【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

六十九時限目 夜の帳が下りる頃[中]


 ──このままでは、当初の予定に狂いが生じてしまいますので、軌道修正しましょう。

 と、物凄い早さでノートにペンを走らせる。たまに「ふむ」と考え込むが、手を止めるのは僅か数秒程度。楓の頭の中では、コンピュータのように、緻密な計算がされているのかもしれない。

 一ページが埋まったところで、手元に置いてあった紅茶を一口。楓は色っぽく「ふう」と息を吐いた。色っぽいと思ったのは俺の主観で、本人にその気は全くなかっただろう。俺を誘惑しても、楓にとってなんのメリットもない。俺だって、それは同じだ。

 白いページが真っ黒に埋まっていくさまを眺めながら、楓の集中力に感心していた。多分、楓は意見が欲しかっただろう。書きながら「どう思いますか?」とか「こちらはこういう方針で進めてみたいのですが」とか「佐竹さん訊いてますか?」とか訊かれたけど、碌な返事をした記憶がない。ただ、楓が書いた規則正しい文字を見て「字が上手いな」と口にした。

 ──そうではなく、内容を確認してください。

 そりゃそうだ、と思った。




 楓が俺に提示したプランは三つあったが、実行に移せたのは最低ラインの第一プラン〈課題を一緒にする約束を取り付ける〉のみだった。俺がヘタれなければ、最終目標である〈お泊まり計画〉まで話を進められたのに……どうにかそこまで漕ぎ着けようとはしたけど、優志──優梨の姿だったけど──は妙に察しがいい。

 不自然な茶番劇を繰り広げてまで話題を逸らしたのは、泊まりで面倒をみることを回避するためだった? といまになって思う。つまり、俺が過ぎた。

「さすがは我が妹……やり方が〝あの人〟そっくりだ」

「あのひと?」

 あの人、の言い方が酷く冷たかった。

 照史さんにとって都合が悪く、恨めしい人物……あの人。

 大人になれば憎い人の一人や二人はいるだろうけど、いつも優しさを体現しているような人が、露骨に嫌悪感を露わにするとなると、因縁めいたものを感じてならなかった。

「あのひとってだれっスか?」

 照史さんは俺の質問に、頭を振るだけ。

「なにはともあれ、課題を一緒にする約束ができてよかったね」

 閑話休題とされれば、切り替えが大切だ。

「照史さんのおかげっスよ! ガチで」

 機転を利かせてくれたからこそ成功したようなもので、俺だけじゃ失敗していた。

「でも……そのせいで照史さんに迷惑を」

 俺はただ、優志と一緒に夏休みの課題をして、ワンチャンいい雰囲気になれたらいい、くらいにしか思っていなかったけど、そのせいで照史さんに迷惑をかけることになるとは思ってもみなかった。

 ──夏休み中に限り、アイスコーヒー一杯無料でどうでしょう?

 あの茶番劇の果てに、こんな提案をしようと企んでいたなんて。

 抜かりないというべきか、大胆というべきか。

 優梨が出した条件に、照史さんは「イエス」としか答えられなかっただろう。仮に「ノー」と断れば、俺との約束もにされかねない。断るに断れない状況を作ったのは、偶然の産物だったのだろうか。そこら辺、なかなか読めないヤツだ。

「本当に、いろいろとさーせんっス……」

 照史さんは「気にしなくていいよ」と、微苦笑を浮かべる。

「ボクは佐竹君を応援しているから、その投資だと思ってさ」

「あざす」と肯いた。

 照史さんの「応援している」という言葉が嬉しかった。姉貴も俺を応援してくれてはいるが、その方法が斜め上過ぎて素直に受け入れられない。でも、照史さんは本心からそう言ってくれているような気がして、つい顔がにやけてしまった。

 楓の戦略に照史さんの機転が加われば、鬼に金棒ならぬ、鬼にロケットランチャー。それくらいの上乗せ効果がある。援護射撃というよりも相手を仕留めに掛かっている感じ……だな。

 俺と優志が課題に精を出している間、楓は心置きなく恋莉にアタックができる、というのが作戦の本筋。あくまでも自分が有利になる戦術を組み立てるのは、さすがは楓。そこまで計算して編み出された作戦を、ほんの数十分で練ってしまうのだから大したもんだ。

 目的が明確になっているがゆえに、迷いが生じないのかもしれない。

 俺も。

 迷ってる場合じゃねえ──。




 * * *




 できたてほかほかのマフィンを頬張っていると、ドアベルの軽やかな音色が店内に転がり込んだ。「だれだ?」と目を見張っていたら、レースのブラウスにチェックスカートを履き、清楚なお嬢様コーデに身を包んだ楓が澄まし顔で入店してきた。

 照史さんに軽く挨拶を済ませた楓は、腰まであるストレートヘアを左右に揺らして俺の元へ。先程の澄まし顔から一変して、穏やかじゃない面を俺に向ける。

「よ、よう……」

「よう、じゃありませんよ、佐竹さん。なにをしているのですか」

 眉をハの字にして、俺が持っているマフィンをちらとへいげいする。

 お腹が空いている、というわけではなさそうだ。

 外国っぽい味のチョコレートバーを持っていれば、それを餌に機嫌を取れたもしれない。

「半分食うか……?」

 と恐る恐る訊ねてみたが、楓は頭を振った。

「佐竹さん。物事には、順序、というものがあるんですよ」

 順序、を強調して楓は言う。

「美味しそうにマフィンを頬張る前に、すべきことがあるのではないでしょうか?」

 食事をする前にすること、と言えば……

「手を洗う?」

「洗ってないんですか」

 軽蔑するような声音で俺に訊ねる楓に、「おしぼりで拭いたって……マジで!」と抗議した。


 

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