君が生まれた日
君が生まれた日
今年も出雲に桜が咲く。
チカは母になり、何度目かの春を迎えていた。
刑務所の中庭の木製ベンチ。
読みかけの本を膝に置き、チカは空を見上げる。
初めて出雲に足を踏み入れた時も、こんな雲ひとつない青空で。
春風に桜が舞っていた。
陽光に目を閉じる。
瞼の裏が赤く染まる。
その赤が、暗闇に変わる。
驚いて目を開くと、そこには見知った顔があった。
「……ミトシ?」
キノカやヤノハに何かあったのだろうか。
不安の色を浮かべるチカ。
それを知ってか知らずか、相手はチカの長い髪を撫でる。
その手が、チカの腰を強引に抱き寄せた。
「む……?」
いつもは触ろうとしないミトシ。
しかし今日は違う。
「どうしたのじゃ……」
戸惑うチカの耳に唇が触れた。
「……っ!」
敏感な場所を攻められ、チカは抵抗も出来ない。
「や……ミト……」
「……カワイイね、チカ」
耳元で囁かれた甘い言葉と優しい口調は、明らかにミトシのものではない。
「へ……?」
「僕だよ、僕」
「オオ……トシ?」
「そ、オオトシ」
政務で寝る暇もないはずのオオトシが、なぜ真昼間から刑務所に居るのか。
夢でも見ているだろうか。
「夢じゃないよ。現実」
「どうしたのじゃ?何かあったのか?」
「何かないと、チカに逢いに来ちゃいけないの?」
「そうではないが……」
不安が拭いきれないチカに、オオトシは微笑む。
「大丈夫。出雲は平和だよ」
「それは何よりじゃ。しかし平和でも忙しいおぬしが、なぜここに居る?」
「それは……その……」
珍しく言葉に詰まるオオトシ。
余程、言いにくい理由なのか。
「わしには言えぬのか?」
拗ねたように言うと、オオトシは苦笑した。
そして、観念したように口を開く。
「……妻がね」
妻、とはオオトシの正妻であるカヨのことだ。
チカは逢ったことがないが、この浮気性のオオトシの妻である。
よほど出来た女性なのだろう。
「奥方が?」
「たまには、チカに逢いに行けって」
「そうか……」
「僕も逢いたかったから来たんだけど」
「仕事を放り出してまでか?」
「大丈夫。仕事はヤマトに代わって貰ってるから」
オオトシの長男であるヤマト。
逢ったことはないが、真面目で優秀な男だと聞いている。
「……すまぬな」
「ん?なんでチカが謝るの?」
「オオトシの仕事の邪魔をして、ヤマトの負担を増やした」
「そんなこと気にしなくていいのに」
「顔を見れただけでわしは嬉しい。もう帰れ。奥方によろしくな」
チカの小さな手がオオトシの胸を押す。
本当は、もっと傍に居たい。
が、オオトシの荷物にはなりたくない。
そんなチカに、オオトシはため息をついた。
「相変わらずだね、チカは。甘え下手」
「わしは……」
大きな瞳に影が落ちる。
「甘え方を……知らぬ」
「チカ……」
幼い頃からひとりぼっち。
ひたすら武術を叩き込まれ、暗殺者として生きるしかなかった。
「知らないなら、これから覚えればいい」
「無理じゃ。出来るわけがない」
「チーカー」
オオトシの人差し指が、チカの口角を無理やり押し上げた。
「笑って」
「……」
「笑ってよ、チカ」
チカの瞳に涙が浮かぶ。
ずっと、ずっと逢いたかった愛しい人。
泣き顔を見せたくなくて、その胸に顔を埋める。
「……泣いてるの?」
「……泣いてなどおらぬ」
今度は、いつ逢える?
