として歳とって死んでいきたいものだ。こんな殺し屋稼業に就いている分、余計にそう思ってしまう。
 そんなことを考えてめくった手紙は、もう最後の一枚になっていた。
『さて、最後になったが九鬼、これから君がやっておいたほうがいいと思うことを書いておきたい。君はこれから、ある人物を始末するよう言われたと思われるがどうだろう。もしまだであるなら、思い止まってほしいんだ。
 ここのところ二人の要人が暗殺されたニュースを耳にした。多分に君が関わったことだろうと思う。だが、これは連中の罠だ。君はこの二人がどういう人物だったか知っているだろうか……二人は、世界を股にかけた事業をおさめた大富豪であり、日本に限らず世界経済に影響を及ぼしかねないほどの権力者だ。この事実に、どうも世界中のスパイがここ日本に大挙して押し寄せてきている。
 シナリオの最後に、君をあぶり出す作戦が共同で練られたんだ。まさか、スパイたちがこんな形で結託することになるとは夢にも思わなかったが、とにかく二人に関わった三人目の人物を囮にして、犯人を捕まえる気でいるのは確実だ。世界経済に深く関わった者を暗殺した者となれば、この世界では知る者はいないといってもいいくらいの有名人になるからな。
 そこで俺は、君に一つの提案をしたい。君は今から毛利医師のところに行け。すでに彼には話はつけてあるし、連中の中でもかなり中立に近い立場にいるから、少しのあいだ君を匿ってもらうことは可能だ。
 それと、俺のことは放っておいていい。この混乱に乗じて、仕事を片付けたい。なにかあれば、すぐにでも毛利のところに連絡がいくようにもしておいたので、あるいは仕事が片付き次第、君とも合流できるかもしれない。』
 手紙に、連中というのと毛利という言葉が出てきたとき、どうしようもなく嫌な予感があった。連中の中で、ということはつまり、毛利がその中に属していることになるが、毛利が属しているのは、あの武田とかいう奴を筆頭にしたコミュニティーしかない。つまり、俺を今回巻き込んだ張本人は武田ということになるのではないか……。
 ゴクリと喉が動いた。そうだとすれば、俺は奴によって良いように転がされていたことになる。
『そうそう、少々お節介かとも思ったが今回は君の父親に宅配人を頼んだ。連中の手の及ばないところが見つかるまでのあいだ、親父さんは毛利の病院近くにあるホテルに滞在してもらうことにした。数日のあいだは、そこから出歩かないよういっておいたのでおそらく大丈夫とは思うが、これは連中が不都合になったときに脅し付けることを想定してのことだ。だから、あまり悪く思わないでほしい。
 後はなにか聞きたいことがあれば、その都度、毛利を通してくれれば何かわかるかもしれない。』
 なるほど。親父が突然姿を見せたのは、田神の計らいだったのか。手紙の一番下に、追伸と書かれてあるところに目をやったとき、文章を読んで思わず目を見開くようにしかめた。
『言い忘れていたので、追伸として締めておく。
 連中のリーダーらしき人物に出会ったら要注意だ。そいつは全身黒づくめの、糞掃衣ふんぞうえのようなものを羽織った奴だから、すぐにわかるはずだ。この人物にだけは、絶対に信用してはいけない。』
 手紙には、最後にこう締めくくられてあった。糞掃衣……そういわれて思いついたのは一人だけだ。
 奴だ……。俺を警察に売り、助けだそうなんていう茶番をしてみせた、あの独特な雰囲気を持った男。武田というのは、あの男にちがいない。
 俺は知らず知らずのうちに、手紙の端をきつく握りこんでいた。いつだったかエリナのやつが、近いうちに武田に会うと口にしていたのを思い出し、確かにそうだったと冷静に考えながらも、どこか頭の奥ではチリチリと怒りが込み上げてきていたからだ。
 ……なるほどな。武田の奴は、よほど人をおちょくるのが好きらしい。茶番もいいところだ。
 面白い……そっちがその気なら、もうこっちも黙ってはいられない。何がなんでも貴様を追い詰めて、この手で地獄に送ってやる。覚悟しておくがいい。



 田神からの手紙に従って、親父の身の安全を優先するために毛利の病院にほど近い、高級感のあるビジネスホテルへと赴いている。おまけにビジネスホテルだというのに、最上階の部屋は下手すると二流のシティホテルのスイート並といってもいいほど広く、設備も整っていた。
「……行くのか」
「もちろんさ。罠だとわかった以上、こちらも何もしないわけにもいかないからな」
 そうかと俯かせた親父の表情は、諦め半分、心配も半分といった複雑そうな顔だ。それも仕方ないだろう。自分の息子がなんらかの大きなことに巻き込まれていると知ったら、人の親としてなにも思うなというほうが無理というものだ。
「……おまえは強いな。私とは大違いだ」
「なにが」
「おまえは遥子の最期を看取った。しかもいまだ行方不明になった沙弥佳の身を案じて、一人で探しつづけてる……私にはそこまで大胆な行動はできないよ」
 力なく笑った親父は小さく肩をすくめると、おおげさにかぶりを振ってみせた。
「親父は……親父はまだ母さんのことを?」
「ああ。まだ完全に受け止めきれていないんだ。ようやくさ、遥子のことも見なくてはならないと思えるようになった。
 だが、それでもまだ昨日のことみたいに、遥子が死んだ日のことを思い出す。受け入れようとしても、思い出すたびにそれが邪魔して遠回りして逃げる日々さ」
「親父」
 父が見せる様は、やはり俺とは違い弱々しさや落胆を影に感じさせるものだった。これが別の、全くの赤の他人であれば落ち込むなとでも声をかけるところだが、家族としての情からなのか、そんな父の姿を見て、どう声をかけていいのか俺にはわからない。あるいは、そんな自分を一喝してもらいたいのかとも思いはしても、やはり声をかけにくく、タイミングを逃してしまう。
「だが……こうして五年ぶりにおまえと顔を合わすことがてきて、本当に嬉しかったよ。これも私にいい加減現実を見つめろという、神からの思し召しかもしれん」
 神、か。そんなものはいないぜ、親父。声にすることなく、心の中でそうつぶやく。当たり前のことを口にしたってなんの意味もないし、前向きに取り組もうとしている人間の出鼻をくじくような真似はしたくない。
 もちろん、親父だって本気でそういっているわけではないはずだ。そもそも宗教になんか、これっぽっちも信じていなかったしこれからもそうだろう。きっと、クリスチャンだった母のことがあってからこその台詞だったに違いない。
「ところで親父は仕事はどうするんだ。ここに何日かのあいだ泊まることになるんだから、会社には一言いっておいたほうがいいんじゃないのか」
「大丈夫だ。しばらくのあいだ、有給をとったからな。ことが落ち着くまでは、このホテルでゆっくりと休養にするさ」
 遥子が死んで以来、纏まった休みは初めてだと付け加え、オーバーリアクション気味に両手を上に思い切り伸ばしてみせる。
「ならいいが……。まぁいい。時間ができたらまた来るから、勝手にホテルからチェックアウトはしないでくれよ。それと出かけるときは、どんな些細なことでも毛利か俺の番号にかけること。絶対に忘れないでくれ」
「ああ」
 俺はもう一度強く念を押し部屋から出ると、足早にホテルを後にした。




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