紅心中
III.
喫茶店は午前十時に開店して、午後八時に閉店する。
のべ十時間の営業時間であるため、本来なら早番、遅番に振り分けて八時間ずつ、などとするのが一般的なのだろう。
しかし、はじめに僕が勤めだして、その少し後にジュリアが来た時、口を揃えて「そんなの必要ない」と言った。
僕もジュリアも、八時間が十時間になろうと、仮に十六時間くらいになったとしても、労働時間にこだわりは無かったのだ。
僕の場合は他にやることもない――贄を探す、という使命はあるにしても――から、最低限寝る時間さえあれば気にしない。
ジュリアはお金と休日さえ貰えたらそれでいい、という姿勢らしい。
当時、店長は「それじゃあ申し訳ないから、休憩を多めに取っていい」と伝え、実際僕らが業務に慣れて来た頃には自ら率先して席を外したりしていた。個人営業ならではなやり方だ。
ただ、今になって彼は後悔しているかもしれない。ジュリアはスキあらば怠ける。失敗はしないが努力もしない。こういうやつが一番厄介だ、と僕は店長に同情してしまう。
今日も今日とて、外がしっとりと薄暗くなる時分。
スーパーなら『蛍の光』が流れ出すだろうが、この店の場合はカーペンターズの『Close to You』が流れる。
閉めの作業に移りだす僕と店長。お会計を済ませる常連さん。サボるジュリア。全く気にせずコーヒーを啜るノラ。
現金を丁寧に捌く店長に、僕はこっそり耳打ちする。
「あの曲、流していいですか」
店内のBGMは、基本的に有線チャンネルを垂れ流しにしているのだが、実は機器に入力端子が付いているため、千円くらいのケーブルさえ用意してしまえば、自前の音楽プレイヤーを流すことも可能だ。
僕はこっそりウォークマンを持ってきて、ビートルズのホワイト・アルバムを選択する。
穏やかなメロディがそっと流れ出した時、店内にはもうノラしか残っていなかった。
ぼけっとしていたジュリアが、瞬間、目を見開いて僕の元へ駆け寄ってくる。
「ウルっち、それは勘弁してくれって言ったじゃん!」
学生のようにはしゃぐわけにはいかない。僕をカウンターの下にしゃがませ、出来るだけ小さな声で訴えてくる。
「サボった罰だよ」
こう言ってしまえば、彼は何も言い返せなくなる。多少の罪悪感や羞恥心はさすがに持っているらしく、途端に真面目な店員として働き出す。分かりやすいやつだ。
というのも、今流しているのは『Julia』。ジョンが亡き母親に向けた想いか、はたまた愛するオノ・ヨーコに向けたラブソングか。
どちらにせよ、結構な回数で「ジュリア」と囁いてくる歌だ。
ジュリアはこの歌が嫌いで、理由としては「男に口説かれたくない」との事だった。誰もお前の事と思っちゃいないよ、と言ったのだが、他にも逸話があるのかもしれない。友人に散々ネタにされた、とか。
しかし、曲そのものは良いものだ。単純ながら、まっすぐに音が伝わってくる。
しょぼくれたジュリアと、淡々と作業を続ける僕ら。時計の針が八時を少し過ぎた頃、ノラはようやく本を閉じ、カウンターの方を見た。
ぴくっと動作が止まり、彼女はしばし僕らをじっと見ていた。
やがて彼女は鞄に全ての荷物を詰め込み、さっとカウンターに歩み寄った。
「ごめん。閉店時間、知らなかった」
少しだけ頭を下げて、彼女は伝票を差し出した。無愛想だけれど、やはり礼儀正しい人だ。ただ少し、不器用なだけなのだ。
「いえ、丁度ぴったりですよ。ありがとうございます」
穏やかな口調で店長がレジスターを叩く。ちん、という音とともに、小銭が何枚か取り出される。
恐らく、このお釣り分も見越した上で、店長は換算を終えてあるのだろう。こういう手際の良さを、ジュリアにも覚えてもらいたいものだ。
ごちそうさま、と告げ、彼女は僕とジュリアの方に目を向ける。少し、天井の方を見て、つられて僕も上を見る。丁度、曲が鳴り終わる。
「良い歌だと思う」
表情こそ揺らぎ無く一定のままだが、その言葉に僕は驚き、ジュリアは息を呑んだ。
