【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

二百五十五時限目 違和感は水面を揺らす


 離れの別棟に辿り着いた僕と佐竹は、男女に分かれた入口で立ち止まった。

 僕が男湯に入る。それは当然であり、未成年とは言えど、この歳で女湯に入ろうものなら、それは反社会的行為になってしまう。つまり、僕が使用可能な更衣室というのは即ち、男湯なのだ。何の気無しにれんくぐってさえいれば、佐竹も意識せずにいられたかもしれない。でも、僕は入口手前で、そこに壁があるかのように立ち止まってしまったのだ。それがいけなかった。

「おい」

 なにしてんだよ、と佐竹が僕を急かす。

「うん、わかってる」

 わかってはいるけれど、足がどうにも動かない。

 これまで、佐竹に裸を見られたことは何度もあった。華奢過ぎるだろ、筋トレくらいしたらどうだ──と、揶揄われたのを覚えている。

 しかし、それはまだ自分の性を意識していなかった頃の話だ。

 その頃はまだ、この体と正反対の性別に特別な感情は無くて、同性に体を見られてもどうということはない……くらいの気概でいた。佐竹に裸体を晒すのは多少の抵抗もあったけれど、今のような気恥ずかしさは程々にしか感じていなかった。

 これが『性自認』というものなのか──と、僕は思う。

「早く入ろうぜ……ガチで寒いんだが」

「あ、ああ……うん。そうだね」

 隣で体をがちがち震わせている佐竹に悪いよなと観念の臍を固めて、磨りガラスの張られたドアを開く。

 がらがら──。

 ざあっ、でも、ざざっ、でも、がちゃ、でもよかったのだけれども、ドアの開閉音は『がらがら』がしっくりくると思った。がらがら、なのだ。それはつまり、利用客がいないという意味での『がらがら』。赤ちゃんを泣き止ませるために振り回す玩具ではなく、閑散という意味。

 なんとなく、特にこれと言った根拠は無いけれど、そんな気がしていた。多分、ぼくら以外に人はいないんだろうな──と、道中で誰ともすれ違わなかったのが、その考えに至った理由だ。然ればとて、本当に入浴客がいないかは、まだわからない。

 開け放ったドアの向こう側に、直ぐ更衣室があるわけではなかった。

 仮にそういう作りだとしたら、男性なら兎も角、女性は堪ったものではないだろう。誰かがドアを開けた瞬間、自分の裸体を異性に晒してしまうかも知れない。それは明らかに欠陥であり、そんなセミオートラッキースケベみたいなことがあってなるものか──セミオートラッキースケベって、とんでもないパワーワードだな。

 僕らを最初に出迎えたのは、玄関のような作りの段差。ここで履物を脱いで上がれということらしい。段差の下に簀子すのこが敷いてある。段差を跨いで中へ進むと、そこは待合室のような通路になっていた。床はフローリングで、清涼飲料水を販売している大手メーカーの自動販売機と、牛乳を販売している自動販売機が左手側に並べて設置されていた。その向かいには、茶色い木製の簡素なベンチが二つ並べてある。

 通路の突き当たりにはトイレがあり、その手前ら辺に『更衣室』と看板を掲げていた。入口とは違い引戸で、このドアこそ『がらがら』という擬音が似合うだろう。

「やっぱりと言うべきか、だな」

 無音の更衣室を見渡して、佐竹が有り体に言った。

「もしかしたらここにいないだけで、浴場にはいるかもよ?」

「猿が入浴してるんじゃね? 日光だからあり得るだろ。サル軍団もあるくらいだしな、普通に」

 佐竹は揶揄うように言ったけど、あり得ない話ではない。

 ここは山の奥地だし、山から下りてきた猿が顔を真っ赤にして、温泉に浸かりなが寒さを凌いでいる風景はテレビで何度も見たことがある。

「仲間と一緒に入浴できるかもしれないじゃん、よかったね佐竹」

「俺は猿じゃねぇよ!?」

 でも、猿山の大将なのは違わないでしょう? と喉まで出かかったけれど、さすがに言い過ぎだよなと、既のところで呑み下した。

「で……、いつまで僕の隣にいる気? もしかして着替えの場所まで隣とか言わないよね? こんなに広々とした更衣室なんだから、有意義に空間を使うべきだと思うのだけれど」

