【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
三百七十四時限目 下着選びは身の丈に合った物を 3/3
太客である月ノ宮さんに「自分がやる」と言われれば、店長であっても引き下がるしかない。店長さんは内心穏やかではいられなそうだけど、接客業は客に嫌な顔を出せない仕事だ。「わかりました」と言ってその場を離れていった。
「危なかったですね」
「うん。楓ちゃんがきてくれなかったら、まずい事態になってたかも……ありがと」
「いえいえ」
そういうと楓ちゃんは、店長さんから受け取った二着の下着を自分が持っていたカゴの中に入れ、「さあ、試着室にいきましょう」と踵を返す。
「ねえ、試着しなきゃだめかな?」
「もちろんです」
試着しなくても、あの下着はちゃんと付けられると思う。それに、私の胸のサイズはシリコンカップに依存する物で、いくら時間を経たところでサイズアップすることはない。──だから。
「本当に、だめ?」
試着室を前にして、私は子どものように駄々を捏ねてみた。が、楓ちゃんは首を振り、有無を言わさず試着室のカーテンを開けた。一畳分のスペースに、姿鏡、荷物置き、黒のブロックソファがある。壁にはハンガーが二つある。正しい下着の付け方を書いたイラスト付きの説明書きは、多分、店長さんが作ったに違いない。カップの計測方法から胸を大きく見せるポイントまで、詳しく記載されている。『背中も胸の一部なんです!』というワードは、いまいちぴんとこなかった。
私が試着室に入ると、楓ちゃんも入室した。
「え、ちょっと」
「なにか問題でも?」
「いや、ここ試着室だよ?」
「ええ、私が案内しましたから」
そうじゃなくて。
「一人でできるよ」
「そうは参りません。名取さんにああ言った手前、私が同席しないと怪しまれてしまいます」
ランジェリーショップでは、これが当たり前なのだろうか。リサーチ不足がここでも悔やまれる。
「つべこべ言わず、早く脱いでください。私は優梨さんの裸を見たところで欲情しませんので」
そういう問題じゃないんだけどなあ……と思いながら、嫌々にシャツを脱いだ。
「さすがは優梨さん。──華奢ですね」
「あまりじろじろ見ないで欲しいかも……」
「そんなことよりも、ブラを外していただけませんか?」
「うう……はい」
ブラを外すと、つるつるしたシリコンカップが露になった。この姿を見られたのは、楓ちゃんが初めてかもしれない。楓ちゃんは、弾力性のあるシリコンカップの表面に顔を近づけて、注意深く観察し始めた。
「これはなかなかですね……質感がリアルです」
つんつんしながらまじまじと感想を呟かれても困るんですけど。
「優梨さんのカップサイズは、このシリコンカップが目安なのですよね?」
「うん」
「では、このシリコンカップも外してください」
──はい?
「外すの?」
「ええ。そうでなければちゃんとしたサイズを測れません」
「そこまでする必要はないと思うんだけど……」
「これを機会に、優梨さんの〝本当のサイズ〟を知っておくのは、今後の役に立つと思います」
──ほんとうに?
──本当です。
──ぜったい?
──絶対です。
というやり取りを数回していると楓ちゃんが、
「ああもう!」
と、私のシリコンカップを取り外した。
「ちょ、ちょっと!?」
咄嗟に胸部を両手で隠し、目の前にいる楓ちゃんを睨んだ。その背後にある姿鏡に映る私は、眉を八の字に寄せている。『怒るとこんな顔になるんだ』なんて他人行儀に思ったが、いまはそれよりもこっちだと頭を振った。
「いきなりなにするの!?」
「……そういう反応は、演技ですか?」
「演技なはずないじゃん。だれだって、いきなりあんなことをされたら怒るでしょ!」
「……殿方であっても、ですか?」
楓ちゃんの言葉が脳をがつんと揺らしたみたいに、私は立ち眩みでもしたんじゃないかと思うくらい、眩暈がした。車酔いみたいな気持ち悪さを覚えつつ、なんとかその場に立ち尽くす。私は、私の性別は──。
友人である雨地流星のアドバイスを受け、自分が〈中性〉であることを自覚したのに、楓ちゃんの言葉一つでここまで動揺してしまうなんて……いや、楓ちゃんは真実を言っただけだ。それは、私が有耶無耶にしたかった事実で、楓ちゃんだけが、私に対して甘くない。妥協を許さない彼女だからこその発言だった。
「さあ、両手を退けてください。サイズが測れません」
自分の胸部を他人に晒すことに対し、男性は特に意識したりしない。プールでも、海でも。温泉に入浴するときだって、隠すのは下半身のみだ。だから、友人の女性に胸部を見られたところで、恥ずかしいことなんか──。
* * *
「お買い上げありがとうございました! もしまた近くを通りましたら、ぜひお立ち寄りくださいませ」
店長さんは私たちを店先まで見送ってくれた。
「楓ちゃん、本当に買ってもらってよかったの? 一応、それなりにお金は用意してるし、自分の分は出すよ?」
「いいんですよ、優梨さん。きょうは、私のお買い物に付き合ってもらっているのですから」
お気に入りを見つけた楓ちゃんは頗る上機嫌だけど、一週間取っ替え引っ替えできる量を買うとは、さすがとしか言いようがない。しかも、支払いがカードときたものだから、楓ちゃんの財力は底が知れないものがあった。
この大型ショッピングモールには、様々なブランドの店が並ぶ。しかも、どれもアウトレット価格というのだ。箱が潰れているだけで三割も安く購入できるとあらば、利用しない手はない。どの店も混雑していて、ゆっくり見ていられない雰囲気が漂っている。
通路にも人が多く、自動車の姿をした買い物カートを押しながら歩く家族連れもいた。通路の一角では、ウォーターサーバーの販売をしていたり、似顔絵師が芸能人の似顔絵を展示していたり。一階のホールでは、ひと昔前に流行っていた芸人のトークライブが催され、モール内は活気に溢れていた。
「次はどこの店に寄るの?」
私の隣を歩く楓ちゃんはモールの地図を見ながら、
「では、ここから少し離れた場所にある服屋に参りましょう。多少の距離がありまずが、芸人さんのトークライブも開催されていますし、ゆっくり服を選べますよ」
まるで私の思考を読んだような受け答えだけど、楓ちゃんは他人の眉を読むのが得意だったことを思い出した。交渉においてそのスキルは大いに役立つだろうけれど、面と向かって意中を言い当てられるのは、やっぱりぞっとしなかった。
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