いつか見た夢

B&B

第90章


 二台の軍用トラックが闇夜にむかって、ライトを突き刺すように悪路を猛スピードで進んでいた。荷台には、民間人の救出と銘打って出動した兵士たちが肩身を寄せて引き締めあっている。本当ならばヘリで現地まで行き下降するという手段があるはずだったが、不幸なことに彼らにはそんな上等なものなど実装されることはなかった。
 ほとんどの兵士がこれからの実戦に向け緊張した面持ちで、一言も発することはない。が、そんな中でもベテランらしい幾人かは、他愛もない世間話に花を咲かせている。彼らは、どうすれば実戦で普段の訓練の成果を発揮させ、かつ冷静、臨機応変に対応できるのかを知っているのだ。そうでなければ、まだ戦闘経験の浅い兵士たちを纏めることなどできはしないということも。
 先行するトラックの最後部に、珍しく一人の女兵士が座っていた。もちろん、実戦に出る女兵士がけして多くないのは当然だが、それ以上に珍しいのは、彼女が東洋系の顔立ちをしていたということが最も大きな理由だ。
 彼女は上官や先輩兵士たちの言葉などに耳を傾けることなく、じっと、流れる雑木林の闇をの奥へこともなげに見つめている。トラックの荷台の上にある、兵たちを覆い隠すように張り巡らされたシートによって外が見えなくなっているはずなのに、くくりつけが悪かったのか、最後部の出入り口のシートは風にはためいて、わずかな隙間を作っていたのだ。
「君、今日が初めての実戦なんだよな」
 ここまで一言も言葉を発さなかった、彼女の目の前にいる兵士が話しかけた。まだ若い兵士ではあるが、歳は二〇代後半というところで、いくらかの実戦経験があるのは間違いないようだった。もっとも西洋人である彼は、鼻が高く掘りも深い顔立ちから東洋人からすれば少し老けて見えるだけで、実際にはもう何歳か若いかもしれない。彼女はチラリと眼を相手に向けるだけで、なにもいうことはない。
「わかるんだ。初めての実戦に出る人間とそうでない人間って、雰囲気が違うからな」
「……そう」
 彼女もほとんどといっていいほど言葉を発さなかったが、これが緊張によるものではなく、もっと深い部分で意識的に言葉を発していないということを、目の前の兵士は気付いていない。その後も時折話しかけてくる彼に、彼女は小さく頷くだけで、会話らしい会話などほとんどなかった。これから戦地に赴こうというのに気軽に話すという行為が彼女にとって、煩わしいということもあるがそれだけではなかった。
 そろそろ太陽が昇ってこようかという頃だ。二台のトラックは雑木林を抜けてようやく目的の場所に着き、すぐに荷台の兵士たちは飛び降りる。彼女もそれに混じって戦地の泥を踏みしめると、すぐに全員の表情が張り詰めた緊張感に強張った。
「敵はどこに潜んでいるのかわからない。気を引き締めていけ」
 上官の男がチームの兵士たちに鋭く叫ぶ。戦場の舞台となるのは、街からは遠く離れ、車で少なくとも五時間はかかる山間の寂れた村だ。この国に限らず、東欧方面の国々によくみられる白っぽい壁と赤茶色の屋根、そんな伝統的な作りの家屋がところどころに点在し多くの家々に庭というには広すぎる小さな牧場をもっていた。それらを示すように、家々の脇には小さな飼育小屋らしい建屋も見える。
 とりわけ産業と呼べるようなものがない村の住民たちの多くは、静かに放牧などの農業で生計を立てているのがそれらから窺えた。そんな村も通常、昼間の時間帯であれば住民同士の往来もあるはずだが、今は朝早くということもあって人の往来はない。
 しかし、人気が感じられないのはそれだけが理由ではない。いや、正確にはそれが理由ではなかった。老若男女、全ての住民たちがこの村から消えていることが最大の要因だったのだ。そう、この兵士たちは一夜にして消えた住民たちとその原因の調査という名目で、この地に送り込まれたのである。
「思っている以上に酷い。何があったんだ」
「わからない……」
 ベテランの兵士も、そうでない兵士も想像以上のひどい有様に、誰しもが怪訝に眉をひそめる。どう見てもこれらは、戦場となった村や町が戦闘の嵐の後に見せる状況そのものなのだ。けれども、たとえそれらが戦闘によるものだとしても、この村のようにこんな不可解な状況に陥るはずがない。長年戦場の最前線に立ち続けてきた上官の男でさえ、こんな状態の戦場など見たことがなかった。
 家々の壁や屋根は砲撃でもうけたのか、四方一メートル以上はある大きな穴が無数にある。たまたまそこが脆かったのかは不明だが、酷いものいたっては三メートルはあろうかという巨大な穴ができているのだ。だが、どう考えてもこれが砲撃によるものでないことくらいは、新米の兵士にでも理解できるものだった。壁に火薬や摩擦でできるはずの黒ずんだ跡が見られないうえ、なにより爆撃を受けたというのなら、周辺にもっと火の跡があるはずなのに、この現場には一切そういったものが見られないのだ。
