【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

二百三〇時限目 子犬は少しだけ大人になっていた


 電車には独特な匂いがある。人によっては気持ち悪くなってしまうような、それこそ、名状し難い匂いだ。この匂いを電車以外で嗅いだことがないので、僕はこの匂いに『電車臭』という名前を付けてみる。……ネーミングセンスの無さに呆れて、「ふっ」と自嘲気味に鼻息が鳴った。

 トレイントレインは栄光に向かって走るけれど、僕が乗り込んだ電車の終点は池袋。弱い者たちが夕暮れに、更に弱い者を叩けばブルースは加速するらしいけど、携帯端末の画面の中で叩かれているのは、映画、芸能人、そして、炎上目的でアップされたバイトテロ動画。加速していくのは怒りのみ。SNSでは皆、顔や住所が割れないと踏んで、言いたいことを言う。そして、その発言に不満を抱いた者が発言者を叩く。今は、こういう時代。

 がたんごとん、車輪がレールの上を走る。

 すれ違う電車の風圧で窓が揺れて、前に座っている中年男性がビクっと体を震わせた。半分居眠り状態だった彼は、完全に油断しきっていたんだろう。そして、何事もなかったかのように、再び眼を閉じた。

 国道沿いを走る電車の窓から視える風景に、これといって珍しい物は無い。潰れたガソリンスタンド、畑、川、ラーメンショップと続く。いつぞや回想したゲームセンターは、とっくに通り過ぎてしまった。柴犬は今も尚、あのゲームセンターで麻雀ゲームをしているんだろうか──。




 東梅ノ原駅に到着。

 僕を運んできた電車は徐々に速度を増して、あっという間に小さくなってしまった。その姿が見えなくなるまで見送って、改札へと続く階段に片足を乗せた。

 そう言えば──階段にまつわる怖い話が小学校で流行ったことがあった。

 西側の一番端にある階段の二階と三階を繋ぐ踊り場の壁に、とても奇妙で大きな絵が飾られていた。背景は青だか黒だか曖昧だけれど、やたらと首、手足が長くて、ぐねぐねと曲がっていた。肌の色は暗い緑で塗り潰されていて、表情はあっただろうか……細部までは思い出せない。きっと有名な画家の作品なんだと思うけど、あの絵はさすがに薄気味悪過ぎた。そんな奇妙過ぎる絵だったので、小学生の眼に『恐怖の対象』として映ったのだろう。深夜になると、ぐねぐねに曲がった手を廊下に伸ばして、その手に捕まると『あちら側』へと引き込まれるというのだ。

 当時の僕はこの話を訊いて恐れ慄いたけれど、よくよく考えれば矛盾だらけ。先ず、『絵から手が出てくる』のがあり得ない。そして、『深夜になると』というところもおかしい。誰かが深夜に忍び込まなければ確かめようがないし、その噂が本当だとするなら、忍び込んだ彼が生きて戻ってくる確率は極めて低いと言っていいだろう。絵画が設置されている場所は、校舎の一番西にある二階と三階を繋ぐ踊り場だ。窓は無く、懐中電灯の明かりを頼りに進むしかない。真っ暗な階段は、大人だって細心の注意を払う。その階段を懐中電灯の明かりだけで進んだり、下ったりするのは困難を極める。注意をしながらでは速度が出ないので、一階に逃げ込む前に緑色の手に捕まり、あちら側へご案内だ。無事に生還できたとしても、その後、何食わぬ顔で学校にこれるだろうか? 僕だったら無理だ。またいつ、あの手が自分を狙ってくるかもわからないリスクを背負いながら、ビクビクして登校するなんてどうかしている──学校にまつわる怖い話なんて、冷静に考えればこんなもんだ。




