いつか見た夢

B&B

第94章


 静かな夜だった。視界に望めるのはひたすらに暗い夜の海原ばかりで、今は水滴が船をかすかに揺らし、そのしぶく音がするだけだ。この暗黒の海原を望んでいると、昨日までの慌しさがまるで嘘のようだ。
 じっと飽きることなく変わり映えすることのない景色を見つめていたところ、背後に人の気配を感じてにわかに緊張感が走る。しかし警戒することはない。その人物はきっと、昨晩俺と桜井を窮地から救った藤原真紀であろう。
「ここにいたの」
 そういって真紀が問いかけてくる。けれどその響きは言葉とは裏腹に、ずいぶんと無関心さを窺わせる。俺の行動に呆れたからかもしれないが、こんなのはいつものことなので今さら気にするようなことでもない。
「どうにも船っていうのは苦手でね。船室は息が詰まって仕方ないんだ」
「そうね」
 沈黙が降りる。俺はこの沈黙が嫌で操舵室も抜け出して甲板にまで出てきているというのに、この女はお構いなしにもう何度目かもわからない同じ状況を作っては、それを俺が移動してこの沈黙を破るということが続いていた。それも昨日からずっとだ。
 だがこちらとしても、いい加減なにかいいたげなのにいわないもどかしい空気には飽き飽きしていた。これまでと同じように、しかし違うパターンに出て沈黙を破る。
「いい加減こんなのはやめようぜ。なにかいいたいことがあるんだろう。さっさといったらどうなんだ」
 そういいはするが、真紀のいいたいことはほとんど予想できていた。昨晩のことだ。窮地を救ったのはなぜかこの真紀で、なぜこんな東南アジアの海を海賊船を待ち伏せていたのか理解できずにいるのだ。
 しかし一日のあいだ、それもほんの何時間かのあいだで目まぐるしく変化する状況と環境に激しく体力を奪われていた俺は、真紀に満足のいく説明をする暇もなく深い眠りについてしまった。気付いたのは日が落ちる直前だったので、時間的には六、七時間ほど前という具合だ。
 その間真紀とは今のようなもどかしい空気が何度となくあり、その都度どう口裏を合わせるかを考えて、適当にその場をやり過ごしているというわけだ。桜井も起きて二人できちんと話せる状況にもならなかったというのもあるが。ともかく、今はやっとこうして二人だけになれたのだから、存分に話をできる状態になった。
「そうね、そうさせてもらうわ。単刀直入になんであなたがここにいるのか、それが聞きたいわ」
「それについてはあんたのほうが詳しいんじゃぁないのか」
 皮肉げに唇を吊り上げていう俺に、真紀はあくまでもいつものすまし顔をきめたままだ。……ちっ。可愛くない女だ。別に今に始まったわけでないと知ってはいても、鼻でも笑わないノーリアクションにこちらもなんだか気を削がれる気分になる。
 俺はそんな真紀を無視するように話し始めた。だが、気をつけなくてはならない。真紀に助けられたからといって、この女の全てを信じてはいけない。武田がいっていたではないか。俺が動くのと前後して、この東南アジアにミスター・ベーア側からエージェントが送り込まれたということを。
「俺は知り合いからの依頼を受けて、あの海賊船に乗り込む必要があったんだ、船長に聞きたいことがあったんでね。ま、取り逃がしちまったがな。それであんたのほうはどうなんだ」
「私も依頼があったのよ。ミスター・ベーアから直々にね。桜井義人を救出して、渡邉政志の持つ情報を聞き出すことと、今回のためにすでに送り込まれているエージェントの救出。そうしたらどう、あなたがそこから逃げてくるなんて私も最初は混乱したわ」
 そういう真紀は相も変わらず無表情で、全く混乱したなんていう言葉の通りになったのかなんてとても思えない。むしろこの女狐は、はじめからそいつを知っていたんじゃないか……そう思えて仕方ない。武田のいう通りにエージェントが送られたとしたら、遅かれ早かれ俺と邂逅するに違いない。
 となると、この真紀がそうである可能性があるのだ。元々得体の知れないところのある女だから、その可能性は十分に考えうる。かといって、この女がまるきりそうであるというわけでもない。もしかすると、あの朽ちかけた船着き小屋にいた二人がそうである可能性もないとはいえない。
 しかし……仮にあの二人がスパイだったとして、あの時点で俺に実は武田側に潜伏したミスター・ベーア側のスパイだったと告げないのは不自然ではある。俺の顔が組織内で割れているかいないかによっても大きく変わるが、割れていないとすれば、こちらにミスター・ベーアからの使者だと告げておいたほうが後々行動もしやすいものではないのか。
 けれどもあの二人にそういった節は見られなかった。おそらく、二人とも救出に迎えをやるとして、連中の仲間がくる手はずになっていたに違いない。なのに実際に俺たちを助けにきたのはどうしたことなのか、敵対側のエージェントである真紀だった。まるきり矛盾したことに俺は真紀の横顔を眺めながらに考える。
 あるいは別の考え方もある。武田の野郎はあらかじめ東南アジアに派遣していたエージェントからもたらされた情報をもとに、俺を送ることにしたといった。そうはいっていたがこの情報元がどこからもたらされたのか、という点は気にならなくもない。
 武田と落ち合う前に俺はなんの巡り会わせか、ミスター・ベーア本人と会うことになった。そして見せられた、あの奇妙な映像記録。それに武田の得体の知れなさも合わせてだ。これは今にして思えば、暗にこちらを試していたとはいえないだろうか。始めから自分がそうだったのであまり気にしてはいなかったが、ミスター・ベーアもいい加減、ちょこちょこ問題を起こしかねない、あるいはすでに起こしている俺を目障りに思い始めているということはないとはいえない。
 つまり、俺が裏切り者ではないのかと思い始めていないか、ということだ。俺もいい加減、こんな足軽家業などさっさと脱却しようかと思っているところに本人直々に出迎えとなると、それの牽制か監視の意味を含んでいるに決まっている。そんなことはこれまでの仕事でいくらも見てきたことだし、今度はその標的に俺がなったとしてもなんの不思議もない。
 ミスター・ベーアと武田。両者ともに、互いの組織、もしくはそれに準ずるところにエージェントを送り込んでいないとはいえないのだ。いや、これまで二人に会ったことのある数少ない人間の一人であろう俺が見た二人は、間違いなく腹の中に何を飼っているが、予想もできない何かを飼っているという印象があった。むしろ、スパイを互いに送り込んでいるということを前提に考えなかった俺のほうが、今更感さえする体たらくといってもいい。
