いつか見た夢

B&B

第81章


 親父と別れ毛利の医院を出たときには、すでに日もとっぷりと暮れた時刻になっていた。
 これも仕方ない。まさか、医院にエリナのやつがいるとは思いもよらぬことだったからに他ならない。
 エリナの話によれば、俺と同様に拿捕されかけたことで田神との接触が遅れ、本来とは別のルートを使うことでようやく田神と会うことができたらしい。手紙にもあった通り、二人とも何者かから狙われていたのだ。
 しかしその連中の正体を告げられると、エリナは髪を振り乱し必死にそれらを否定した。それもそうだろう。なんせその黒幕ともいうべき人物である武田からの差し金であったのだから、奴を信頼していたエリナが信じる気になど到底なれないのも当然だ。
 それでも田神がそう結論づけたうえに、俺自身に起こったことから考えてもそいつは疑いようはないことで、嘘だといえと、なかば脅し付ける口調で凄んだエリナに、ただ本当のことだというしか俺にはできなかった。
 愕然として呆けるエリナを、毛利がしばらく休めと空いたベッドにまで肩を支えながら寝付かせた。連れていくときに、さりげなく手にした注射器を俺は見逃さなかった。きっと軽い麻酔薬をエリナに打ったんだと思われた。
「それにしても……とんでもない話だな」
 エリナを寝付かせ戻ってきた毛利が、不意にそういった。
「どうかな。俺ははじめから武田の奴は気に入らなかったから、むしろ、やっぱりなって気持ちしかないぜ。奴はどうにも信じれるようで、どこか胡散臭いところがあるからな」
「そうか……おれには武田がそんな人間には思えなかったんだが」
 見る目がないなといいながら、毛利は少し早めの締め作業にはいる。
「だがいいのかい。あんたは俺を匿っちゃくれてるが、別に仲間ってわけじゃない。いくら田神に頼まれたとはいえ、律義にそいつを守る立場じゃぁないと思うんだがな」
「それはそうだが、田神の話が本当であれば、おれは間違いなく武田から狙われることになる。それが匿っていようといまいと、関係なくね。だったら、頼まれたことはきちんと守るさ。
 それに、たしかにおれは戦闘訓練を受け殺人の技術があるけども、あくまで医者だ。匿わなくては確実に死ぬだろう人間を、みすみす放っておくことはしないさ」
 そういって肩をすくめてみせた毛利であるけれど、武田から裏切られたというショックは、少なからずは確実にあるように感じられた。
 俺なんかは、どちらかといえばすぐに人を裏切るタイプだと自分では思っているので、信頼していた人間に裏切られた気持ちというのがいかなるものなのか、計り知れないものがある。
 だってそうだろう。過去に綾子ちゃんを裏切り、沙弥佳も裏切った。そのうえ、人を裏切ってなんぼの、こんな商売をしている人間にはそいつをわかれというのが無理な話なのだ。まぁ、毛利もわざわざ俺からの同情なんて、欲しいなどとは思ってはいないだろう。
「ま、あんたがそういうんなら俺はもう何もいわないよ。
 ところであんた、武田について何か知らないか? なんでもいい。どんな些細なことでもいいから、何か知っているなら教えてくれ」
「おれが知ってることなんて、大したことはないよ。あくまで武田から医者としての腕を買われただけだからな。だが、おれが勧誘された経緯くらいは話せる」
「そういうのでも構わない。是非教えてくれ」
 とにかく少しでも武田のことを知っておきたい俺は、毛利の言葉に大きく頷いて部屋にある使い古された椅子に腰かける。その様子を見計らい毛利も自分の椅子に腰かけると、白衣のポケットからくたくたのタバコの箱を取り出し、一本手に取った。
「おれが日本を飛び出して戦場医師として働いていたのは前に話したな。それが今から十五年ほど前のことで、たまたまそこに一人の少女を助けてほしいと連れてきたんだよ、武田のやつがな。それを助けたところ、武田からこういうことをしているから、君も参加しないかと持ち掛けられたのさ。
 結局、外国人は一斉退去を命じられたことをきっかけに、おれは日本に戻って武田のところにいったというわけさ。それが十三年くらい前のことだったな」
 毛利はくわえたタバコに火をつけて、煙を思い切り吸い込んだあとに鼻からその煙を吐き出した。
「俺は以前、武田の野郎からこのコミュニティーに入るための試験とやらをやらされたが、あんたはそういった類いのものはやらされなかったのか」
 あの廃棄工場で背中を撃たれたことを思い出しながら尋ねると、毛利は首を振った。
「いいや、おれのときにはそんなものはなかったな。そもそも、そんなこと自体やるだなんてことが初耳だったくらいだ。
 武田にとって九鬼という人間は、何かよほど試したいことがあったのかもしれないな」
「俺だけ特別待遇だなんて、嬉しすぎて涙が出ちまいそうになるね」
 厭味なくらいに思い切り皮肉っていうと、毛利は苦笑しながはかぶりを振る。
「武田はあまり他人に関心を持たないやつだからな。そういった点では、間違いなくおまえさんは特別だぞ。いまにしてみれば、随分前から気になる奴がいると口にしていたのを幾度か聞いたことがあったんだが、もしかしたらあれは、おまえさんのことだったのかもしれないな」
