いつか見た夢

B&B

第115章


 ザクザクと雪を踏みしめる音と、荒い呼吸が妙に耳障りだった。緩やかに上り坂になっている山の斜面は決してきついわけではないが、腰の高さよりもある積雪に踏み進めていく足がとにかく重く感じられた。
 かといって歩を進めないわけにもいかず、ただひたすらに黙々と足を前に向けて動かして、この小さな魔の丘を征服することだけが頭の中を支配している。一刻も早くという焦燥感にも似た感情と、体力の温存も兼ねて緩慢とした動きで登っているためだろう。しかし、それも何歩か足を進めたところでついに事切れた。
「がんばって。もう少しよ」
「それはわかってる……だが、少しだけ休ませてくれ」
 弱音を吐くのは性に合わないが、あまり慣れないことに張り切りすぎると、エネルギーの消費が激しくなるということを身をもって感じさせる。もう何時間と休みなく歩き続けてきたため、余計にそう感じるのかもしれない。とにかく、一分でも二分でもいいので、少しだけ休みたかった。
「あんたに賛成だわ。少し休ませてよ」
 俺の前を行く遠藤も俺と同じ気持ちのようで、俺が足を止めたのを見て自分の足を止めたようだった。こうなると、さすがに先頭を行く沙弥佳も足を止めないわけにもいかず、ゴーグルを上げて後続の俺たちを見下ろした。雪による反射光のために切れ長の瞳を細くしている。
 俺は膝に手をついて屈んだ。ゴーグルを取りたかったが、無しだと真白い雪からの反射光に目をやられてしまいそうなので止めておいた。本音をいえばこのまま雪原に身を任せてしまいたいところだが、それはさすがに躊躇われた。してもいいのだが、雪に倒れ込んだが最後、起き上がるのが確実に面倒になることは目に見えている。それに雪が深いので、起き上がるのにも多少四苦八苦することも確実だった。
 最低限の力を残し、全身から力を抜いた。背負うリュックの重みが妙に心地いい。目の前にある新雪を一掴みし、それを口に運んで咀嚼する。瞬く間に雪は溶けてなくなっていき、喉を通過する前には完全な水となって食道に、胃に流れていった。水に困らないのが雪山のいいところだが、ずっと雪ばかりを口にしていると、純粋に水が飲みたくなるのが不思議だった。
 さらにもう一口二口と雪を咀嚼すると、顔を上げて後ろを振り返った。所々にある針葉樹の木々が点在しているが、この辺りでは珍しい雪原になっていた。そこを俺たちが踏みしめてきた後が数キロ先まで見渡せる。実際にはもう見えなくなっているが、森の中も雪を進んできたのでその道の先が森に消えている。
 改めて自分たちが随分と遠くまで歩いてきたのだと実感し、前を向き斜面を見上げた。あと少しだという沙弥佳の言葉の通り、緩やかに続いていた斜面が、あと一〇〇メートル足らずで消えていた。つまり、それより先は下り斜面ということである。そうなると、また踏ん張る気持ちが出てきて、俺は見下ろす沙弥佳と俺同様に疲れの見える遠藤に先に進もうといって再び行軍を開始した。
 もうゴールが見えていると分かると、人間不思議とまたやる気も出るもので、心なしか行軍のスピードが上がったような気がする。その甲斐もあって、ついに緩やかな斜面を登りきり、斜面の頂上に聳え立つ針葉樹の大木に手をついてその先に広がる光景を目の当たりにした。
「これがツングースカ……。中央に見える小さな建家が密集してる辺りが秘密都市だな。となると、あの東側に見える大きな丘山が連なる向こう側に例の爆発した現場があるってわけか」
 目的地が眼下に広がり、俺はその光景を指差しながら言った。深い雪に閉ざされていると思っていた都市の周辺は、どこかその雪も少ないように思われた。ここは、ロシアでも有数の大河であるエニセイ川へと注ぎ込む南北のツングースカ川に挟まれる地帯にあるという話だったが、もう数日に渡っても歩いているため位置情報の確認くらいは必要だとGPSで現在位置を確認した。
 すると、ここは川に挟まれた地帯というにはあまりに広すぎる、広大なシベリアの大地にあり、ここが思った以上に内陸であることが判明した。こんな場所に物資を運び込み、さらには一つの町を造り上げたというのだから、町の建造一つとっても相当な年月がかかったと見ていいだろう。
 船で川を下っていたとき、大きな支流に辿り着いたと思ったら、そこを今度はやや上流に向かっていったので、地図で見る距離と実際の移動距離はまるでかけ離れていたということだった。案内人の説明は事実をいってはいたが、えらく断片的で要領を得ない部分があったため、それが余計にそう感じさせるのかもしれないが。
 クラスノヤスクを出発してから早一週間以上が経過しており、すでに時は一一月も中旬になろうという時期だ。ようやく目的地に着いたという達成感と、これから何があるのかという不安が入り混じり、俺は小さく溜息をついていた。

 エニセイ川を北に向かって下っていた俺たちは、クラスノヤスクを出発した翌日の正午頃にエニセイ川水系の一大支流の一つであるポドカメンナヤ・ツングースカ川との合流地点にやってきた。そこをポドカメンナヤ・ツングースカ川へ向かって船を航行させ、さらに二日ほどかけてこの川の上流を目指した。
 本来ならば二日程度で着くという話だったが、どういうわけか、結果として四日はかかるという操縦士の言い分により、思った以上の長旅になった。大陸性気候の南シベリアでは、日中間の温度差が激しいのは当然として、季節の節目となるこのぐらいの時期は、日毎で全く違う気温、天候になることもしばしばである。つまるところ、出発した次の日には大量の雪が降ったことにより、一部の河川などに氷の膜が張ってしまっていたのだ。
 結論としては高速艇が動かないわけではないのだけども、高速で移動することが叶わなくなる。このため、時間がかかってしまったということと、この船の機能として高速と低速では、低速の方が燃費が悪いという、二点が重なったために時間がかかってしまったということだ。
 途中、エニセイ川河岸の都市に二度ほど停泊させ、燃料などの補給を済ましたりしながら、この間に旅に必要になった道具なども買い揃えることができ、ようやく準備万端という具合に落ち着いた。何時間も船の上でいるというのは、明らかに身体が鈍り、何をしているというわけでもないのにどういうわけか疲れを感じさせるため、その丁度いい息抜きにもなった。
 四日目の夕方には、そろそろ高速艇では航行できないところにまできたので近くの小さな入江に停泊させた。船を操縦するクラスノヤスクで雇った男は、かなり速いスピードで船で航行できそうなところまでは高速艇で行き、そこからはゴムボートでさらに上流を目指すようアドバイスしてくれた。
 また、男は慣れない場所での苛酷な山歩き、それも何十センチと積もった雪の中を行くとなれば、事前にきっちりと休んでおいたほうがいいと言い、ただでさえ苛酷な深雪の山を行軍するのに夜は危険だということもあって、俺たちは四日目の夜はあえて船で過ごすことにしたのだ。
 こうして男のアドバイスに従ってきっちりと保養させた俺たちは、まだ朝日もできっていない早朝にゴムボートに乗って船を出発した。そこから約二時間ほどかけて上陸できそうな川べりを探し、ちょうど良さそうなポイントを見つけてゴムボートを川べりによせた。いよいよお待ちかねの雪山での苛酷な山歩きである。
 分かってはいたが、やはり知っているのと体験するのとではまるでわけが違う。船や停泊中の町などでもそれなりに英気を養ったつもりだったが、歩き始めてから数時間もすると、早速疲れが出始めてきた。もちろん、山歩きの前にもゴムボートの中で沙弥佳たちが調達してきた食料から朝食を取っておき、苛酷な山歩きに備えておいたがやはり、その過酷さたるや俺が思っている以上のものだったのだ。
 まず、雪が考えていた以上に多い。クラスノヤスクでグレゴリーがまだ定期便が出ているといっていたので、深かったとしても膝よりは低いだろうとタカをくくっていたのだが、実際にはそれを遥かに上回る積雪量だったのだ。
 それだけでも俺のやる気を削がせるには十分なものだったというのに、険しい針葉樹の森はそれ以上にきついものだった。未踏の雪道を踏みしめたはいいが底には木の根が張り出していて、それに何度も足をとられてしまった。このおかげで体力の消耗が激しく、ようやく森を抜けた頃にはそこで一泊することを提案せざるを得なかった。
 それについては遠藤も同意したため、先を急ごうとする沙弥佳は必然的にそれに従うしかなく、溜息をついてそこにテントを張ることに渋々同意した。沙弥佳も口でいうよりも実際には内心で興奮しているのかもしれない。上陸時は先頭だった俺がいつの間にか一番後ろになり、殿だった沙弥佳と交代してしまっていたのだ。
