【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
一百七十三時限目 男装の麗人が婀娜めくまで ⑩
エリスが部屋に戻ってきたのは、注文していた明太子パスタが届いてから数分後だった。両手にはストレートティーが入ったコップを持っている。紅茶の茶葉は緑茶と同じで、煎る時間が長いと紅茶になるのだ。私はそれを踏まえて、「茶葉から作ってきたの?」と、ほんのちょっぴり皮肉を吐いた。
「違う。……ちょっと考え事をしていた」
考え事? と、私がオウム返しで訊ねるとエリスは軽く頷いてから、両手に持つコップをパスタの横へ置いた。
エリスが席を立ってから、大分時間が経過している。それだけの時間を費やして、エリスは何を考えたのか──なんて、言われなくてもわかっている答えを訊ねるのは、些か野暮な質問だったかもしれない。
席に座ったエリスは、そのままパスタを食べ始めた。器用にフォークでくるくると麺を巻いてぱくりと一口。
「……まあ、こんなもんか」
レストランカラオケ、を謳っているカラオケ屋だけれど、私もこの味にはエリスと同じ感想しかない。おそらく冷凍されていた物を電子レンジでチンしただけ。そこから工程を加えたのは、ノリをふりかけたくらいだろう。あと、遠慮がちに中央に置かれたバターもそうだ。たったそれだけの作業なのに、注文してから時間が経過したのは、お昼時という事から注文が殺到して、厨房ではてんやわんやな状況に陥ったからと推測する。エリスからすればその『てんやわんや』は寧ろ好都合だったんだろう。飲み物を取りに行くがてら、一人で考える時間ができて、戻ってきたらパスタがテーブルに置かれているのだから、手持ち豚さんならぬ、手持ち無沙汰だった私と比べれば有意義な時間だ。
私とエリスは食事中、ただ黙々とパスタを食して、カラになった器に理由を注ぐ……って、これはセイリングディの一節。けれど私達は愚かなドリーマーでも、永遠のビリーヴァーでもない。帰ったらユーチューブで聴こうかな。
お互いにパスタを食べ終えて、食休みに入ろうとしていた時──
「おい。ほっぺに明太子のソースが付いてるぞ」
「え? こっち?」
私は紙ナプキンで口元を拭いたが、
「そこじゃない。……ああもう、取ってやるから動くな」
エリスの顔が私に近づく。
近くで視れば視る程に、彼女の整った顔立ちと切れ長の眉は、可愛いと言うよりも『綺麗』と表現する方が正しい。つい見蕩れていた私を不思議に思いながら、エリスは右手の親指の腹で拭った。そしてその指をぺろり。
「そういう所、本当に狡いよね」
「あ? 別に普通だろ」
普通の人は他人の口元に付いたソースを指で拭ってぺろりなんてしないんだよなぁ。そういう所はあの漫画の影響なのだろうか? それとも〈流星〉がそうさせるのか。この判断は実に難しいが、エリス自身「普通だ」と言っているので、これはつまり姉御肌とでも言うべき? どちらにせよ、『誑し』になり得る確率は高そうだ。男誑しであり、女誑しでもあるなんて、これを世に放つのは危険かもしれない。
「おい。声に出てるぞ」
「あ、またやっちゃった?」
「すっとぼけやがって」
エリスにこのネタが通じるはずもないか。
再び訪れた静寂を破ったのはお隣さんだった。
いつの間にマダム達が退室したのかは知らないけれど、タオルをぶんぶん回しながら暴れる国産レゲエをダミ声で叫ぶような歌声に、何だか既視感を覚える。
昨日、隣になった男達だろう。
彼らも彼らで休日にやる事がと言えば、合コンか飲み会か、それとも卑猥な乱癡気騒ぎ、多分、大学生くらいのイケイケなヤング──大学生に対する偏見が半端ないって。しかしなぁ、目を閉じればパスタ作ってるお前って、先程パスタを食べた私達にしては、なかなかにタイムリーな選曲で、思わず失笑してしまった。
「またコイツらか」
「そうだね。またこの人達だね」
エリスは食傷気味な溜め息を吐いて、ぐったりとソファーの背凭れに体重を預けた。
「こういう曲は好かん」
その意見には同意するけれど、彼らにとって今日は悪ノリのハートビートであり、めっちゃゴリゴリウェルカムウィーケン! 濡れたまんまでイっちゃって! なのだ。私達がそこに介入しなければ無害。触らぬDQNに祟りなし、である。
「何だか興が削がれたな」
「集中力が切れただけでしょ? 他人のせいにするのはよくない」
「そうかい」