逢えなかった長い年月を思うと、チカは気が遠くなった。
離したくない。
離れたくない。
それはオオトシも同じだった。
「これからは……そうだな。毎年、チカの誕生日に逢いに来るから」
「誕生日……?」
「チカが生まれた日。いつ?」
「……」
問われて、黙り込んだチカ。
誤魔化すように、オオトシに擦り寄る。
「そっか……。わかった」
チカに子供以外の家族は居ない。
自分がいつ、どこで生まれたのか知らないのだろう。
「じゃあ、こうしよう。僕と初めて逢った日が、チカの誕生日」
「……うむ」
「誕生日には、何が欲しい?」
子どもをあやすように、チカの髪を撫で続けるオオトシ。
チカの細い腕が、オオトシの背中に回される。
「……し」
「ん?」
「おぬしが……欲しい」
「……もしかして、誘ってる?」
チカが顔を上げる。
潤んだ青い瞳は、肯定以外の何物でもない。
真昼間の刑務所の中庭。
さすがのオオトシも、ここでチカを押し倒すわけには行かず。
「わかった。今度、チカが外出できるように手続きするから」
「今じゃ」
「え?」
「今……欲しい」
「チカ……」
この美しい少女の全てを奪いたい衝動を必死に抑え、オオトシはチカの額に口づける。
「……誤魔化しおって」
「チカだって、本気じゃないくせに」
その言葉に、チカはイタズラな笑みを浮かべた。
「何年も放ったらかした仕返しじゃ」
「それは悪かったと思ってるよ。でも」
「でも?なんじゃ」
「チカに逢ったら……また抱きたくなる」
「む……」
「もう苦労させたくないから」
「……愚か者め」
白く小さな手が、オオトシの頬を包んだ。
「わしは……おぬしの子なら何人でも産んでやる」
「え……」
「体だけは丈夫じゃからな!」
にっ、と明るく笑って見せるチカ。
そんなチカに、今度はオオトシが涙目になる。
「チカぁ……」
「泣くな!いい歳をして……」
服の袖でオオトシの涙を拭う。
どちらが年上か分からない。
「まったく。世話のやける男じゃな」
「……うん」
母親に甘えるように、オオトシはチカに抱きついた。
親子ほど年の離れたチカ。
しかし、不思議と彼女の前では素顔をさらけ出せる。
ベンチに座り直したチカの膝で、いつしかオオトシは寝息を立てていた。
大きな子どもの髪を、チカはそっと撫でる。
疲れた横顔。
それは日頃の激務を物語っていた。
宮廷では心休まることが無いのだろう。
自宅にはほとんど帰っていないようだし、きちんと食べて寝ているのだろうか。
心配は尽きない。
スサノオを王に据えたのはオオトシ。
国の内外に敵も多い。
「わしが傍に居れたら……護れるのにの」
愛しいオオトシ。
彼を護れるのならば、チカは何でもする。
それは誰にも出来ない、チカだけの特権。
しかし、スサノオを暗殺しようとしたチカが宮廷に入れるはずもない。
「わしは何の役にも立たぬ……」
呟いたチカの手に、オオトシの温かな手が重なる。
いつの間にか起きていたらしい。
「……すまぬ。起こしたか」
「チカは役立たずなんかじゃないよ」
「……聞いておったのか」
膝の上で仰向けになったオオトシと視線が合う。
惚れ惚れするような美しい顔立ちが見上げて来た。
チカは思わず目を逸らす。
「僕は、チカが居るから頑張れる」
「おぬしは頑張りすぎじゃ。少しは自分の体のことも考えろ」
「大丈夫。体力あるし」
「もう若くはないのじゃから」
「オジサン扱いしないでよ」
「わしから見たらオジサンじゃ」
「そのオジサンに惚れてるのは誰?」
意地悪な質問だ。
しかし、チカも負けない。
「……わしじゃな。我が子のような歳の少女に手を出して、挙句の果てに孕ませるような最低の中年男に、何で惚れたのかわしにも分からん」