 だが、こう考えれば合点のいくこともある。少なくとも今回に限っていえば、そう考えたほうがしっくりとくるのだ。武田の情報が本当だとしても、それをミスター・ベーア側のスパイがキャッチし、それを主の元に送ることで本来武田側のエージェントが救出にくるはずが、ミスター・ベーアの意を受けた真紀がいち早く先に姿を現した……この筋書きは憎たらしいくらいに考えうる可能性だった。
 ミスター・ベーアが俺という裏切り者の存在を、まだ気付いてはいないということもないわけではないだろうが、ここまでくると少なくとも裏切り者は存在し、それが誰かと探りを入れている段階にきていると考えて問題はないと考えてよさそうだ。
 となると隣のこの女は救出にきたのは確かかもしれないが、それを見極めるための監視役も兼ねていると見たほうが自然だ。同時に、まだ裏切り者の判断材料には欠けているとも思っているに違いない。もしすでに今回の作戦に現れるエージェントが裏切り者だというのがわかっていれば、はじめから助ける必要もなかったのだから。
 その点ではまだこちらに分があるらしい。真紀が監視役であるという足枷はついてしまったが、それでも桜井は確保できたのだし、その上真紀から組織側の欲しい情報すら横から掻っ攫うことすらできるかもしれない。危険な賭けだが、こうなった以上はやらないわけにもいかないのだ。なんにしてもしばらくは、真紀とともに行動したほうが身のためなのは間違いない。



 真夏の太陽が容赦なく照りつける中、眼下には見ているこちらのほうが暑くなるようなワイシャツを着込んだ男たちが、みな足早に歩いている様子が見える。目と鼻の先にはこの国の一大商業地区の高層ビルが所狭しと立ち並び、彼らもまた、そこへ向かっているのだ。
 数日前に、真紀に連れられる形でこのシンガポールに到着した俺と桜井は、そのまますでにアジトの一つとして予約しておいたらしい高級ホテルの一室にやってきた。シンガポールという国は、まっさらな白が基調となっているらしく、どこもかしこも建物の壁に白ばかりが目をつく。この部屋もその例に漏れず、天井から壁まで全て白に塗り固められていて、視界が白っぽく感じて仕方ない。
 さすがにあの高層ビル群はそういうわけにはいかなかったようだが、そこまで伸びる通り沿いの建物にはやはり白が所々に見えた。真夏の暑さに白が際立ち、余計に暑く感じるのは俺だけだろうか。まぁ、ここに入植者が訪れるようになるまでは密林のジャングルだったわけだから、真夏の熱さをより強調するジャングルを切り拓いて、あえて人工的な白をいれることでその暑苦しさや圧倒的な大自然の恐怖から身を守ろうとした先人たちの知恵が、白を基調にした理由なのかもしれない。
 だとしてもこんな暑い中、全くご苦労なことだ。俺はそんな男たちを尻目に、左手に持ったウィスキーグラスを口にやり、一気に流し込む。ぬるい液体は粘膜に触れた途端、灼熱の熱さを持って食道を流れ落ちていき、俺は小さく息をついた。
 そこで背後から聞き馴染んだ声がして振り向く。
「こんな朝からお酒だなんて信じられないわ」
「別にまだ時間じゃぁないんだからかまわんだろう。それで」
 呆れ気味にため息をついた真紀にとって、仕事の前になるかもしれないのに酒を飲むこと自体に呆れているのだろうが、いつものことだからあれこれ指図される覚えもない。そんな俺に促され真紀も深くは追求しなかった。
「いっていたように、今夜決行よ。準備はしておいて」
 無言で頷いた俺は開け放たれている窓の手すりに肘をかけ、持ち物の準備とチェックをし始めた真紀を流し見る。準備などすでにできている。油断はできない状況でこの数日のあいだ、真紀と一緒に行動をしてきたがこれまでのところ、まだ不審な動きは見せていない。
 その反面で二日前の夜、閉じこもっているのは嫌だと適当に夜の繁華街をぶらりと出歩いた。真紀の動きを監視する目的で、それとなく誘ってみようと思ったがやめておいた。今までこの女を誘ったことがない俺がここにきて誘うなど、逆に怪しまれかねない。そこで俺は深夜まで適当なバーやクラブを飲み歩いたのだ。
 当然ながらそんなのはカムフラージュで、目的は作戦後の逃走経路を作っておくことだった。いい加減ミスター・ベーアや武田の足軽家業から脱却したいと考えている俺にとって、今回の作戦が両者を出し抜くことのできるチャンスが訪れたのだ。
 あまりに急な事態になったのには理由があった。真紀から救出されて一日経った船の中で、気を失っていた桜井が目を覚ましたところで俺が桜井がボートで言いかけたことの続きを聞き、そうせざるを得なくなったのである。今一度、桜井が告げたことを思い出してまたグラスに口をつけた。
「さて、一応聞いておこうか。あんたが海賊に拉致された理由である、政志のやつがどんな契約を交わしたのか」
「……多分、三週間くらい前のことだったと思う」
 二週間近い拉致監禁生活で、正確な日時など覚えていない桜井は、思い出すようにとつとつと話し始めた。
「私と渡邉社長は取引契約のためにシンガポールを訪れた。そのときはまさか、自分がこんな目に遭うだなんて思いもしなかったが……空港に着いたところで先方の使いの者が待っていて、彼の運転する車に乗って早速予約してあったらしいホテルまでいったよ。その場はとても契約を取るための場とは思えないほどアットホームな雰囲気で、なかば形骸化している感すらしたほどさ。
 そして翌朝のことだった。そのままホテルに泊まった私たちは、前日に親睦を深める意味合いで昼食に誘われたので先方の使いを待っていた。ところが、その使いの者はいつまで経ってもホテルに来なかったんだ。はじめのうちは向こうから誘っておきながら礼儀知らずだなんだと社長も怒っていたよ。だが」
「向こうにそれどころじゃぁない、なにかが起こっていた」
 桜井の言葉を聞くまでもなくそういった俺に、桜井が頷く。
「その通りだよ。さすがになにかあってもいけないと、向こうに連絡をとったが繋がらない。いや、繋がらないといってもコール音すらなかったというわけじゃない。電話にでる秘書が、いつまでも向こうの社長が外出中だということばかりしかいわなかった。
 だがすぐにそれは嘘で、そこにいるんだということはわかった。もちろん最初こそ、もう会社を出て社長自らが出向くのかとも思ったがそうじゃない。彼らは」