「随分前からだって? それはつまり……もし武田のいう気になる奴ってのが俺だとしたら、ずっと前から俺は武田の奴からマークされていたというのか」
 思わず眉をしかめ、早口にまくし立てる。
「あくまでも推測でしかないがね。たが基本、武田はコミュニティーに入ろうとする者を拒んだり試したりなんてことはしないはずなんだ。なのに、おまえさんにだけは試したり、今回のような色々と面倒になることをやったりと、あらゆる点で異例のケースばかりだ。
 これも単なる推測の域をでないが、武田は君のことを、仲間として迎え入れなくてはならない理由でもあるのかもしれない。つまり、本来であればそうしたくはないが仕方なく、といった具合でね」
「どういう意味だ、それは」
「そのままの意味さ。どうも、そんな印象を受ける。根拠はないが、あまりに聞いたことがないようなことばかりだからな」
 毛利は軽く首を振り、タバコを口につける。
「……昔から、時折、妙な連中に付き纏われることがあったんだが、それも関係あったんだろうか」
 毛利の言葉からはどこまでが真意なのか読み取れないこともあって、ついそんなを漏らす。毛利はわからないとしつつも、どこかでそれらが関係していないとも言い切れないと告げた。
「結局はわからないことだらけというわけか」
「いいや、すべてというわけでもないぞ。少なくとも九鬼にとって……おれにとってもそうだが、武田が敵であるということがわかっただけでも良いといえるだろう。十分であるとはいえなくとも、まだいくらかはマシだ」
 そういうもんかねと適当に相槌をうちながらも、毛利が武田のことを敵だとしたことに内心では安堵した。別にそうというわけでなくとも、なんとなく同じことを考えに行き着いている人間がいたことに安心感を覚えたのだ。武田の野郎と初めて会ったときに抱いた、あの不思議な感覚が忘れられないでいただためだった。
 初対面の、それも明らかに同じ世界で暗躍しているらしい奴をはなから信用するのは、この業界では命取りでしかないはずなのにどういうわけか、あの野郎にだけは最初から妙な安心感を持って接していたのだ。あれを人徳とでもいうのであれば、そうなのかもしれない。だが、俺が初めての人間にそんな感情を抱くなんてのはありえない。ましてや、この業界人になど……。
 以前、田神があの連中の目的がどうだといっていたのを思い出す。現時点での連中、ならびに武田の目的などはわからないけれど、連中がだんだんと集まり一つの纏まりになっていったのには、なんとなくだが理由がわからなくもない。おそらく、連中の大部分は武田に、なかば心酔する形で集まってきたのではないかと思うのだ。
 我ながら、いまひとつ説得力に欠けるものだとは思うが、不思議と信憑性はあったりするのだ。武田のもつ、あの独特で、えもいわれぬ人を無条件に安堵感を与える雰囲気を前にしたとき、人に対しまず疑うことから始める俺ですら雰囲気に完全に呑まれていたことから、そう考えるのは当然といえる。
「ところで、あんた今、武田の奴が一人の少女を連れてきたといったが、詳細はわかるかい」
「いいや、全くわからない。十五、六の歳で、ブロンドの髪をしていたということくらいしか覚えてないな。戦場で被弾したといっていたが、今となってはそれも本当かどうか、だな。
 弾を摘出したあと一応は処置はしておいたが、そこからはずっと少女に武田が一睡もすることなく付きっきりだったのも覚えてるな。そこで話しかけたところで、誘われたんだよ」
「なるほどな。で、その後そいつとは会わなかったのか」
「残念だが、おれが日本に戻った頃には亡くなっていたらしい。元々体が弱いという話だったから、それが原因かもしれない」
 頷きながら、その少女と武田がどんな関係だったのか考えを巡らせる。武田の出生がわからない以上、そこから推測はできないが湾岸戦争時に現地にいたそうたがら、そのあたりから何か探れないものか……。
 そういえば、武田のことを教えてくれたのはガスだった。思えばガスが追われなくてはならなくなったのは、もしかすると武田のことを探ったために奴のブラックリストに名前が載ったのかもしれない。おまけに、ガスと俺は顔見知りというのもあるから十分にそれは考えられる。
「まぁいい。とりあえず俺は、これから会っておきたいやつがいるから少し出かけてくるぜ」
 そうして俺は情報収集するべく、毛利の医院を出た。とにかく、武田の情報を少しでも集めなくてはならない。

 地下鉄に揺られ俺が向かったのは、約五ヶ月ぶりとなるジュリオの店だった。最後にきたのは、それこそ島津研究所に乗り込む日であったのが思い出されるが、色々とありすぎて、たった五ヶ月しか経っていないのかという、妙な感慨深さがあった。
 もちろん、そのときにあった修羅場のことも忘れてはいない。実のところ、この時のこともあってかジュリオのところに行くのは、少しばかし行きにくいきらいがあるのだ。だがしかし、自分の仕事をなんとかしなくてはならない以上は、そんな甘ったれたことをいってはいられない。