 それだけではない。兵士たちを冷静にさせ、かつ得体のしれない不気味な恐怖感にとらわれることになったのは、家畜の動物たちすらいなくなってしまっているためだった。本来なら日の出の頃になろうものなら、鳥たちの囀り声が聞こえてくるはずだ。なのに、それすらも聞こえてこない。聞こえてくるのは、ただ自分たちの歩む足音だけで、本当に廃村になってしまったらしい雰囲気の村に、兵士たちの心の奥底に理屈ではないどうしようもない恐怖心を呼び起こさせる。
 上官の指揮する声のもと、彼らは波状に展開しつつ、壁にできた穴から中を覗きこむ。漠然と予想していた通り、中には争った様子はなく、ここが突然”何か”によって見舞われ、彼らが消えたということを直感的に思わせるものだった。誰も口にはしないが、ここで異常な事態が起こったということだけは間違いないと思いながら、着実に歩を進めていく。
 この中でただ一人、終始冷静でい続けたのは女ひとりだけであった。彼女には、この村に起きた異常事態の原因がわかっていたのだ。むしろ、彼女はこれから先、この部隊の待つ運命を内心で憂いているほどだった。
 部隊が家屋のある村の拓けた中央部を抜けた先は、深い森になっていた。彼らはごくりと喉を動かし、森の中へと足を踏み入れた。そこで、兵士の一人が森の地面を踏みしめたとき、妙に地面がぬかるんでいることに気がついた。拓けたところに、たまたま農場や牧場ができただけで、元はやや湿り気を帯びた地域であるのかとも思った。このあたりの地域であれば、そうした場所も少なくないからだ。
 しかし違った。周りに落ちている木の葉は、踏みしめるたびにぱりぱりと乾いた音がしているのだ。腐葉土に混じって、変にぬかるんだ場所とそうでない場所があることに気付いた彼は、踏み進めるごとにだんだんとぬかるんできたのが不自然に感じられた。そしてそれらのほとんどが腐葉土とは明らかに違うと感じたのだ。
 そしてそれは彼に限らず、他の兵士たちも否応なくその違和感に気付きだした頃、それら腐葉土だと思っていた地面が赤黒く見えることに気がついた。どう考えても異様だった。しかも、森の中でも日の出の前後であったことから、森にも少しずつ陽光が差し込み始めたとき、それがなんであるのか、ようやく兵士たちにもわかったのだ。
 血だ。腐葉土に混じっていたのはただの水分などではない。血なのだ。踏みしめた足を上げブーツのつま先部分と底に目をやれば、赤いものがべっとりとこびりついているではないか。新米の兵士がそれに気付いたとき、彼の口から一瞬の間があったあとに短い悲鳴があがった。その様子を見ていた兵士たちも、自分の踏みしめている足場に視線をやって悲鳴をあげはしなかったものの、驚愕に表情を歪めた。
 誰もが脳裏に思い浮かばせた疑問。これはなんなのだ、この赤いものは……。血だ、血でしかない。では誰のものなのか……。消えた数百人の村人たち、彼らに従えられていったかのように消えた家畜……。つまり、この血は……。森の中には完全に日が昇った太陽の光が照らし出し、部隊の目と鼻の先に、異様な光景を浮かび上がらせた。
「う、うわああああっ」
 戦場になれていない新兵がそれを目の当たりにして、ついに悲鳴の叫び声をあげた。もっとも、それはベテランにしても同じで、悲鳴こそ噛みしめはしたが心境としては同じだった。目の前には、何十という数の人間の死体が折り重なって山のようになっているのだ。山のような死体ではなく字のごとく、死体の山になっているのだ。
 大型の肉食獣に食い散らかされたのか、死体の多くは体の肉付きの良い部分が粗方喰われている。腕や足がなくなっているもの、頭がどこかに消えてしまっているもの、死体の状態は様々だが女の死体は男のものよりも無残で、女の象徴ともいうべき二つの乳房が食いちぎられていて、太ももや尻、男であったなら誰もがそこにむしゃぶりつきたいと考える部分が、喰われてなくなっているのだ。そして誰もが苦悶や恐怖に満ちた表情のままで、部隊の兵士たちを眺めているのだ。
 ところが、死体の山はそれだけではない。山の影になった向こうにも、また同様の山が二つも三つも築かれていた。さすがに、この光景にはベテランであろうとなかろうと、吐き気を催し、幾人かの兵士がその場に蹲って吐瀉物を吐き散らした。
 誰もが思考停止した中、彼らの背後で何かが動く気配があった。部隊の後方にいた兵士たちは異常にいち早く気付き、携帯している銃を背後へ向ける。彼らはここに、自分たちの想像ではとても追いつけないものがあることを知った。目の前に現れた”それ”は、どう見ても自分たちの知る生物の様相をしていないのだ。