「男女の仲なんて、そんなものだよ」
「そうかの」
「チカの膝枕は、よく眠れる」
「そうか」
「宮廷に連れて帰りたいよ」
「……出来もせぬことを」
「スサノオさまも、そろそろかな」
オオトシの言葉の意味が分からず、チカは顔を曇らせる。
「スサノオさまが王座を退けば、チカの罪も許される」
「っ!」
チカは慌てて、両手でオオトシの口を塞いだ。
誰かに聞かれたら大変なことになる。
「滅多なことを言うな!馬鹿かおぬしは!だいたい、スサノオを王に据えたのはおぬしじゃろうが!」
口を塞ぐチカの手を、オオトシは容易く引き剥がす。
そして起き上がると、正面からチカに顔を寄せ、言った。
「だから。退けるのも僕なんだよ」
いつもと同じ笑顔。
しかし、それはチカが知るオオトシではなかった。
「あ……」
本能が危険を告げる。
背筋を冷や汗が流れる。
「チカ?」
「ちがう……」
「なにが違うの?」
「わしのオオトシは……国のことだけを考えて……」
「そうだよ」
「……違う!」
「違わない」
「ちがう……」
チカは幼子のように泣き出した。
チカの知るオオトシはただの女好きで、調子のいい男で。
こんな、ドス黒い野心を滲ませるような男ではなかった。
「チカ。泣かないで」
「……」
「僕はスサノオさまが大切だ。でも」
「……?」
「それ以上に、この国が大事で」
「……」
「チカが大事で」
「……」
「だから。たとえスサノオさまであっても、チカや民を苦しめるのなら、退位して頂く」
「……」
「スサノオさまと刺し違えてでも。それが、僕の責任であり役目だと思ってる」
オオトシの覚悟を初めて知ったチカは、喜んでいいのか悲しんでいいのか分からなかった。
確かなのは、チカが見ていたオオトシは、彼の一面でしかなかったということ。
「僕が怖い?」
「……」
「もう、逢わない方がいい?」
そう問われて、チカは首を左右に振っていた。
これくらいのことで嫌いになれる相手ではない。
「そっか。ことが成ったら、チカと、キノカとヤノハと暮らしたい」
「……ダメじゃ」
「え?なんで?」
「おぬしには、帰る場所がある」
それは正妻の待つ家のことだろう。
チカの律儀さは筋金入りだ。
「うーん……。じゃあ、みんなで暮らせばいい」
「……馬鹿なのか、おぬしは。正妻と愛人を同居させる馬鹿がどこに居る」
「カヨとチカ、上手くやれると思うんだけど」
「む……」
「何より僕が幸せ」
「勝手な男じゃな」
気づくとチカは泣き止んでいた。
オオトシは、オオトシだ。
女にだらしなくて、自分勝手で。
チカは、そんなオオトシに惚れたのだ。
「さて。そろそろ戻らないと」
「もう帰るのか?」
まだ来たばかりなのに。
「ヤマトに、いつまでも仕事を任せられないし」
「そうか……」
「そんな顔しないでよ。帰れなくなる」
「……すまぬ」
「チーカー」
何を思ったのかオオトシは、チカを抱き上げた。
子どもに高い高いをするように、軽々と。
小柄で細身のチカは確かに軽いのだが、同じく細身のオオトシ。
それでも、チカを持ち上げる力はあるようだ。
しかし、チカはもう大人である。
高い高いをされて喜ぶ年齢ではない。
「……降ろせ」
「やだ」
「子ども扱いしおって」
「怒った顔もカワイイ」
「む……」
「殴って欲しい」
「黙れ変態」
「酷いなぁ」
罵られても嬉しそうなオオトシは、ようやくチカを地面に降ろした。
「じゃあ、またね」
「……うむ」
「元気でね」
「……おぬしも」
大きな手がチカの頭を撫でる。
その手が離れ、オオトシは背を向けた。
愛しい人の後ろ姿が見えなくなるまで、チカは瞬きもせずに立ち尽くす。
悲しいのに、涙は出なかった。
春風が頬を撫でる。
乱れる髪を、手ぐしで整える。