 ともかくとして、キャンプで一心地つけることになって俺は、背負っていた装備を一式外して気力を振り絞りながらテントを張っていった。これらも沙弥佳と遠藤に頼んで買い込ませておいたものだ。極力人里離れたところから目的に行くべきだという主張から、こうなることは読んでいたので予め三人分のキャンプ用品を用意させておいたが、判断を誤っていたらとんでもないことになっていたところだ。
 折れた枯木を椅子代わりにできるという魂胆から、キャンプ地には近くにあった倒れた巨木のそばということに決まった。倒れていた巨木の側なら、極寒の中でも容赦なく吹き付けてくる死の凍風から、少しでも身を守ることができるだろうという意味合いもある。まだシベリアにも本格的な冬が訪れていないため、真冬の風とはいえないかもしれないが、だとしてもこの寒さは一晩外で過ごせば人を死に至らせるには十分なものだ。
 暗雲立ち込める北の大地ということもあって、あまり意識していなかったがこの日は空気が冷え切って、どうも天候があまり良くなかったらしい。この時は、こういう理由もあって夜は風が吹き付けてきそうな、そんな感じもしたので下手に動くべきではないと判断したが、今にして思えば本当にあそこでキャンプを張っておいて正解だった。
 夕飯というにはまだ早すぎる時間に食事をした俺たちは、明日進むべきルートと方向について簡単に話し合った後、食後のお茶もそこそこ、早々にテントの中へ潜り込んだ。寝袋はこの極寒の世界では大変重宝するものではあるが、それでも足先はどこか冷たく感じられた。その内にテントの外では轟々と風が吹き荒れ始め、これは翌日は大変なことになるなと辟易させながら眠りについた。
 翌日になってテントを出れば昨夜の予想通り、外はこれまで以上に雪が降り積もっており、この中を進むには少しばかし躊躇してしまうほどだった。もし、ここでキャンプをしなかったら、先ではとんでもないことになっていたかもしれないと本気で思った。いくらテントとはいっても、それを押しつぶしかねないほどの豪雪となれば、風をしのぐ云々の前に命に関わる。
 こうして大吹雪が吹き荒れた中、一夜を明かした俺たちは朝食もそこそこに再び行軍を開始した。森を抜けた先にあるのは大雪原で、ここからは雪原を北へ向かって縦断し秘密都市へ向かうことにする。幸い、この日は前日のどんよりとした天候から一転、雲ひとつない晴天で、行軍するには絶好の天候だ。
 その代わり、前夜の大吹雪のおかげで数十センチに及ぶ積雪があったので、差し引きゼロといっても良いだろう。なんせ前日は膝上程度だった積雪量が、この日は俺の股間あたりにまで及んでいたのだから。いくら進んでいるとはいえ、長時間雪に下半身が埋まった状態だと、当然ながら徐々に放射冷却現象のあおりを受け始め、呼吸は荒いのに体感としてはとても寒くなっていた。
 さらに、その日は一日何もない大雪原をひたすら北上するだけで、見渡す限り雪と所々に針葉樹の大木が一本だけ突き出ているのが見えるだけだった。何百メートルも先に大小の森も見えるがそれだけで、後はひたすら道なき道を進むだけである。朝の六時前に出発したその日は昼の一一時頃まで、休みなくひたすら歩き続け、遠藤がいい加減休憩しようといってきたので、何もない雪原の中で昼食をとった。
 座った瞬間、胸より下が雪の壁に埋もれるがそんなことを気にしていては食べることすらままならないため、誰ひとり口を利くことなく黙って食料を口にした。沙弥佳や遠藤にいたっては首しか見えない状態だ。そんな状態で昼食をとっているなど、普通であればおかしなものかもしれないが、いざ体験すると、とても笑える状況ではなかった。
 しかも、新雪に包まれた山とその平原という、一見すればあるいは幻想的な世界とも思えるが、そんな中で一日を過ごして二日目ともなると、早くも身体が正直にこの現状から一刻も早く抜け出すべきだと警告を発しているのが、間違いない体感としてあった。極限の世界を美しく思えるのは、やはりそれが命の危機に晒されることなく、ぬくぬくとした中で流れる映像としてそれらを眺めることができるからなのだと痛感する。
 昼食の間に俺は現在位置をGPSで、今がどの辺りにいるのかを確認しておくのを忘れない。万一進む方向を間違えていたりでもしたら、それこそ凍死体になるのも時間の問題だからだ。昼食のためとはいえ、座った尻がどことなく冷たく感じられて仕方なかった。おそらく、あまり実感はないが、このような極限の世界ではこういった普段なら何気ないことですら、体力を奪っていく要因になるということを理屈でなく、生物の本能として理解した。
 昼食後は、少しでも距離を稼ぎたい俺たちは、また北を目指して歩き出した。予定では、その数キロ先にあるはずの森の手前までいくつもりだった。しかし、GPSでの情報であるため、それを果たしてどこまで信用できるかという問題はあった。おまけにこのGPSがロシア製だということも考慮に入れると、この辺り一帯の地理が本当に合っているのか、どうしても不安があった。
 事実、ここまで何度もGPSを確認しているが、細かく地形がきちんと表示されない、高低差も実際には高いのに低く表示されるといったことが度々起きているだけでなく、さらに一番問題なのが正しく東西南北が表示されないときがあるということだ。これはGPSとして欠陥品と言わざるを得ず、こんなのをよくもまあ正規品として販売できるものだとほとほと呆れてしまう。
 これにより、果たして今自分たちが本当に目的の場所であるツングースカの秘密都市に向かっているのか、本当に不安だった。そのため、この日太陽が出てくれていたのは心の底から助かった。現在時刻で今ある太陽の向きによって、ある程度の方角が算出できたので必然的に向かう方向も定まったのだ。もしこれが曇りやなんかであれば、最悪遭難していないとは言い切れない。
 また道なき道を進みながら、もう二度とロシア製など買うものかと心に決め、夕方になってようやく、予定よりもやや遅れた到着になったが森の手前まで来ることができた。一応はGPSも正しく表示されていたということになる。本来GPSというのは、使用者を不安にさせないようにするための道具であるはずだが、それが逆に不安にさせるなどあっていいことなのだろうか。
 森に少し入ったところで俺たちはキャンプし、晩飯を炊きながら早速明日どうするかを話し合う。予定通りにつければ、昼下がりには行程の三分の二は到達するはずだった。沙弥佳は秘密都市に着いたらどうやって入れるのかといってきたが、それは着かないと判らないという俺に溜息を漏らした。
 FSBと組んでいた遠藤もさすがにそこまでは知らないということで、結局なにも分からずじまいのまま、互いに無言のまま夕飯を平らげてテントに潜りこんだ。早々に寝袋の中に入ったがいいが、沙弥佳の言う通り秘密都市に入ってからはまるで無計画のため、どうするべきか、それが頭の中を延々と巡った。
 そうしているうちに二時間以上も経過していた。再び風が凪いでいく音が聞こえだした。夕方になり雲行きが怪しくなってきていたので、また吹雪になっているのだろう。わざわざテントを開けてまで確認したくないので正確なことはわからないが、前日よりはマシであるように思われた。だからこそ、突然テントが開けられたのに俺は咄嗟に反応できなかった。
「しっ」
 突然の訪問者に口を開こうとした俺だが、その前に静かにとジェスチャーされ、無造作に頷くことしかできなかった。訪問者は俺の許可もなしに黙って寝袋のそばにまでやってきて寝転がる。
 テントが開かれた一瞬、周囲の雪色に反射されて訪問者の顔を確認することができた。もっとも、顔を確認するまでもなく、いちいち俺のテントにまでやってくるのは一人しかいない。
「どうした、眠れないのか」
「そんなところ」
 そういって、沙弥佳は俺の寝袋を開けて強引に潜り込んできた。一人用の寝袋に二人など潜りこめないが、それでも強引に潜り込もうとする沙弥佳に俺は黙って出ようとしたが、裾を引っ張られて動きを止めた。暗いテントの中では、物の輪郭などははっきりしても、相手の表情までは確認することができない。今沙弥佳がどんな顔をして、何を思っているのか確認のしようがなかった。そこで小さなランプをもって明かりを灯そうとするが、それも沙弥佳に制止された。
「少しの間だけだから」
