【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
六十三時限目 佐竹義信、売り子になる[後]
「ちょっとぬるくなってしまったかもだけど、飲む?」
紗子さんはバッグの紐を肩からするりと外し、中からペットボトルの底を俺に向けて差し出す。
「あ、すんません。いただきます」
桃色のラベルには『恋〜い、お茶』と書いてある。漢字の『濃い』と『恋』を掛けた寒いダジャレ。企業のおっさんたちが真面目くさった顔で「この商品の名前は『恋〜い、お茶』にします」と発言している姿を想像すると、ちょっとシュールだ。
まだ辛うじて冷たさの残るお茶を、ぐいっと半分くらい飲み干した。
「いい飲みっぷりね」
「実はガチで喉が渇いてたんっスよ」
そして、沈黙。
俺と紗子さんの仲は悪くもなく良くもなく、会えば挨拶をする程度の薄い関係にある。姉貴の恋人だから仲よくするべきなんだろうけれど、紗子さんを前にすると身構えてしまうのは以前からそうだ。
姉貴が俺を振り回すのは昔からで、年上を相手にすることも多々あった。そうして身につけたコミュニケーション能力が姉貴に評価されることはないけれど、自分では、そこそこ話せるようになった、と自負している。
でも、紗子さんは別格だ。
理想的な女性だ、と花に群がるように男たちは寄ってくるけれど、紗子さんの蜜を吸えるのは姉貴しかいない。それ以外の相手には開いた花を閉じ、言葉を棘にしてバリケードを作るような人だ。俺は姉貴の弟だからという理由があるから、義理にもぎりぎり、花弁を開いてくれている。
姉貴も聡いけど、紗子さんは賢い人だ。
その賢さが、俺はちょっと苦手でもある。
つまり、姉貴は直感タイプで、紗子さんは独自の理論から計算して詰めていくタイプ。
相反する二人だけど、これがまた上手い具合に歯車が噛み合うので、姉貴が所属するサークル内では〈さこ×こと派〉か〈こと×さこ派〉に分かれる始末……どっちでもいいだろ、そんなの。
そんな紗子さんがなんの用事もなく俺に話しかけるはずはない。
俺はごくりと生唾を飲み下し、意を決して訊ねることにした。
「あの……なにか俺に用事でもあったりしますか?」
紗子さんは直ぐに答えない。
遠くにある分厚い雲が、太陽を隠した。「雨が降るかもしれない」と付近にいるだれかが零し、「降水確率は低かったのに」と女性の声が訊こえた。風が吹けば桶屋儲けるの意味はわからないが、雨が降ればなに屋が儲けるだろう……イベント会場の物販が売れるかもしれないな。
鴎たちが騒ぎ、いよいよ雨が降りそうな空模様になった頃、紗子さんは空を見上げて呟いた。
「私、琴美と結婚するわ」
その単語の意味するところを、俺は理解できなかった。もしかすると〈決行〉と訊き間違えたのかもしれない。〈結構〉だった可能性もある。『琴美と結構するわ』なんて、大胆な宣言を弟の俺にするとは考え難いけど、紗子さんは姉貴の恋人だから、あり得ない話ではない。
「私、琴美と結婚することにしたの」
重要なことなので二回言った? そのおかげで、俺の耳がバグってない証拠にはなった。バグってくれていたほうが、むしろよかったんじゃないとも思う。
「結婚って、あの結婚っスか……?」
「義信くんが想像する結婚とは違うけど、結婚よ」
紗子さんは言葉を続けた。
「事実婚は、知ってる?」
「概念的なアレでしたっけ?」
「ええ、そうね」
概念的なアレで伝わったのが逆にビックリで、ぐわーんぐわーん、と脳内が痺れる。
「日本で同性婚は認められていないけど、それでも夫婦のように生活すること……事実婚を簡単に説明すればこんな感じかしら? それで、パートナーシップ証明を貰える自治体のある地区に移住して暮らすの」
「ず、随分と急な話っスね……」
言うと、紗子さんは溜息を吐くような声音で、
「やっぱり、言ってなかったのね」
寂しげな瞳を地面に落とした。
紗子さんの口振りだと、結婚することは確定しているように思える。が、姉貴はそんなこと、一言も俺に伝えてくれてはいない。
──二人のことだから二人で決めればいい。
放任主義の親父とお袋は、そう言うだろう。俺だって、二人が結婚すると決めたなら祝福するのも吝かじゃない。だけど、じゃあどうして、おめでたい話のはずなのに、紗子さんはこんなにも悲しげに話すんだ。
「どうしてそれを、このタイミングで俺に伝えたんっスか?」
「こういうときじゃないと、義信くんに会えないでしょう?」
「昔みたいに、家に遊びにくればいいじゃないっスか」
「あの頃とはもう違うの……なにもかもね」
ここから先は大人の事情というやつか?
これ以上の追及は許さないと紗子さんの目が語っている。その気迫に押し負ける形で、俺は身を引いた。
「まあアレです……取り敢えず、おめでとうございます」
「ありがと、義信くん。アナタにも見つかるといいわね。素敵なパートナーが」
「どう、ですかね」
どうなんだろうな、本当に。
俺もいつかは、アイツとそういう関係になるのか?
そうなれたらどうなんだろう……?
俺は、嬉しいのだろうか?
嬉しい、よな? 多分、嬉しいはずだ──。
それには先ず、選ばれなければならない。
そう言えば、とジーンズのポケットに入れていた携帯端末を取り出した。着信していたが、売り子をしていたもので出るに出れず、そのまますっかり忘れていた。紗子さんと話している最中にも思い出したけれど、話している最中に携帯端末を弄るわけにはいかなかった。
友だちとメッセージのやり取りをする気分でもなかったこともあり、ずっと放置したままにしていた携帯端末の画面を覗くと、そこには『着信:月ノ宮楓』とある。
「またかよ……」
打ち合わせと称して俺を呼び出す度に、昼飯を奢られる俺の身にもなってくれ……旨みしかねえな。
──気がついたら折り返し連絡を下さい。
「ああもう、わかったよ!」
小石があったら蹴り飛ばしたい気分ではあるけれども、俺がいま抱いてる仄暗い感情は、楓となんら関係はない。八つ当たりしたって勝てるはずもない相手に突っかかるほど、俺も馬鹿ではないようだ。
コール音が三回鳴ったあと、「もしもし、佐竹さん?」と声が訊こえた。その声を訊いて妙な安心感を覚えたのは、多分、気のせいじゃない。
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by 瀬野 或
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