【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

三百六十五時限目 謎の作家と文芸マーケット[前]


「すみません、優梨のときの癖です……」

 素直に頭を下げた。水瀬先輩はどんな表情をしているだろうって考えると頭を上げるのが怖いが、それ以外の答えはなかった。嘘を吐いたり冗談でその場をやり過ごすこともできただろう……できたけれども、誠意ある対応とは呼べない。

 僕は打算的な人間だと思う。いい結果にも、悪い結果にも、どちらにも旨味があるとしたら、旨味が強い方に逃げるようなヤツだ。どちらにも旨味がない場合は、両方からちょちょいと旨味を拝借して、あたかもベストアンサーですという顔をして答えてきた。

 逃げることを覚えた人間は、最初に退路を考える。予防線を張っておけば、どうとでも言い訳ができるからだ。卑怯でも、自分の自尊心が傷つかなければそれでいい。自分の尊厳を守るためなら相手を傷つけても構わない。なにより、加害者のくせに被害者面して悲劇の主人公振るのが一番最悪なパターンである。そんな醜い人間にだけはなりたくなかった。

 地面を見たまま歯を食いしばる。水瀬先輩の言葉を否定したのはこの僕だ。不本意だったとはいえ、勘違いさせてしまう行動をした。傷つくのは僕ではなく、水瀬先輩のほうだ。

 ゆっくり頭を持ち上げる。

 水瀬先輩はおんがんに笑みを湛えながら、

「変な勘違いしたのはわたしだし、気にしないで? こちらこそ」

 ごめんなさい、と謝罪した。

 すっと正面を向いた水瀬先輩の横顔は、寂しげだった。




 あれ以来、僕と水瀬先輩の間には、気まづい空気が流れていた。会話もどこかぎこちなくて、様子を伺っているのが丸見えである。当然、僕もそうだ。歩きながら水瀬先輩の姿を流し目に見ては、目が合いそうになると避ける。まるで、首を引っ込めた亀がいつ頭をだそうかおどおどしているように。

 サンシャイニング通りを抜けて、長い交差点の信号で立ち止まった。ここまで来ると人数も少なくなってくる。僕が足を運んだことがあるのは、この先にあるサンシャイニングビルまで。頭上には環状線が横断歩道を横切るように伸びている。信号が青に変わり、留まっていた人々が一斉にスタートを切った。とおりゃんせのメロディは、いつ訊いても心を騒つかせる。半音上がったり下がったりを繰り返す独特な和の旋律は、どことなく古典文学を連想させた。

 横断歩道を渡ると、スポーツ用品を扱う店の前に着いた。店名の横にはゴルフと書かれているので、ゴルフ用品を専門とした店かもしれない。水瀬先輩の目的地は、道なりに進んだ場所にあるようだ。一歩遅れて背中を追いかけ、とんとんと右肩を叩いた。

「水瀬先輩、いったいどこまでいくつもりですか?」

 ここまでくると、さすがに気まずいとか言っていられない。僕の声が性急だったこともあり、水瀬先輩は足を止めて振り向いた。

「あれ? ここまでくればわかるかなと思ったんだけど」

「いやいや。僕は水瀬先輩のようなシティガールではないし、休みの日は自宅からほぼ出ないようなもやしっ子ですよ? 東京砂漠と太陽のせいで干からびそうまであります……」

 実際、喉が渇いていた。自販機とすれ違う都度、足を止めそうになるくらいにはカラカラだった。このままの状態でいれば、そのうちガラガラになるかもしれない。僕の場合、それは進化ではなく弱体化である。

「多分、目的地に飲み物も販売していると思うから! ……たぶん」

 多分に含まれる多分が、より一層の不安を掻き立てた。

「ほら、見えてきた!」

 水瀬先輩が指した方向に目を向ける。入口から縦に四列並んで植えられた杉の木の先に広場があり、その広場にはあずまやのような簡素なテントが左右に並んでいる。見た感じそのままを言うならば、フリーマーケットのようだが……。

「文芸マーケットって、知らない?」

「初めて訊きました」

「インディーズ作家さんたちが自分の作品を自分で販売したり、主催者に委託して販売する市場。それが文芸マーケット。通称、ブンマ。ネット小説家や自費出版している作家たちが集まる祭典で、一年に二回から三回程度行われるの」

 つまり、規模は違うが同人誌即売会の小説限定って感じか。知名度と需要を考慮すると、大規模な運営はできないようだ。昨今、ネット小説がアニメ化したりして注目度を集めていたりするけれど、紙媒体の単行本を手に取って読もうとする人はまだまだ少ない。社会現象になるほど有名な作家だって、次回作がヒットせずに〈一発屋〉みたいな言われかたをするくらいなのだから、現実はかなり厳しい様子である。

「九時半待ち合わせにしたのは、開催が一〇時だったからなの」

「そうだったんですね」

 頷きはしたものの、開始を待っている客の数はまばらだ。販売開始まで残り五分を切っても長蛇の列ができるわけでもなく、会場全体は実にのんびりした雰囲気に包まれている。定時となり、タオルを首から下げた男性スタッフが開催の旨を手に持つ拡声器で発すると、遠慮深げな拍手が起きた。

「始まりましたね」

「うん!」

 水瀬先輩は嬉しそうに微笑んだ。




 * * *




 水瀬先輩の背中を追うようにして、文芸マーケット会場に足を踏み入れた。テントにはそれぞれジャンルが記された紙が貼ってあり、初見でも一目でわかるようになっていた。手前から純文学、SF、ホラー、ミステリと続く。

 その中でも特に注目が集まっているのは、ラブコメとファンタジーのテントだった。作家たちが謝意を伝えながら丁寧に対応しているテントもあれば、事務的な対応をするテントもある。その差は、作家本人か委託かの違いだろう。どちらも嫌な対応をしているわけではないけれど、折角の機会だから作家本人による手渡しがいい。だが、売れているのは委託のテントで販売している小説だった。

「水瀬先輩のお目当はどのテントですか?」

 公園内を一周してから訊ねた。

「純文学。宗玄膳譲というペンネームの先生の作品だよ」

「そうげんぜんじょう……?」

 名前から受ける印象は、七〇歳くらいの白髪に白ひげを生やした中肉中背の男性で、スーツを着こなし、BARで煙草とウイスキーを嗜むハードボイルドなイメージ……って、それは超有名な作家の人物像そのものだった。

「プロフィールが記載されてないから詳しいことはわからないけど、言葉選びの印象から、まだ若い作家だと思うよ。堅苦しいようなペンネームは、若者だからと言って舐められたくないって感じだと思う」

 そういう風潮は漫画界にもある。自分が女性であることを隠したいがために、男性のような名前にする女性漫画家もいるくらいだ。代表的な例を挙げると、錬金術師と農業大学の漫画を描いているあの漫画家だろう。

「じゃ、僕は先ず飲み物を買ってきますので、水瀬先輩はゆっくり選んでください」

「わかった……はい、これ」

 そう言って、千円札を僕に差し出した。

「いや、いいですよ。自分の分は自分で払いますから」

「ううん。付き合ってくれてるし、それに、わたしも喉渇いてるから一緒に買ってきて欲しいの」

「なら、遠慮なく……なにを飲みますか?」

「おすすめは梅ソーダだよ」

 梅ソーダか……たしかに、

「それじゃあ、買ってきます」

「よろしくお願いします」

 そう言うなり、水瀬先輩は踵を返して純文学テントへと走っていった。


 

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