 誰もが息を飲む。なんなのだ、こいつは……。誰かがそう口にしていた。だが、その疑問に答えられる者などこの場に一人もいないだろう、彼女以外の誰一人として。
 全身に酷くただれた瘤らしいものがいくつもできでいる”それ”は、どことなくゴリラを思わせる形をしていた。しかし、大きさはゴリラのそれとは比較にならないほど大きく、軽く二倍以上、三倍近くあるかもしれない。手足のバランスは悪く、手だけが異様なほどに長くなっていて、身の丈を超えるほどのリーチを持っている。指は五本だが、体と同様に、それぞれの関節ごとに瘤ができて握ることなど不可能なのではないかと思えるほどに太い。
 それだけでも異様なものだとわかるのに、兵士たちにさらなる悍ましさを与えたのは顔らしい部分だ。目や鼻はただれたみたいに不鮮明な位置にあり、額に片目があるかと思えば、左の頬とこめかみの中間あたりにもう一方の目が存在している。口も右に向かって大きく裂けていて、真ん中あたりからは縦に避けておりT字だ。しかし、それらは、もごもごと咀嚼している様子があり、きちんと口としての役割を果たしている様子なのだ。
 次の瞬間に、部隊の一人がとっさに構えていた銃を発砲した。これを合図に兵士たちは無我夢中で目の前に現れた化け物に向かって、銃による一斉掃射を開始し、同時に後ずさりながらの後退をはじめる。上官やベテランたちの怒声に、新米の兵士たちは喝をいれられて現実に引き戻される。苦しんでいる暇があるなら応戦しろというわけだ。
 誰かが叫ぶ。だが銃などこの化け物には効かなかった。どうも当たったはずの銃弾は、化け物の体を滑るように跳ね返り、間通していくどころか、まるで喰いこんでいく様子がない。それだけじゃない。化け物は部隊の動きに合わせて、ゆっくりとそちらにむかって一歩一歩前進してきているのだ。
 そのうちに弾倉から弾がなくなり、新たに弾倉をこめ直そうとした者が現れたときだ。化け物は地響きをさせながらその兵士のところにまで詰め寄ると、自身の背丈をも超えるリーチの持つ腕でもってこの兵士の胴体を鷲掴みにした。
「ひぃっ!?」
 恐怖の悲鳴をもらした口から、大量の血が吐きだされる。化け物は掴んだ兵士の胴体をリンゴを潰すみたいに簡単に握り潰したのだ。兵士から吐きだされる血の量は半端ではなく、口からだけでなく、鼻や耳、目からも赤い涙となって流れている。もはや胴体の骨という骨は、内臓のあらゆる個所にこなごなになって砕け散って突き刺さり、同時に内臓は圧迫されて潰れてしまったに違いない。
 化け物が握りつぶした兵士を他の兵に向かって思い切り投げつける。何十キロもの重さがある死体が、時速何十キロという速さで投げこまれてぶち当たった兵士は、もはや鉄の塊がぶち当たったような感覚があったろう。勢いそのままに死体の山まで投げだされ、圧迫死したのか、ピクリとも動かなくなった。
 その後は一方的な殺戮の嵐であった。銃など効かない化け物に、兵士たちはただ逃げまどうばかりで、戦おうなどとは毛頭あるはずもなかった。いかにして化け物から生き延びるか、その手段を考えることだけが唯一の逃走手段となる。

 部隊の兵士たちが悲鳴をあげて抵抗する手段も失い、無残にも死んでいった中、一人の兵士が森の中をさまよっていた。もう部隊のことなど頭にはなく、たとえ敵前逃亡という烙印をおされ軍法会議にかけられようとも、あんな化け物相手に殺されるよりは遥かにマシだと考えながら道なき道を走っている。
 彼にはもう装備などない。支給されている銃などの武器は、とっくの昔に手から離れ森の中に捨ててきた。仮にあったとしても全弾撃ちつくし、兵器として使いものにならない武器など意味はない。それでも、支給品のアーミーナイフとは別のサバイバルナイフだけが、彼の気持ちをかすかに安心させる。もう一つ、情報員としての勤務経験もある彼がとっさに撮った、あの化け物の写真も一緒だ。
 どれほどの間森のなかをさ迷っているのか、もう感覚がない。まだ日が高いから、正午前後だろうか。だとすれば、ざっと考えてもう七時間か八時間はさ迷っていることになる。携帯食すら持たない彼には、空腹もまた敵だ。作戦前にいくらか胃に収めてはいたがそれも少量で、ほんの何時間かしかもちはしない。
 何時間も人気のない森の中を方角もわからずさ迷うというのは、想像以上に疲労が蓄積され、精神的にも肉体的にも負担が大きい。おまけに彼には後方から、あの得体のしれない化け物が迫りくるかもしれないという恐怖もある。いってしまえば常に緊張している状態であるため、彼の体力はとっくに限界など過ぎている。日のあるうちに人里に下りていけなければ、遭難は確実、死んでもおかしくない。