次に逢えるのは1年後。
その時は、思いっきり甘えよう。
「……それくらいは許されるか?わしにも」
暗殺を失敗し、自暴自棄になっていたチカに、生きる道を示してくれたのはオオトシ。
オオトシに愛され、チカは初めて死を恐れた。
人間らしい感情が芽生えた。
「わしが生まれた日……か」
それは、何があっても生きようと思えた日。
忘れてはいけない記念日。
【終】
チカは母になり、何度目かの春を迎えていた。
刑務所の中庭の木製ベンチ。
読みかけの本を膝に置き、チカは空を見上げる。
初めて出雲に足を踏み入れた時も、こんな雲ひとつない青空で。
春風に桜が舞っていた。
陽光に目を閉じる。
瞼の裏が赤く染まる。
その赤が、暗闇に変わる。
驚いて目を開くと、そこには見知った顔があった。
「……ミトシ?」
キノカやヤノハに何かあったのだろうか。
不安の色を浮かべるチカ。
それを知ってか知らずか、相手はチカの長い髪を撫でる。
その手が、チカの腰を強引に抱き寄せた。
「む……?」
いつもは触ろうとしないミトシ。
しかし今日は違う。
「どうしたのじゃ……」
戸惑うチカの耳に唇が触れた。
「……っ!」
敏感な場所を攻められ、チカは抵抗も出来ない。
「や……ミト……」
「……カワイイね、チカ」
耳元で囁かれた甘い言葉と優しい口調は、明らかにミトシのものではない。
「へ……?」
「僕だよ、僕」
「オオ……トシ?」
「そ、オオトシ」
政務で寝る暇もないはずのオオトシが、なぜ真昼間から刑務所に居るのか。
夢でも見ているだろうか。
「夢じゃないよ。現実」
「どうしたのじゃ?何かあったのか?」
「何かないと、チカに逢いに来ちゃいけないの?」
「そうではないが……」
不安が拭いきれないチカに、オオトシは微笑む。
「大丈夫。出雲は平和だよ」
「それは何よりじゃ。しかし平和でも忙しいおぬしが、なぜここに居る?」
「それは……その……」
珍しく言葉に詰まるオオトシ。
余程、言いにくい理由なのか。
「わしには言えぬのか?」
拗ねたように言うと、オオトシは苦笑した。
そして、観念したように口を開く。
「……妻がね」
妻、とはオオトシの正妻であるカヨのことだ。
チカは逢ったことがないが、この浮気性のオオトシの妻である。
よほど出来た女性なのだろう。
「奥方が?」
「たまには、チカに逢いに行けって」
「そうか……」
「僕も逢いたかったから来たんだけど」
「仕事を放り出してまでか?」
「大丈夫。仕事はヤマトに代わって貰ってるから」
オオトシの長男であるヤマト。
逢ったことはないが、真面目で優秀な男だと聞いている。
「……すまぬな」
「ん?なんでチカが謝るの?」
「オオトシの仕事の邪魔をして、ヤマトの負担を増やした」
「そんなこと気にしなくていいのに」
「顔を見れただけでわしは嬉しい。もう帰れ。奥方によろしくな」
チカの小さな手がオオトシの胸を押す。
本当は、もっと傍に居たい。
が、オオトシの荷物にはなりたくない。
そんなチカに、オオトシはため息をついた。
「相変わらずだね、チカは。甘え下手」
「わしは……」
大きな瞳に影が落ちる。
「甘え方を……知らぬ」
「チカ……」
幼い頃からひとりぼっち。
ひたすら武術を叩き込まれ、暗殺者として生きるしかなかった。
「知らないなら、これから覚えればいい」
「無理じゃ。出来るわけがない」
「チーカー」
オオトシの人差し指が、チカの口角を無理やり押し上げた。
「笑って」
「……」
「笑ってよ、チカ」
チカの瞳に涙が浮かぶ。
ずっと、ずっと逢いたかった愛しい人。
泣き顔を見せたくなくて、その胸に顔を埋める。
「……泣いてるの?」
「……泣いてなどおらぬ」
今度は、いつ逢える?