 * * *




「あ、ルガシーじゃん」

 駅の階段を下りたところで、見覚えのある女の子が不本意なあだ名で僕を呼んだ。

 春原凛花は天野さんの中学時代の親友だった……らしい。天野さん曰く、『気心を許せる唯一の友だち』とのこと。中学時代は真面目で、髪を染めるような人物ではなかったらしいけれど、僕は今の春原さんしか知らないので、真面目だった頃の春原凛花は想像し難い。今日も今日とて、春原さんはギャル風メイクに余念がない。髪は金髪で、爪は桃色に染まっている。やたらもこもこしているファーマフラーは、捲き慣れないと首が痒くなりそうで、視ているこっちが痒くなりそうだ。いや、既にちょっと痒い。

 ──ただ、ギャルになりきれていない部分も見受けられる。

 天下無双しているギャルズとはまとっている雰囲気が違うのだ。

 どこか無理してギャルを装っている感が否めない。

 そこがまた春原さんのチャームポイントでもあるんだけれど、それにしても今日は一段とメイクに気合が入っているなぁ。

「こんにちは、春原さん。今日はとってもいい天気ですね。それじゃ」

「出会って速攻で会話を断ち切るとか、今日も鶴賀節全開じゃん」

 春原さんは「あはは」と声に出して笑った。口元にえくぼができて、笑顔は素敵なんだけどな、と思う。

「……何かないの?」

「え。別に用は無いし、僕はこれから用事があるから、足早に立ち去りたい気持ちでいっぱいなんだけど」

「冷めてる!? もうちょっと興味持って!」

 だってこの状況は、明らかにおかしい。春原さんの服装といい、メイクといい、この場で待っているという意味から察すれば、自ずと答えは出てくる──恋人との待ち合わせだ。

「彼氏と待ち合わせでしょ?」

「え? ……う、うん。えへへ」

 はにかむ笑顔を視せるな! ──ちょっと可愛いから。

「しば──じゃなくて、念願の恋がじょうじゅしたんだね。おめでとう」

「そう、なんだけどさ……」

「うん?」

 想い人と結ばれたというのに、春原さんはどこか不安そうに目を伏せた──まあ、相手がアレじゃあ、そうなる気持ちもわかる。僕よりも甲斐性無しな彼と付き合う春原さんが、僕には聖女にさえ視えてしまうような、そんな気持ちになってしまった。

「実はね──」

 そう切り出そうとした時、僕の後ろからやんちゃっぽい声で「りんかー!」と呼ぶ声が訊こえた。夏に合った時より、大分声が低くなった気がする。でもそれは、多分気のせいだろう。

「あ? なんで鶴賀がいんの?」

「え? 二人とも知り合い?」

「は? 凛花がどうしてコイツを知ってんだ?」

 春原さんと柴犬は、互いに「は?」と「え?」を繰り返し、

「どうなってんのか説明しろ」

「どういうことなのか説明して」

 ──と、声を合わせて僕を睨む。

 こうなると思ったから、僕は早くこの場から立ち去りたかったんだ。

「おい鶴賀。話によっちゃどうなるかわかってんだろうな? マジでハンコロだぞ」

 まだ使ってたのか、その言い方。

 中学時代、柴犬は自分に不利な状況になると、脅し文句に『ハンコロ』を使っていた。その意味は『半殺し』に他ならないのだが、僕が知っている柴犬が、相手をハンコロにしたという記憶は無い。だって、柴犬は大層小物臭全開で、決まり文句のハンコロも、『先輩』が先に出てくる。つまり柴犬は虎の威を借る狐よろしくの、『先輩の威を借る子犬』だったのだ。たしかに、柴犬は中学時代に怖い先輩と付き合いがあった。だからこそ、その決まり文句が通用したんだけど、今、その先輩はいない──噂によると、高校を中退して暴走族になったとか、ヤクザの舎弟になったとか、噂だけが一人歩きしていた。

「僕と春原さんはただの友だちで、しばけ──柴田君と僕は中学時代の知り合い。ただそれだけの関係だよ」

「……ああ、そうか。勘違いして悪かったな」

 ファー!? 今、柴犬が僕に謝罪した!?

 中学時代にイキり散らしていた柴犬が、僕に謝罪をしただと!?