 ……いや建前上はそうでも、心のどこかで俺はそれとは全く違う、別のことも考えていたのは否めない。もしかしたら彼女に会えるんではないかという淡い期待と、馬鹿なことは考えるなという葛藤があったのだ。建設的に物事を考えれば、わざわざジュリオのところに行く必要はないのだから、そんな下心が少なからずあっての行動だというのは素直に認めよう。
 店にほど近い駅を降り階段をあがると、いつもはあまりいない店の前の通りは仕事帰りのサラリーマンやOLで溢れていた。午後九時に近い時間でこの暑さなのだから、今夜もまたいつもの通り熱帯夜であることは確実だろう。皆そんな暑さにやられて、けだるげに歩いている。
 かく言う俺にしても、通気性のよい薄手の灰色がかったスラックスに、無地の白いタンクトップの上からTシャツ一枚という、簡素な出で立ちだ。当然、今は銃などは身につけていなかった。銃がないと、どことなく勝手が違ったりも感じるが、まぁ、なんとかなるだろう。
「久しぶりだな、ジュリオ。繁盛してるじゃぁないか」
 まだいい時間帯ということもあって満員の店内に入ると、従業員の女の子がテーブルが空いていないと案内してきたのを手で制し、厨房で料理を作るジュリオに声をかけた。
「おお、クキさーんじゃない! どうしたの、どうやったの」
「どうもこうもないさ。ま、色々と大変だったがこの通りさ」
 やはりいつものように、ジュリオが店内に響く馬鹿でかい声で俺を迎え、握手の手を差し出してきたのでそれに応じながら答える。
「ニュースを見たとき、ほんと心配したよ」
 そういうジュリオに苦笑し、肩をすくめた。
「ところで、今いいか。ちょいとばかし、あんたに聞きたいことがあるんだ」
 これ以上ジュリオのペースに合わせていると、都合の悪いことも口にしかねないので、そうそうに話を切り上げ声のトーンを下げながらいった。するとジュリオはすぐに察し軽く頷くと、こっちよと顎を使い店の奥へと案内した。
 案内された先はロッカールームのさらに奥にある部屋で、普段、従業員もほとんど使わないのだろう、床や物の上は当然、積もることなどほとんどない壁にまで埃がはびこっていた。口や鼻を覆わなければ、すぐにでも気管支をやられてしまいそうなほどだ。
「悪いな、わざわざ。早速だが、いくらか情報を買いたい。この何日かのあいだに何か変わったことはないか」
「クキさーんならタダでいいよ。なんたって、命の恩人だからね。
 最近あったのは、財界の重鎮が暗殺されたって話を聞いたくらいだよ。あとは、クキさんのことがテレビで流れてたのは……まぁ、いう必要はないか」
 いつもはどこか片言なジュリオの言葉が、こういったときだけはなぜか流暢になるのが可笑しい。しかしジュリオは特にないとしながらも、昔のアコギな商売柄か、いくつか気になることがあるという。
 まず一つ目は、重鎮といえるほどの人物であるならば、もっと大きく取り上げられてもおかしくなうはずなのに、ほとんど報道されることがなかったのには疑問を感じたという。
 まぁこれに関しては構うことはない。始末をつけたのは俺だし、報道を制限した連中もわかっているのだ。俺が気になったのは、次にジュリオかま口にしたことだった。
「一番気がかりだったのは、二人目が殺されたとき、死体に二つの同じライフルの弾によって穴があいていたというのだな。初め聞いたときは、はじめから二発撃たれたのかとも思ったけど、そうではないらしい。どうも、違う方向から撃たれたって話だったんだ」
 ジュリオの話を聞いたとき、俺は眉をひそめながら目を見開いた。確かに二人目といわず、二人とも暗殺に使ったのはライフルだったのは間違いない。だが、ともに放ったのは一発だけだった。二発というのはおかしいのだ。
 しかも、ライフルの暗殺において二発というのもおかしな話だ。そもそも急所を狙っているのに、どうして二発も放つ必要があるというのか……二発目以降は、失敗したときだけのことだと考えるのが普通だ。そうでなければ、スナイプする意味がない。
 ここから導き出されるのは俺とは別に、別の誰かがターゲットを狙っていたということに他ならない。財界の重鎮だというくらいだから他の殺し屋に狙われることがないとはいわないが、だとしてもわざわざ俺に全く気付かせずに事を終えようとしたなんて、どう考えてもおかしなことだ。全く同じ弾を使うというのも、何かを暗示している気がしてならない。
 ジュリオの話では、ほとんど同じ方向から風穴を開けられたという話だから、俺よりも後方から狙撃したことにもなる。もし、こちらよりも前の地点から狙撃したなら俺が気付かないわけはないのでそう見ていいが、弾の食い込み具合を割り出せることなかったことを考えると、相当後方からである可能性が高い。
 なにより、角度もそうだが全く違う場所から正確にターゲットに対して二つの風穴を同時に開けるなんていうことが、一番ありえないことだ。二人が連携し、正確に連絡し合っていたのならまだしも説明できる。しかし、今回の件はそんなことは一切していない全くのぶしつけ本番の上、互いに顔も合わせたことのない奴がバディなのだから、これは不可能に近い。