逢えなかった長い年月を思うと、チカは気が遠くなった。
離したくない。
離れたくない。
それはオオトシも同じだった。
「これからは……そうだな。毎年、チカの誕生日に逢いに来るから」
「誕生日……?」
「チカが生まれた日。いつ?」
「……」
問われて、黙り込んだチカ。
誤魔化すように、オオトシに擦り寄る。
「そっか……。わかった」
チカに子供以外の家族は居ない。
自分がいつ、どこで生まれたのか知らないのだろう。
「じゃあ、こうしよう。僕と初めて逢った日が、チカの誕生日」
「……うむ」
「誕生日には、何が欲しい?」
子どもをあやすように、チカの髪を撫で続けるオオトシ。
チカの細い腕が、オオトシの背中に回される。
「……し」
「ん?」
「おぬしが……欲しい」
「……もしかして、誘ってる?」
チカが顔を上げる。
潤んだ青い瞳は、肯定以外の何物でもない。
真昼間の刑務所の中庭。
さすがのオオトシも、ここでチカを押し倒すわけには行かず。
「わかった。今度、チカが外出できるように手続きするから」
「今じゃ」
「え?」
「今……欲しい」
「チカ……」
この美しい少女の全てを奪いたい衝動を必死に抑え、オオトシはチカの額に口づける。
「……誤魔化しおって」
「チカだって、本気じゃないくせに」
その言葉に、チカはイタズラな笑みを浮かべた。
「何年も放ったらかした仕返しじゃ」
「それは悪かったと思ってるよ。でも」
「でも?なんじゃ」
「チカに逢ったら……また抱きたくなる」
「む……」
「もう苦労させたくないから」
「……愚か者め」
白く小さな手が、オオトシの頬を包んだ。
「わしは……おぬしの子なら何人でも産んでやる」
「え……」
「体だけは丈夫じゃからな!」
にっ、と明るく笑って見せるチカ。
そんなチカに、今度はオオトシが涙目になる。
「チカぁ……」
「泣くな!いい歳をして……」
服の袖でオオトシの涙を拭う。
どちらが年上か分からない。
「まったく。世話のやける男じゃな」
「……うん」
母親に甘えるように、オオトシはチカに抱きついた。
親子ほど年の離れたチカ。
しかし、不思議と彼女の前では素顔をさらけ出せる。
ベンチに座り直したチカの膝で、いつしかオオトシは寝息を立てていた。
大きな子どもの髪を、チカはそっと撫でる。
疲れた横顔。
それは日頃の激務を物語っていた。
宮廷では心休まることが無いのだろう。
自宅にはほとんど帰っていないようだし、きちんと食べて寝ているのだろうか。
心配は尽きない。
スサノオを王に据えたのはオオトシ。
国の内外に敵も多い。
「わしが傍に居れたら……護れるのにの」
愛しいオオトシ。
彼を護れるのならば、チカは何でもする。
それは誰にも出来ない、チカだけの特権。
しかし、スサノオを暗殺しようとしたチカが宮廷に入れるはずもない。
「わしは何の役にも立たぬ……」
呟いたチカの手に、オオトシの温かな手が重なる。
いつの間にか起きていたらしい。
「……すまぬ。起こしたか」
「チカは役立たずなんかじゃないよ」
「……聞いておったのか」
膝の上で仰向けになったオオトシと視線が合う。
惚れ惚れするような美しい顔立ちが見上げて来た。
チカは思わず目を逸らす。
「僕は、チカが居るから頑張れる」
「おぬしは頑張りすぎじゃ。少しは自分の体のことも考えろ」
「大丈夫。体力あるし」
「もう若くはないのじゃから」
「オジサン扱いしないでよ」
「わしから見たらオジサンじゃ」
「そのオジサンに惚れてるのは誰?」
意地悪な質問だ。
しかし、チカも負けない。
「……わしじゃな。我が子のような歳の少女に手を出して、挙句の果てに孕ませるような最低の中年男に、何で惚れたのかわしにも分からん」
「男女の仲なんて、そんなものだよ」
「そうかの」
「チカの膝枕は、よく眠れる」
「そうか」
「宮廷に連れて帰りたいよ」
「……出来もせぬことを」
「スサノオさまも、そろそろかな」
オオトシの言葉の意味が分からず、チカは顔を曇らせる。
