【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

五十九時限目 初デートは愁いを帯びて ⑤[後]


 死んでしまうかも知れない、という恐怖は僕にもあったけれど、実際に溺れた天さんは、僕の比ではない。血も凍るほど恐ろしかっただろうし、この先、水が怖くなったり、海がトラウマになってもおかしくはないはずだ。

 天野さんのわなわな震える肩を見て、その程度しか察することができない自分を情けなくも恥じた。冷たい人間だって思われても仕方がないな。他人と充分過ぎる距離を取ってきた弊害のようなものか。月並みの感受性は持っている、と自負していたが、吐き捨てられてしまうくらい微弱だったらしい。それを、このタイミングで理解するなんて間が悪いったらありゃしない。

 再び、天野さんに視線を戻した。思い詰めた顔をして、俯いている。なにかよからぬことを考えていないだろうかと心配になったが、天野さんに非はないのだし、気に病む必要もない。とはいえ、それは僕の言い分に過ぎないだろう。他人が許しても、自分が許せないケースは多分にある。

「ねえ、優志君」

「なに?」

「私の嫌な記憶を、アナタで塗り替えてよ」

「どういうこと?」

 事実、僕には言葉の意味がわからなかった。耐え難い苦痛を味わったとき、別のなにかで痛みを和らげようとする感覚は、まあわからなくもないが、だからといって肉体関係を迫るのは、さすがにどうかしているし、度が過ぎる。だけど、天野さんは僕の意見なんて訊きたくないとばかりに眉を寄せた。

「鈍感な振りなんて、しないで」

 目が、本気だった。いや、正気じゃない、というほうが正しい。

「私、抵抗しないから。好きにしていいから」

 天野さんは手を交差して、水着を脱ごうと手を掛けた。

「優しくしなくてもいいから」

「駄目だよ天野さん!」

 いまにも脱いでしまいそうな手を掴み、僕は言う。

「そういう発想は、よくない」

「それなら、せめて抱き締めてよ」

「できない」

 かぶりを振った。

「ねえ、どうして……?」

「ごめん」

 僕は、天野さんのこんがんを、受け入れるわけにはいかなかった。

 自暴自棄に身を任せたその果てにあるのは、きっと虚しさだけだ。まだ実体験はないけど、流れでしてしまうのは誠実な行いではないし、なによりも卑怯だろう。

 だから、

「僕にできることは、これくらいだよ」

 そう言って天野さんの前に立ち、優しく頭を撫でた。

 海水でごわごわした髪の感触を、未熟さと一緒くたにして胸に刻み込む。

「優志君のばか。いくじなし」

 ──そう、だね。

 僕は馬鹿で、意気地なしで、オマケに甲斐性無しだ。

 女の子に『抱き締めて欲しい』と言われても、触れられるのは精々頭部のみという、かなり童貞を拗らせた痴れ者だ。でも、添え膳喰わぬは男の恥と免罪符を切って犯すような最低野郎にはなりたくない。

「嫌いになったのなら、それでもいい。だけど、体は大切にしようよ」

 天野さんの瞳からは、大粒の涙がずっと零れている。止まらない。

「違うの、優志君。ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい……」

 嗚咽を混じらせながら繰り返す謝罪は、自責の念が込められていた。




「もう、大丈夫」

 両手で僕の腕を掴み、ゆっくりと下ろした。

 掴まれた部分が熱を帯びて、薄っすら濡れているような気がする。これはきっと海水だ、なんて誤魔化せるくらい大人だったらどんなによかっただろう。無知は罪だ、とだれかは言うけれど、せつ過ぎるのも罪だと痛切した。

「取り乱してごめんなさい。……落ち着いたわ」

 目が充血して、腫れぼったくなっていた。僕が天野さんを泣かせてしまったんだ。ズキンととうつうが胸を衝いた。この痛みの正体は、忘れてしまいたいと願って捨てた懐かしい痛みだった。

「大丈夫だから」

 溜息混じりの言葉は、僕ではなくて、自分に向けられた言葉だろう。嘘だ、とすぐにわかったけれど、天野さんの強がりを御為倒しに呑み下した。鑑みるに、たらでも言わなければ、溢れる感情を収拾できなかったのかも知れない。

「そっか」

 と、空言を吐いて、見つからないように右手を後ろに隠した。髪を撫でた感触をぐにぐに揉み消す。自分の未熟さは戒めとして残した。それ以外は、いち早く忘れてしまったほうがいい。名残惜しむように覚えているのは、天野さんに対して失礼だろう。

「ねえ、優志君。ちょっと左手を見せてくれる?」

 思いついたように、言う。手相占いをするにしては、妙なタイミングじゃないか? 訝しみながら、言われるがままに左手を差し出した。その瞬間、僕の左手を掴み、両手でぐいっと引っ張り寄せた。

「うわっ」

 不意を衝かれた僕は、物の見事にバランスを失って──

「撫でるだけじゃ物足りないの。我儘な女でごめんなさい」

 気がつけばベッドに横たわり、天野さんの腕の中にいた。グリーンアップルが、目の前に二つあった。いや、赤い実だから普通の林檎だ。

 林檎が一年を通して販売されているのは、長期保存が可能だからという。品種は〈ふじ〉や〈王林〉が有名だが、季節によって旬である種類が違ったりするのだ。

 旬のピークが8〜9月の早生種に挙げられる林檎は二つある。

 競走馬のような名前の〈シナノレッド〉は、さっぱりとした甘さでさわやかな風味が特徴だ。

 そして、もう一つは〈恋空〉。

 希少な品種で、優しい甘みが特徴だが、小ぶりで貯蔵性が低い。果肉には果汁が多く含まれていて、糖度は一十六パーセントほどある。これは、種類にもよるがメロンと同等の糖度らしい。目の前にある恋空は随分と大きいなあ、なんて思いながら傍観していると、天野さんは殊更に強く僕を抱き締めた。

 顔が、二つの恋空に埋もれる……。

 ありったけの林檎の知識を脳内に巡らせて、なんとか自我を保っていること数分。僕の頭部を抱え込むように抱き締める手が、髪を撫でた。赤ん坊をあやすような、慈愛に満ちた手つきだった。慰められているんだろうか。立場が逆転している気がするけれど、気のせいってことにしておこう。
 
「私、待ってるから」

 思い出したかのように、声にする。

「私はもっとアナタを知りたい。鶴賀優志という男の子の人となりを、もっと知りたい。……校庭の隅にあるベンチで一緒にお弁当を食べながら話したときのように、いろいろと教えて欲しいの」

 ゆっくりと息を吸い込む。

「私は、ユウちゃんと一時も離れたくないくらい好きだけど、優志君の存在を忘れちゃ駄目だって気づいたの。だから、アナタのことも好きになりたいなって、いまになってようやくそう思えたわ」

 それは、二度目の告白だった。

 その場の空気に当てられたのも事実だろうけれども、空気を力に変えるのは、だれにでも出来るような芸当ではない。拒絶されたらどうしようとか、余計な心配に囚われて、ぐっと飲み込んでしまうのが普通だ。

 その気持ちを、無下にはできない。

 ベッドから立ち上がる。

「僕は結構面倒臭いやつだよ? ……それでも、いいの?」

「そんなの、知ってるわよ」

 天野さんの苦笑いを見て、凍りついていた空気が弛緩した。


 

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