 それでも彼が動き続けることができたのは、恐怖からだけではない。彼は意識的に逃げることを選択し、目の前に迫った恐怖を上層部に伝える義務があると判断したのだ。知らずにあんな化け物と出会えば、いくら部隊の何倍もの人員がいたとしても、結果は変わらない。すぐにでも知らせ、軍を総動員してでもあの未知の恐怖を排除する必要があると、彼は考えたのだ。
 数百人の部隊を相手でも、あの化け物なら一体だけでも十分に対抗できるかもしれないが、それでもこの事実を知らせなくては、現場に混乱が招かれては対抗し得る兵力があったとしてもまるで意味をなさないのだ。だから彼は、部隊から離脱することを考えた。部隊の幾人かは自分同様逃げ出していったのを確認したが、あの化け物に捕まらなかったともいえない。
 おそらく部隊は全滅だろう。逃げのびた者が他にいないともいいきれないが、とにかく状況的に見てそう考えたほうが自然だ。しかし部隊に与えられた任務は、住民がいなくなった原因を掴むためだ。それがわかった以上、上に伝える義務がある。なにがなんでも自分だけは逃げのびる以外に、状況を報告できるものはいない。彼はそう判断して、この人気のない鬱蒼とした森の中を一人さ迷っているのだ。
 隆起した岩の上に腐葉土が堆積してできた地面からは、見渡す限り濃いこげ茶色の肌をした樹木とその蒼々とした葉ばかりで、今どこにいるのか彼には見当もつかない。そんな状況にうんざりした彼は、その場にへたり込んだ。地面に腰をつけては、もう立ち上がる気力もなくなろうというものだが、この数時間は小休止すらしていないことを思い出して、五分だけと心中つぶやいた。
 大きな樹を背もたれにすると、背中が想像以上にべっとりと汗に濡れているのがわかる。どうしようもない恐怖にとらわれた証拠なのだ。そのために起こした戦略的撤退。冷静になると、自分が最後に待ち受けているかもしれない運命に想像を巡らせて、先ほどまでとはまた違う嫌な汗が背中から伝っていくのが感覚としてあった。
 五分だけと決めたものの、彼は一向に動く気配がない。五分どころか、すでに一五分以上が経過している。疲労困憊している彼に、五分という時間は実際にはその何倍もの時間に感じられるのだ。あと二分……あと一分……そう心に刻むうちに、五分という時間はあっというまに二〇分を超えた。
 そろそろだ……。閉じていた目を開けて、のろのろと立ちあがったところ、近くでガサリという音がして、彼は反射的にナイフを構えてそちらの方を振り向いた。
「お、おまえは……」
「あなた……生きてたの」
 彼の目の前に現れたのは、意外なことに部隊の紅一点である、東洋人の女だった。彼女もまた装備は途中で捨ててきたのか、銃など持ってはいない。
「どうやってここに……?」
「これ」
 彼のところにまで歩み寄って見せたのは、支給されたものとは違うGPSだった。彼女の私物であるらしいそれを見て、漠然と逃げまどっていた彼の顔がいくらか安堵に緩んだ。GPSが指し示す方角にはどうも、人里があるということがわかったのだ。つまりここまでの逃走経路は、間違っていなかったことになる。
「部隊は、部隊はどうなったかわかるか」
 答えなどわかりきったものだったけれど、彼はそう聞かざるを得なかった。女は無表情に首を振ったことで、答えはやはり全滅したということなのだろう。
 聞けば彼女は、死体の山に身を隠し化け物をやり過ごしたのだという。死臭にまみれた女を嗅ぎ分けることなど、さすがの化け物にも無理だったらしい。部隊の血肉を粗方喰い終えた化け物は、その場からこちらとは反対方向へ去っていった。それを見計らって彼女も自分と同じ方向へ逃げた、そういうことなのだろうと彼は思った。
 他に逃げた者がいたはずだと聞く彼に、女は再び首を振った。そこまではわからないという意味らしい。あるいは化け物が逃走者らを追っていったのかもしれないと思えば、まだ危険がないとはいわないがここまでは距離がある。さしあたり、進む方向さえ間違わなければ問題はないという判断を、無意識にしていたということなのだ。
 その後も二人は三時間ほどかけ、ゴツゴツとした大きな岩を登り下りしながら進んでいくうちに、少しばかり拓けた場所に出た。二人は、どこか人の気配のする雰囲気を悟った。辺りで最も大きな岩に登った彼が見下ろすと、気配のした通り、眼下に人里が見えたのだ。間にはまだ森があり、村までは三〇分ほどの道のりがあるように思われたが、早朝に到着した村に比べるとまだ活気があり、大きい街であることが窺える。
「村だ。あそこで電話を貸してもらおう。GPSに接続してしまえば、軍に情報が送れるはずだ」
「……あそこにはいかないほうがいいわ」
