【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

三百七十七時限目 諦めてしまう前に


 私は酷く動揺して、頭の中が真っ白になっていた。

 ──けっこん……結婚相手だって?

 以前にもそんな単語を訊いた覚えがあった。でも、それとこれとではわけが違い過ぎる。

 頭を冷やそうと思い、水を一口飲んだ。

「その結婚って、もしかして」

「ええ……政略結婚です」

 やっぱり、と思った。

「お父様は以前から、海外進出の計画を立てていました。夢、と表現したほうが適切かもしれません。私とあちらの企業のご子息を結婚させてそれを足掛かりに……と、お考えになったのでしょう」

「自分の娘を、商売に利用するの……?」

 そんな卑怯なやり方を、月ノ宮氏が行おうとしているなんて。

 目的のためならば手段を選ばない──。

 何度も訊いた台詞が、ふと脳裏を過る。

「どうしてそれを私に?」

「それは」

 私は口を挟まずに、次の言葉を待った。

「知っていてほしかった、のかもしれません」

「どうして」

「──アナタが好敵手だから、です」

 私を〈好敵手〉として認知しているようだけど、私なんて楓ちゃんの足元にも及ばない一般人以下の存在だ。楓ちゃんを本気で出し抜いたことなんて、一度もない。

「私がそれを知ったとして」

 どうなるのか。

「覚悟、ですね」

「かくご?」

「私はお父様の夢を応援したい。だから、けじめをつけるんです。──プラネタリウムの日、私は恋莉さんに告白をします。おそらく、恋莉さんは私を受け入れはしないでしょう。でも、それでいいのです」

 ──違う。

「恋莉さんへの心残りを、ずっと引き摺ってはいられませんから」

 ──そうじゃない。

「立会人として、優梨さんに協力してほしいので、当日はよろしくお願い致します」

 ──私が知っている月ノ宮楓は、初めから諦めるなんてことはしない。

「優梨さん?」

「一年前の春」

「はい」

「ある間違いを犯した女の子のことを、楓ちゃんは知っているよね」

 普通の恋愛を望み、気持ちのない告白をした少女。

 その間違いに気がついて、後悔し続けていた少女。

 告白を受けた彼が、どうにか体裁を整えようとしたこと。

 そこから全てが歪んでいってしまったこと。

 楓ちゃんが、この間違いに気がつかないはずがない──。

「自分と他人を利用して得られる覚悟なんて、単なる自己満足だ」

 私……僕が言えた義理はない。そうやって降りかかる問題を回避してきた僕だし、発言力は皆無だってこともわかりきっている。──だけど。

「諦観して、選択権を他人に委ねるなんて、月ノ宮さんらしくない」

「優志さん……」

 僕が知っている月ノ宮楓は、腹黒の戦略家だ。天野さんの話題になると暴走して手がつけられないほどの猪突猛進さは、ある意味、羨ましいくらいだった。

「それとも、天野さんへの気持ちはその程度だったってこと?」

「そんなこと……」

 ここまで言われたら、月ノ宮さんのプライド黙っていられるはずがない。──そう、思っていたのに。

「いえ、優志さんの言う通りです。もしかすると、私の愛情なんてその程度だったのかもしれませんね」

 月ノ宮さんは、自虐的な笑みを浮かべる。痛々しいほどに。

「私を鼓舞しようと敢えてヒール役を演じたのは、わかります。でも、いまの私にはそれに応えるだけの気力がない。──もう、いっぱいいっぱいなんです」

「そんな」

「どうして私が予定よりも早く帰国したのか……それは、逃げてきたんです。あまりにも耐えられない現実に、自分の未熟さに、押し負けてしまったんです」

 自分の行動一つで、会社の命運が分かれる。その重責は、背負っている本人にしかわからない。自分の人生を選ぶのか、尊敬する父親の夢を叶えるのか。叶えたい、という気持ちと、受け入れられない、という気持ちがせめぎ合って、どうしていいのかわからなくなって逃げ出した……ということか。

「もう無理なんです。限界なんです。自分がどうすればいいのか、わからない」

 ここまで追い詰められている月ノ宮さんを見るのは、初めてだった。

 精根尽き果てた人間は、ここまで脆くなるものなのか──。

 いや、そうじゃない。

 どちらも大切だからこそ、路頭に迷っているんだ。

「結婚は回避できないの?」

「できるはずがないです」

 と、頭を振る。

「ここまでくるのにいくら出資されたのか、計算するのも恐ろしいくらいです。私の我儘で何千、何億の損害が発生するのですよ……? 嫌だ、なんて言えません」

 いくら交渉が上手い月ノ宮さんであっても、桁が違い過ぎる──。

「それとも、優志さんがその損失を埋めてくれるんですか。無理ですよね? 経済力もない優志さんには、支払うことなど不可能です」

 喩えば、月ノ宮邸に赴いて月ノ宮氏を説得しようと試みたとしても、リアルな数字を盾にされたら手も足も出ない。まるで赤子の手をひねるように、容易くあしらわれてしまうだろう。『友だちだから考え直してくれ』という言葉が通用するほど甘い世界ではないことは言わずもがなで、なによりも僕が損失を補填できないことこそ、決定的な敗因になる。

「これはもう、月ノ宮の家に生まれた宿命だと受け入れるしか──」

 そのとき僕は、照史さんの顔が思い浮かんだ。

 月ノ宮照史。

 月ノ宮さんの兄にして、喫茶店〈ダンデライオン〉のマスター。

 照史さんは、自分の方針と父親の方針の食い違いから決別している。

「照史さんなら助言してくれるんじゃないかな。兄妹なんだし」

 然し、月ノ宮さんは強く頭を振った。

「お兄様の手を煩わせるわけにはいきません」

「どうして!」

「お兄様はもう、月ノ宮の人間ではないからです」

 ここで、そうなるのか──。

「だけど!」

「お兄様に相談したとして、そのあとは?」

 そ、それは……。

「きっとお兄様ならこう言うでしょう。──〝自分で決めなさい〟と」

 たしかに照史さんからすれば、月ノ宮家の問題に足を突っ込みたくはないと思う。が、実の妹のピンチになにもしない、なんて薄情な人間じゃないはずだ。

「……なら、僕が言う」

「優志さんが?」

「僕が言ったところでどうにもならないかもしれないけど」

 ──でも。

「納得できないんだ」

 不条理、理不尽、這い上がれないほどの高い壁。

 いつだって僕の前に立ち塞がる。

 だけど、僕は一人じゃない。

 月ノ宮氏と月ノ宮さんが妥協できるくらいの案を、どうにか捻り出してやる。

 月ノ宮家の宿命に、挑戦だ──。


 

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品