 殺すにしても、俺が狙っているのを知っていたにしろ、そのタイミングを合わせる必要は全くといっていいほどないし、向こうにだってなんのメリットもないだろうから、この話はなんかの間違いなんではないのかと疑ってしまう。
「だけど、この情報はすぐに続報が出てからというもの、一発だったということに差し替えられていたんだ。まるで、何か隠蔽しているようにすら思えたね」
 ジュリオの言葉に耳を傾けながら、頭の中では丸っきり違うことを考えていた。二発だった弾が一発に差し替えられたことも気にならないわけではないが、それ以上に気になる……もっというと思い出したことがあるのだ。スナイパーといえば、佐竹とやり合った際にも、奇妙な行動をとった奴がいたのを思い出していたのだ。あの時と今回、なにか繋がりがあるように感じて仕方ない。
 この業界は広いようでいて、実際には狭かったりもするので、完璧を目指すのが当然のこの世界において、こんな完璧に見せてはいても、全くの意味不明ともいうべき行動をとる輩はあまり多くはない。さらにスナイパーともなると、なおのことだ。
「そうそう。あと今晩、都内のシティホテルで財界の重鎮が主催するパーティーがあるよ。何人か、きな臭い噂のある人間がきているから、何かわかるかも……。
 あとは……これは関係ないかもしれないけど、何日か前にロシアの国境付近の森で、不審火による火災があったという話があったよ。全く人気ひとけのないところなのに、数ヘクタールに及ぶ火災になったらしいけど、火がつく要因が全く見当つかないって話だったな。人為的以外には考えられないってね」
 後者は職業柄、少しばかし気にならないわけではないが、確かに関係なさそうなのでこの際は放っておくとしよう。それよりも気になったのは前半のことで、おそらくジュリオのいうパーティーというのは、今晩俺が片付けなくてはならない仕事のことを指しているんだと思われた。皮肉にも田神が罠だといった催し事に、首を突っ込まなくてはならないかもしれないのだ。
「わかった。ありがとうよ、ジュリオ」
 俺はジュリオの肩に手をおいて頷くと、財布から福沢諭吉が印刷された札を二枚とって、ジュリオのズボンのポケットに突っ込んだ。前に田神が、物入りになるかもしれないと渡してくれた軍資金の一部だ。
「ありがとね、クキさん。だけどそのパーティーには……って、クキさん」
 そういいかけたジュリオを尻目に俺は大丈夫だといって、早速行動を開始するべく埃だらけの部屋を出た。多分、警備が厳重だ、そういいたかったのだろうがそんなのは百も承知なので、いまさら気にすることはない。
 俺はこれもなにかの縁かもしれないと自分を納得させ、仕方なしに今日行くはずの現場に赴くことにし、仕事終わりで美味そうにピザやパスタ、ビールなんかを口にしている客でいっぱいの店をきたときと同様の足取りで出ていった。



 地下鉄を乗り継いで降りた先にあるシティホテルに到着した俺は、早速周辺のチェックにホテルを一周したところ、表玄関よりも従業員用の裏口のほうが、警備がさりげなく厳重になっているのがわかった。
 配備された警備員自体の数はどうみても表玄関のほうが多いが、裏口にいたボディーガードらしい黒服の連中は、明らかにその道のプロであることがすぐに見てとれたのだ。ここらで黒服を一人くらいノして変装するのも手段として思いつくけれど、見たところ裏口にしか配備されていないので、連中から服を奪って変装……というわけにはいかなさそうだ。
 ならば表玄関はというと、これがまたうまい具合に警備員全て持ち場を離れることなく、全員がホテルに出入りする人間たちを横目でチェックしている。おまけにいつぞやと同じで、入るのに案内状のようなものを掲示して入っていっているのを見ると、強行突破など無理だ。これではとてもではないが変装などできそうにないので、この案は却下だ。
 街中を走る国道を挟んで、表玄関の前にある喫茶チェーン店にはいった俺は、一面ガラス張りの店内からホテルとその周辺を、どうするかとコーヒーに口をつけながら眺めていた。
 それにしても、あれほど厳重な警備がされていると逆に何かあるんではないかと、教えているようなものではないのか……ぼんやりとそんなことを考えたとき、一台の車が目の前の道を走り去りホテルの裏手へと回っていった。
「これだ」
 しめた。目の前に現れた車は、施設の洗浄のための清掃業者のものだった。これは願ってもいないチャンスに違いない。一人つぶやいた俺は、コーヒーもそこそこにすぐ立ち上がり店を出ると、裏手に回った車を追って道を渡る。
 先ほど訪れた裏口のある通りに出ると、清掃業者の車が裏口の手前で止まっているのが見えた。清掃会社によくある大きめのバンだ。すぐに中から二人の清掃員が出てきてバンの後ろに周り、中から道具を出しているのもわかった。二人はいかにもガテン系の仕事人といった風貌で、準備を終えるとすぐホテルの中へと裏口を通って入っていった。