 わずかな沈黙。それを破ったのは俺のため息だった。観念して寝袋に下半身だけを突っ込むようにして、肩より上は寝袋から出る形になって沙弥佳を受け入れた。そもそも寝袋に入れるのが一人だけという意味で無理だといったまでで、特にそれ以外の理由はないので相手を追い出さなくてはいけないこともない。本人も少しだけというのなら、別にいいだろう。
「順調なら明後日には向こうにつくのよね」
「だと思う。こればかりはわからんな。今までのところは大きくルートを外してない。操縦士の男もこれで大丈夫だといっていたから、それを信じる以外に手立てがない」
 そう、俺がグレゴリーに頼んで雇った操縦士の男は、過去に一度だけ向かっている秘密都市に訪れたことがあるのだという。それを知って、俺は今回あの男を雇ったということになる。なんでも、操縦士の男は以前、軍に在籍していた頃に秘密任務を負って、この地にまで来たことがあるというのだ。
 グレゴリーによれば、クラスノヤスクにいて、極秘任務を追ったことのある、雇うのに問題のない退役した軍人というのは非常に気象らしい。そのため、えらく高額で雇わなくてはならなくなったわけだが、このルートを教えてくれたのがその男ということもあって、ある程度信頼できると考えていた。
 しかし、それも確実なことではないため、沙弥佳も果たして本当に大丈夫なのかという漠然とした不安があるのだろう。俺の言葉に頷くこともなく、沙弥佳が沈黙した。その沈黙を受けて俺は、少しだけ考えたあと妹の影を見ることなく、テントの天井を見つめながらいった。
「正直いって、俺にも向こうに着いた後どうなるのかわからん。俺から言わせてもらえりゃお前がどうしたいのか、それ次第で俺の答も変わってくるんだ。お前がそこで全てを破壊したいってのなら付き合うし、そのままにしておくってのならそのままさ。だが、お前はこんな目に遭わせた自分の仇を取るために、これまで色々とやってきたんだろう? だったら、それまで通りにすればいいんじゃないか。
 こんなこというのもなんだが、俺はこの世界で半ば目的を果たしてるからな。お前が本当は破壊もなにも望んでないのなら、別にそれはそれでいい」
「目的を果たしてる……?」
「ああ。俺がこんな世界に身を投じたのも、お前が何者かによって拉致されたんじゃないかってことが一番大きな理由だ。もちろん、何か犯罪に巻き込まれた可能性も考えたが……どういうわけか知らないが、あの頃の俺の周りじゃどういうわけか不穏なことが良く起きてたからな、そこからお前が巻き込まれたって考えるのが一番自然だった。
 お前は俺だけが悪いわけじゃないといったが、やはり俺の中じゃ割り切れるようで割り切れなる問題じゃないんだ。確かに、俺の罪滅ぼしという自己満足の一面がないわけじゃないが、だとしても沙弥佳を探さない理由にはならかったんだ。こんな形であっても、お前と再会できたってだけで、俺にとっては目的はほとんど果たしたようなもんなのさ。
 だから、お前がどうしたいのかわからないなら、連中の秘密を知ったあとに決めてもいいんじゃないか。他人本位だが、正直にいってそうとしかいいようがないんだ。だが俺は、お前がどんな判断を下したとしても、とことん付き合ってやるつもりだ」
 俺がそういうと長い沈黙が訪れた。正直な自分の気持ちを伝えたつもりだが、それを沙弥佳がどう受け取ったのかわからない。ただ、ようやく再会できたというのに、考えや気持ちのすれ違いから離れ離れになるのだけは嫌だった。これまで、憎まれるようなこともあったが、なんだかんだでこうしていられるということは沙弥佳にもそれを許容する気持ちが出てきているということだろう。
 だからこそ、俺に目的があるとすれば、それは沙弥佳の意思次第といったのだ。もしかしたら、あの時の失敗を繰り返したくないという気持ちの裏に、それを正当化しようとしている部分がないとはいえないかもしれない。こいつを拒むのは止めようというのが俺の今の正直な答えだと、そう自分で思っているだけなのかもしれない。
「なんだかはぐらかされてるような感じがするわ」
「そうか」
「うん。だけど……」
 そう言いかけて沙弥佳はその先を言うことなく、ただかぶりを振って寝袋から身を出した。
「そろそろ寝るわ。明日もまた早いんでしょう」
「ああ」
 短く答えた俺に、沙弥佳は言葉を返すことなく黙ってテントを出て行った。その様子をただ見つめたまま、今しがた寝ていた沙弥佳の跡に手をやった。あいつの身体の残温が妙に心地よく、その熱を逃すまいと俺はすぐに寝袋に包まれる。
 また明日、明後日も雪の中の強行軍を続けなくてはならない。沙弥佳の言うように改めて自問してみると、本当にたどり着けるのかどうか不安になる。いつか嗅いだことのある甘い香りが鼻腔をついて、その香りと体温に包まれて眠りに落ち込んでいった。きっと目的の地にたどり着けることを信じて。

「で、どうすんのよ」
 秘密都市を目の前に立ち尽くしていた俺に、遠藤が聞いてくる。突然意識を現実に向けられて、俺はぼんやりとしていたらしい。小高い丘というには高いこの場所はむしろ小さな山といったほうが良く、そこからは都市全体が良く見渡せた。それを見つめているうちに、俺はいつしかクラスノヤスクからここまでの道のりを思い起こしていた。
 秘密都市とはいうが、都市というよりも街といったほうが正確なこの都市は、地図上には一切表示されることなく、公式にこの街があるということ自体が秘匿されている。そんな街の外観は、まさしく軍事基地というに相応しく、あまり主だった建物などは見当たらない。秘匿され続けている軍事施設の街という点を除けば、どこにでもある田舎の村というていだ。
 このことから、居住者も全員が基地関係者であるというのは明白で、街にはたった二つだけ見えるネオンは食料品と日用品を売る販売店と、酒場のものだ。風俗店のようなものは都市にでも行かなくてはないため、ここではあんな店でも関係者にとっては憩いの場になっているに違いない。
 人が住むのに必要な電気や水道、燃料などは取り揃えてあるようだが、やはりそのどれもが最低限のものしか置かれてないように思われる。建物の横には発電機らしいものと薪置き場も見れる。こんな極寒の世界ではエアコンなどの空調システムはまるで役に立たない。空気中に温暖な風を送り込むといったシステムはあまりに弱すぎて使い物にならないのだ。
 そのため、こういう極寒の地では、古かろうとも現在でも直接火を炊き、その熱を利用するようなボイラーシステムのほうが重宝すると聞くが、この光景を見る限り本当らしい。薪などは周りの木々を使ってしまえば簡単にできると考えてしまいがちだが、ここまで極寒の世界では、すぐに使える木材というのはほとんどなく、このために薪ひとつとっても短い夏に採って乾燥させて使うしかない。つまり、ひと冬を越せる分くらいしか薪がないため、使うにも頻繁に使うわけにはいかないのだ。
 空調が使えない、暖炉も制限されるとなると、必然的に熱利用にはボイラーシステムが最も効率が良く、そのボイラーをなるべく効率よく使うために居住宅は店舗など、それらを絶やすわけにはいかないような施設から引くことになる。結果、そういった施設に隣接するように家々が立ち並び、街がこじんまりとした印象になってしまう。
 だが、ここらで最大の施設といえば、酒場や日用品店などではなく、どう考えても軍基地からのものだろう。軍基地を維持するには、大量の熱や電気が必要になり、もちろん水だっているだろう。電気や水は別としても、熱などはボイラーの管を使えばいくらでも再利用できるので、効率がいい。そんな街だけあって、ただの田舎町というよりも軍事基地という印象が拭えない。
 町の真ん中をほぼ東西に伸びる目抜き通りを中心に、全ての建物が南北の上下に二分されているようだ。東の端で、その道が突然途切れていた。そのすぐ脇には日本の雪国の風物詩である、かまくらのようなものがこんもりとこちらに背を向けて出来上がっているものが見える。おそらく、あれが基地への出入り口であるように思われる。
 一通り町の全体像と各施設の配置などを記憶すると、降りるにはどこがいいかを見回して、ある一点を指差した。
「あそこだ。あそこから町のすぐ近くにまで降りていけそうだ」
 俺が指差したのは、町のすぐ近くにまで続く針葉樹の森の入口だった。幸い、ここら一帯には町を囲むようにして多くの林や木々が点在しているため、身を隠すには好都合だ。一端、登ってきた斜面に身を隠し、下からこちらが見られないように行軍を開始した。ざっと目視で測ってみたところ、町までの距離は一キロちょっとというところだろうか。