 何を考えているのか、女は男の提案に否定的だった。初めて訪れる場所であるはずなのに、まるであの村のことを知っている風な口ぶりなのだ。怪訝に思いつつも男のほうはそれでも行くべきだとして、彼女を連れていこうとするが女は頑なにそれを拒んだ。同じ部隊の生き残りとして、男として女である彼女を守りたいという無意識の欲求が、彼に拒む彼女を無理やりにでも連れていこうとする決心をつけさせた。
 彼は女の手を掴んで、眼下の村へと引き連れて行くことにしたのだ。普段であれば奥手の彼をそうさせたのが、目の前の女が東洋の神秘を思わせる美女であることが、少なからず行動させた理由かもしれない。同じ恐怖の体験をして、吊り橋効果があった感は否めないだろう。もっとも、今の彼にそれを説明したとしても冷静でない彼は、否定していかもしれないが。
 思った通り、三〇分足らずの行程を一気に突き進んで村に入った彼らは、村の中央部分に建てられた村の建物としては目立つ村役場まで、一目散に駆けこんでいく。途中、黒い戦闘服を身につけた男女二人を目にした村の人々が何事かと目を向けていることなど、今の二人にはどうでも良かった。いや、そう思っているのは彼だけだった。
「すまないが、インターネットを使えないか。あるいは電話だ」
 駆けこんだ彼が受付の窓口にいる初老の男に、まくし立てるように尋ねる。しかし、初老の男は一体なんなのかと茫然としている。
「止めたほうがいいわ」
「さっきから、なんだってそんなに止めるんだ」
 彼女が答えない代わりに、村役場の出入り口のほうから男が答えた。
「それは、私が君たちをテストしたからだ」
「誰だ」
 突然背後からした声に、彼が振り向く。
「そして、おめでとう。君はテストに合格したよ」
 目の前に突然現れた男。口と顎の周りに髭をたくわえた男は、どこの国のものとも知れない軍服を着こんでいて、女と同様に東洋人らしい雰囲気を持っている。だが、それでいて顔目立ちの掘りは深く、どこか白人に見えなくもない不思議な雰囲気だった。
「手駒としては、君でもう十分だな」
 男は一人納得して頷く。彼は一体なんのことだとわめくが、男は全て流して背を向けた。それを合図として、小さな村役場にいた人間たちが不意に彼を取り押さえる。
「お、おいっ、なんなんだ、放せっ」
 気付けば外にいた住人たちも彼を一歩のここから出すつもりはないと、入口を人垣を作ってふさいでいる。異様な光景だった。みな夢遊病者か何かのように歩く足がおぼつかず、目は意思というものを感じさせないのだ。
「な、なんとかしてくれ」
 四肢を何人もの住人たちに押さえつけられている彼は女に向かって叫ぶが、彼女は前と同じ無表情のままでそこからは一切の感情が感じられない。まさか……。彼は今になってようやく気付いた。まさか彼女は、スパイだったというのか……。
「お前はスパイだったのかっ」
 それに答えず女が一歩踏み出して、装備の手袋を外してナイフを取りだした。夢中になって気付かなかったが、ナイフは彼がいつの間にか落していたもので、それを彼女が手に持っている。ナイフを露出した指の表面にそっと立てる。どうやら彼女は自身の指の皮膚を切ろうとしているらしい。
 すっと躊躇うことなくナイフをひいた。きめ細かそうな肌をもった彼女の人差し指に、一筋の赤い線が入って、ぷつぷつと血が溢れだしてくる。女が血の溢れる人差し指を彼に向ける。今の彼には戦場で見なれたはずの鮮血が、どういうわけか妙にグロテスクに感じられて仕方がなかった。
「だから、いったのに……ここには来ないほうがいいって」
 女の口から、まるで憐れみを含んでいるかのような言葉がもれた。人差し指を向けたまま、ゆっくりと彼の前にまで歩み寄ると、指を目と鼻の先まで突き出した。
「な、何をするつもりだ。テストってなんなんだ、手駒とはどういう意味なんだ」
 まだわめきたい一心だった彼の言葉が途中で途切れる。目の前にむけられた指から溢れ出る血が、目の錯覚か、血は止まっているどころか、もう傷口がふさがりつつあるのだ。
「そ、そんな、こんなに早く……」
 彼のつぶやきに女の目が細まる。そして血に染まった指を、静かに彼の口へと押しつけた。



 バラバラとローター音がうるさく響いている。輸送用のヘリから見える空の景色から、機体が低空飛行になりつつあるのがわかる。どうやら目的地へ着こうというところらしい。今俺は、どこから手に入れたのか自衛隊では採用されていないはずの輸送用ヘリコプターの中に、物資という形で乗り込んでいた。いや、物資なのだから、詰め込まれているといったほうが正確かもしれないが。
 ともあれだ。俺はそんな決して広いとはいえないヘリの中で、他に詰め込まれている大きな物資を背に、操縦席のほうに視線をやっていた。やることなど何もないというのもあるが、それ以上に何かやりたいという気にならないというのが一番の理由だ。まぁ、連中も俺を殺そうとしているわけでもないから、今のあいだはゆっくりさせてもらうに限る。そのうち時が経てば動かなくてはならなくなる。