「スサノオさまが王座を退けば、チカの罪も許される」
「っ!」
チカは慌てて、両手でオオトシの口を塞いだ。
誰かに聞かれたら大変なことになる。
「滅多なことを言うな!馬鹿かおぬしは!だいたい、スサノオを王に据えたのはおぬしじゃろうが!」
口を塞ぐチカの手を、オオトシは容易く引き剥がす。
そして起き上がると、正面からチカに顔を寄せ、言った。
「だから。退けるのも僕なんだよ」
いつもと同じ笑顔。
しかし、それはチカが知るオオトシではなかった。
「あ……」
本能が危険を告げる。
背筋を冷や汗が流れる。
「チカ?」
「ちがう……」
「なにが違うの?」
「わしのオオトシは……国のことだけを考えて……」
「そうだよ」
「……違う!」
「違わない」
「ちがう……」
チカは幼子のように泣き出した。
チカの知るオオトシはただの女好きで、調子のいい男で。
こんな、ドス黒い野心を滲ませるような男ではなかった。
「チカ。泣かないで」
「……」
「僕はスサノオさまが大切だ。でも」
「……?」
「それ以上に、この国が大事で」
「……」
「チカが大事で」
「……」
「だから。たとえスサノオさまであっても、チカや民を苦しめるのなら、退位して頂く」
「……」
「スサノオさまと刺し違えてでも。それが、僕の責任であり役目だと思ってる」
オオトシの覚悟を初めて知ったチカは、喜んでいいのか悲しんでいいのか分からなかった。
確かなのは、チカが見ていたオオトシは、彼の一面でしかなかったということ。
「僕が怖い?」
「……」
「もう、逢わない方がいい?」
そう問われて、チカは首を左右に振っていた。
これくらいのことで嫌いになれる相手ではない。
「そっか。ことが成ったら、チカと、キノカとヤノハと暮らしたい」
「……ダメじゃ」
「え?なんで?」
「おぬしには、帰る場所がある」
それは正妻の待つ家のことだろう。
チカの律儀さは筋金入りだ。
「うーん……。じゃあ、みんなで暮らせばいい」
「……馬鹿なのか、おぬしは。正妻と愛人を同居させる馬鹿がどこに居る」
「カヨとチカ、上手くやれると思うんだけど」
「む……」
「何より僕が幸せ」
「勝手な男じゃな」
気づくとチカは泣き止んでいた。
オオトシは、オオトシだ。
女にだらしなくて、自分勝手で。
チカは、そんなオオトシに惚れたのだ。
「さて。そろそろ戻らないと」
「もう帰るのか?」
まだ来たばかりなのに。
「ヤマトに、いつまでも仕事を任せられないし」
「そうか……」
「そんな顔しないでよ。帰れなくなる」
「……すまぬ」
「チーカー」
何を思ったのかオオトシは、チカを抱き上げた。
子どもに高い高いをするように、軽々と。
小柄で細身のチカは確かに軽いのだが、同じく細身のオオトシ。
それでも、チカを持ち上げる力はあるようだ。
しかし、チカはもう大人である。
高い高いをされて喜ぶ年齢ではない。
「……降ろせ」
「やだ」
「子ども扱いしおって」
「怒った顔もカワイイ」
「む……」
「殴って欲しい」
「黙れ変態」
「酷いなぁ」
罵られても嬉しそうなオオトシは、ようやくチカを地面に降ろした。
「じゃあ、またね」
「……うむ」
「元気でね」
「……おぬしも」
大きな手がチカの頭を撫でる。
その手が離れ、オオトシは背を向けた。
愛しい人の後ろ姿が見えなくなるまで、チカは瞬きもせずに立ち尽くす。
悲しいのに、涙は出なかった。
春風が頬を撫でる。
乱れる髪を、手ぐしで整える。
次に逢えるのは1年後。
その時は、思いっきり甘えよう。
「……それくらいは許されるか?わしにも」
暗殺を失敗し、自暴自棄になっていたチカに、生きる道を示してくれたのはオオトシ。
オオトシに愛され、チカは初めて死を恐れた。
人間らしい感情が芽生えた。
「わしが生まれた日……か」
それは、何があっても生きようと思えた日。
忘れてはいけない記念日。
【終】
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