【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

三百八十四時限目 特別な人間


 とは、なにかを成し得ようとすると先ず失う覚悟をするらしい。どこで訊いたのか、或いは本の一節だったかは定かではない。だが、この一文を見たか訊いたかしたときにひどく納得した記憶がある。いや、はっとさせられたというほうが正しい。

 自ら選択肢を作り、選択する前の平穏な日々と選んだ後に訪れる過酷な日々を天秤に掛けるのだ。前者を選んだ場合、得るものは無いが失うこともない。後者を選べば自由を代償にして得られるものがある。どちらが正しいかなんて選択者にしかわからないが、社会適合者は後者を選ぶだろう。

 状況に流されてしまったということもなくはないけれど、それだって『流される』という選択を無意識にしているに過ぎない。傍観者、蚊帳の外にいる人々であっても同じだ。その選択をした、という事実だけが残る。結局、本当の意味で『選ばない』なんてできないのだ。

 ──私なら、できる。

 その言葉は、僕の内側から漏れ出した。

 僕とは正反対の存在である彼女は、自我を持っているわけではない。鶴賀優志自身が思考し行動する、もうひとつの姿というだけだ。だから先の言葉だって僕自身が、『かのじょならば可能だ』と判断した結果に過ぎない……だとしても、根拠はどこか。僕が優梨になったからといって、異能力が開花するわけでもないのに。──特別な人間でもないわけで。

「特別な人間」

 声に出してみると安っぽい響きだった。スーパーマーケットのチラシに大々的に書いてある『特別セール』の見出しのほうがまだ、説得力があるんじゃないか。たまご、お一人様に限りワンパック九八円。これは特別だ。お買い得ともいう。

 特別(=スペシャル)と捉えるのがそもそもの間違いだとしたらどうだろう。この世界に特別な人間なんて存在しなくて、天才と呼ばれる人種もいない。凡人か非凡であるか。その二択だとすれば、僕は間違いなく凡人のカテゴリに属する。で、優梨は非凡だ。僕が作り出したもうひとりの自分・優梨になれば物事を難なく解決できる、なんて都合のいい話はないだろう。問題に対するアプローチ方法を間違えている、と僕は思った。 

 優梨ならできる、ではなく、優梨だったら針に糸を通せる、くらいの考えかたが理想だ。

 月ノ宮さんの性格からして、僕がどう妥協策を提案しても乗っかるとは思えない。以前はそういうこともあったが、問題の質が違い過ぎる。過去の問題も月ノ宮さんの未来に直結していたが、今回の比ではない。あまりにも現実味がない話題だ。だからこそ、攻めかたを決めかねていた。

 勉強卓の椅子に座りっぱなしで、気がつけば数時間も経過していた。考え過ぎか鈍い鈍痛が頭に響く。喉も渇いていた。

 水分と頭痛薬を求めて一階に降りると、父さんと母さんが映画を見ていた。父さんはソファーで船を漕ぎ、隣に座る母さんは、発泡酒を片手に映画に集中している。僕がリビングのドアを開ける音にも反応しなかった。

「いつ帰ってきたの?」

 訊ねると、母さんはテレビから目を離さずに、

「ちょっと前よ。ただいまーって訊こえなかった?」

 考えごとをしていたからか、物音ひとつ気がつかなかった。

 僕は「訊こえなかった」とだけ答えて、キッチンに向かった。

 冷蔵庫を開けると、帰り際に買ってきたであろう発泡酒が三缶入っていた。テレビ前にあるローテーブルの上に、空き缶が二本あった。父さんは一本飲み終えた後に力尽きたらしい。男性よりも女性のほうがタフというのは、どうやら本当のようだ。

 コップに麦茶を注ぎ、近くにあったビーフジャーキーの封を開ける。小皿に入れて、残りは袋のまま。部屋に戻るついでにジャキーが入った小皿をローテーブルの上に置くと、母さんは「ありがとう」と微笑んだ。どう致しまいして、と思う。僕が持っている袋の中には、渡した分よりも一枚多く入っているのだが、それくらいの取り分はいいだろう。

 部屋に戻り、椅子に座りながらジャーキーを噛んだ。ワイルドな風味が口に広がる。飲み込んで、麦茶を呷る。いい感じだ。ちょっとワルになった気分。ビーフジャーキーを齧っただけでこんな気分になるのだから、大人はもっとワルな気分になるだろう。ジンやウォッカ辺りを飲んでいたり、葉巻を吸っていれば最高にワルである。僕は単にワルびれているだけに過ぎない。本物のワルはBARにいるのが相場ってもんだ。──頭痛薬の存在を忘れていることに気がついたのは、それから三〇分後のことだった。




 * * *




 解決策が見つからないまま朝を迎えた。小鳥たちがぴいちく鳴く声に叩き起こされて窓を開ける。枝に留まっていた小鳥たちが一斉に飛び立ち、何処か遠くに羽ばたいていった。本日の空模様は、ところどころに雲が浮かんでいる。携帯端末の天気予報では、午後から雨が降るらしい。降水確率は四〇パーセント。夏場の四〇パーセントは実質一〇〇パーセントといっても過言ではない。いつ雨が降ってもおかしくないと思って行動したほうが丁度いいのだ。そうはいっても、外出する予定はなかった。

 月ノ宮さんからを訊いて二日が経過したが、以降、連絡はきていない。諦めているのか、受け入れてしまったのか。僕がやろうとしていることは無駄な足掻きで終わってしまうのか。日を増す毎に焦りが積み重なっていく。

 朝食を食べて部屋に戻ると、携帯端末にポップアップ通知が届いていた。着信ではなくメッセージ──発信者は天野さんだった。


  

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