「そろそろだぜ」
 操縦席にの男が叫ぶ。いわれるまでもなく、機体は着陸する地点へ向けて降下していくのが体感としてわかる。ホバリングする機体がわずかに揺れ、ヘリの中で地べたに座り込んでいた俺に着陸する衝撃が伝わった。
 間入れずに機体の後部が開き、輸送物資を運びだそうとして戦闘服を着込んだ連中がヘリの中へとなだれこんでくる。いくら物資として輸送された身でも、連中に運んでもらう趣味などない。数時間もの飛行で疲れた身体をならすため、背伸びしながら運びだし連中に混じって機体から降りた。
 降り立った先は、簡易の基地といった雰囲気のある場所で、視界に映るだけでも何十人といわずに人員がうごめいている。ここにいる連中全員がたった一人の人間のもとに、自ら志願して集まった者しかいないというのはなかなかに驚きだ。武田が持つ人望の一端を窺い知れるというものだが、この場で唯一、武田の敵といわざるを得ない俺にとっては、一言、全くご苦労なことだとしか思えない。
 自分のために生きることを望む俺が、その力を誰かのために使うというのはどうにも腹立たしく感じて仕方ないのだ。誰かのために行動する。この言葉がどうにも偽善でしか思えない。見知らぬ人間のために何かしたいというのは、自己満足ですらなく、傲慢といったほうが正しいのではないか。だってそうだろう。人間、自身の行動の根底になにがあるのかと突き詰めて考えたとき、結局は自分のためというところに突き当たる。
 自身の都合のために計算したり、誰かと誰かを天秤にかけたり、もしくは自身の望むべきものを手に入れたいと考えたとき。もちろん、他にもいくらだってあるだろうが、結果は同じだ。何年も前から叫ばれている地球のために、などという地球温暖化対策として空気中の二酸化炭素を減らそうだとか、これらに至っては、馬鹿馬鹿しくなるくらいに自分の、自分たち人間のための最たるだろう。
 別に、人間が自分たちの吐きだしてきたもののツケを払って絶滅することになったとしても、地球が滅ぶわけではない。世界中にある核兵器を同時に爆発させて地球が死の星になったとしても、他の生物は残念ながら人間と道連れになるが、地球がなくなるわけではないのだ。
 そう、地球のためだなんていうのは、ただの詭弁だ。もちろん、俺とて地球の破壊をしたいわけでもなければ、この世から全ての人間を排除したいと思っているわけでもないので、やりたいと思うのであれば勝手にすればいいというのが本音だ。自分たちの都合をすり替えていることに、俺はどうしようもない苛立ちを感じるのだ。
 単純に考えれば、地球が滅ぶ前に、人間などとうの昔に滅びていることだろう。これと同じで、俺にとっては自分の力を無償で誰かのために使うなど、最も唾棄すべき行為の一つだといっていい。成り行き上仕方なかったことはあれど、自身の行動になんのおまけもつかないなど、毛の先ほども動かす気にはなれないのだ。 そんなわけで今ここにいる連中を、随分と暇なものなのだなと冷めた目で眺めていた。
 それ以上に気になったのはこの連中がここに集まった経緯などではなく、どういう理由で集められたか、だ。連中の動きを見ると、どう見ても素人であるとは思えず、着ている服とその着こなしから歩き方一つとっても、明らかになんらかの訓練を受けていることが窺えるのだ。もちろん、この場に置かれた、あらゆる備品も自衛隊のものらしいものは当然、日本にはない外国製ものまで様々なのだから、そう思うのは当然だろう。
  武田という男はどうも、田神とある意味で似ている気がしてならない。どこか得体が知れないという点では、間違いなく共通しているといっていいだろう。もっとも、武田の奴は必ずこの手で地獄に突き落としてやるつもりではあるが。
 俺はそのことを改めて心に、一歩踏み出した。武田のことはいずれ始末をつけるにしても、それは今ではない。今はどうにかして、奴に付け入る隙を与えなくてはならないのだ。
 真正面に見えるのはもっとも大きな天幕で、連中のボスである武田がなりを潜めているらしい。天幕の入口には普通であれば見張り人員が配置されているはずなのだが、どうしたことなのか、全くもってそれらしい人員の姿はない。こうするのが当たり前とでもいわんばかりだ。ともあれ、誰も張っていないというのならわざわざ気にする必要もない。
 俺はさっさと天幕の中へと入った。ごちゃごちゃと必要物資が置かれているかと思っていた天幕は、予想に反して思いのほかすっきりとした印象だった。それでも、必要とする電気を確保するための発電機のコードから、なにかを映すためかと思われるスライド式映写機などが置かれた机といった、作戦上必要最低限のものだけはある。
「きたか」