「死んだ。殺されたんだ」
 再びそう告げると、やはり桜井はもう一度頷いた。その直後、電話の向こうから聞こえた悲鳴に、ただならぬことが起きていることを悟った桜井と政志は、すぐにホテルを離れることにしたという。日本人にしてはなかなかに迅速な行動といってもいいだろう。やはり一年の大半を海外で過ごすという政志にとっては、こうしたこともまた、あらかじめ考えられていたのかもしれない。
「ホテルを出たところ、社長が唐突に大使館にいくといって別行動をとることになった。危険なことが起きている、そう思っての行動だったはずなのに、単独で大使館にいくという社長の考えに私は賛同しかねたが、それよりも私にも話した契約の内容が重要なので、念のために船を使ってこの国を出るよう指示された。
 そうまでいわれればこちらとしては、もうなにも言い返せないのでそうすることにしたよ。しかし港にいって船に乗ろうとしたとき、あと少しだけ社長を待ってみようと思った。思ったが……それが間違いだったんだろう。待っていると、突然、いかにも堅気ではない恰好をした男たちにかこまれた。あとは前にも話した通りだ」
「なるほど、経緯はわかった。それでその契約の中身は」
 さすがにそこで桜井も一度は口を閉ざしかけたが、ここまでいったのだからと諦めもついたのか、また口を開く。
「君は、わが社がどんなものを商売にしていると思う」
 桜井はどれほど俺が知っているのか試すような言い方をして、こちらの反応をうかがっている。嘗めた野郎だ。もしこちらが知らなければ、そのままお茶を濁そうとしているのだ。だがそういうわけにはいかない。
「最初に断っておくが、適当にいおうとしたって無駄だぜ。もし会社のためという大儀のために嘘をついたって、どうせ後でわかるんだから今いっておいたほうが身のためだ。俺としても、できればわざわざ海賊船から救い出したやつの始末はつけたかないんでね。
 確か、工作機械の製造と販売に始まって、現在ではそれらのノウハウを生かしてエネルギー産業界へ参入。その背景には政志の妻である麻里子の存在がある。麻里子の父が政界にも影響を及ぼすほどの大物投資家だからだ。こうして、さらに渡邉産業は海外に進出することができた、そうだろう」
「……そうだ。特にエネルギー産業界はまだ未知数といっても過言ではないから、昨今も革新的な技術が多数生まれているのが現状なんだ。今回も、その技術をこのシンガポールに売りに出そうというのが今回の目的だった」
「つまるところ、その技術はあんたらの新商品ってわけだ」
「そういうことになる。しかも相手は大口の取引相手だ。これにうまく乗じることができれば、我が社の利益は鰻上りにあがっていくのも間違いなかった」
 過去形の言い方に強い感情の乱れを感じた俺は、そうもいかなかったというのがすぐに感じとれた。桜井は……いや、もっといえば政志がその翌日に、何者かの妨害を受けることになったわけだ。
「社長は私にいったよ。今回の取引は、わが社にとんでもない利益が生まれるかもしれないとね。だが、どんな事業なのか聞いてみれば、社長はとんでもないことをいい出した。あまりに突拍子もない言葉だったので、真剣にこの人はどうかしてしまったんじゃないのかと思ったくらいさ」
「前置きはいい。さっさといいな」
「……わかったよ、頼むからそんなに睨まないでくれよ。社長は、どうやら本気でタイムマシンの製造に関わっていくつもりらしい」
「タイムマシン」
 今年に入ってからというもの、やけにこの単語を耳にすることになった気がするのは、決して気のせいではないだろう。そのせいもあってか、桜井の言葉を聞いたとき、あまり驚きはなかった。対して桜井は、なかば呆れ顔になって笑みを浮かべている。これが当然の反応というものだろう。かくいう俺自身も似たようなものなのだ。
 それでも桜井ほど突拍子もない話だとも思えなくなっているのは、確実にミスター・ベーアや武田の闘争の背景にあるものでもあるのだ。あの二人がどこまで本気にしているのかは知らないが、これだけは確実にいえる。両者とも、どうやらそれらが可能であるということを本気で信じている節があるのだ。
 そしてここで、またもや件のタイムマシンときた。一体どれだけの人間が、その夢の乗り物の存在を本気で信じているのだろう。もちろん、俺とてそんなものがあるのだとすれば、全く気にならないといえば嘘になる。だとしても、それは実現不可能だからこそ、夢や憧れであるものではないのか。だが、そいつを本気で作り実現させようとする二つの勢力があるということが、実は夢物語でないということを意味しているのではないのか……そんな気になってきて仕方ない。
 けれども変にファンタジーを夢見てしまう自分がいるのもまた確かで、物理や量子のことを詳しく知らない俺にとっては、だからこそ実現可能なのかとも密かに思ってしまう。いいや、もしかすると俺は、なかば現代を舞台にしたファンタジー世界に足を踏み込んでいるかもしれない。
 思えば、春に訪れた島津の研究所で出会った怪物、ゴメルの存在がそうではないか。機関銃による一斉掃射を浴びていながら、肉塊になることもなく妖怪の百目玉のようになってまで再生し続けようとしたゴメル――あれはまさしく、ファンタジー世界における化物そのものだ。
 オカルトにも決して明るくない俺だけども、熱心な信者や研究者たちによれば魔法も科学も元をたどれば同じだともいう。だとすれば、坂上が生み出したあの怪物は、科学という現代の”魔法”が生み出した、確かに実在する空想上の生物以外の何者でもない。そうだとすれば、タイムトラベルだって可能なのでは――そう考えたとしても決してやぶさかなことではない。
「ただし社長がいうには、タイムマシンはよくありがちな時間を跳躍する乗り物ではなく、装置といったところらしいが。タイムマシン……タイムトラベルにはいくつもの理論が存在していて、残念ながら大半が論破されているのが現状だ。一応は説明を受けたけれど、残念ながら私には理解できなかった。けれども社長は、本気で可能だと考えているらしい。
 社長から聞いた話だが、一九八〇年代にアメリカで、タイムトラベルについての実験が行われたことがあるという。軍主導で行われた実験で、砂漠のど真ん中に研究施設を作って巨大な装置を作り上げたらしい」
