【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

三百八十六時限目 天野恋莉からは逃げられない 1/4


 店を出ると雨は止んでいた。

 太陽の光が雲の切れ目から線になり、遠くの街に降り注いでいる。「綺麗」と感嘆を洩らした天野さんは、バッグの中から取り出した携帯端末のカメラを空に向け、シャッターを切る。数枚撮影した後、満足そうに撮影した画像を確認。デジカメ顔負けの機能を搭載したカメラだ、さぞ納得がいく一枚が撮れたに違いない。

 確認を終えた天野さんが、「優志君は撮らないの?」みたいな目で僕を見てきた。僕は頭を振った。風景を写真に収める習慣はない。だれかに見せて感動を共有する、という行為にも馴染みはなかった。だからなのだろう。僕の携帯端末のデータフォルダには、女装関連の画像しか入っていないのである……それはそれでどうなのだろうか。家に帰ったらどうにしないと。

 しばらく黙って道を進む。雨上がりの道路には、水溜りができていた。黄色い雨合羽を着た童児と母親が、手を繋いで前から歩いてくる。近づくに連れて男の子だとわかった。緑色の長靴を履いた男の子は、水溜りに興味津々だ。「入ってもいい?」と上目遣いで母親に訊ねる。「ちょとだけよ」と母親は仕方なしに答えた。僕らとすれ違った後、びしゃびしゃと水溜りの上を跳ねる音が訊こえた。

 商店街手前まで差し掛かかったとき、

「優志君は撮らないの? 写真が嫌い?」

 無言の状態に痺れを切らした天野さんが言う。てっきり僕は、先程の親子か、或いはケーキの話題に触れるものかと思っていた。「嫌いか」と訊ねられると一考してしまう。別に嫌いではない。が、携帯端末のカメラに重きを置いてはいなかった。SNSで拡散してバズらせようとする現代の若者文化は、「下らない」と一蹴してしまえるものだ。どうせ見るのならば、プロのカメラマンが撮影した風景や動画がいい。

「うーん」

 静止画よりも動画派なのかもしれない。ドローンで上空から撮影した山脈の力強さや雄大さに、心を奪われることもある。というか、寝る前には大抵見ている。北アルプス・からさわカールの紅葉をドローンで空撮した映像は、溜息が出るほど美しかった。どの動画にも壮大なBGMが当てられているので、見るときは音量をゼロにすると臨場感があっていい。

 静止画も悪くはないけれど──。

「普通かな」

 自分で言っておきながら、もっと気の利いた答えを用意できなかったものだろうかと思う。

 ──普通、か。

 普通という単語は、なにかと使い勝手がいい。白か黒かでいうところの〈灰色〉。好きか嫌いかでいうところの〈まあまあ〉。「儲かりまっか?」でいうところの「ぼちぼちでんなあ」に値する。浪花の商人がこのやり取りを本当にしているのか、その真偽はさて置き、歩き慣れた道をぼうと歩く程度の感想だ、とも言える。

 普通でいることが一番大切で大変なことなのに、「普通だ」と平然として答えられるのは生活に余裕があるからで、いまにも死んでしまいそうな人が「普通です」と答えたら、「そんなはずはない」と思うだろう。日本人は〈普通〉を軽んじている。勿論、そう答えた僕も含めて。

 天野さんは僕の隣を歩きながら、「そっか」と呟いた。

「他にはどういう写真を撮るの?」

 会話を続けなければ、という強迫観念が僕の口を動かした。

「野良猫や花とかが多いわね。お花見したときは桜並木を撮るし、遊園地にいけば思い出にって撮る。猫かわいいとか、桜きれいだなとか、遊園地たのしかったなとか、撮った写真をみながら思い出すの。楽しいよ?」

 多分、僕は『携帯端末のカメラで撮影する』という行為に興味がないのかもしれない。これがもし一眼レフカメラだとしたら、うきうきで撮影している気がする。──どちらにしても自己満足の領域ではあるが。

「それじゃあ、いまさっき撮影した空の写真を帰宅して見返したとき、天野さんはどういう感想を抱くの?」

「そうね」

 と、天野さんは目だけを夕焼け空に向ける。

「珍しいものを見た、かな」

「空が?」

「それもあるけど、限界までケーキでを食べた優志君の顔とか、ね」

「それは思い出さなくてもいいよ……」

 と、苦笑いする。

「ううん。ちゃんと覚えてる。──楽しい思い出だもの」

 そんな話をしているうちに、僕らは駅前に到着した。




 僕と天野さんが乗る電車は別々で、僕は下り方面、天野さんは上り方面だった。改札を抜ければ別々のホームになる。

「それじゃ」

 僕はホームに降りる階段に足を向けた。が、なにかにシャツの裾が引っかかって離れない。駅構内のど真ん中に服を引っ掛けるなにかがあるとは思えないが……振り向くと、天野さんが右手の親指と人差し指で力強く摘んでいた。

「あの、天野さん?」

「それじゃって。──それだけなの?」

「え?」

「だって優志君。夏休みなのに連絡全然くれない」

 ──それは、だって。

「だから今日はデートのつもりできたのに。優志君はそんな気、全くないじゃない」

 ああ、そうだったのか。今日は〈デート〉だったのか。言われて初めて理解した。天野さんの『ケーキバイキングにいきたい』という目的だけを意識して行動していた。でも、その裏には『デート』という言葉が隠されていたのか。

 以前の僕であれば、その真意に気がついていたはずだ。前日に、女装するか否かで悩んだに違いない。けれど、月ノ宮さんの件で頭がいっぱいになっていて、そこまで考えが及ばなかった。

 これは僕の失態だ。

「どうすればいいのかな……」

「そんなの、わからないわよ」

 考えなければいけない。天野さんは昨日の僕と同様に、夏休みの楽しい思い出を作りたかったのだろう。その相手に、僕を選んでくれた。当たり前なんて思うほど、僕は愚かじゃない。選ばれたのは光栄に思う。だったらその期待に答えなければいけないだろう。あのとき、流星が僕にしたのは出鱈目な悪戯ではあったものの、それなりに充実したものでもあった。──そう思うと、流星の気の回し方はプロ級だったとも言える。

 その点、僕はどうなのか。天野さんが勇気を出していなかったら薄情者で終わっていたに違いない。最後のチャンスを与えてもらった、と考えるべきだ。その好意を無駄にしては、それこそ立つ瀬がないと言える。 

 これからどこか別の場所に向かうか? どこに向かうというのか。佐竹であればこういうときに、いち早く手を挙げて答えそうだ。僕らはいつも佐竹が提案する〈カラオケ〉を拒んでいるが、最初から「カラオケ以外で」と的を絞れば別の提案をするだろう。佐竹義信という男は、やるときはやる男なのだ。

 それに比べて僕はどうだ? 天野さんからもらったチャンスに、無言のままでいる。このまま無言でいれば、そのチャンスも失うだろう……それだけは避けたい。

 焦った僕は咄嗟に、「僕の家くる?」と言ってしまった。ほかに目星がなかった。「僕の両親は帰りが遅いから」、とも。まるで女性が男性を自宅に招き入れるかのように。こんなシチュエーション、創作物の中だけの話だと思っていたのに──。

「いく」

 ……まじか。


 

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