 これなら、四〇分かそこらでたどり着けそうだ。森の中に入った俺たちは、そこで一度隊列を組み直して雪の斜面を降下していく。これまでのように、俺、遠藤、沙弥佳という順番だ。森の中の雪は確かに深かったが下りということもあり、しっかりと踏ん張っていてもどこか雪を滑るような心持ちで下っていく。
 途中、何度も雪が数メートルも先の下に転がり落ちていった。それほど俺たちの降下スピードが速いのだ。さっきは逸る沙弥佳についていけず雪原のど真ん中で休憩した俺だが、今はその時の沙弥佳のように気持ちが高ぶってしまっているのかもしれない。もっとも、それは後続の二人も似たようなものらしく、俺が半ば転がるように進んでいても何もいわないどころか、二人とも似たようなものだった。
 勢いよく転がったときもあり、木にぶつかりそうになりながらも俺たちは、ようやく斜面を下って町のすぐそばにやってきた。三人は近くにあった比較的大きな木の根元で身を寄せ合い、町の様子を探る。
「人影が全くないわね」
 通りと周辺のほうを見ていた遠藤がそういった。その通りだった。寒々とした町の雰囲気に示し合わせたかのように、町には誰ひとりとして出歩いている人の姿は見えない。
「見て、フェンスがあるわ」
 沙弥佳が指差したほうに目を向けると、雪に埋もれてフェンスらしいものが頭を出しているのが確認できる。フェンス自体それほど背の高いものではないのだろうが、フェンスの上部枠に積もった雪が、それを表すように東西に広がっている。全て同じ高さになっているのが確かにフェンスだということを如実に表していた。
 よく見ればフェンスは町全体を囲っており、明らかに立ち入ろうとする者を拒んでいた。目抜き通りに膝程度の高さまでしかない雪と、その脇に人の肩くらいまでの高さは十分にある雪の壁。どうやらこれらは、目抜き通りに降り積もった雪を脇に流したためであるようだ。よって、本来見えているはずのフェンスに雪がかぶって見えなくなるという結果になったのだろう。
「あのフェンス、少し低いと思わない」
「ああ、多分電流が流れるようになってるんだろう。旧ソ連の遺物だが、これが結構有効だからな」
 人の背の丈にすらないフェンスの高さを疑問に思ったらしい沙弥佳に相槌をうった。かつてKGBの工作員だった服部という男から、そういった知識を教わった。ロシアは今もこういった旧ソ連時代のものを使っていると。特に極限世界においては、人間は不注意になりがちで、こういった物のほうがよほど心理的にも有効なのだとか。事実、俺もこのフェンスにどう対処すべきか頭を悩ませているところなのだ。
 だが、これを突破しないことには中へは入れない。一体どうしたものか……。
 どうにか中に入れないか考えていたところ、西から大きな音を立てながら、数台の軍用車が通りに続いていく道をやってきた。走りながら雪をかき分けることができるよう特殊な装甲が施された車両は、ある地点にきたところで停車した。その様子を覗いてみると、町への進入許可のため検問所で運転手が許可証を掲示しているところらしい。車両は四台に及び、それら全てに許可のために人員が確認をとっていた。
 なるほど。これも服部から聞いていたが、秘密都市では一般の旅行者は入領を規制され、たとえ関係者であっても許可証がなければ入れないというのは本当のことだったらしい。検問所には軍服をきた男たちが四人ほど詰めており、こいつらが常に番をして町への進入を規制しているようだ。検問所のフェンス内側には小さな軍用車が一台停車していて、交代制になっていることが窺える。
 見たところ、フェンスが途切れているのはあの検問所だけだ。電流が流れる仕組みになっているはずのフェンスを迂闊に触れようものなら、もちろん感電死しかねない。となると、あの検問所を行くのがもっともベターな選択ではあるが、よくよく見ると検問所の中には数台のカメラが周囲を監視しているのも見える。つまり、下手に動けば連中に侵入がバレてしまう。
「こいつであの画面がどうなっているのか見てみよう。それから侵入経路を決めよう」
 そういって背負っていたリュックを降ろし、中からスコープを取り出すと検問所のほうを覗いた。どうやら中で映し出している画面は六台あることがわかり、その全てが固定画面のままであることから、設置された防犯カメラも六台であることが判明した。その画面から大体カメラの位置はどのあたりなのか確かめようとしたとき、四台の軍用車両の入領許可が確認できたようで、車両が再び轟々と音を立てながら検問所を抜けて東へと通りを抜けていった。
「あの車の向かった方に入口があるってことかしら」
「だろうな。となると、向こうに先回りするのがいいのかもしれないが……」
 そう呟きながらスコープに映し出されている画面を見ていると、そのうちの一つに今通っていった車両が映った。画面の中で車両が徐々にスピードを落とし始めているのは、すぐそばが基地の入口だろうというのが推測できる。つまり、あの近くに監視カメラが仕掛けられているということであり、もしうまく侵入できたとしても向こうに気づかれてしまうということに他ならない。
「ちっ、連中、こういう罠をしかけるのだけは本当に一級品だぜ」
 それを仕込まれた自分が言うのもなんだが、ロシア、ひいては旧ソ連が育んだ殺人機械を作り上げることに関しては、本当に頭の下がる思いだ。あの監視カメラだって、決して最新のものとはいえないが、それでも侵入者がやりにくいポイントを的確についてくる。だが、俺も同様に連中によって育てられた人間から、それらノウハウを仕込まれた身だ、必ず連中を出し抜ける穴があるはずだ。
「私、行くわ」
 そういって沙弥佳が動き出した。例の暗示を使うつもりなのだ。
「いや、待つんだ」
「止めないで。どっちみち今のままじゃ同じでしょ? だったら、これまでみたいに行ったほうが早いわ」
 行こうとする沙弥佳の肩を掴んだ俺に、沙弥佳はその手を振り払った。確かにそうかもしれない。実際のところ、俺だってそれを考えたのだ。だが、人間あまり容易な方向へ流されてばかりでもいけない。実のところロシアに入ってからというもの、クラスノヤスクで単独行動を行った時以外に、大して知恵を絞っていない。これではあまりに情けない話ではないか。沙弥佳は別になんとも思っちゃいないだろうが、こちらにも沽券というのがあるのだ。
 そんな俺と沙弥佳のやり取りが平行線になることを見かねたのか、遠藤が渡し舟を出してくれた。
「だったら私にいい考えがあるわ。あんた、まだ拘束具持ってるでしょ、それ貸して。あと、私の身分証もね」
「何に使うんだ」
 提案した遠藤に、リュックから何かに使えるかもしれないと思い取っておいた手錠を取り出して渡すと、小悪魔のごとく笑みを浮かべた遠藤が俺の手をとって手錠をはめた。
「お、おい。冗談はよせよ」
「冗談なんかじゃないわ。これからあんたを奴らに突き出せばいいんじゃない? なんせ、飛行機で輸送するはずだった人間を捕まえてきたんだから、奴らもそう簡単には無下にできないでしょ」
「だからといって、これはない。外せ」
 まさか、こんなところで裏切ろうとしようというのか。そんな風に捉えてやや焦る俺に、今度は沙弥佳がそれも致し方なしといった具合で、遠藤の援護に回った。
「仕方ないわ。今はこれで我慢しましょう。もし何かあったときは……必ず私がなんとかするから」
 沙弥佳は俺の目をしっくりと見据え、確信めいたようにいった。澱みなく告げたその言葉は、かつてのような一切迷いのない、力強い意志の表れだ。こうなると、こいつはこちらの手に負えない。俺は盛大に溜息をつき、肩をすくめた。
「勝手にしろ。こうまでするくらいなんだから、きちんと案があってのことなんだろうな」
「任して」
 ニッと唇を吊り上げて笑う遠藤に、俺は再び溜息をついていた。



 目の前の男たちが訝しむように、こちらを見つめてきた。そして次の瞬間、ロシア語で怒声を上げながら手にした小型機関銃の銃口をこちらに向けながら、一斉に構える。
「待って、敵じゃないわ。敵国の工作員を連れてきたの」
 突然現れた俺たちに向けられる気配は、敵意と同時に困惑もあった。それは当然だろう。連中からしてみれば、敵国のスパイだからといって、おいそれとここを通過させるわけにもいかないだろうし、何より、それを告げられたところで自分たちにすぐどうかできるという判断もできないのだ。万一、本当だとして許可なく発砲しようものなら、それこそ高官からの責任問題を突きつけられかねない。第一、連れてきた人間も同じ東洋人となれば、連中とて警戒しないはずがない。
「そこで止まれ。敵国のスパイなど聞いてないぞ」
「撃たないで。身分証を掲示するわ。上に日本からのスパイを連れてきたといえば分かるはずよ」