「知ってるぜ。結局は失敗に終わったんだ。だが、そこに参加した様々な分野の研究者たちは、そこで得られたデータを用いていくつもの論文を発表してる」
「……知って、いたのか」
 驚く表情をする桜井に含みのある笑みを浮かべ、肩をすくめる。知っているも何も、俺にとってはあまりにタイムリーな話題なのだ。このプロジェクトに、若かりし頃の坂上も参加していたというのは忘れたくても忘れられない事実だった。あの野郎がどんな内容の実験をしていたのかは知らないが、その集大成の一つとしてあのゴメルという怪物を生み出したという事実は記憶に新しい。
 聞けばその実験施設自体は、アメリカの将来を二分するかもしれないという非常に重要なポジションに置かれていたらしく、失敗に終わったとき被った損失は、それだけで小国ならば一夜にして国の経済が傾いてしまうほどの額だったというから、よほどのことだったんだろう。
 桜井の話はこれまでの経緯から、俺にとっては一聴の価値があるものだった。そもそも、タイムトラベルの理論自体は実に二〇世紀もかなり早い時期からあるものらしく、理論の体系化される以前の一九世紀にはすでにタイムマシンを用いた、そのものずばり『タイム・マシン』というSF小説が存在するくらいだ。俺自身何年も前に、この作品を映画として見た記憶がある。
 施設の設立時期は不明で、同じアメリカ内にすでに存在していたフェミニ国立加速研究所という施設と競い合う意味と、同時に一方が失敗したときの保険をかけてのことだったというのが大筋な見方だという。フェミニ国立加速研究所の設立が一九六七年なので、少なくともこれよりは後の設立ということになる。
 違うのは、これが国家の、さらには軍主導であったことだ。結局は国益に使用されるという点ではフェミニ研究所にしても同じだけども、軍が主導するとなると当然、そこには軍使用という目的が絡んでくる。軍主導だからといって、全ての軍人がそれらを利用したいとは思わないだろうが、それを何かしら利用してみたいと思う輩が存在するのもまた然りだろう。当時、研究自体はフェミニ、さらには欧州原子核研究機構などよりも進んでいたというから、そこらへんはさすがに軍主導といったところか。
 しかし、あるときこの研究施設が突如として凍結されることとなる。理由は以前から何度も聞いている通り、実験自体の失敗だった。失敗した理由が、軍の先走った結果主義によるものであるらしいということまでしか、政志は桜井にはいわなかったようだった。
「君はすでに知っているようだが、このプロジェクトには本当に様々な人間が大なり小なり関わっている。アメリカ軍主導とはいえ、当時バブル経済の真っ只中だった日本人もこれに加担していないわけではない。我が社もプロジェクトに使われた機械の製作に携わっているんだ。
 社長はどうも、実験の失敗した理由を知っているような節がある。確証はないが、何かいいかけたところを自身でいい止めていたので、多分間違いない」
「で、そいつがどんな風に今回の一件に絡んでくるんだ」
「……簡単な話さ。社長は再び、失敗したかつての実験を再現しようとしてるんだ。今度は成功させる意味での再現だ」
「そのためにわざわざシンガポールを選んだのか」
「いや、シンガポールを選んだのは布石に過ぎないよ。必要だったから選ばれただけなんだ。
 実験自体は……日本国内で行うか、それとも海外で行うか意見が割れていたらしい。結局は多少コストがかかったとしても、国内の優秀な研究者たちが集まりやすいという理由で国内で行われることが決まったという。社長がいうには、それだけの理由ではなかったそうだが。ともかくそういうことになった。それが始まったのが今から大よそ一三年ほど前の話だ。
 しかしだ。ちょうど半年ほど前に、突然それが中止になった。詳しい理由は話してもらえなかったけれど、N市で起こった政治家の真田暗殺事件が関係しているという話だったよ。多分、彼が大きく関係していたんだろう。暗殺のニュースを聞いたとき、やけに動揺していたから。それからさ、社長がすぐに東南アジアに事業を展開するといい出したのは。当時の説明では、今伸びてきている東南アジア諸国になら十分にビジネスチャンスがあるからだということだったがね」
 納得のいく説明に俺は小さいながら力強く頷いた。さらに桜井によれば、シンガポールが選ばれたのは東南アジア経済の重要な立場にあるためだという。確かにシンガポールはイギリス連邦の一ヶ国として、治安も比較的落ち着いているうえ、貿易が経済を支えているので物資の輸送についても行いやすい。
 それだけではない。ここで武田のいっていた、水という資源が浮上してくる。政志たちは海水を濾過ろかして真水にする技術と、東南アジア特有の湿った空気を取り込んで水へと液化させる技術といった様々な技術を売り込み利益を上げることで、運営費も稼げるという算段だったのだ。シンガポールにしても水を確保できるうえ、その副産物としてエネルギーも確保できるという一石二鳥であるなら、乗らない手はないというわけだ。
 さらにシンガポールは発展が著しい国の一つでもあるので、そこに投資する投資家も一儲けできるというカラクリになっているのだろう。おまけに、日本と違って人件費も安いとあれば、互いに悪い話ではないというわけだ。全く、実の娘を放っておいて年がら年中仕事ばかりしている政志らしい。
 それだけでなく、政志はこの国の経済産業省に強いパイプを持っているという点も挙げられる。つまるところ、この話はシンガポールが国を挙げての一大プロジェクトとして推進していることになるのだ。一国の一大プロジェクトとなれば、そこには潤沢な資金も集まりやすい。それでいて、コストという点についても日本などの先進国で行うよりもはるかに安くつくわけだから、商売人としてあまりに旨味のある話というわけだ。国家プロジェクトになるのだから、そうそう中止になることもないという安定性もある。
 そして桜井の話した実験というのが、N市のTビルで行われていた実験のことだというのはすぐにわかった。そのときは裏にそんなことがあったなど、知りもしないで作戦を決行したのだった。
 こうして全体の輪郭が掴めてくると、なぜ真田が暗殺されたのかもおのずと見えてくるというものだ。奴は武田とミスター・ベーア、両者からすれば中立的な立場だったのだ。しかし、その真田と政志の奴は手を組んでいた、そう考えていいだろう。
