【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

四十三時限目 初めての感情[後]


 私と照史さんはリビングの中央に立って、琴美さんの指示を待った。

「じゃあ照史さん、予定通りによろしくー……、アクション!」

 映画監督みたいに大声を張り上げ、琴美さんは居住まいを正した。

「先に謝罪しておくよ。……ごめんね」

「え?」

 突然のことで、一瞬、自分がなにをされたのかわからなかった。

 ふと気がつけば、いつもよりも濃い珈琲の香りに包まれていて、黒のスーツベストに右頬をくっ付けていた。シャツの襟元から見える鎖骨の窪みが艶かしいとか、思ってたよりも胸板が厚くて筋肉質なんだなとか、耳にかかる吐息が擽ったいとか、年頃の女の子は思うんだろうな。

 両親以外に抱きしめられるのは、初めての経験かも知れない。

 抱き締め返したほうがいい、のかな……?

「そのままで、いい」

 その声はいつもより甘く、静かで、川のせせらぎにも似た穏やかさがあったけど、それと同時に、少し濡れていて、バランスを失えば倒れてしまいそうな危うさも感じた。

「はあ……やばい。普通に尊い……。無理、しんどい」

 鼻息を荒げながら鉛筆を忙しなく動かしている琴美さんの姿は、照史さんの体で見えない。ぎゅっと抱き寄せられているから、首すらも動かせなかった。

 トクン、トクン──。

 照史さんの心臓が、一定のリズムで脈を打つ。その音が心地よくて、なんだかもう、全てどうでもいいやって気分になりそうだ。このまま、照史さんの中に溶けてしまったって……。

「そのまま動かないで! すご……これは捗りますねえ!? ああ、優梨ちゃん、その顔、とってもエッチい!」

 スケッチブックを下敷きにして、画用紙にシャシャッと線を描きながら、私たちの周囲をぐるぐる廻る。角度を変え、別の視点から私たちを描きながら細かい指示を出す。妥協を許さないプロ根性が、琴美さんを突き動かしているに違いない。

「照史さんはもっとエロく! 右手は後頭部に、左手は腰よりも下、優梨ちゃんのお尻のちょうい上を撫でるような感じで! 優梨ちゃんは、恥ずかしさに悶えて! ああ、いい……ベストをぎゅっと掴んじゃおう! シワになるとか気にしなくていいからひと思いに……そう! ああ、えっちですねえ……。ああ……すっ、ああ……すっ」

 興奮するあまり、語彙力が佐竹君と同じレベルにまで低下していた。

「はいオッケー!」

 やっと終わ──

「次いってみよー!」

 その声に従うように、照史さんは「もう少しの辛抱だから」と、今度は私を壁際まで追いやる。この感じ、知ってる。漫画とかでは定番で、実際にされると引いてしまうでお馴染みの壁ド──

「壁ドンなんて生温いわ! いまはやっぱり肘ドンからの膝ドンの二コンボだドン!」

 照史さんの右肘が、左耳に当たる。膝は、私の両腿の内側に滑りこんで、スカートを捲る勢いだ。これ、抱きしめられるよりも恥ずかしいというか、かなり生々しい。

「照史さん、優梨ちゃんの右耳を甘噛みするみたいな仕草して。実際には噛まなくていいから」

 さっきまで鼻息を荒げながら興奮を隠さず、『仰げば尊死……』とかなんとか言いながら巫山戯ているようにも感じたけど、照史さんに指示を出した声音はいつになく真剣で、佐竹家の長女ではなく〈漫画家〉の表情になっていた。

「照史さん、もっと唇をもっと耳に近づけて。優梨ちゃんは目を閉じて、照史さんの息遣いを確認するみたいな。両手は胸の辺りで、天に祈る感じ」

 どんどん指示が飛んできて、私と照史さんはそれに従う。

「……っ」

 照史さんの息が、耳にかかって、擽ったい……。

 ──あと少し、だから。

 照史さんが、耳元で囁く。

 早くこの時間が終わって欲しいと思うからこそ、照史さんは琴美さんの指示に従っているんだ。そうじゃなければ、こんなに苦しそうな声は出ない。でも、なぜだか『無理をしている』ようには思えなかった。まるで、恋人をあいせきするあまり、いてもたってもいられず壁に追い込んだ、不器用過ぎる愛情表現みたい。

 照史さんは、これまでにどういう恋愛を経験してきたんだろう。

 なんでもそつなくこなし、だれに対しても分け隔てなく微笑みかける。それが、私の知っている〈ダンデライオンのマスター・月ノ宮照史〉その人となりだけど、仕事とプライベートの姿が一緒とは限らないだろう。

 仕事が終わり、アパートに帰宅して、一日の疲れをビールで流し込む姿はピンとこないし、着の身着のままベッドに倒れて、そのまま朝を迎えるようなだらしなさもなさそう。でも、普段はピシッとしている人のプライベートが荒んでいるのは、なんとなくわかる気がする。そこに恋人がいれば、疲弊した心を満たすように甘えてしまう理由にだてなり得る。

 精神的な支柱、心の拠りどころ、安らぎのひとときを共有できる人がいない照史さんは、孤独なのだろうか。子どもが抱える孤独と、大人が抱える孤独は、その意味が違う。 

 ──仕事が恋人だから。

 思えば、このときの照史さんの声は、寂しそうだった。

「照史さんは、寂しいんですか……?」

 気がついたときには口にしていて、『言ってしまった』という焦りが心臓をきゅっとさせた。

「寂しくは、ないよ」

 言葉の隙間に、違和感を覚えた。

「ボクは、幸せ者さ」

 自分に言い訊かせているような、辿々しい声。

「もし」

 照史さんはそこで言葉を途切ると、壁に触れているであろう右手を私の頭に置いた。

「──寂しい、と言ったら、キミがその隙間を埋めてくれるのかな」

 かっと耳が赤くなったのが自分でもわかった。

 普段とは別人のような反応に、動揺してる……?

 やさぐれた感情を我儘に吐露して、それが妙に心を揺さぶった。

「はーい、二人ともお疲れさま! いい感じのが描けたわ、ありがと♪」

 琴美さんの、場違いなほど明るい声。

 これで、ようやく解放される。

 安堵して目を開くと、照史さんの顔が目と鼻の先にあった。

「あ、照史、さ……」

「ボクはね、優志君。キミが思っているより、大分汚れた人間だよ」

 そう言葉を残して、いつも通りの微笑みを湛える。

「さあ、休憩にしよう」

 私の元から離れたその足で、琴美さんの様子を見に行った。

 私は、照史さんの言葉が耳から離れなくて、壁に寄り添ったまま、暫く天井を眺めていた。








 読んで頂きまして、誠にありがとうございます。もし差し支えなければ、感想などもよろしくお願いします。

 これからも、当作品の応援をして頂けたら幸いです。(=ω=)ノ

 by 瀬野 或

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品