 それを見計らい、俺はバンの後ろにつくと、平静を装いながらバンのトランクを開けた。この手の連中は盗られるものなど何もないと思ってか、車の鍵を閉めない者が多く、おまけに中には予備の道具やなんかが置きっぱなしにされていることがよくあるのだ。
 案の定、バンの中はいくつもの道具が置かれ、それだけでなく作業着であるツナギすらあった。完全になにかあった時のためのものであることが、使い古された感がすることから窺える。
 俺はそのツナギをはくと、適当に道具を見繕って先に入っていった二人を追うように裏口に向かう。
「待て」
 当然というべきか、黒服の連中が制止した。
「なんだい。今から仕事なんだ」
「施設の清掃員は今入っていったぞ」
「先輩たちだろ。俺はやることがあったから、遅れてきただけだ。それより早く通してくれよ、先輩たちにどやされちまうんだ」
 急かすようにいうと、黒服の一人が他の連中を見て肩をすくめて行けと命じた。もしここで正体がバレたら、開き直って全員倒す覚悟でいたが、どうやらその必要はなさそうだ。できうる限りは穏便にいきたいところなので、助かったというのが本音だった。
「くそ、なんだってんだよ」
 何も知らないふりを装うために、毒づきながらホテルの中へと入った。なにか言われるかとも思ったが、どうやらなんとかなったようだ。
 俺は先に入った二人に遅れないようにと、足早にまっすぐの廊下を進み、適当なところで地下にあるホテルのボイラーなどを管理するための施設へ続いているらしい、鉄製の重い常用口の扉を開け中へと入る。そのまま階段を下っていき地下の機械室にきたところで道具を放り出すと、続いてツナギも脱ぎ捨てた。ここならあまり人はこないはずなので、捨て置くのにもちょうどいいだろう。珍しく丸腰での移動になるが構わない。
 このまま機械室を適当に歩き回ってみると、本当に運がよかったらしく、ここは各階の電気系統やその他、管理室といったところの電気制御室であるのがわかった。何百もの小さな明かりのついたスイッチが部屋中に散りばめられ、いくつもの制御盤がそれぞれの階や用途別にわかれた棚に設置されている。
 こいつを利用しないわけにはいかない。俺はすぐに管理室の制御盤のある棚を探しだした。そいつを使って、一時的にコンピュータのシステムをコントロール不能にさせてやるのだ。別にコンピュータを破壊するわけではない。あくまで少しばかしいじってやるだけでいいのだ。
 人の背丈よりは小さい制御盤の棚を少し進んだところ、お目当ての盤はすぐに見つかった。ご丁寧にも、わかりやすくきちんと管理室と書かれたプレートがされてある。制御盤には幾本かのコードが接続されており、そのどれにも横に小さな緑や黄色のライトが点きコードに正常に稼動しているのを教えている。
 俺はそのうちの二本を適当に抜くと、抜かれたコードの横のライトが消えた。
「よし、これでいい」
 頷きながら俺はすぐにそこから移動し、階段の下までやってきた。階段の下は人が一人入れる程度の空間があるため、そこに脱ぎ散らかしたツナギや道具をしまい自分もそこに隠れる。おそらく、いや間違いなく異変に気付いた連中がここにくるはずなので、そいつらをノして変装することにしたのだ。
 しばらくそこで息を潜めていると、上の扉が重々しく開く音がして男の声が響いてきた。それも二人だ。声の感じからまだ若く、おそらく二十代といったところだろうか。その二人が、こんな人気のないところに送られてきたことに愚痴を言い合いながら、階段を降りてくる。
「ったく、勘弁してほしいよ、全く。こんな忙しいときにシステムエラーだなんて」
「全くだな。上の人使いの荒さ、どうにかしてほしいよな」
 どうもホテルの従業員らしい二人が下につくと、今しがた俺が引き抜いた制御盤のところにいき、そこでもまた愚痴をいいだした。
「なんだよ、コードが抜けてんじゃん」
「マジで? 本当だ。なんだって抜けてんだよ……」
 やれやれとため息をつきながらも二人はコードを着け直し、イヤーモニターで上の連中と正常になったかどうかを確認している。一人が頷いたところで動き出したのをみると、どうやら合っていたようだ。
 俺が動くのはここからだ。暗い制御室の影になった場所に、まさか他の誰かがいようなどとは微塵にも思っていない二人に、俺は足音は当然、気配も消して近づくと、二人に当て身を食らわせて気絶させる。その一瞬の衝撃に、二人は何をされたのか気づくことはないだろう。
「悪いが、貸してもらうぜ」
 もう気を失った二人にそういい、俺は二人の着ている服を脱がし始め、自分にあったサイズを見繕っていく。二人とも若干俺よりもサイズが小さめだが、まぁ、この際は仕方ない。Tシャツを脱ぎ二人のうち小さめのやつの制服を着て、ズボンは大きめのほうのものを拝借した。どうやら後者は足が長いらしく、俺が穿いてもちょうど良いサイズだ。
 両者のネームプレートを奪うと、他になにか必要になりそうな鍵の束やカードキーなんかをとると、腕を後ろ手に縛る。そしてイヤーモニターを耳につけ、制御室を出た。とりあえず潜入することができたところで、ホテルの中を軽く見て回るついでにターゲットの面を拝むことにしようか。