 とはいえ手を組んでいたというと少し語弊があるかもしれない。桜井がいった意見が割れたというのは、おそらくはタイムマシンの製造を本気で信じる者たちのことではないのだろうか。そこに真田は当然、政志やミスター・ベーアもいただろう。ミスター・ベーアは代理人をよこしていただけかもしれないが、とにかく状況としてはそんなところだろう。先のアメリカのプロジェクトに様々な国の様々な人間が関わったというのだから、ありとあらゆる業界から必要とあれば集められているはずなのは、容易に想像できる。
 この場合、真田は国内で行おうとしていた一派に対し、政志は国外でそれを行おうとした一派だったと考えるべきだろう。真田のほうは奇しくも俺たちと、当時武田の配下だったエリナたちが争ったことで計画が頓挫した。おそらく真田はミスター・ベーアに対し、その情報の隠蔽をしようとしていたのだ。これが真紀にマウスと呼ばせたものの正体だ。これまでの経過からの推測も混じってはいるが、大まかには合っているだろう。だからこそ、わざわざあの日、俺と田神と真紀の三人がTビルにまで潜入しなければならなかったのだ。
 あるいは、武田側に真田の行っている実験の内容が漏れていて、それを狙う武田の侵攻に対抗するために俺たちは送り込まれたのかもしれない。同時に、隠蔽しようとしていた真田の実験の進捗具合も知るために、あのマウスと呼ばれたデータの情報も手に入れるためだ。
 そんな具合で中止になってしまった実験の再開のために、ミスター・ベーアは政志の主張する実験の海外移転に乗ることにしたのだろう。少し前にホテルのパーティに、ミスター・ベーアが現れるかもしれないという武田の情報に乗ってホテルに単身乗り込んだことがあったが、その場でこの密約が取り交わされたと考えつくのは想像に難くない。全く政志という男は、つくづく取り入ることが上手い男ではないか。ここまでくると、なかば尊敬の念すら覚えるほどだ。
「そして、シンガポールの海上とその近くの陸に海水を汲み上げて真水へと転換するための施設を造るため、今回このシンガポールにまで訪れたんだ。建設にどれだけの資金と時間ががかかろうとも、社長はそれを惜しまないともいっていた。それに見合うだけの見返りがあるからだと」
 つまりこの施設が桜井の話す技術を提供するためというのも本当であるが、それはあくまで表向きの理由でしかないのだ。真の目的は真田の実験を引き継いで、今度こそタイムトラベルを成功させるためというわけだ。なるほど。それで武田は、この施設建造を中止にさせるためにエージェントを送り込んだというわけか。
 しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。一連の流れは理解できたが、それならなぜ桜井は拉致されたのか。もちろん、桜井が政志の秘書であり、契約の中身すら知っているからというのはわかる。だからといって、わざわざ桜井を拉致した理由がいまいち腑に落ちない。
 例の海賊の船長が乗組員と船を捨てて逃げたことが疑問だった俺は、野郎がはじめから潜入者の存在を知っていたとのではないかと考えている。そこから考えれば、わざわざ桜井を拉致する必要性がないように思われるのだ。正直なところ、それほど重要なことならば俺だったら、素直に政志のほうを拉致したほうが早いと思うのだ。なんせ奴は真田やミスター・ベーアの代理人とも顔見知りなわけだし、政志を拉致しておいたほうが色々と有益なはずだ。
 政志や桜井たちの取引相手が先に襲撃されたのも、どう考えてもこうした一連の出来事を知った人物か、知っている人物の手先がそれらを見越してのことだろう。こう考えれば、桜井だけを拉致して逃げるというのはどうも理にかなっていない気がしてならない。全体ではほぼ完成しているのに、良く見れば全く違う別のピースがはめ込まれたパズルのようで、どこか納得できないでいる。どこか……どこかでなにかを見落としていないか。そんな気になってどうしようもなかった。
「それと社長は、今回の取引が成功したらすぐにもエージェントがくることになるともいっていたよ。私にすら話を通さないほどのことなのかと、勘ぐってしまったけれども」
「おい。すぐにもというのは、具体的にはいつになるんだ」
 桜井の言葉を聞いて俺は目の色を変えてそういった。あまりに突発的なことだったため、少し冷静さを失っていた。
「わ、わからんよ。ただ、そういったのはそれこそ取引のあった日の晩のことだから、もうこっちにきてるんじゃないか? もしかすると、私がこんなことになって延期されていないともいい切れないから、そうなっていればまだきていないかもしれない」
 前置きしたように、本当にどんな状況になっているのかわからないということか。なんにしても、あまりに俺にとって不利な状況になっているのは確実だ。話に聞いてはいたが、ここまで不確定だと予測がつきにくいため、動くにしても下手な動きはできないのだ。
 状況を推察するには真紀がここにいることがそれを証明できる、唯一の状況証拠ということになるけども、真紀が監視する目的でいるとしてもすでにエージェントと出会った後か前かで、全く状況が変わってくる。つまるところ、真紀の存在がどちらにもとれる状態であるならそれも意味はない。
 となるとシンガポールに着き次第、すぐにも手を打っておかなければ本当に危険な状況に追い込まれかねないということになる。もっとも、すぐにも真紀が俺に銃口を向けてきていないという保障もないが。
 こんな理由から俺は、シンガポールに着いたその日から早速行動に移ったのである。はじめは観光客を装って、あまり観るところのないシンガポールの街をぐるりと巡って、それとなく下見をしたりするなどして一日をつぶした。翌日は、夜に歓楽街を歩いていかにも怪しげな雰囲気のバーを見つけ、案の定そこで運ぶのならどんな危険なものでも運ぶという、その筋にも覚えのある男を紹介してもらうことに成功した。
 さらにその翌日、真紀が例の政志と桜井の取引相手を襲った連中のアジトを突き止め、そこに特攻をかけることになったという次第だった。これには正直なところ、あまり乗り気になれない俺だったが万に一つの可能性も考え、同行しておいたほうがいいかもしれないと真紀に付き合うことにしたわけだ。
「向こうの人数は」
 今夜決行というくらいだから、それくらいのことは抑えてあるに違いない。俺は悟られないよう、さりげなくそう聞いた。