「明日から毎日聞こう……」
と呟くジュリアを他所に、僕はアルバム名を教えてあげた。
そう、とすっかり聞き慣れた返事をされ、帰るのかな、と少し寂しい気持ちになったところで、彼女は僕に歩み寄り、尋ねた。
「この辺り、CDショップってあるの」
「ええ、すぐ近くに」
「場所、教えてくれない」
ここ以外の場所に興味を持っていることに、僕は少し驚いた。この二日間を見ていたら、彼女はここと本屋と煙草屋くらいしか興味がないのだと思いこんでいたのだ。
しかし、僕は道案内が苦手だ。方角とか目印とか、そういうものを意識しておらず、景色全体を見て、感覚的に歩いている。
どうしたものか、と考えるが、すぐそばにいるにもかかわらず、店長が何も口にしないところを見て、察した。
ああなるほど、店長め。大人で、紳士的で、実に良い仕事ぶりだ。執事も向いていそうだ。
「もし宜しければ、案内致しますが」
はあ? と叫ぶジュリアと、小さく微笑む店長。
ノラは二人のリアクションに少しだけ驚きながら、僅かに目を伏せる。
「大丈夫なの」
「ええ。ウル君、後は任せておきなさい」
背中をぽん、と押され、僕は店長に頭を下げる。本当に出来た人だ、彼は。
エプロンを畳み、荷物を取りに戻る。ジュリアが文句を言うかもしれないが、幸いすでに殆どの作業は終わっている。
普段の行いの差だなあ、とつくづく真面目に働いてきた自分を褒めたくなる。
「お待たせしました、どうぞ」
扉を開け、彼女を通す。入り込む風は刃のように鋭く冷たい。
「お疲れ様です」
店長に笑顔で告げ、扉を閉める。まさか二日目にして、彼女と業務外の付き合いが生まれるとは。つくづく濃密な日々だと思う。
「それじゃあ、行きましょうか」
喋ると、口元から白い煙が湧き上がる。すっかり真冬ど真ん中だな、と気づく。
こくん、と呟く彼女は、取り出したマフラーに口元をうずめ、ロングコートのポケットに手をしまいこんで、すぐ隣を歩き出す。
のべ十時間の営業時間であるため、本来なら早番、遅番に振り分けて八時間ずつ、などとするのが一般的なのだろう。
しかし、はじめに僕が勤めだして、その少し後にジュリアが来た時、口を揃えて「そんなの必要ない」と言った。
僕もジュリアも、八時間が十時間になろうと、仮に十六時間くらいになったとしても、労働時間にこだわりは無かったのだ。
僕の場合は他にやることもない――贄を探す、という使命はあるにしても――から、最低限寝る時間さえあれば気にしない。
ジュリアはお金と休日さえ貰えたらそれでいい、という姿勢らしい。
当時、店長は「それじゃあ申し訳ないから、休憩を多めに取っていい」と伝え、実際僕らが業務に慣れて来た頃には自ら率先して席を外したりしていた。個人営業ならではなやり方だ。
ただ、今になって彼は後悔しているかもしれない。ジュリアはスキあらば怠ける。失敗はしないが努力もしない。こういうやつが一番厄介だ、と僕は店長に同情してしまう。
今日も今日とて、外がしっとりと薄暗くなる時分。
スーパーなら『蛍の光』が流れ出すだろうが、この店の場合はカーペンターズの『Close to You』が流れる。
閉めの作業に移りだす僕と店長。お会計を済ませる常連さん。サボるジュリア。全く気にせずコーヒーを啜るノラ。
現金を丁寧に捌く店長に、僕はこっそり耳打ちする。
「あの曲、流していいですか」
店内のBGMは、基本的に有線チャンネルを垂れ流しにしているのだが、実は機器に入力端子が付いているため、千円くらいのケーブルさえ用意してしまえば、自前の音楽プレイヤーを流すことも可能だ。
僕はこっそりウォークマンを持ってきて、ビートルズのホワイト・アルバムを選択する。
穏やかなメロディがそっと流れ出した時、店内にはもうノラしか残っていなかった。
ぼけっとしていたジュリアが、瞬間、目を見開いて僕の元へ駆け寄ってくる。
「ウルっち、それは勘弁してくれって言ったじゃん!」