「ああ、きてやったぜ」
 俺が入ったというのに見向きもしない男は、間をおいてそういった。こちらも腕組みをし、すかさずそう言い放つと目を落している机から顔をあげた男……武田だ。簡易の組み立て式の机のうえには数冊の本が置かれていて、その中の一冊を手に、読みふけっていたということらしい。
「君にはしてやられそうになったな。まさか、我々を裏切るとは」
「けっ、そいつを始めから読んでいて別動隊を用意しているような、手際の良さを発揮しているあんたほどじゃぁないがな」
 ああいえばこういう。まさしくそんな言葉が当てはまるやりとりに終止符を打ったのは、武田のほうだった。まだ言いたげではあるのがかすかに滲んでいるのが雰囲気からわかるが、それ以上に気にかかることがある様子だ。
「……まず聞こう。なぜ命令に逆らって、ターゲットを始末しなかった」
「そんなの聞くまでもないんじゃないのか。どうせ、始末をつけた後で俺を始末する算段があったんだろう? そんな簡単なことを見抜けないほど、俺も馬鹿じゃぁないんでね」
 さらに俺はたたみかけるように、周囲の人間を始末しているというこの男の行動についてもまくし立てた。なぜ、そんな野郎が俺を仲間に引き込もうとしたのか、あの廃工場での入団試験とはなんだったのか、この男の行動にはどうにも矛盾がありすぎる。
「そうだな。一言でいってしまえば、私としては君という男を手元に置いておくのは少々危険だと考えている。できうることなら、排除しておくに限るとね」
 にべもなくそう告げた武田は、俺に落ち着いた表情を向けた。俺がくることを考えて用意していた台詞なんだろうが、本気でそう考えているに違いない、そんな表情だ。
「君は、ミスター・ベーアの組織の一員であるにも関わらず、組織への忠誠など微塵も感じられない。もちろん、上から出された命令にこそ従ってはいるが、命令もされていないのに勝手に動く。島津研究所やその前の鳳凰館、さらには泡金のために行ったヤクザ同士の……佐竹という殺し屋についても同じだ。あるいは、イギリスにいたときのマフィア抗争にすら勝手に首を突っ込んでは場をかき乱している」
「それがどうした」
「君という人間は組織は当然、誰かに仕えようとする気など一切ない。つまり、そんな人間はいつ裏切るかも判らないと上の人間は判断する。末端の現場工作員が上の人間が引く手綱をも食いちぎって脱走したときほど、厄介なことはないのだ。それくらいは君だってわかるだろう」
 要するに武田がいいたいのは、組織や国家の忠誠など持たない殺人機械の俺に、自我を持って行動してもらうのは困るといいたいわけだ。俺はため息混じりに、眉を吊り上げていった。
「別にあのときは、始末つけるにはあまりにも目立つと思ったからやめただけさ。やるにしても、もっと別の形でやりたい。だからやらなかった。それだけだ」
 全く都合よくいってくれるものだがこいつは、俺が失敗し警察に捕まるかもしれないということを想定していたに違いない。存在自体がいるかいないかもあやふやな連中のことを俺が吐いたところで、連中にはなんの実害もないのだ。成功するもよし、失敗するもよし。どう転んでも自分たちにはなんの実害がないからこそ、あんな人目のつく場所をわざわざ選んだに決まっているのだ。まぁ、そのくせ、それよりも目立つやり方で始末をつけたものだとも思うが。
「それに、あんた今、命令といったがな。そいつは勘違いもいいところだと思う。あんたは俺を殺し屋として雇った。それもなかば脅す形でな。だってのに命令だというあんたの言葉には語弊があるというものだぜ。そもそもの俺の立場はあんたの手下ではないぜ。あんたの入団試験とやらにも勝手に参加させられてたんだ。それを忘れてもらっちゃぁ困る」
 腕組みしていう俺に、武田は無表情を貫き通している。以前あったときはどこかの密僧とでもいった雰囲気の装いをしていたが、今はきっちりと戦闘服に着替えている。
「まぁいい。それであんたが俺を、わざわざこんなところに連れてきた理由ってのをいい加減教えてもらいたいね」
 そうなのだ。俺はあのあと、ただ着いてきてという、沙弥佳の言葉に従ってここまできたにすぎないのだ。なぜ、そういったのか、俺には今一つ理解に苦しむ謎めいた言葉も付け足して……。

 思わず息を飲んで、目の前にいる妹の姿を眺めていた。なんと言葉にしていいのか、わからなかった。向こうも俺と同じ心境なのか、一言、久しぶりねといっただけでなにを告げるまでもなくじっとこちらを見つめている。
「沙弥佳……だよな」
「そう」
 情けなくもそんな言葉しかいえなかった俺に、沙弥佳は無感動にいう。目が慣れてきたこともあって、暗がりにいる沙弥佳の表情がうっすらと窺える。言葉と同じく全くの無表情で、切れ長の瞳がこちらを見据えているのがかすかに見分けることができた。