「実行部隊は八名。予備と思われる人員が三名。さらにアジトに連中の司令塔と思われる人物が一人、この仕事場兼住居が連中のアジトということね。全員がプロのようだけど、特殊な訓練を受けた経歴はなさそうだわ。
 これがアジトの見取り図。きちんと目を通しておきなさいよ」
 真紀がこちらに向かって、アジトの見取り図を投げてよこす。けだるげに見取り図をとって、どこから手に入れたのか、そちらのほうが逆に気になる不動産屋の間取り図そのままが印刷されたその見取り図を眺めた。
 近年の急激な経済成長の裏側には当然ながら、そうした裏社会の存在が常に息を潜めるという図式はどこの国においても同じだ。一味のボスはシンガポールではわりと名の知れた悪党で、国内において裏社会では顔が利く存在らしい。急激な経済成長を裏側から支えるには決して生半可なことではできないことから、必然的にこの一味がシンガポール国内における過激武闘派であることは察しもつく。
 真紀がこの連中を襲撃する理由がここにある。武闘派である以上、何者かが一味に武器を横流しにしているはずで、それが誰なのか知る必要がある。そうすれば必然的に政志たちの取引相手を襲撃した理由も、その黒幕もおのずと見えてくるに違いないというわけだ。
 窓際に差し込んでくる暑い日差しに肌を焼かれながら俺は、見取り図から顔をあげてさりげなく視線を忙しなく準備に取り掛かっている真紀にやって考える。だが俺には黒幕が誰かなどは、なかばどうでもよかった。知る必要があるのはそんなことではなく、送り込まれているというエージェントは誰なのか、なのだ。
 政志が建設しようとしている施設なども俺にとってはどうでもいいが、これをめぐってエージェントが動いたとなれば話は別だ。第一、俺はこの施設建造の阻止を目的としているのだ。つまり、一味とは敵の敵は味方といい換えることもできる。
 連中を潰すのは構わないが、この連中を使って取引相手を襲撃させることで施設の建造を阻止することを考えているのが誰かなのかはやはり気にならないことはない。武田が俺をここに送り込んだということは即ち、武田側の工作員は俺だけになるわけで、政志がミスター・ベーア側の人間である以上、この建造を快く思わない別の思惑を持った者がいることになるのだ。
 どうでもいいこととはわかっちゃいても、自分の仕事を有利に進めるうえで、快く思っていない連中を利用しない手はない。そうでもしなければ、とても一人では対処しきれるものではない。そこで俺は今回の襲撃は真紀の一味壊滅を監視する意味でも同行しなくては、不利になると判断したのである。
 万一のために作っておいた逃走の手段も心もとないといえばそうだけども、うまく立ち回っていかないことにはそこまで辿り着くことすら不可能になっていく。生き残れる可能性を少しでも上げるためにも、真紀を欺く必要がますます出てきたことに晴れない気分でため息をもらした。

 一味のアジトは国内でも一番の一等地住宅街の一画で、その一番奥に存在していた。時刻は日付も変わったところで、さすがに国内でも限られた者だけが住むことが許される場所なだけあり、辺りをうろつく者は一人もいない。良くも悪くも”品行方正”な人間が多いのだ。
 周辺の家々は邸宅といってもいい豪奢なものばかりで、こんな圧倒的な人口密度を誇るこの国においては不釣り合いなプライベート・プールを作っているところもあるらしい。縦に住む必要があるシンガポールでそんな贅沢が許されるとは、よほどの金持ちに違いない。
 俺は真紀の運転する車の助手席から、一味のアジトを眺める。本来は真白い色をした壁は人の背よりもやや高く、夜になった今は陽光色のライトに照らされて薄黄みがかったクリーム色になっている。庭からは熱帯気候の国に相応しい椰子の木が植えられていて、その緑がさりげないアクセントを作っていた。
「あれだな。どうやら見張りはいないみたいだぜ」
「気をつけて。アジトの内部設計から判断するに、センサーが取り付けられてあるみたいよ。侵入者があれば、すぐに中の連中に気付かれるわ」
「それで連中は中で踏ん反りがえってるってわけだな」
 皮肉に唇を歪める俺を尻目に真紀は、アジトから少し離れた場所にある邸宅の壁に車を隠すように停めた。
「それじゃぁ手はず通りに」
「了解」
 真紀に手渡されたイヤーモニターを耳につけ、軽い音声のテストをして車から降りた。周音マイクもかねたイヤーモニターで、リアルタイムで真紀にも音声が伝わるような仕組みになっている。これによって、サポートに回る真紀も瞬時に的確なアドバイスができる。
 装備は真紀が組織から調達してきていたものを流用しているため、自分の相性にはあまり合わないかもしれないがここは我慢して、そいつを使うことにする。まだ昼間の熱気が残る中、防弾チョッキを着込んだ背中にはすでにじんわりと汗がにじんでいる。
 来た道を真っ直ぐ進んで適当な路地で迂回し、アジトに向けて足早に路地を抜ける。アジトの白い壁にぴったりと背をつけ、侵入可能な場所を見つけるためにゆっくりとアジトを囲む壁の周りをぐるりと進んだところ、邸宅の裏手を少し過ぎた先の側面から侵入しやすそうな場所を見つけて足を止める。
「屋敷の裏手、西側から侵入するぜ」
『わかったわ』
 塀の上に手をかけて、懸垂の要領でまずは中がどうなっているか確認する。
「あんたの報告通り、見張りはいないな。……案の定といったところか侵入者があったらすぐわかるよう、センサーがいたるところにあるぜ」
『でしょうね。外に見張りをつけないのなら、そうした装置があるのが定石。待って、今ジャミングをかけてみる。向こうに気付かれるかもしれないから、ジャミングをかけられるのはせいぜい三〇秒が限界よ』
「それだけあれば十分さ。警戒しているわりに屋敷の構造はザルみたいだ」
 そうなのだ。邸宅の壁には、小さいながら十分に気をつけさえすれば手や足をかけて二階に上れそうなでっぱりがついているのだ。これではまるで、侵入してくださいといっているようなものではないか。そうしたデザインであることは窺えるのだが、その事実が建物の構造にまでは気配りが及ばなかったともいえる。
 ともあれ、これを見逃さない手はない。俺は真紀からの合図があった直後、勢いよく塀を上って敷地に侵入する。着地した足元にセンサーがあった。灯台下暗しとはこのことで、こんなすぐ近くにセンサーがあるとは思わなかった。しかしセンサーは反応する気配はなく、ジャミングがかかっていることが窺える。もし真紀のサポートがなければ、今ので向こうに気付かれたに違いない。