学生のようにはしゃぐわけにはいかない。僕をカウンターの下にしゃがませ、出来るだけ小さな声で訴えてくる。
「サボった罰だよ」
こう言ってしまえば、彼は何も言い返せなくなる。多少の罪悪感や羞恥心はさすがに持っているらしく、途端に真面目な店員として働き出す。分かりやすいやつだ。
というのも、今流しているのは『Julia』。ジョンが亡き母親に向けた想いか、はたまた愛するオノ・ヨーコに向けたラブソングか。
どちらにせよ、結構な回数で「ジュリア」と囁いてくる歌だ。
ジュリアはこの歌が嫌いで、理由としては「男に口説かれたくない」との事だった。誰もお前の事と思っちゃいないよ、と言ったのだが、他にも逸話があるのかもしれない。友人に散々ネタにされた、とか。
しかし、曲そのものは良いものだ。単純ながら、まっすぐに音が伝わってくる。
しょぼくれたジュリアと、淡々と作業を続ける僕ら。時計の針が八時を少し過ぎた頃、ノラはようやく本を閉じ、カウンターの方を見た。
ぴくっと動作が止まり、彼女はしばし僕らをじっと見ていた。
やがて彼女は鞄に全ての荷物を詰め込み、さっとカウンターに歩み寄った。
「ごめん。閉店時間、知らなかった」
少しだけ頭を下げて、彼女は伝票を差し出した。無愛想だけれど、やはり礼儀正しい人だ。ただ少し、不器用なだけなのだ。
「いえ、丁度ぴったりですよ。ありがとうございます」
穏やかな口調で店長がレジスターを叩く。ちん、という音とともに、小銭が何枚か取り出される。
恐らく、このお釣り分も見越した上で、店長は換算を終えてあるのだろう。こういう手際の良さを、ジュリアにも覚えてもらいたいものだ。
ごちそうさま、と告げ、彼女は僕とジュリアの方に目を向ける。少し、天井の方を見て、つられて僕も上を見る。丁度、曲が鳴り終わる。
「良い歌だと思う」
表情こそ揺らぎ無く一定のままだが、その言葉に僕は驚き、ジュリアは息を呑んだ。
「明日から毎日聞こう……」
と呟くジュリアを他所に、僕はアルバム名を教えてあげた。
そう、とすっかり聞き慣れた返事をされ、帰るのかな、と少し寂しい気持ちになったところで、彼女は僕に歩み寄り、尋ねた。
「この辺り、CDショップってあるの」
「ええ、すぐ近くに」
「場所、教えてくれない」
ここ以外の場所に興味を持っていることに、僕は少し驚いた。この二日間を見ていたら、彼女はここと本屋と煙草屋くらいしか興味がないのだと思いこんでいたのだ。
しかし、僕は道案内が苦手だ。方角とか目印とか、そういうものを意識しておらず、景色全体を見て、感覚的に歩いている。
どうしたものか、と考えるが、すぐそばにいるにもかかわらず、店長が何も口にしないところを見て、察した。
ああなるほど、店長め。大人で、紳士的で、実に良い仕事ぶりだ。執事も向いていそうだ。
「もし宜しければ、案内致しますが」
はあ? と叫ぶジュリアと、小さく微笑む店長。
ノラは二人のリアクションに少しだけ驚きながら、僅かに目を伏せる。
「大丈夫なの」
「ええ。ウル君、後は任せておきなさい」
背中をぽん、と押され、僕は店長に頭を下げる。本当に出来た人だ、彼は。
エプロンを畳み、荷物を取りに戻る。ジュリアが文句を言うかもしれないが、幸いすでに殆どの作業は終わっている。
普段の行いの差だなあ、とつくづく真面目に働いてきた自分を褒めたくなる。
「お待たせしました、どうぞ」
扉を開け、彼女を通す。入り込む風は刃のように鋭く冷たい。
「お疲れ様です」
店長に笑顔で告げ、扉を閉める。まさか二日目にして、彼女と業務外の付き合いが生まれるとは。つくづく濃密な日々だと思う。
「それじゃあ、行きましょうか」
喋ると、口元から白い煙が湧き上がる。すっかり真冬ど真ん中だな、と気づく。
こくん、と呟く彼女は、取り出したマフラーに口元をうずめ、ロングコートのポケットに手をしまいこんで、すぐ隣を歩き出す。
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