 作業員たちがちらほらと姿を見せるホテルの裏から、表の華やかなロビーへと出ると、思っていた以上に豪華な内装をしていた。赤い絨毯が敷き詰められ高い天井から大小のシャンデリアが交互に垂れていて、手を拡げても一人や二人では囲めないほどの太い柱が広い、吹き抜けのロビーに五本も立っている。
 俺がエレベーターのほうへと回ると、すぐにエレベーターが降りてきた。中からの人が出たところで、さっと乗り込むと後ろから六人のドレスアップした客が乗ってきた。乗り込んだ連中は皆、こちらに早くボタンを押せという風な視線を送り、一瞥する。それもそのはずで、今はホテルマンの恰好をしているのだから、俺のことをホテルマンと見ているのは当然なのだ。
 内心やれやれとため息をつきながら、何階か聞くと一様に最上階である二十七階を指定してきたので、そっとその階のボタンと上昇ボタンを押した。
 比較的新しいホテルというだけあってエレベーターの上昇するスピードは早く、ストレスなく、あっという間に最上階にたどり着く。俺はホテルマンらしく自動ドアを閉まらないよう手で止め、客たちを先に出すとすぐにそれに続いた。
 エレベーターから降りた先は、そのままパーティー会場になっていたようでフロア全てがパーティーのために、内装が整えられている。外国からも招待客がいるのか、ちらほらと白や黒、褐色の肌をした者も見受けられ、全ての者が鮮やかなドレスとタイトに決めたタキシードに身を包んでいる。
 それに混じって俺と同じ、給仕のホテルマンやホテルウーマンたちが盆を片手に、飲み物やなんかをピシッとした姿勢のままで歩き客たちに振る舞っている。
 俺は会場の横にある食べ物やなんかがおいてある箇所にいき、そこで銀の盆を手にとって、見様見真似で給仕を気取りながら会場を練り歩く。ターゲットを探していれば、何か別のものが引っかかるに違いないと踏んでいたのだ。
 そうして、すれ違う人間一人一人の顔をさりげなく見ていたとき、良く見知った顔が視界に入ったのに俺は驚いた。それも一人ではなく二人で、どちらも女だ。客としてきているのだろう、見事にドレスアップしていて一瞬、誰かわからなかった。
 しかし両方とも人の影に遮られ、行く手がなくなってしまう。おまけに一瞬でそれらを判断し見分けるため、すぐに見失った。向こうも動いているのだから、それも仕方のないことではあるが。
 どちらを追うか頭で考えるまでもなく、俺はすでに行動を起こしていた。二人がどうしてこんなところにいるのか気になるところではあるが、二人の環境を考えれば、すぐにわかることだし今の俺には大したことではない。とにかく、そんなことは関係なく呼吸するかのごとく、自然と身体が動いていたのだ。
 人垣に邪魔され、なかなかうまく彼女のいたところへ行けない。しかもその間にも他の客は、俺の持つ盆に飲み終わったグラスを置こうとしてくるのだ。そういった連中には一睨みきかせ、とにかく進んだ。
 人垣を超え、ようやく彼女がいたらしいあたりにまでたどり着きはしたものの、残念ながらもうすでに、そこに彼女の姿はない。一瞬だけだったので、もしかすると自分の見間違いかとも考えたがそれはないだろう。あれは絶対に見間違えることはないのは、自分でもどうしようもないほどによく解っているからだ。
「綾子ちゃん……くそ」
 見つけられなかったことに、つい悪態をもらしてしまう。俺が見かけたのは、間違いなく綾子ちゃんだった。薄く微笑をたたえていたけれど、その裏ではどこかぎこちなく感じさせる、そんな表情をしていた。内心では、うんざりしているというのがよくわかる、そんな表情だった。
 けれど、そこで気づく。
(俺は……何をしているんだ)
 ふと、自分のとった行動の浅はかさに冷静になったのだ。自分で彼女とは距離をおくべきだと認識しているはずなのに、どうして彼女を危険に曝すかもしれない行動に出ようというのか。
 馬鹿なことはするべきじゃないと自分に言い聞かせ、ため息を一つ、再び歩きだす。時折、自分がわからなくなることがあり本当に彼女に関しては後々、後悔させられることが多い。その分、きっちりと分別をつけなくてはと考えるのだ。だというなら、はじめっから彼女に近づかなければいいはずなのにと、いつも頭を悩ませる。
 そうして、きっちりと仕事に専念するべきだと頭を切り替えあたりを見回したとき、突然、後ろから左手を引かれる感覚があり、思わず反射的にそれを返す。
「……あんたは」
 引いた手を返したところで振り返りその人物を見ると、俺の手を引いたのは視界に映ったもう一人、藤原真紀だった。
「こんなところで何してるのよ」
「そいつはこっちの台詞だぜ。あんたこそなんだってんだ、その恰好」
「私は……」
 言いかけた真紀は、周囲を目で確認して再び俺の手を引くと、人のあいだを抜けるようにフロアの端にある大きな窓のところにまでやってきた。
「この数ヶ月間、ずっと姿を消していたあなたが、なんで突然こんな場所に現れるのよ。どうやって入ってきたの」
 小声でまくし立てる真紀に、俺は肩をすくめながらいう。その顔には、珍しく驚きの表情を見せている。