 遠藤は両手を上げたまま俺に動かないよう指示すると、ゆっくりとしまっていた身分証を取り出して連中に掲示した。その間も、連中の向ける銃口は決して下がることなく、むしろ、より警戒心を増していた。
「確認する。ゆっくりこちらまで来い」
 身分証の掲示は怠らないよう付け加えた連中のほうへ、ゆっくりと俺を引きながら進んでいく遠藤。まさか、ここまできて裏切りはしないだろうかと不安がよぎる。連中の一人が警戒したままその身分証を掴みとって確認すると、残りの三人のほうを見て頷いた。
「良し。確認が取れるまでここで待て」
「手短にお願いするわ」
 身分証を確認した男は、首を縦にする遠藤をよそに後ろの三人の一人にいって俺たちのことを報告した。もちろん連中もプロで、決してこちらに気を許してはいない。いつ俺が襲いかかっても反撃できるような姿勢を貫いている。いつも思うが、やはりこうした一級品の戦士を作るのはロシアだと感心する。
「迎えが向かっている。来るまでここで待て」
「わかったわ」
 俺は遠藤と男のやり取りを眺めつつ、連中の動向に目を配っていた。かなり連携のとれた連中で、一人はこちらに目を向けつつも、詰所にあるモニターへの注意を決して怠っていないのだ。遠藤の計画では、俺をロシアへのスパイ容疑として、日本から手渡すという条件に連れてきたということにするつもりだったようだが、連中がそれだけで警戒を解くはずがない。やはり、ここは次のプランに変更する必要がありそうだ。
 遠藤もそう思ったのか、何気なくこちらを振り向いて小さく頷いた。プラン変更の合図だ。やれやれ、危険な役回りだ。この女は、やはり俺を死に追い込みたいと思っているのではあるまいか。そう思えてしまって仕方ない。いや、実際にこの女の仇である以上、それは当たり前というものだ。
 遠藤のいうプランの要約は、まず飛行機事故から俺を救い出し、手を組んでいたアレクセイ・ガルーキンの指示によってここに連れていけということにするつもりらしい。確かに、スパイ容疑のかかっている人間をここの下っ端連中が独断で発砲する権利などないため、撃ち殺される心配はあまりない。
 だが、かといってそれを全面的に信用するわけにもいかないのも事実で、連中にも、もしこのゲートを強行しようものなら、すぐにも発砲できるよう許可がでているのもまた然りだった。なので、連中の対応も慎重にならざるを得ない。先ほどの車両が訪れたときとはまるで違う対応から、それが窺える。そして、連中も口でいっていることと、思っていることがまるで違うこともそこから判断できる。
 当然とるべき選択も変わるので、すぐ次のプランに変更することになる。ゲートにきたところで、俺が少しばかり暴れ、そこで連中の気をひこうというものだ。こうなると、必然的に発砲される危険性が高くなり、俺などはとりわけ命の危機に晒される。遠藤もそうなるが、少なくとも俺よりはまだ弁解の余地が与えられる分、可能性は低い。
 だが、こうした反面、これがおそらくもっとも効率がいいようにも思われた。というのも、今俺たちが暴れることで、別行動をとっている沙弥佳が町に侵入しやすくなるのだ。沙弥佳は今一人で、町の東側、検問所のあるここからはほぼ正反対のところにまでいき、基地へのゲートに近いところから町に侵入を試みるというプランである。
 当初は俺たちがここで普通に入るのを見計らって、そこから沙弥佳の侵入を手助けするというものだったが、こうなってはプラン変更は余儀なくされる。もっとも、スコープは沙弥佳に渡してあるので、こちらの動向は窺っているはずだ。もしプラン変更になった際は、行動を起こしたのを合図に侵入するよう伝えてある。
 俺が遠藤と組むことになったとき沙弥佳は少しばかりの抵抗をしてみせたが、今回ばかりはそうはいっていられない。あくまで沙弥佳が基地へ侵入できることが最優先なので、とにかくあいつを目立たせないようにしなくてはならないのだ。
 ほどなくして、向こうから一台の車両がやってきた。深い雪の中でも走行が可能にされた、タイヤのでかい装甲車がゴロゴロと音を立てながら轍を作っている。いつの間にか、辺りには雪が降り始めていたのだ。
「あれに乗れ」
 首を捻っていう男に従い歩き始めると、徐々に閉じられていたゲートが開きだした。こういう場所で電動では、電気系統の問題もあってほとんど意味はないため人力である。
 装甲車から人が降りてきた瞬間が行動開始の合図になる。俺はタイミングを逃すまいと、装甲車へと促されながら連中の動きに目を見張る。もちろん、それは決して注視するというわけでなく、あくまで諦めて淡々とした風で流し見た程度である。連中も停まった車両のほうを見つめている。
(今だ)
 俺はそう思って先をいく遠藤の喉元に、瞬時に手錠をかけられた両腕をもって掛け、首を締めながら盾にする。連中も直ちに銃を構えて向ける。
「動くなよ、この女を殺すぜ」
 本当に損な役回りだ。これで連中の目を引ければそれだけで十分だが、果たしてこれれが本当に奴らへの牽制になるのか知れたものではない。だが、こうする理由もあくまで沙弥佳の侵入をしやすくするためだ。今は、連中がモニターから目を少しでも離している時間を先伸ばすことだ。
「その女を離せ」
 一番の問題だったモニターの監視役だった男が詰所を出て、他の三人同様に銃を構えている。良し、最初の関門は突破できたようだ。
「いいや、それよりもそこの車を渡してもらおうか」
 俺は顎で詰所近くに置かれている軍用車両を渡すよう叫ぶ。首元が絞められて、苦悶の呻き声をもらず遠藤の声が妙に艶っぽく聞こえる。だが、首を絞められて苦しいのだろう、本気で俺の腕を掴んで防寒服の上からでも、はっきりと力が込められているのが分かる。
「そこまでだ」
 背後から響いた声に一蹴され、辺りに一瞬の静寂がおりた。連中も俺も、声がした方向に目をやると、そこにはやってきた装甲車から一人の男がドアを開けて立っていた。ここらでは逆に見慣れない、FSBの制服を着た男で、つけられたたくさんのバッジが階級の高い人物であることを物語っている。
「何をしているかと思えば……内調の人間も失態だな。お前たちも銃を下ろせ」
「し、しかし……」
 命令を聞こうとしない部下に対し、男は無言で睨みつけるだけだった。男たちはそれだけで萎縮してしまい、ようやく命令に従い銃を下ろす。
「君もだ。女を人質にするなど、下賎のすることだ」
 男が俺のほうを見ていった。遠藤を仲間と見なすわけにはいかないが、少なくともFSBの連中よりはほんの少しだけ信用できるので俺も心の底から人質に取りたいと思ったわけではない。だが下賤といわれると、つい身体が反応してしまった。締める俺の腕にぽんぽんと叩く遠藤に気づいて、俺は遠藤から腕を外していった。
「あんた、何者だ」
「ふん、すぐに分かる。乗るがいい」
 顎を使って乗車させようとする男の言葉を、今は信じるしかあるまい。そう判断した俺は、遠藤に一言従うよういって車に向かって歩き出した。大丈夫とは思うが、背後の四人への警戒は怠らない。ここは連中のホームグラウンドなのだ。
「行け」
 将校らしい男が運転手に向かって言い放つと、すぐに装甲車は雪をかき分けるように来た道をUターンし、東に向かい始める。ゴトゴトという尻に直に響く振動が不快だ。
「なんとかなったようね」
「沙弥佳。おまえ、なんでここに」
 男のほうを黙って見ていた俺は、突然背後から声がして振り向いた。後部座席に隠れていたのか、全くそんな気配など感じなかった俺は少しばかり驚いてしまった。
「おまえ、まさか」
 捲し立てるうに助手席に座る男と沙弥佳を交互に見た俺に、沙弥佳はただ首を横に振るだけだった。まさか、例の暗示の力を使ったのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「使ったのは彼にだけよ」
 そういって沙弥佳が指差したのは、運転手の男だった。それは分かるが、だとしてもこの将校に対しては何もしなかったというのは、いったいどういうことなのだろう。俺が頭に疑問符をつけていると、それを察してなのか定かではないが男がこちらに顔を向けていう。
「単純なことだ。私と彼女は元々同じ組織の人間だからさ。そして九鬼、君もだ」
「俺も? ちょっと待てよ、そいつはつまり……」
 男の説明を聞いてすぐに思い至った。元々同じ組織、そして俺もとなると答えは一つしかない。
「そうか、武田だな。それじゃぁ、あんたは武田の差金ってわけだ」
「いいや違う。いったろう、元々だと。今はもう関係ないさ、あの男とは」
