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紅心中

Mifa

II.

午前九時。きっちり開店一時間前。昨日と異なり、シャッターはすでに半分まで開いている。そこをくぐる背中が重い。
仄かなチーズの香りを感じ取り、途端に空腹感を覚えた。しかしそれは、昨晩襲いかかったそれよりもずっと小規模だ。



人間は、正確には「満たされた人種」は、本当の飢餓を知らない。それはとても幸福で、本来当たり前であるべきものだ。人間だけが、この地球上で唯一、飢えを回避できる知能を持っているのだから。
だが現実には違う。誰もが知る事実だからいちいち思考するまでもない。この星の何処かには、朝食のトーストすら手に出来ない者がごまんといる。



僕がその時気づいたのは、普段当たり前のように三食きっちり食事を摂っている者が、非日常的な食欲に襲われた時の話だ。
僕はこれまで、そういった危機に陥ったとき、「どんなものでもいいからとにかく食べたい」という衝動に駆られるものだと思っていた。しかし実際は違う。
僕はあの時確かに、「吟味した」のだ。今すぐ何かを食べたいほど飢えているのに、それが脂身の抜けた鶏肉なのか、上質な牛肉なのか、といった具合に、品質を選ぼうとしたのだ。



結局、一度得た幸福を人は手放すことが出来ない。特に、食という生に直結するものなら尚更だ。


「風邪が治ったら、お粥じゃなくて大好物をたらふく食べたい」


という感情が、それに最も近いのではないかと思う。
人間は極限の状況下に置かれても尚――いや、「それですら極限でない」からだろう――より良い選択を求めたがる。



シェイクスピア曰く、「どん底だなどと言っていられる間は、本当の底に立っていない」。



この世の全てが滅ぶと分かるときまでは、グルメな自分を諌めることなど出来ないのだろう。
だから僕は、彼女を食べられなかった。あの乾いた躯では満足できなかったのだ。そう解釈した。




つまり僕は、目の前に出されたバジルチーズのトーストを、失礼な話だが、作業的に平らげた。何の味も感じない。綿のようなパン。ぬるぬる滑る油。歯に引っかかるバジル。それだけだ。


「美味しくないかな?」


店長が僕の顔を覗き込む。しまった、表情に出ていただろうか。一瞬、言葉が見当たらなくなる。水を飲み込んで間を作り、懸命によそ行きの自分を作り出す。


「いえ、すみません。風邪でも引いたんですかね、あんまり食欲がなくて」


嘘だ。しかし真実を告げるわけにもいかない。牛の乳よりも、人間の肉が欲しいんです、と言えたなら、どれほど楽だろう。


「そうか……明日からまた冷え込むそうだから、無理だけはしないでほしいね」


自重します、と答え、エプロンを手に取る。



テーブル周りを掃除し、ナプキンや砂糖の補充を入念に行う。やはりノラの特等席が群を抜いて消費量が多い。ありったけ注ぎ込み、ふう、と息を吐く。時計が開店直前を指している。そろそろ、彼女とついでにジュリアも到着するだろう。
昨日のことがあって、僕はどんな顔をして会えばいいのか。自分から逃げておいて、緊張してしまう。


「おはようございまーす」


ジュリアが飛び込んでくる。激しく息を切らしつつ、時計を確認する。


「よっしゃ、最速記録更新!」


九時四十五分。確かに新記録だ。よもや十五分前に来るなんて。しかし本来、早番なら九時半からが定時だ。しかし、全員フルタイムとなっている現状、そんな細かいところまで突っ込んでもいられない。


「店長、あのう……」


ついで彼は、ちょっと語気を弱めつつ、後方を指差す。なんだろうか、と覗き込むと、


「は、入っていいですか」


がたがたと震える声が聞こえる。店長が頷き、シャッターが一気に押し上げられる。マナと、それからノラが入店する。


「あ、朝はやっぱり、寒いっす……ノラは平気なの?」


「別に、慣れてる。マナこそ、早起きした方がいい」


二人はいつの間にか、ごく自然な会話を交わす仲になっていた。昨日、二人きりの時に親密になったのか。どうにもピンとこないが、僕以外に友人が出来たのなら、喜ぶべきなのだろう。


「兄さん、今日こそラテアート、よろしく!」


マナはずかずかと店内を闊歩し、ノラ専用特等席に腰を下ろす。ノラも次いで、ゆったりとした足取りでそちらへ向かう。何と二人は、相席を選んだ。
僕としては、一日を経てあまりの変貌ぶりに戸惑うばかりだ。恐る恐る、二人の座る元へ歩み寄る。


「あの、ノラはどうされます?」


彼女はコートを空いた席にかけ、ストールは付けたまま、


「ブレンド、いつも通りで」


と注文をした。まるで昨晩の事が嘘だったように、いつも通りに。あれは夢だったのか、と思いかけるも、ストールの隙間から覗くそれを見て、そうではないのだと実感する。
首筋には、大きなガーゼがあてがわれている。
何か、彼女から言われはしないだろうか、とオーダーを抱えたまま立ちすくんでしまう。いっそ、罵られたり侮蔑された方が楽かもしれない。しかし彼女は、相変わらず無表情で、冷たくも弱々しい声色で、


「どうしたの」


と尋ねるだけだった。


「……すみません」


そう告げるだけで、精一杯だった。背後でマナが何かいちゃもんをつけているが、まるで耳に入らない。
混乱する脳内を何とかなだめて、ラテアートにだけ意識を集中させる。逃げ道は、そこにしかない。

          

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