「なんだよその眼は──オレにも色々あったんだよ」

「そ、そうだったんだ……」

 そう言われてみると、夏にあったときよりかは、大分成長したように感じる。背格好もそうだけど、髪型がオシャレ坊主になってるのもそうだけど、一番の変わりようは、小物臭が無くなっていることだった。

「知り合いだったなら、もっと早く教えてよ。ルガシー」

「ごめん。言い出しにくかったんだよね」

「高校入って暫くは、中学時代と同じようにバカやってたんだけどな。藤沢──ああ、担任の先生だ。そいつに一喝されちまって、このざまだよ」

 笑いながらそう語る柴犬は、一皮も二皮も剥けているように感じた。ああ、そうか。青臭さがなくなったんだ。おそらく、柴犬は中学入りたての僕と似たようなものを、高校に入って感じたんだろう。劣等感、周囲のクラスメイトから置いていかれるような感覚、どうしようもない焦り──それらを経験して、柴犬も一歩だけ、大人の階段に足を乗せた──そう、僕は感じた。

「いいと思うよ、今の柴犬。かっこいいと思う」

「うるせえよばか。……お前も雰囲気が変わったな。夏に会ったときは、もっと挙動不審だったぞ?」

 そりゃ、あのときは女性物の水着をゲフンゲフン。

「あと、なんだろうな──幼くなった? いや、ちげーな。なんだろう、男らしいとは正反対な位置」

「あー」

 あー、としか反応できない。

 春原さんは僕の事情を知っているから、柴犬の裏で口元を隠しているけれど、隠している手をどけたら、大いに笑っているんだろうな。そういいうところ、ハラカーさんは可愛くない。

「それじゃ、僕は邪魔者みたいだし、そろそろ行くよ」

「ああ──どこに行くんだ?」

「近くに喫茶店があってさ、そこで友だちと待ち合わせしてるんだ」

 僕がそう言うと、二人は顔を合わせた。

「ごめん、ルガシー。実は私たちも、ダンデライオンでお茶しようと思ってて──」

 マジか。いや、まじかぁ……。驚きのあまり、語彙力が佐竹った。

「前々から話しててね。〝喫茶店なんて趣味じゃねぇよ〟って言ってた健君を、ようやく口説き伏せたんだ──だから」

 まるで懇願するかのように、春原さんは僕を見つめる。

「コイツの邪魔したら、コイツの友だちに悪いだろ」

 おい、その言い方だと、僕にはこれっぽっちも悪いと思ってないような口振りに訊こえるのが? けど、僕と柴犬は取り分けて仲がいいというような関係でもなかったしな。こういう気遣いができるようになっただけでもよしとしよう。

「別にいいよ。照史さんも客が増えたら喜ぶだろうし」

「ほんと!? ありがとルガシー♪」

「いいのか? 悪いなルガシー」

「柴犬は次にそのあだ名で呼んだらハンコロだからね」

 あ、てめぇ言いやがったな! ──そう言って笑いながら、僕の脇腹を小突いた。

 まさか、柴犬と軽口を言い合う日がくるなんて、あの頃の僕がこの現状を視たら泡を吹くんじゃないだろうか。

 きっと僕らはこうして、少しずつ何かを妥協しながら、大人に近づいていくんだろう。

 それはいいことでもあり、悪いことでもある。

 早く大人になりたい──とは思わない。

 でも、こういう関係はちょっとだけ、「いいな」と思ってしまった。

 数十年後に中学の同窓会があって、そこに顔を出したら『お前も老けたなぁ』と言い合うような日も訪れるんだろう。そのとき、柴犬の隣には春原さんがいて、苗字も柴田になっているかもしれない。柴田凛花──と、頭の中で並べてみる。まあ、悪くはないんじゃないかな。春原健かもしれないけど、どっちも悪くないと思う。

 僕はその頃、どうなっているんだろうか。

 帰る家があって、僕の帰りを待っているんだろうか。

 そんな先のこと、想像もできないな。

「なにぼーっとしてんだよ。そこだけは中学のときから変わねーな」

 ちょっとだけ、柴犬が羨ましく思えた──。









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