「彼は、ただの集まりでしかなかった人たちを急に組織じみていったわ。中にはそれらから離脱した人もいるの。彼はそんな人の中の一人なのよ」
 沙弥佳が説明を付け足した。なるほど、つまりはこの男もあの毛利と同じような人間だということになる。武田が突然急激な軍事組織化をしてからというもの、内部摩擦によりそうしたことが起きたというのは聞いていたが、だがまさか国境を越えてロシアにまでそんな人間がいるだなんて思わなかった。となると、武田はかなり国際的な軍事組織を結成したということになる。こう見てまず間違いないだろう。
 よくよく思えば、テロリストとして警察に捕まった時、容易にそれは想像できることではないか。輸送中だった俺を助け出し、どこか見知らぬ土地にまで連れていった武田たちはそこで、ただの軍事演習とは思えない妙に厳重な体制の中で準備をしていたのを思い出した。あれがどこだったのか知る由もないが、少なくともそこで見た人間は国や肌の色など関係なく、全員が武田という人間に操られるかのようにしていたという記憶があった。
 今にして考えると、あれはまさしく世界で軍事組織として展開するために必要な準備をしていたんではないだろうか。そんな折に、あの野郎はふざけたことに俺を雇いたいなどと口でいいながら、出先で始末させようなどという計画を持っていたのも記憶の底から蘇ってくる。派遣されたシンガポールでは、もし沙弥佳が来てくれなければ、シンガポール沖にあったライアン・トーマスが研究主任を務める海底研究所内で、化物の腹の中に収まっていたかもしれないのだ。
 町の中を進んでいた車両は、町の東側に到達したところでスピードを落とした。右手に雪に大きく埋まっているがえらく近代的で無機質な分厚い金属製ゲートが見える。運転手が通信機に向かってゲートを開けるよう言うと、ほんのわずかに間を置いてゲートが地響きする音が聞こえてきそうなほどの重さと鈍さを感じさせながら、徐々に下に向かって開いていく。
「秘密都市さまさまって感じだな。こんな極寒の世界で、こんな最新鋭の装置があるなんてな」
「こんなので驚いてもらっては困る。ここはロシア、いや世界でも類を見ないほどの最新鋭の基地なのだ」
 得意そうにいう男の言葉に頷きつつも、視線はようやく開ききったゲートの奥に吸い込まれていた。隣に座る遠藤もまた、まさかこんな施設がこんな僻地にあったなんて、いくら内調の人間でも知らなかったのだろう、一言も喋ることなく目が釘付けだった。車両はゲートが開ききったところで、真っ直ぐに暗くて中のよく見えないゲートのエントランスへと徐行運転にて進んでいく。
「本来ならここは君らの来れるような場所ではない。大統領ですら、ここを訪れようと思えばきちんと手続きを行う必要があるが……まぁいい、今回は特別だ」
「一国のトップ以上のVIP待遇とは恐れ入るね。それにあんた、俺の名前は知っているようだがこっちはあんたの名前を知らない。それとも下賤な輩に名乗れるような名は持ってないかい」
「それは失礼した。私についてはレオンと呼んでくれればいい」
 レオンと名乗った男は、フルネームはといっても、気にするようなことかね、といっただけでそれ以上自身のことを語る気はないらしい。そういう態度ではこちらもそれ以上追求することはできず、ただ肩をすくめるだけだった。
「でだ、レオン。これから俺たちをどこに連れてこうっていうんだ。普通じゃ、こんな極秘施設に入ることはできないんだろう? だったら、それを親切に連れてきた理由はなんなんだ」
 男の名前が分かったところで挨拶などすっ飛ばし話題を切り替えた。この男がかつてコミュニティの人間だったのなら、気を遣う必要はない。この男とて、わざわざ施設の自慢話を聞かせるだけのために俺たちを招き入れたわけではるまい。
「これは願ってもいないチャンスなのだ、九鬼」
「チャンス? なんの話だ」
「そう急くな。順を追って説明する。
 まずここは、今告げたようにロシアのトップシークレットにされたものだ。いくら軍のトップや党員であってもここの存在を知っている者はそうはいない。本当にひと握りの人間しか知らない以上、ここが地図上に載ることはまずないというのは君も理解できるだろう。私たちは長年……それこそ、旧ソビエトの樹立とともにこの地を封印し、極秘裏にある計画を打ち立てた。それに必要となった最大の施設が」
「この基地ってことか」
「そういうことだ。お前に話しておこうか、我が国の隠された事実と、この基地の歴史というのを順を追ってな」
 ゲートを徐行運転のままくぐった車両は、やや下り坂になりながら少し進み停止した。すると、ガクンという軽い衝撃とともに徐々に下降し始めた。どうやらエントランス自体がゲートに潜るための巨大な昇降機になっているようで、基地は地下奥深くに存在するようだ。車両の小さな窓からは全景を覗うことはできなかったが、停車する前の傾斜の緩い下り坂の途中にも横に繋がる通路が見受けられたのは、あれが基地建設当時のものということだろう。
 現在、下降している事実を加えると、地下に基地が存在していることは明らかだ。レオンがいうには、とても巨大な基地が建造されているのだという。おまけに、それは今もまだ造設されつづけているというから、あるいはロシア最大どころか、世界最大の基地かもしれないとも。その巨大さをアピールするように、レオンは目的の場所までは少しかかるので、その間にロシアの本当の歴史とやらを語り始めた。
「我が国、即ち旧ソビエト連邦の建国とこの基地の建設はほぼ同時、どちらが始めかというくらいに密接なのだ。旧ソビエトの事実上の建国宣言をなされたのが一九二二年、ツングースカに初の実地調査が入ったのが一九二一年といった具合にな。
 実地調査が入った当時、ソビエトはロシア革命が終焉し新たな国家造りへ政治、治安といった諸々の問題で国内が安定していない頃だった。だが、この時すでに党員の中には、一九〇八年にシベリアで起きたという爆発の調査をしたいと考える者がいた。
 特にシベリアは僻地ということもあり、帝国時代から鉄道を除いて未整備の土地だ。そんな地で起きた爆発事件など当時の人間はほとんど記憶の片隅にも留めていなかった……はずだった。ところが、党員にいた幾人かのグループにより、ほぼ未整備だったシベリアを新たな国家造りには必要なものだという認識がもたれるようになった。
 もう知っての通り、シベリア鉄道さ。あれを使い、国内のありとあらゆる物資を首都モスクワ、あるいはサンクトペテルブルグに運び、国の大きな発展へと繋げるための大事業案が議会に提出されたというわけだ。
 そしてなんの因果か、爆発事件当時の記事を読んでツングースカに興味を抱いていた一人の人物が、この国家の大義名分に便乗して実地調査に入った。こうして実に事件発生から一三年も経った一九二一年に、鉱物学者であるクーリックにより結成された調査チームが現地入りし、シベリアに新たな拓地を拡げることに成功した。
 後に、かのレーニンも彼の調査報告書を読んで、ツングースカをもっと詳しく調査するように、といったという。彼は、この報告書の中にいくつか興味深いものを見つけたと聞いている。こうして当時のトップであった彼の命令により、更なる調査団が送り込まれる予定だったが、もうご存知のように彼はその二年と数ヵ月後の一九二四年に亡くなったため、調査は中止された。レーニンの亡き後、スターリンがトップになったためだ」
 俺の拙い記憶の中にも、レーニンとスターリンは互いに敵視し合っていたというのを聞いたことがある。教科書なんかでレーニン、スターリン、カリーニンの三人が並ぶ写真があるが、あれはプロバガンダによるもので、実際には仲違い、いや、政敵といったほうがニュアンスとしては近かったという。三人が揃った写真は、実際にはスターリンの政策のために作られた合成写真という説もあるほどだ。
 しかし、実質的にいがみ合っていたのはレーニンとスターリンで、カリーニンはどちらかといえばレーニン側の人物ではあったが、本当の意味で庶民派の人物であったともいわれる。スターリンの大粛清時代より後に、革命時代から生き残った唯一の大物と言われたほどだ。もっとも、そんな大粛清時代を生き残ったカリーニンもまた、粛清時代以前のスターリン以上の大物が次々に粛清されたにも関わらず生き残ったことを考えると、やはり相当な狸だったと見るのが自然だろうが。
 とにかく、もはや事実上の敵同士であったレーニンとスターリンも、内面はどうあれ独裁者という意味では丸きり同じだ。違うのはトップに就いていた期間の長さと、粛清による死者の数の違いくらいで、当時のロシア……旧ソビエトが目指す理想の国家造りに本当に相応しい人物であったのかどうかを正確に評価できるものであったかは疑わしい。