「どうもこうもないさ。ただ単に、仕事で潜りこんだだけだ。姿を消していたのは仕事で少しばかしドジ踏んで、仕方なく姿を消してただけさ。
 それであんたは、なんだってこんな場所にきてるんだ」
「もちろん、私も仕事よ。とはいっても付き添いなんだけど」
「付き添い?」
 真紀が頷きながら説明してくれた。どうも今晩の仕事は、パーティーを開いた財界の重鎮を警護するというものらしく、それで仕方なくドレスを着てこんなところにいるという。なんでも相手はビジネス上とても重要な奴だそうで、普段、滅多と人前に姿を見せるような人物ではないそうだ。
 しかし、今回はそういうわけにもいかないらしい。というのも近頃、その人物にとっての重要な人物たちが、立て続けに暗殺されたというのだ。それ以上のことは守秘義務があるので曖昧に真紀は答えたが、その人物のビジネス上の重要人物とやらを葬り去った張本人としては、それだけで十分すぎる情報だ。
 真紀のいう暗殺された連中というのが、間違いなく俺の仕事によるものであることは、いうまでもない。自分が狙われるとわかっていながら公の場に姿を見せたということは、ターゲットにとって暗殺した二人に代わる、新たなビジネスパートナーが必要だということだろう。同時に、その裏にいるというミスター・ベーアにとっても。
 なんであれ、仕事でドジって姿を消したといってしまった手前、あるいは真紀も俺が暗殺した張本人だと気付いた可能性はあるが、今はそいつを実行する気はないのでここは置いておくとしよう。もちろん、もし何かしてきたとしたら話は変わってくるが。
 それにしても、真紀が護衛するのが今晩俺が始末をつけるはずだったターゲットというのには、少々驚いた。つまりこの点から考えても、ターゲットが暗殺者のことを警戒した、もしくはこの数百、千数百の人間がいる会場に、プロが混じっているのは間違いない。すでにこれらの事実を知って真紀、ならびに組織の連中を動員していると見ていい。
 田神がいう罠というのは暗殺者をあぶり出すためだと手紙にあったので、そいつを知っていれば、下手な手をうつことはしない。頭の回転が速い真紀であれば、俺に監視をつけないとは言い切れない。どこまでいっても、この女狐はあくまで俺と同業なのだ。
 それに場合によっては武田の野郎も、俺に監視をつけているかもしれない。ターゲットにとって重要なビジネスパートナーが暗殺されたとなれば、当然護衛をつけないわけはないだろう。となれば、向こうも罠を張っていないとは限らない。それを知って俺が逃げ出さない保証などないので、武田の野郎が監視をここに紛れ込ませていないとは言い切れないのだ。
 かくも味方みたいな言い方をしてはいた奴は、そのために人を陥れるような真似をしたあたり、決して信用できるものではない。二重の監視対象になっている可能性は考慮しておく必要はある。
 つまるところ武田にとって今回で最後ということだから、用がすんだらついでに消す、このパターンだってないわけではないのだ。むしろ奴のとった作戦や行動、おまけにどういったわけか、良くも悪くも特別待遇の俺に対してのことを考えれば、そっちの可能性のほうが高い。この可能性がある以上ここは何も行動せずに、じっと機会を窺うべきだ。
 それだけではない。今回のターゲットが、ミスター・ベーアにほど近い人物である信憑性も高くなったのも確かなことだった。もしかするとターゲット自体が本人そのものである可能性もあるが、暗殺を警戒して何かしらのアクションを起こしえる可能性が限りなく高いことは、間違いないだろう。
「それであなたは今まで一体どこで何をしていたのよ。携帯にも連絡がつかない、アパートにいけば部屋が燃えてる……どう考えたって異常よ」
「だからいったろう、仕事でドジって死にかけてたのさ。変な連中に狙われてたらしくてね。
 それで気付いたらなぜか病院いたんでな、そこでしばらくの間リハビリも兼ねて休養してたってわけさ。ま、俺もまさか部屋が全焼しちまうなんて、さすがに考えもしなかったがな」
 別に嘘ではないが、そう肩をすくめていう俺に真紀は、訝しげな表情を見せている。そいつも仕方ない。普通であれば、まず呼ばれることのない場所で今まで行方をくらましていた奴が突然、姿をみせたというのだから。
「まぁいい。俺にはなんの関係もない話だからな。
 それより、あんた対象の護衛はいいのか。この間にも暗殺者ってのは対象を狙っているかもしれないんだぜ? 俺が暗殺するんであれば、今がチャンス以外のなにものでもない」
「大丈夫よ、他の腕利きに任したから。それより、その様子じゃ暇でしょう? 着替えて私に付き合いなさい」
 真紀がこともなげにいう。それでいいのかと思わずつっこんでしまいたくなるが、まぁいい。狩りにきた張本人がやらないのだから、別にターゲットが死ぬわけじゃない。ある意味では真紀のその判断も間違いではないのだ。
 もしかするとこの女狐のことだから、何かカマをかけるなり、はじめっから俺を疑って行動に移させない配慮からの言葉かもしれない。
「そうするのも悪くないが、いかんせん仕事中なんでね。遠慮しておこう」
