紅心中
V.
僕が休憩を終えると、彼女も元いた隅っこの席に戻っていった。
無口なのかと思っていたけれど、話してみればそうでもない。何か話せば何か答えてくれるし、素っ気ないとはいえ素直なやり取りだった。
喜ぶかな、と思い、もう一度『スカボロー・フェア』を流す。彼女は変わらず文庫本を読みながら煙草に手を伸ばすばかりだ。
フランツ・カフカの『審判』。表紙のカバーは付けていないが、視力には自信がある。
随分暗い小説を読んでいるのだな、と思った。
そろそろ夕日が街を赤々と照らそうか、という頃、彼女は本を閉じ、席を立った。九時の開店から、かれこれ八時間。コーヒー五杯。飲みっぷりは程々に、殆ど座りっぱなしの吸いっぱなしであった。
お会計を終え、扉に手を掛けたところで、彼女の動きが止まった。
「ねえ、店員さん」
「はい」
僕をご指名だ。
「貴方、名前は?」
「ウルと申します」
名前を訊かれるのはそう珍しくもない。ただ、そう尋ねてくる客はほぼ確実に常連になる。
「そう」
と今日何度目かも分からない素っ気ない返事をしてから、一度うつむき、何かを考え終えたのか、また顔をあげて、
「私、ノラ。明日も来る」
ごちそうさま、と独り言のように呟きながら、彼女――いや、ノラは去っていった。
「面白い子だね」
と店長も珍しくお客さんの話を振ってきた。
「変わってますね」
僕も率直な感想で返す。
「それは僕らもお互い様だよ」
「それもそうですね」
誰もいなくなった店内を見渡して、ああそうだ、とノラの残した灰皿を回収する。
茶色く、虎柄のようにまだらな模様の入ったフィルターと、ごくごく普通のただ茶色いフィルター。二種類の吸い殻がごった煮になっていて、何とも言い難い香りを放っている。
それらを廃棄して、テーブルの清掃に入る。
すう、と不意に息を吸い込むと、ジャルムのあの強烈な匂いの残り香が鼻を付く。しかし、すっかり薄まったからか、咳き込むほどのしつこさはない。
「案外、悪くないかも」
呟きながら、僕は思い返す。
「明日も来る」
という言葉。そうか。明日も来てくれるのか。
特定のお客さんに興味を持つなんて、初めてのことだ。少し、口元が緩んでしまう。
それが一つの「恋」であること、そして「悲劇」であることなど、その時の僕に耳打ちしたって信じやしないだろう。
だって僕は、『贄』を探すためにその街にやってきたのだから。それが、何を意味するか。
それすら考えていなかった。もしくは理解出来ていなかった僕に、「恋」なんて概念まで理解できるはずがなかったのだ。
つまりこれは、出会った時点で終わっていた。踏み入れた瞬間に行き止まりが見えていたはずなのだ。
愚かにも僕は、高層建築物の屋上から地面を見下ろすその時になるまで、何も分かっていなかった。
Chapter 1 - END.
無口なのかと思っていたけれど、話してみればそうでもない。何か話せば何か答えてくれるし、素っ気ないとはいえ素直なやり取りだった。
喜ぶかな、と思い、もう一度『スカボロー・フェア』を流す。彼女は変わらず文庫本を読みながら煙草に手を伸ばすばかりだ。
フランツ・カフカの『審判』。表紙のカバーは付けていないが、視力には自信がある。
随分暗い小説を読んでいるのだな、と思った。
そろそろ夕日が街を赤々と照らそうか、という頃、彼女は本を閉じ、席を立った。九時の開店から、かれこれ八時間。コーヒー五杯。飲みっぷりは程々に、殆ど座りっぱなしの吸いっぱなしであった。
お会計を終え、扉に手を掛けたところで、彼女の動きが止まった。
「ねえ、店員さん」
「はい」
僕をご指名だ。
「貴方、名前は?」
「ウルと申します」
名前を訊かれるのはそう珍しくもない。ただ、そう尋ねてくる客はほぼ確実に常連になる。
「そう」
と今日何度目かも分からない素っ気ない返事をしてから、一度うつむき、何かを考え終えたのか、また顔をあげて、
「私、ノラ。明日も来る」
ごちそうさま、と独り言のように呟きながら、彼女――いや、ノラは去っていった。
「面白い子だね」
と店長も珍しくお客さんの話を振ってきた。
「変わってますね」
僕も率直な感想で返す。
「それは僕らもお互い様だよ」
「それもそうですね」
誰もいなくなった店内を見渡して、ああそうだ、とノラの残した灰皿を回収する。
茶色く、虎柄のようにまだらな模様の入ったフィルターと、ごくごく普通のただ茶色いフィルター。二種類の吸い殻がごった煮になっていて、何とも言い難い香りを放っている。
それらを廃棄して、テーブルの清掃に入る。
すう、と不意に息を吸い込むと、ジャルムのあの強烈な匂いの残り香が鼻を付く。しかし、すっかり薄まったからか、咳き込むほどのしつこさはない。
「案外、悪くないかも」
呟きながら、僕は思い返す。
「明日も来る」
という言葉。そうか。明日も来てくれるのか。
特定のお客さんに興味を持つなんて、初めてのことだ。少し、口元が緩んでしまう。
それが一つの「恋」であること、そして「悲劇」であることなど、その時の僕に耳打ちしたって信じやしないだろう。
だって僕は、『贄』を探すためにその街にやってきたのだから。それが、何を意味するか。
それすら考えていなかった。もしくは理解出来ていなかった僕に、「恋」なんて概念まで理解できるはずがなかったのだ。
つまりこれは、出会った時点で終わっていた。踏み入れた瞬間に行き止まりが見えていたはずなのだ。
愚かにも僕は、高層建築物の屋上から地面を見下ろすその時になるまで、何も分かっていなかった。
Chapter 1 - END.
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