「中止されたにも関わらず、その数年後にはまた調査に乗り出してるな、それはアカデミーの単なる調査のためだったのか」
「公式にはそうなってるが、もちろん違う。スターリンはレーニンの後継者となったが、レーニンの行おうとしていた事業を全面的に引き継いだわけではない。むしろ多くは中止させ、自分のいいようにしたほどだ。当然、このツングースカの爆発事件などそんな闇に消える事業の一つだった。
 しかし、シベリア鉄道の積極的な建設事業には、やはりシベリア全体を調査しないわけにもいかなくなったのさ。だからこそ、スターリンは一旦自身の周辺が落ち着いてから、改めて実地調査をするようアカデミーに命令した。それはシベリアに鉄道を敷き、さらには後のシベリア送りという言葉に代表されるように、多くの粛清を受けて失脚した者たちを流し、壮大な一大事業を完成させるという意味合いが強い。
 そのための調査で送られた第二次派遣調査団は、そこでついにこの地を発見したというわけだ、このツングースカ・バタフライをな」
「ついでに、そこで一人の女を見つけた」
 遙々と語るレオンに、俺は歴史の裏に隠された事実を口にした。さすがに俺がそのことを知っているとは思わなかったのか、レオンは一瞬だけ眉をピクリとさせる。
「知っていたのか。そう、その女の発見によって、クレムリンのおけるツングースカの評価は一気に高まった。この第二次調査団の派遣以降、いくつかの大きな発見を残しているのはお前も知っていることだろう」
「ああ。波状型になぎ倒された木々はもちろん、地上じゃほとんど見られることのない物質の発見や、周辺に生息する動植物の異常な生態系についてもな」
 そう返す俺に、そこまで知っているなら説明は省くといって話を進めた。
「女の発見はスターリンの思想を肥大させるのには十分だった。調査団はこの女が地元の人間で、たまたまこの地にやってきて、なんらかの病原体に侵されたために倒れていたんではないかと考えた。しかし、調査を進める内に、女に記憶がないこと、爆発現場に近い近隣集落には、彼女のことを知る人物が一切いないことが分かった。
 この女の素性が判らないことに疑問をもった調査団は、かなり大規模な調査を行ったが誰ひとりとして女のことを知らなかったという。女の記憶がないことから、家族、恋人、友人、全てが判らない上、おまけに近隣集落の人物たちすら誰も女を知らないというのは、爆発が関係しているのではないかということになったのさ。あるいは、爆発が近隣住人たちになんらかの影響を与えたんではないかとね。
 しかし、やはり結果は変わらなかった。集落に長年住む住民もおり、彼らによると爆発のことや、それ以前のことも多く覚えているため、この説は却下された。これにより爆発が、人間の記憶になんらかの障害があったわけではないということが証明されたことにもなるが。
 そしてクーリックによる第三次調査団が派遣された一九二八年、ようやく彼女を知る人物が現れた。当時五〇歳になる農夫で、二〇年前、つまり一九〇八年、当時村の外れに住んでいた一人の女に良く似ていると発言し、さらに女の姿容姿が失踪当時そのままだといったという。調査団はようやく掴んだ数少ない証言について、有名になりたい故の馬鹿な男による発言としたが、この報告書を読んで、スターリン目をつけた。
 これにより、スターリンにより一度は中止された調査に、今後は国の支援のもと公式に調査団の派遣と、関連付されるものは全て研究せよという勅令により、以降調査と研究が継続されることに決定した。読書家だっというスターリンの好奇心に疼くものがあったというわけだ。
 その後、連れ帰った女の詳細なデータを取り続けた調査チームは、女に人体への影響が著しいことを報告している。一例としては、並外れた運動能力、身体能力の高さを指摘し、また別の報告書には、人間離れした鋭い聴力や嗅覚、視力が備わっているとある。また、女には、これまで誰も想像つかないほどの回復力があるともな。
 もちろん、お前が知っていることもスターリンは報告を受けている。これらの報告を聞くにつれ、スターリンはツングースカには何かあるに違いないと直感し、ついにはこの地に巨大な基地の建造を秘密裏に決め、以降自身の直轄とした。それがこの基地の始まりであり、この町が建造された理由だ」
 秘密都市など概ね基地ありきなものなので、壮大な神話語りなど興味がない俺はその女がどうなったのか聞き返す。今のレオンの説明では、断片的で女がどうなったのかまるで要領を得ない。もっとも興味を引かれた、身体への影響というのは一体どういうことなのだ。俺はレオンが語った一節から、ふと沙弥佳の今の状態のことを思い出していた。
 沙弥佳の身体は今普通の人間の構造とは、決定的な部分で違っているのではないのか。そんな気がしてならない。それこそ、沙弥佳にそれをもたらした原因たるものは、このツングースカ・バタフライから採取された岩石の含有成分が複数の研究者に渡り、NEABからNEAB-2へと進化していき、ついには沙弥佳の体内へ侵入していったのだから。
 爆心地付近で見つかったという女も、もしかするとその衝撃で人体に甚大な影響を受けたんではないのか。そう思わずにいられない。いや、そうに違いない。だからこそ、こんな巨大な基地を、それも地下に建造したのだ。そうでもない限り、いくら独裁体制が続いていたとはいえ、スターリンとてそうそう決定するはずがない
 。一説には、スターリンは大層な臆病者で、死というものにもえらく恐怖するようなタイプの人間だったという。そんな人間にとって、女の存在は大層魅力的だったのかもしれない。きっと死ぬことをおそれ、不老不死などという妄想に取り憑かれた、そんなところだろう。
 後ろの沙弥佳のほうを何気なしに見ると、やはりレオンの説明を聞いていた沙弥佳もまた同じことを思っているようで、それが確かに表情に出ている。どうやら、その女が今度のことに深く関わっていると見たほうがいいだろう。
 車両を乗せた巨大な昇降機が、ゴウンとそのまま表現できる音をあげながらようやく最深部に到着した。本当に最深部かどうなのかは別として、運転手のいった言葉からは最深部フロアであるらしい。暗示をかけられている男がいうのだから、まぁまず間違いないだろう。
 レオンは俺からの質問に答えるように、次々にこの基地や研究にまつわるエピソードを語っていった。そのほとんどがこれからも先、決して公開されることはない内容のものばかりで、まだこの基地が建設されだしたばかりということもあって、発見された女がモスクワに移送されていたこと、そこから得られた多くのデータが旧ソ連の細菌兵器などの生物兵器への足がかりになっていったこと、さらには研究の対象が宇宙へも向けられていくことになる転機にもなったことなどだ。
「得られたデータからは、女が爆発の影響を受けてたというのは間違いないということだった。宇宙は、時として人類の考えもつかない贈り物をすることがある。まさに、ツングースカの大爆発もその一つなのだ、クキ。そして、あの爆発による影響は……時間や空間すら歪めることも可能だったということもだ」
「時間? ツングースカの爆発がなんだって時間を歪めるんだ」
「残念ながら、そのメカニズムは現在をして研究中だ。ただ一ついえることは、間違いなくあの爆発により、あのツングースカ周辺では一時的に磁場、空間が歪み、時の流れが大きく変化したということだよ。ここまで追ってきたお前なら、もう私がいっていることにも察しがついてるんではないか?」
「タイムワープか……」
 ご名答といわんばかりに、レオンが薄暗い車中の中でもなぜかはっきりと口元を歪めているのが見て取れた。そうなのだ。俺が時間の流れを変化させるようなものを即座に思い浮かばせるものは、それくらいしかない。
 それとともに、俺の頭の中でカチリと、これまでのことがようやく一つになる音がしていた。これまで何度も出会ってきた、タイムワープの実験と、それに連なる形で奇妙な姿をした怪物たち……これらはこのツングースカで偶然に起きた事件が要因となり、連綿と現代にまで繋がってきていたのだ。
 俺がこれまで体験してきた全ての中に、それらを示す記憶や記録、事件が一瞬にして蘇ってくる。それは初めてその一端に触れることとなった、あの今井の件から始まり、イギリス滞在時のヘヴンズ・エクスタシー、狂気の科学者だった坂上とその同僚であるライアン・トーマスたちの実験やその関係、二人が関わったという一九八〇年代に行われたアメリカの実験、N市の真田が所有していたビル内にあった実験施設、武田とミスター・ベーアはもちろん各国に展開しつつあるという次世代兵器の一端である奇怪な生物たち……。