 後者を警戒して俺は流し台詞をいうものの、真紀はそんなものはどうとでもなるとほざいてきた。やはり見抜いていると見たほうが良いのではないか……そう勘繰ってしまうほど、真紀は不自然に俺を誘う。
「あら、私と踊るのが嫌なの。前は踊ってくれたじゃない?」
「あれは別に踊りたくて踊ったんじゃぁないぜ。仕事で仕方なく踊っただけだ」
「そう。だったら今度も仕事で仕方なく踊ればいいじゃない。仕事で忍び込んだ先で誘われたとあれば、それは仕事の一部よ。
 それとも私とは踊れない理由でもあるの。この中の誰かを殺さなくてはならないから、とか」
 最後のほうは周囲には聞こえない小声でいった真紀に、俺は思わず眉をひそめそうになるのを堪え、なんのことだと肩をすくめて見せる。
「あら、図星なの。第一、あなたが殺しの理由以外でこんな場所に潜り込むはずもないものね」
「もう一度いうが殺しの依頼なんて知らないね、俺は。それに潜入が必ずしも殺しのためとは限らないぜ」
 確かに任務のため、邪魔するのであれば仕方なくというのは過去にも度々あったことなので、結局は殺しも依頼に入っているのは事実だ。そいつは否定できないが、かといって、必ず残った連中を虐殺してきたわけでもない。
「一線の一殺し屋からいわせてもらえば、誰かを始末するにしたってわざわざこんな人目につく場所じゃぁ殺らないね。リスクがありすぎるってもんだ。俺はそんな危険を冒すほど馬鹿じゃぁない」
 真紀に合わせて俺も小声でいったところ、突然、俺たちに声がかけられた。
「君、藤原くんじゃないかね」
「あら。これはご無沙汰していますわ、渡邉様」
 かけられた声に真紀は振り向くや会釈し、背筋を戻しながら垂れた髪を耳にかける。
 俺たちの前に現れたのは、やや前髪のあたりが白髪になりつつも頭頂部がうっすらと禿げ始めた中肉中背の中年男で、他の部分がまだ黒いだけに禿げ始めた部分が目立っている。腹も貫禄が出始めているところを見ると、運動なんてものはほとんどしていないに違いない。
「先ほど六角先生の側にいたのを見てまさかとは思ったが、やはり。久しぶりだね、元気かな」
「ええ。渡邉様もお変わりなく」
「いやいや。最近は運動不足気味でね、この通りだ」
 渡邉と呼ばれた中年男が自分の体型をネタに笑い、真紀がそれに相槌をうちながら微笑する。どうも真紀とは知り合いのようだが俺としてはそれよりも、この女狐が猫をかぶった薄笑いに対して関心をよせていた。普段を知っているだけに、それがなんとも気色悪く思えてしまい顔が引き攣った。
 しかも六角というのは、今夜俺がターゲットにするはずの男の名で、先生と呼ばれるほど財界の中でもトップに立つべき男なのだと、改めて気づかされる
「ところで、そちらは……」
 そういって中年男は俺のほうへ視線を向けてくる。
「ああ、私の同僚ですわ。給仕の恰好をしておりますけど、今夜のために特別に配置させていただいておりますの」
「おお、なるほど。そういうわけか。相変わらず抜目ないね、藤原くんは」
 恐縮いたしますわなどと、取り繕っている真紀を尻目に、渡邉は一瞬だがこちらをつま先から頭のてっぺんまで、鋭くもどこか上から見るような目で見たのを、俺は見逃さなかった。男が真紀とどういう肩書きで知り合ったのかは知らないが、ずいぶんと人を見下した親父だ。
「そういう渡邉様も、お婿探しでございますか」
「うむ、実はそうなんだよ。この度、娘もようやくその気になってくれてね、挨拶も含めて今皆さん方に声をかけているんだ。来年の春には大学のほうも卒業することになるから、いい加減ね。まぁ、それでも遅いくらいなんだけれども」
「ふふ、あまり強要なさっては娘さんにも悪いのではありませんか」
「いいさ。これまでは自由にしてやっていたのだから、さすがにいい加減、将来のことも考えなくてはならない時期にきてるのだからね。今もいったが、遅すぎるくらいなんだ」
 親父の身勝手な言い分にヘドが出そうになって、思わず何か一言いってやろうとしたが無関係の俺に、わざわざ何かいうのも筋違いもいいところなので、スルーして周囲を見回したとき、その親父の後ろから見知った顔がぎこちなく俯いたまま、ゆっくりと近づいてくるのが視界に映る。
「おお、ちょうど良いところにきたな。いい機会だから藤原くん。紹介しておこう。娘の綾子だ」
 綾子? 渡邉のいった言葉に俺は思わず男に目をやり、すぐにその紹介された彼女のほうへとやった。
「はじめまして。渡邉綾子です」
 目を俯かせたまま彼女は硬い会釈をし、向き直ったその視線をこちらに向ける。すると俺と、互いの目が重なりあった。
「え? 九鬼……さん?」
 まさか、またこんなところで、こんな再会を果たすことになるなんて思いもしなかった俺は、眉をひそめながら目を強く見開いていた。彼女も同様に驚きの表情で、こちらを見ている。
 互いに予期せぬ再会に言葉を失う。つい先ほど、一瞬とはいえ一度は見かけたそのドレス姿は、確かに綾子ちゃんその人だったのだ。




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