 すぐに気を取り直し、一気に建物の壁にまで走りよってでっぱりに手をかけ足をかけ、二階へと勢いを殺さずによじ登っていく。あっという間に建物一階の屋根の上に到達し、落ちないよう配慮しながら今度は二階の屋根へと飛び移る。建物のてっ辺にはアンテナが取り付けられているため、ここに真紀が用意しておいた偽のデータを流し込むことで、万一俺が中にある監視カメラに写ったとしても、監視室らしい部屋のカメラにはこちらの姿が映らないという仕組みだ。
 さすがに訓練された人間八人相手に、こうしたサポートもなしに仕事が上手くいくとも思えない。正確には、特攻だってかけることは可能だがそういうわけにはいかない事情というものがあるため、こうした戦法でいくしかなくなったというのが本当のところだった。
 一味が裏世界で有名なので、ここが襲われたとなるとそのバックにいるだろう黒幕が、身の危険を感じて隠れてしまわないともいえない。それをさせないためにここは一つ、安全策がとられたのである。面倒だというのが正直な気持ちだが、まぁ、真紀のいうことも本当のことなので従ったわけだ。
「取り付けたぞ」
『了解。さすがに早いわね』
「御託はいいからさっさとしてくれ」
『相変わらずせっかちね、もうやってるわ。……よし、完了よ』
「わかった。屋敷に侵入する」
 今回まず侵入するのは二階の予備部屋として、ほとんど使われていない部屋の窓からだ。俺は真紀の用意した工具を用いて、窓ガラスを小さな半円の穴を開け、くり抜いた穴から鍵をといてそっと窓を上へと引き上げて開ける。真紀によれば、この部屋はほとんど使われていないため、あと三〇分足らずで行われる定時パトロールのときくらいしかドアが開かれることはないらしい。
『部屋を出たら、廊下左に監視カメラがあるけど、こっちの監視下においてあるから問題ないわ』
 一人真紀の言葉に頷きながら小走りにドアへと歩み寄り、ドアを開けると中からそっと廊下の様子を確認した。建物の外壁と同じ廊下の壁も真っ白で、染み一つない。一味がここに移り住むようになったのが三年ほど前からだという話だったが、そうだとしてもここまで生活感のさせない雰囲気の場所があるものかと感じさせるほど、どこか寒々しい印象を受ける。
 誰もいないことを確認して廊下に出ると、真紀の言う通り、左の廊下の奥天井にカメラがこちらに無機質な視線を浴びせてきていた。どうもカメラというのは気に食わない。大した理由などないが、たとえそれが人が手にした撮影用のものだろうが、監視用のものだろうが関係ない。あの無機質なレンズにこっちを見るなと蹴り飛ばしてやりたい衝動にかられる。
『大丈夫。向こうにはカメラにあなたが映ってるだなんて思ってないわ』
「あんたの方には俺が映って見えてるというわけか」
『映っていない映像と映っている映像の両方よ』
 言葉のまま、カメラを完全に監視下においているというわけだ。全く、こんな短期間でシステムすら掌握できる真紀の情報処理能力には恐れ入る。こんな女を相手に出し抜くのは不可能なんではないのかと、一抹の不安が脳裏をよぎるではないか。
 廊下の左奥にまでやってくると、真紀が突然制止させる。
『止まって。向こうから人がくるわ』
「何人だ」
「一人よ」
 どうやら服の下に銃を隠し持っているらしい。おそらく、実動隊という八人のうちの一人だろう。
(一人か……どうする)
 考える間もなく、かつかつと確実にこちらへ近づく足音が俺にも聞こえてきた。迷っている暇はない。どのみち全員片付けなければならないというのなら、ここで景気付けに片付けておくとしよう。壁を背に相手がこちらに最接近するのを待って、一気に喉元をかき切ってやるつもりで俺は息を潜める。
 乱れなくしていた足音が俺のすぐそばにきたところで、ピタリと止んだ。気付かれた――そう思って身を乗り出すつもりの俺だったが、以外にもそうではなかった。どうやら相手もイヤーモニターをつけていて、管制とやり取りしていたようだった。
「わかった、すぐにいく。こちらは……まぁ問題ないだろう。何か物音がしたと思ったのは気のせいだったかもしれん」
 そういって、野太い声の男が踵を返してその場を立ち去っていく。俺はほっとしたのも束の間、一体どういうことなのかと考えをめぐらせる。
「おい真紀、今の聞いたな」
『ええ。ここから見えなかったのでわからなかったけれど、来訪者があったみたいだわ。それも、アポなしのVIPよ』
「VIPだと。どういうことだ」
 別に連中にだって客の一人や二人あっても驚きはしないが、なんだってこんな夜更けにくるのだ。しかも、そのためにわざわざ実動隊という男も出向くためなのか消えたとなると、ますます意味深になっていく。会うとすればどう考えても一味のボスということになるが、そのために部下も出向くとなるとよほどの人物だということになる。となると……。
 嫌な予感が背筋を駆け巡る。おそらくそのVIPが今回の襲撃事件を裏で糸引いていた人物に違いない。連中の存続のためには、そうした人物が必要になるのは明白なので、これはほぼ間違いないといっていい。問題は、なぜそんな人物が一味に、引いてはそのボスに会おうとしているのか……。
 時間も時間、おまけに今現在の状況を考えるに、ただならぬ事態になると見ていいだろう。こいつは、もしかして、連中のボスを片付けにきたというのではあるまいか……そんな嫌な予感がして俺は、足早にその場を移動して男が去っていったほうへ向かった。とにかく、一刻も早くボスと会う必要がある。
「階段を降りて一階へいく。念のため、あんたはそこから移動しておいたほうがいい」
『わかったわ。あなたも無茶はよしなさいよ』
 いわれるまでもない。が、俺の予感が当たっているとしたら、そうもいかない。俺たちが特攻をかけようとしたその日、それも人気のない深夜を狙ってなんの音沙汰もなく訪ねてきた人物。どう振り払おうとも嫌な予感が拭いきれない。
 階段を一段二段くだったところで、かすかな銃声が聞こえた。それも一度や二度でなく、他方向からであることも窺えた。嫌な予感は見事に的中してしまったのだ。
 俺は内心舌打ちしつつ、降りる足を止め背後を素早く振り返ると同時に手にした銃の引き金を引いていた。一瞬だが、人の気配を感じたためだった。
「うっ……」
 小さな呻き声をあげて男が一人、壁に寄りかかるように倒れる。その手にはやはり銃が握られていて、それがずるりと自身の太ももの上に落ちる。