 おまけに、今度の空路でロシア国内に運ばれるはずだった、特殊な装置のために必要だという加速冷却装置もまた、粒子実験の際には必要なもので、かつ、それらはタイムワープの実験などには必要不可欠な部品でもあるというから、ここにもまたツングースカの因果が確実に根付いている。いや、一つのところに戻った、という印象の方が強い。
 ともかく、これらは関係ないようでいて全てが一本に繋がり、そのものの原因がここツングースカにある。ここから全てが始まり、それらに関わった全ての人間たちの人生や、時に運命すらも変えることにすらなった場所がこのツングースカの地だった。そして、それは俺の、沙弥佳の人生もまた同じだ。
「そうか……ここを地図上に載せないのは当然だな。この基地は、単なる最新鋭の設備や兵器の開発をしている基地とはまるでわけが違う。ここは、ツングースカの爆発時に起きたことを再現するための一つの巨大な装置なんだな。この規模はもちろん、地下とはいえ何メートルあるか知らないがあまりに深すぎる。
 以前、これと似たような場所に行ったことがある。そこも人目につかないよう海の底に造られ、螺旋状という一風変わった構造になってたがここも基地というには特異な構造になってるようだな。それに、心なしか進んでいるが少しばかりカーブしているように感じられるのは、ここがやはり同様に螺旋構造になっているからだ。
 そこから導き出されるのは、ここが基地というよりも巨大な実験施設だと見たほうが自然だ。それも、一世紀以上も前に起こったことを再現するための。そうとしか思えない」
 持論をぶちまけると、隣の遠藤は何を言っているのかという具合でこちらを見たが、レオンは至って真顔でかすかに首を縦にした。
「その通りだ。ここは世界で初となるタイムワープの実験場として建設されたのだ。西側の連中も、後に我々の行っている研究がどんなものなのかを知り、似たような研究をし始めたがね。
 無論、このような事実、普通なら到底信じられるようなものではない。だが、爆心地近くにいたという女についても全ては肯定され、それを元にあらゆる可能性を再現、構成するためのものなのだよ」
「爆発が起きて以来、ツングースカ・バタフライの周辺じゃぁ遺伝的な疾患を持つ動植物が見つかったっていうが、それももしかしてここでの実験が原因ってわけか」
「いいや、全てとはいわんがやはり爆発による影響が大きい。あくまで私たちは、その時の再現のために実験しているのだ。なぜか。それは……」
 言いかけたレオンの言葉を遮るように、運転手の男が目的となる場所についたと告げ、車両をさらに奥へと進めた。
「ふむ、着いたか。まぁいい。説明するよりも実際に見てもらったほうが話が早い。その上で話すとしようか。ここからは一端車から降りてからだ」
 そういった直後に停車した車両からレオンが降りた。言いかけた内容が気になるが、実際に見たほうがいいというのあればそうしてやろうではないか。俺は開けられた扉から外に出ると、突然目の前に広がった巨大なホールに目を奪われた。
「ここは……」
 広いなどとはいわず、巨大な空間と比喩するに相応しいほどの空間だった。そのあまりに広い空間を目の当たりにして、上下左右を見渡した。
 巨大なホールらしいが、広すぎるこの空間は決して明るいとはいえず、常に薄暗く、重苦しい雰囲気が漂っていた。足をつけた場所も金属製の床で、上を見上げれば薄暗い空間のためとはいえ真上は全く見えず、ただ暗闇だけがぽっかりと口を広げて、頼りなさげな光量の全てを吸い込んでしまっている。
 前後左右を見れば壁ははるか先にようやく見えるという具合で、今立っている場所から目先にある金属製と思われる壁までは、どう少なくても一キロか、あるいは二キロはあるように思われる。いや、この数値すら目視での測定などできないことから低く見積もった目測にすぎず、おそらく実際にはさらに離れていることは確実だった。
 ここが地下だということを思えば、ここにある全てのものが人工物であることは疑いなく、外でもないのにここまで巨大な空間を地下に築き上げるなどとても普通とはいえない。見渡す限り特別目立つものはなく、ただの巨大な空間といえば確かにそうなのだが、まるで、巨大な迷宮にでも迷いこんだような、そんな錯覚に陥ってしまうほどの巨大さだ。
 これまで自然の、外の景色以外にこんな空間を目にしたことがない俺は、その空間を見渡しながら息を呑んだ。それは降りてきた沙弥佳や遠藤も同じで、その無機質に広がる空間を唖然とした表情で眺めている。そんな俺たちの様子を、レオンはどこか自慢げな笑みを浮かべながらいった。
「ここは、この基地のもっとも重要な場所だ。四方を囲む壁までの半径は、およそ三一五〇メートル。つまり直径約六三〇〇メートルもある巨大な空間になる。これほどのものを作り上げるには、気の遠くなるような年月がかかったが、今ようやくそれが結実してきているというわけだな。
 忌々しいが、ここよりも巨大なものといえばCERNのものくらいで、あそこを除けばこれほどの実験場を持った一国家はないと自負しているよ。ちなみに数字は地球の半径のおよそ二〇〇〇分の一だ。素晴らしいだろう。ここにはツングースカで起きた爆発の再現をおよそ一〇分の一ほどの規模でだが、再現できるよう設計されてあるのだ」
「確かにすごいが、この国じゃツァーリ・ボンバのような世界最強の核兵器を保有してる。そんな連中だったら、これよりもさらに大きなシェルターくらい作れるだろう。自慢げにいうことはないんじゃないか」
「ふふ、そういうのも無理はない。だが、この実験基地はあくまでツングースカの爆発の再現と、そこから得られるデータの収集が主だ。もちろん、その最新のデータと装置を使った特殊な実験も行っているがね」
「人体実験もやってるってわけだ」
「ほう、なぜそう思うんだね」
「単純な話だ。女から人体への影響がないかどうかを調べたといったろう? この地で起きた爆発の再現のためってことは、爆心地近くで見つかったっていう女についてのデータも取るために生体実験の一つや二つ、おたくの国がやらないはずがない。こう見えても、この国の工作員に育てられたんでね、それくらいは知ってるぜ」
 ニヤリと含みのある笑みを浮かべた俺に、レオンはピクリと眉を動かすだけにとどまり、空間の中央のほうへと視線を向ける。
「……確かに、これよりもさらに広い実験場を作ることも可能だ。だが我々は、ある時爆発の規模が実際に不自然だったのではないかという可能性に気がついた。ツングースカ・バタフライと呼ばれる爆発痕に一つの疑問があり、これを証明するためにな」
「問題?」
「ああ。ツングースカで起きた爆発は、我々が計算より導き出された想定のものよりも、はるかに小さすぎたのだ。計算から導き出された結果、本来起こりうるエネルギーは実際の何十倍もあるはずなのだ。それが本当であれば、おそらく中央シベリアの何分の一かが地図上から消えていたはずだ。その焼失規模たるや、おそらく人類が記憶している限りでは最大のものになっていたに違いないのだ。にも関わらず、どう計算しても実際の被害規模とはまるで一致しない。
 これがどういう意味かわかるか、クキ」
「専門家ですら判らないのに、俺が判るはずがないぜ。どういう意味なんだ」
 このレオンという男は、本当に自尊心に満ちた奴だ。とにかく、分かりもしない人間に対して知っていることへの謎かけや自慢話が過ぎる。もちろん、過度になった愛国心もだ。
「いいや、やはり我が国の先達たちは偉大だよ。この疑問に対してもすでに答えを導き出している」
 大仰にいうレオンは、くつくつと少しばかり不気味にも思える含み笑いを漏らしながら、俺たちのほうへ振り向いた。
「答えはあの女さ、クキ。シベリアが焦土にならなかったのも、全てはあの女のおかげだったのだ。爆心地近くで倒れていたのは、あの女が爆発を食い止めたためなのだ。あの女……魔女と呼ばれる女によってな」
 突然笑うのを止め、真顔で答えたレオンの瞳は鋭い。なぜ旧ソ連の連中が女を拘束し、詳細なデータを取ろうとしていたのか……それが理由だったというのか。たった一人で、宇宙から音速をはるかに超えた来訪者の激突を防いだというのか。そんな与太話はいい加減にしろといいたいところだが、男の顔は至って真面目で、そこに真実が含まれているのだと確信させるものだった。



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