【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

三百七十六時限目 スプレンディ・リ・ソーレ


 私が絵本を購入している間、楓ちゃんは本屋の外で待っていた。「お待たせ」と声をかけると、楓ちゃんは頭を振る。長い髪の毛がさららと揺れて、甘い香りが漂ってきた。

「その本を読見終えたら、是非とも感想を訊かせてくださいね」

 柔らかい笑顔で、楓ちゃんは言う。

「上手く伝えられるか心配だけど……うん、感想を送るよ」

 私の答えに頷いた楓ちゃんは、ショルダーバッグに手を入れる。バッグの中から取り出したモールの案内図は、何度も出し入れしているせいで角が折れ曲がっていた。

 それを私にも見えるようにして広げて、

「たくさん歩きましたし、どこかで休憩したいと思うのですが」

 楓ちゃんの目は案内図の、一階にある専門店街に向いている。

「ケーキはどうでしょうか」

「ケーキ?」

 つい、オウム返しする。

 楓ちゃんは案内図を折り畳みながら、思い出すように語り始めた。

「この店はニューヨークチーズケーキが美味しいと評判です。何度かこの店のチーズケーキをお土産で頂いたのですが甘過ぎず、紅茶ともよく合いました」

 そこまで絶賛されると興味が湧いてくる。ダンデライオンのベイクドチーズケーキも美味しいけど……なんて考えている私は、すっかりチーズケーキの口になってしまった。




 * * *




 ケーキ屋に入ると、女性店員さんが私たちを奥にある個室に案内してくれた。オープンスペースだけでなく、個室──カーテンで仕切れる程度──もあるなんて、モール内の店としては珍しい作りだ。照明は絶妙な暗さまで絞られている。

 ケーキ屋は、華やかなロココ調のインテリアが飾ってある印象だが……この店はどこかダンデライオンに似た雰囲気のある店だ、と思った。楓ちゃんも同じ感想を思い浮かべたらしい。着席するなり、「お兄様のお店みたい」と零していた。

 水を持ってきた女性店員さんに、ニューヨークチーズケーキと紅茶のセットを注文して、「少々お待ちください」の時間。

 広大なショッピングモールを右往左往していたせいか、足がんだようになっている。楓ちゃんも、疲労が顔に出ていた。

「疲れたね」

 そのまま口に出すと、

「そうですね。ちょっと、はしゃぎ過ぎてしまったかもしれません」

 苦笑いを浮かべた。

 辿々しくも会話していると、店員さんが「失礼します」とカーテンを開き、私たちが注文したケーキセットをテーブルに置いた。そして、「ごゆっくりどうぞ」とカーテンを閉めて去っていく。

「美味しそう……」

 カラメル色に焼けた表面とクリーム色の断面に拍手しそうになった手を合わせて、いただきますの合図とする。

 ケーキの厚さが圧巻だった。フォークを押し当てると、まるで雲を切るような柔らかさ。一口大にして口に運ぶ。──これは。

「溶けちゃった……」

 そう表現するのが正しいかの判断はさて置き、絶品であることに間違いはない。とろとろな甘みと後を引くチーズの香りが鼻を抜けて、それを温かい紅茶がすっきりさせる。現代語で言い表すならば、〈無限チーズケーキ〉だ。ワンホールは余裕で食べられる自信がある。

 チーズケーキに舌鼓を打ってはいるが、紅茶のレベルも相当に高い気がした。日常的に紅茶を嗜んでいる楓ちゃんも満足そうに飲んでいるのが、なによりも証拠である。

「この店、凄いね」

「銀座に本店があるようです」

 楓ちゃんは横にあったメニューを、テーブルの中央で広げた。ページには、恰幅のいい男性パティシエの姿と名前、本店の写真が掲載されている。店名の〈スプレンディ・リ・ソーレ〉とは、スペイン語で〈太陽の輝き〉という意味らしい。チーズケーキのホールを〈太陽〉と見立てて、出来立てを〈輝き〉と表現したことが店名の由来になっているそうだ。

 あっという間に完食した私たちは、食後の余韻に浸りつつ、先程食べ終えたチーズケーキの品評をしていた。が、一通り話題も尽きた頃、ふと楓ちゃんの表情に笑顔が消えた。

「どうしたの?」

 深刻な事態に陥ってしまったような顔をして俯く楓ちゃんに、堪らず声をかけた。すると、俯いていた顔をゆっくりと持ち上げて、開口一番に「実は」と切り出す。

「今日ここに優梨さんをお呼びしたのは、〝とある理由〟があるからなのです」

 それは、薄々勘付いてはいたところだ。まさか楓ちゃんが、理由も無しに私とショッピングをするはずがない。荷物持ちだ、というのも口実だったのだろう。──楽しかった時間は、これでおしまいだ。

「とある理由って、プラネタリウムの件?」

「そうですね。それもあるのですが……その」

 どう説明すればいいのか、楓ちゃん本人も難しそうだ。だとすると、私が思っているよりも深刻な事態に陥っているのかもしれない。外聞をはばかるということは、そういうことだ。

 店内はケーキを楽しむ客で騒がしいのにも拘らず、私たちが座る席だけ水を打ったような静けさだ、と思った。楓ちゃんから伝わる緊張の糸で絡め取られてしまったみたいに、身動きが取れない。訊こえもしない心臓の音がやたらと煩くて、暑くもないのに一筋の汗が頬を伝う。

 楓ちゃんが再び口を開いたのは、会計を終えた客を見送る女性店員の声が遠くで訊こえてからだった。

「私が海外の大学に進学することは、もうご存知だと思います」

「うん。本当は梅高を中退して、向こうの高校に留学するって話だったよね。それで、夏休みに大学の視察をするためにアメリカに渡った」

 私が要約して話すと、楓ちゃんは「はい」と首肯する。

「その大学で、なにか問題があったの?」

「いいえ。私が受ける大学は、とても素晴らしい学び舎でした。その道のプロを招いた講習も頻繁にあるそうで、入学するのが楽しみなほどです」

「そうなんだ……じゃあ、他の問題があったってこと? 移住先に難ありとか」

 自分で言っておきながら、それは違うだろう、と心の中で否定した。

「私が悩んでいるのは、そういうことではありません。──それは」

「それは?」

「……その人は、渡米して二日目の昼に、お父様から紹介されました」

 お父様から紹介された、ひと……?

「私の、結婚相手マレッジパートナーです」


 

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