「真紀、背後から襲撃されかけた。どうやら訪問者は一味の暗殺を目的としたチームらしい」
 小声で鋭くいった俺に、イヤーモニターからは語気を強めた真紀が返す。
『みたいね。こっちもそいつらに追われて逃走中よっ』
「なにっ」
 迂闊だった。まさか、チームで襲撃するだなんて考えてもいなかった。大抵を単独で動く俺なので、勝手に向こうもそうだと想定していた。おまけに真紀も連中の待機していたらしい他の奴から襲われて逃げているとなると、俺たちがアジトに着いた時点で、すでに見えないところで人員が配置されていたと考えるべきだ。俺が侵入したところで連中も行動に出たということなのだろうが、まさか連中を襲撃しようとする勢力が俺たち以外にいたなんて、あまりに考えなしだった。
 おそらく敵が背後から襲ってこようとしたことから、奴らも俺の侵入経路がもっとも適していると踏んでいた。俺みたいな侵入者は基本的に襲撃する立場なので、自分が襲われるときというのは基本的に侵入が暴かれたときだと考える。よって、侵入経路から敵が襲撃してはこないという先入観を引き起こす。まさに連中はそれを想定しての行動なのだ。
 一対一、多対一、戦術だろうが戦略だろうが、虚をつくのはそれらに関係なく勝つための絶対基本だ。そして逃走手段である車を襲撃することで、もし侵入者が脱出できた際の対策も予めしておく。こう考えるだけで、このチームはかなりのチームであることが、これらの事実からでも簡単にわかる。
 不意をつかれそうにはなったものの、なんとか一人撃退はできた。が、一人が殺られたと知れるのは時間の問題だ。それも一分だってないと考えるべきだろう。
 そう考えてすぐにも撤退すべきだと、きた道を戻ろうとするが侵入経路は俺が通ってきたところだけだったわけではなかったらしい。向こうから足音をうまく消してはいるが、こちらに確実に近づいてくる気配を感じて仕方なく階段を降りることにする。厄介なことに挟み撃ちにされた形だ。
 同時に、一階からはつんざくような連射音が響いてくる。それも、かすかな地響きにすら感じとれてしまうほどの激しい乱射だ。突然の襲撃に反応した者がいるんだろうが的確とはいい難く、おそらくはこの連中相手では辺りをひっちゃかめっちゃかにする程度にしかならないだろう。
 こうなれば、一味の連中をうまく利用して混戦に持ち込んで、それを機に脱出するしかない。どう考えても、ボスから事情を聞きだそうなどという状況ではなくなってしまった。もっとも、連中はそれが目的なのかもしれないが。
 俺は足音を立てないよう、それでいて素早く階段を降りていく。互いの銃撃戦を利用する以上、一味の連中には一秒でも長くもっていてもらわなくてはならない。おまけに背後からも数人の襲撃者が追ってきている状況だけに、こちらもつい焦りが生じてしまう。
 一階の廊下に降り立ったところで、左手にあるリビングの方で小銃を持った男が一人、何発もの銃弾を食い込ませて倒れるのが見えた。まだ他にも銃声がすることから、まだ何人か実動隊だという八人のうちの数人がいるのだろうが、おそらくそれも長くは持たない。俺はリビングとは逆の右のほうへと向きを変え、裏口のあるキッチンへと向かう。
 十中八九、襲撃した連中の仲間が二人か三人は待ち構えていると考えてまず間違いないが、それでも連中を全員相手にするよりは、はるかにマシだ。壁を背にしたまま裏口へ移動していくと、案の定、黒い戦闘服に身を包んだ男が三人、こちらに銃口を向けていた。まるで完全に裏口にくるはずだというのがわかっていたかのように、微動だにしないでいる。
「そこの男、動くな」
 中央の男が威圧していうと、横の二人が慎重にこちらに向かってくるように狭いキッチンを無駄のない動きで散開しながら近づいてくる。
「無駄な抵抗はやめておけ。お前はもう囲まれている」
「ちっ……」
 全くもって男のいう通りだった。背後からは、二階から侵入してきた奴らが二人、背中に銃口を向けているのがわかったためだ。横は壁になっていて、とても飛び出せるような状況ではない。せいぜい上に飛び上がるか、伏せるくらいが関の山だ。
 俺は仕方なく持っている銃を床に放り投げる。連中が銃を拾おうとしたところに活路を見出そうとはしてみたものの、キッチンの窓の外には、目視できるだけでざっと六人からの人員が控えているのを目の当たりにして、さすがに抵抗する気も失せた。ここで一人や二人を道連れにしたところで、結局は免れる運命は変わらない。ならば、ここは一旦おとなしくして事の成り行きを見守ったほうが得策だ。連中の目的と、何者なのかということも気になる。
「懸命だ。大人しくしていれば命までは取らないと約束しよう」
「つまり、痛めつけられる可能性はあるってわけだ」
 せめてもの抵抗に減らず口を叩く俺の後頭部に、硬いものが突きつけられた。黙っていろという意思表示だ。
 それからすぐに今までしていて銃撃音が止んだ。どうやら一味の実動隊とやらはたった一夜、それもほんの三分と満たない時間でわずかな時間で壊滅したようだ。予備人員を含めて一一人いたはずで、全員が一応はそれなりの訓練を受けていると真紀が説明していたけれども、やはり相手が何枚も上手だったのだ。
「終わったようだな、時間通りだ。撤収」
 そういって背後から銃を突きつけていた奴が、俺に跪いて手を上げるよう促してきたので、それに黙って従う。全く無駄のない、隙が窺えないこの連中なら俺が抵抗して目の前の奴に手をかける前には、もう引き金が引かれていることだろう。そんな連中相手に、こちらがなにか手段を講じるのは時間の無駄というものだ。
「待て。俺は関係ないんだぜ、解放してくれたっていいだろう」
「そういうわけにはいかんな。お前が連中とどんな関係なのか、一応は問いただしておかないわけにはいかん。そいつを拘束しろ」
「……畜生が」
 一体全体、どういうことなのか。その一端もわからずに俺は連中に拘束された。大人しくしろといわれた時点でこうなることは予想などできていたが、こうもそれが当たり前に進行するとなると、さすがに歯がゆい気分になるのは仕方ない。そうは思っていても、この状況を打破できる手立てがないのではやはり結果は同じなので、結局はこれが最善なのだ。



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