蝋燭に消える物語

Mifa

青女と逝女

それは年が明けようとしていた頃。第二次世界大戦が始まった、という報せが届いた。
もしかしたら、ナチスドイツはこの国も侵略の対象とするかもしれない、というおまけ付で。



移住しよう。村の面々は即座に決意した。元々、ここもかつては戦争から避難してきて築いたと聞いていたから、いざという時は安全圏まで逃げる、と決めていたのかもしれない。



持てるだけの物資を持ち、牧場の生き物も売り飛ばし、みな支度を急いだ――ゲルダを除いて。


「ゲルダ、もうじき移動を開始するって」


「そう」


これまでと何も変わらず、彼女は椅子に腰掛け本を読んでいた。


「支度はできているの?」


「元から荷物は少ないから大丈夫」


「でも、鞄が無いよ」


「……あのねアンナ、私は一緒に行けない」


「どうして」


「私はみんなほど早く動けない」


「そんなの、私が担いでいくよ」


「私、ここで死にたい……って言っても?」


意を決したように、彼女は立ち上がった。左腕を支えにして、ゆっくりと。


「腕が……動くの?」


「生まれてから一度も、動かなかった日はないよ」


巻き付けていた布が外れ、透き通った肌が顕になる。くるりと内側を見せられて、私は戸惑いの声を上げた。
切り傷と、焼け爛れた赤黒い傷痕、そしてその先に――あるべき指が、一本も無かった。


「そ、それは……?」


「自分で切り落としたの」


「どうして」


「お金になるから」


彼女は、両親を早くに亡くしていた。唯一の身内である祖母も亡くし、生き抜くあてが何もなかった。その時、自身の指を切り落とし、暴力に飢えた富裕層に売りつけることでお金を得た……淡々と、そう説明された。



それ以外の傷痕は、その時の恐怖をふと思い出してしまい、衝動的にやったのだと。笑いもせず、泣きもせず、彼女は語った。


「そんな、そんな、ゲルダ」


「ゲルダじゃない。私の名前はマリア。貴方だけに教えてあげる」


左腕を再び布で包んで、そうしてようやく、笑顔を見せた。しかし、ちっとも落ち着かない。
まるでこれまでの「ゲルダ」は嘘で、今目の前にいる「マリア」こそが彼女の本当の姿なのだと、この冷たく悲しい少女こそが真実なのだと、そう言われているみたいで。
私は泣けばいいのか笑えばいいのか、ひどく混乱していた。


「どのみち、もう会えない事は明らかだから。やっと言えた」


「それは……教えてくれてありがとう。でも、私はマリアと離れたくない」


「私だって同じだよ。でも、動けない上、荷物も運べない女を連れていけるほど、悠長な旅でもないんでしょう」


荷馬車をいくつも頼むわけにはいかない。最低限の物資と、老人や子供を乗せたらそれで満員だ。確かに、彼女は徒歩で移動せざるを得ない。しかしだからといって、見捨てるわけにはいかない。


「おい二人共、行くぞ」


村長が家に押しかける。どうにか助け舟を出してもらおう、と私はそちらへ駆け寄った。


「先に行ってください、まだ支度が整っていませんから」


努めて冷淡に、マリアは呟いた。


「何言ってんだ、五分やるから急げ」


「いえ、ですから、私は大丈夫ですから」


「阿呆、お前一人置いていけるか。嫌だと言うなら担いででも行く」


私と同じ台詞を吐いた村長に、彼女はぷっと吹き出した。おかしな人、と優しく言いながら。


「どうして、みんなそんなに優しいのかな」


結局彼女は、私達二人に半ば無理やり連れて行かされた、とここでは表記しておこう。一度は決心した彼女の覚悟を尊重して。



私たちは無事、被害の少ない土地まで避難できた。私とマリアの物語は、ここで幕を閉じる。
ここから先は、記録に過ぎない。物語にすることは出来ない。ただ、彼女はその後どうしたか、その証拠だけはしっかりと刻んでおきたいのだ。



それから十数年、戦争後も私達は共に生活していた。ところが、彼女は流行病に倒れた。熱と咳が酷く、何日も虚ろな目で天井を見つめていた。



いよいよ山か、という時分。その日はちょうど、散歩に出かけていた時のように、見事なまでの晴天であった。
マリアは鞄を指差した。初めて出会った日から、ずっと持っていたそれを。彼女の側まで持ってくると、中から小さな箱を取り出した。


「これは、私の分身。寂しくなったら、これを使って」


それは、古いマッチ箱であった。湿気てはいない。諦めないで、と声をかける私に、彼女は苦笑いしながら右手を掲げた。


「本にあったんだけどね、東方には、ゆびきりげんまんっていう文化があるらしいの。約束事をするための儀式。ねえアンナ、約束して。私の過去は、誰にも言わないって」


うん、うん、約束する。だから、だからそんな言い方やめて。涙ぐみながら、繰り返し言い聞かせる。
右手の小指で輪を作り、交差しあう。彼女の指は大層暖かく、そしてそれが、最初で最後、彼女の躯に触れた瞬間であった。



——これは記録だ。彼女がかつてこの世界で生きていたという、ただひとつの証だ。
しかし、これは誰にも明かす事はできない。だって、約束をしたから。彼女の友人として、せめてもの贈り物として、私だけが胸の内に秘める文書だ。



私は小さなマッチ箱を取り出し、蝋燭に火を灯す。そっと紙の先を当てると、記憶と記録の物語は瞬く間に灰になった。
それらをかき集め、私は外へ出る。彼女の眠る場所へと向かうために。誰にも知られることのない、誰も知らない物語を、彼女へ贈るために。



まだ空では太陽が陣取っている時分だ。陽射しを遮る私の掌には、きちんと五本、指が付いている。あの時交わしたゆびきりの温もりは、未だここに残っている。



マリア、安心して。場所も人も変わってゆくけれど、それでもあなたは、「ゲルダ」という少女の姿のまま、私達の記憶に残り続けているから。

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