「わ、わかってるっての! 俺は奥のほうにある適当なロッカー使うから」

 そう言い残して、佐竹は左壁側のロッカーへと向かっていった。

 これで着替え問題は解決だ──と思ったけれど、奥へ進んでいったはずの佐竹が、申し訳なさそうな表情で僕の元に戻ってきた。

「……すまん優志、一〇〇円貸してくれ」

「小銭の用意くらいしておきなよ……はい。これで牛乳も買っていいから。奢るって約束したし」

 ここのコインロッカーは、使用後に一〇〇円が返ってくるタイプだ。更衣室に入る前、牛乳の自販機で値段を確認しておいたので、渡したお金で購入できるだろう。払い戻した一〇〇円も逃したりしない──という姿勢、嫌いじゃない。

「マジか! 無効かと思ってたわ。マジで」 

 いやいや、いくら見つけて欲しくない物を見つけたからと言って、佐竹の働きが無かったことにはならない。労働には対価が必要なんだ。一〇〇円分くらいの働きはしてくれたと思う。まあ、後処理が適当過ぎたので、もしもコーヒー牛乳やフルーツ牛乳を飲みたいのであれば、残りの二〇円は実費で賄って貰う他にない。

 ケチだと思われるだろうか?

 いいや、僕は断じてケチじゃない。

 だって──

 僕は、と言ったのだから。




 * * *




 浴場へ行くには、風除室を経由することになる。

 前後と右に強化ガラスが張られている風除室の左手側に、『Staff only』のプレートが張られた扉があった。この先には掃除用具やボイラー設備なんかがあるんだろうな、知らないけど。

 浴場へのドアは右手側にあり、僕らはそのドアを通って浴場へと足を踏み入れた。

 浴場はとてもシンプルな作りになっている。

 ごつごつとした岩で囲まれている湯船からは白い湯気が立ち、風がその湯気をさらう。

 隣には檜風呂の湯があり、今日、その湯を占領しているのは女性だ。

 男性が女湯を覗けないように竹でできた背の高い壁が、前方まで余分に伸びている。まあ、その先にまで歩いていこうと思う阿呆はいないだろう。その先は傾斜が急な崖のようになっているのだから、裸足でそこを歩けば無事では済まされない。

 おそらく、この傾斜は自然に作られたものではない。大自然を堪能できるように、敢えて傾斜を作ったと推測できるが、覗き防止の意味もあるんだろう。

 岩風呂となっているこの浴場の床は、コンクリートに、丁度いいくらいの大きさの石が点々と埋め込んである。その石の表面は平らに加工されているので、歩く都度、足裏のつぼを刺激する作りにはなっていないが、そういう刺激を期待している人のために、『足裏マッサージ』が用意してあった。

 小粒の石を丸く加工した物を、まるで針山のように凸凹にした床は、不健康な者が踏みしめると激痛が走る。肝臓や胃腸が悪いと痛むんだったかな? まあまあ、そういうハードプレイをご所望する方もいるのだろう。痒いところに手が届く、これこそが日本のおもてなしの心というものであり、諸外国から遥々やってくる旅客も「アウチ! オーマイガー!?」と大喜びすること待った無しだね!

 それは喜んでいるリアクションなのだろうか。

 英語は難しい。

 僕は今でも、世界標準語に日本語を推している。

 壁際には六つの椅子が用意されている。リゾート地で見かけるような、寝転がるタイプのやつだ。木製の椅子なので、リクライニングチェアみたいに、背凭れの角度は調整できないけれど、火照った体を冷ますには充分だろう。

 佐竹は湯船に向かわず、最初に体を洗うらしい。

 意外にも、入浴に関してのマナーは把握しているようだ。絶対に奇声を上げながらダイブすると思っていたのに。

 そんな彼は、時間止めシャワー混合栓に悪戦苦闘している。銭湯や温泉では『時間止め水栓』を採用している場合が多い。

 家庭用の捻るタイプの物ではなく、プッシュ式で、狙ったかのようなタイミングでお湯が止まるやつだ。

「くっそ、このタイプかよ……」

 僕の反対側で体を洗っているであろう佐竹が、ぶうぶう文句を垂れた。

「まあまあ、温泉を貸し切り状態と思えば、そんなの些細な問題でしょ」

「そうだけどよ……」

 その声には、どうも納得できないとでもいうような含みを感じる。

「──やっぱり、おかしいよな」

 そうだね、と僕は返す。

 佐竹も少なからず、異変には気がついているらしい。

「人、いな過ぎるだろ」

 ガチで──。

 シャワーの口から溢れた水滴が湯を張った桶に垂れて、ちゃぽんと水音を鳴らしたような気がした。









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