「どうしてこんなところにいるんだ」
 考えなしにいったあとに、何をいっているのかと不快に小さく眉をひそめ、目をそらした。ここでの台詞はこうではないだろう。大丈夫だったか。これは違う。今までどうしてたんだ……これが一番しっくりくる気がしたけども、そんなことをいうにもなにか心に引っかかる。
「いわなくてもわかるでしょ? これが私の仕事だから」
「そうじゃない。そいつはわかっちゃぁいる。俺がいいたいのは……」
「どうして私がこんなことしているのか、そういいたいわけ」
 ほとんど無感動といっていい声は、もはや過去のことなどどうでも良いといった風に思える。けれども、ほとんど、というのはかすかに、かすかにだが感情があるという意味でもある。それもその感情というのは怒りだった。そう、沙弥佳が俺に向ける感情は、怒りなのだ。それも炎のような憤怒の感情ではなく、冷たい……凍えるような冷たさをもった怒りだ。
 思えば沙弥佳が本気で怒ったときというのは冷めた表情をしていたのが思い出されるけども、それにも増してここまでの冷めた感情を見せたことがない。だけに、俺はどうにも困惑してしまっていた。
「それもある。それもあるが……」
「じゃあなに」
 即座に返されて押し黙る。それもあるだって? それ以外になにがあるというんだ。冷たく言い放つ沙弥佳に俺は考えを纏めることができず、いう必要もないことばかり口をついてばかりだ。仕事のときならもっと冷静になれるのに、どうしてこんなときに限って冷静になれないのだ、俺は。
「ここは、ここはどこなんだ。どう見てもオフィスみたいだが……」
 冷静になれずにいる俺は、そんなどうでも良いことを口にした。なにをいっているのだ……そう後悔しても、もう後の祭りだ。
「ここは宮部が所有しているビルの一室。そして彼の経営していた会社」
 簡潔に告げる沙弥佳に、俺は困惑しながらも納得もした。さきほど、ここに連れてこられる際に見た街の風景がどことなく見覚えがあると思ったのは、ここが数日前までドッグについて調べるために張り込んでいた雑居ビルから見ていた風景に似ていたためなのだ。いや、そのものだったのだ。あのときもここに潜入したのが夜だったうえに、階数も違ったために思い出せなかったということなのだろう。
「俺は……俺は、てっきりおまえが死んだかもしれないと思っていたんだ。島津の研究所にいったときに、坂上という男の研究記録にあったんだ。そいつを見つけてな」
 絞りだすように島津で見つけた沙弥佳に関するデータにあったものを、順序もおざなりに口走っていた。客観的に見れば、まるで恋人に言い訳している情けない男のようであったかもしれない。けれども、なにかを口にしていなければ自分の感情を落ち着けることなどできそうになく、果てには関係もないことすら次から次へと口に出していた。
「……そう。だけど、そんなの私には関係ないわ」
 黙って俺の話を聞いていた沙弥佳は、こともなげにそういった。
「私はあなたがどうしていたかなんて興味ない。それよりも、これからは私たちの元で動いてもらうから、そのつもりでいて」
「どういう意味だ、それは。いや、その前に今……」
 告げる俺の言葉を手をあげて遮り、沙弥佳は続ける。
「今はここから移動してもらうわ。アジトの一つとはいえ、ここは仮だから。あとは追って連絡する」
 それだけいうと沙弥佳はすぐにも踵を返し、部屋を出ようと一歩二歩と歩み出す。俺は間抜けにもそれを見逃そうとして我に返ると、歩み出した沙弥佳の手首を掴む。
「待て、待てよ。それはどういう意味なんだ。いや、そんなのはどうでもいい。なんで何もいわないんだっ」
 沙弥佳の手を掴んだ俺は早口にまくし立てる。いう必要もないことまで口走ったあたり、相当気が動転しているのかもしれない。
「……触らないで」
 振り返ることなく、低い声でそう告げる沙弥佳。その声には、かすかにあった怒りの感情が強く滲み出ている。
「沙弥佳」
 俺がそう口にしたとき、掴んでいた手を思い切り振り払われた。
「その名前で呼ばないでっ」
 ネオン街から漏れる光が暗闇のビルの中にかすかに差しこみ、その光が鋭くいった沙弥佳の表情を照らし出していた。眼を細くして俺を射抜いている。
「私、もう沙弥佳じゃないわ。あなたの妹じゃない」
 続けざまに沙弥佳は、こちらが口を開く前に、二度とその名前で呼ばないでと釘刺すと、ぷいっとドアのほうへ向かって歩き出した。なんで、そんなことをいうんだ……。唐突に投げつけられた言葉に衝撃を受けながら、ドアに消えていく妹の後ろ姿を俺は、茫然と見つめていることしかできずにいた。




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