私の注意も上の空で、エリスはそのまま寝るのではないかと疑ってしまう雰囲気を醸し出しながら眼を閉じた。
ここまで慣れない事の連続で、エリスが酷く疲れているのはわかっていた。だけど、このままぼうっとしていたら、あっという間に時間は過ぎていく──それに、疲れたのは私だって同じなのだから、もう一度エリスには襟を正してもらわないと! と、ソファーから立ち上がろうとした時、こつこつと、エリスの後ろにあるドアをノックする誰かの姿がドアの磨硝子に映った。
「あ? 誰だ?」
店員だろうか? ……いや、違う。
店員が私達に用があるなら内線を使うだろう。緊急の用事でもない限り、ドアをノックするはずはない。それに、あのシルエット、どこかで見覚えがある気がする。
ばくん、と心臓が鳴った。
それは私に警鐘を鳴らすように、疼痛までも引き起こしている。
嫌な予感というものは、大体の確率で当たるものだ。
そう、それ即ち、マーフィーの法則。
「エリス、そのドアを開けちゃだ──」
遅かった。
あと数秒、この危険を予想していれば、彼らの介入を阻む事が出来たかも知れない。この場にいる私だけが、その危機に心当たりがあったのだ。普段は用心深いエリス、流星でも、疲れきった頭ではリスクを回避できない。
そんな隙を衝くかのように、訪問者は何の抵抗も受けずに、私達がいるこの部屋のドアを開けた。
「へぇ、結構可愛いじゃねぇか。俺達と遊ぼうぜ?」
そいつは初詣のあの日、愚行をこれでもかと披露した『タクヤ』、その人だった──。
* * *
悪趣味なサングラス、上下に金色のロゴが入った黒のスウェット。口元には煙草を咥えているその男は、私とエリスを物色するかのように左見右見して、いやらしく口角を上げる。
「おいケンジ、だから上物だって言ったろ? 俺の眼に狂いはねぇんだって」
「でもガキだろ? 視た感じ、まだ高校生くらいじゃね?」
タクヤの後ろから現れたのは、タクヤの相棒的な存在であるケンジだ。テナテカのダウンジャケットにダメージジーンズなので、タクヤもケンジもあの日のままの姿だ。こんなに嬉しくないレットイットゴーってある? 私はそれに覚えはない。
「まあまあ、別によくね? なあお二人さん、俺らが性教育してやっから、これからホテル行こうぜ?」
タクヤもケンジも、私があの日、初詣で会った『優志』とは気がついていない。この場に佐竹君が居なくてよかったと思う反面、この事態をどう解決するか──。
ドアの横にはフロント直通の内線がある。あの受話器を取ればフロントにいる店員が異常事態に気づくかも知れない。けれど、私の位置から離れていて、近づこうにもそれを阻止するだろう二人を静止する力は無い。
ちらり、と隣に置いてあるバッグを視る。
バッグの中にある携帯端末で警察に電話出来れば、時間稼ぎも吝かではないけれど、
「おっと。変な真似すんなよ?」
こういう状況に慣れているであろうタクヤは、私の行動を予測して釘を刺した。どう考えても八方塞がり──でも、エリスは依然、ドアの前から離れようとしない。
「なあ、俺らも混ぜてくれよ」
そう言ってタクヤがエリスの肩に触れようとした時、エリスの左手がタクヤの右手を弾いた。
「気安く触るなよ、クズ」
「……あ?」
エリスの背中しか視えないけれど、その声音は初めて訊くくらい、怒りが込められていた。
「ああ、すみませんね。日本語が通じない外国の方でしたか」
エリスは更にタクヤを挑発する。
「ちょっと、エリス!?」
「いいから、任せろ」
私が立ち上がろうとするのを止めるように右手を伸ばしたエリスは、私を振り向きもせずに、彼らの前に壁のように立ち塞がる。
いくらエリス、流星だって、体格差が歴然としている相手に対しては無力だ。ヤンキー漫画で培った知識を使えば喧嘩が強くなるのなら、誰だってリンダマンレベルになっている。
それに──エリスの体は女性だ。
エリスに武の心得があるのなら、もしかするともしかするかもしれない。でも、相手は二人いる。一人で二人を相手にすれば、一方的な試合になるのは当然。だからと言って私がどうにかできるのかと言われたら、こんなひょろひょろな体ではサンドバッグが関の山、約立たずにも程がある。
「エリスって言ったか? お前はもういいや。後ろの子と話をさせろよ、退け」
今度はエリスの肩を衝き飛ばそうとするタクヤだったが、エリスが肩を少し下げると、それは空振りに終わった。そしてエリスは、空振ったその手を左手で掴み、タクヤの右肩辺に左手を添えると、ほんの少し体を捻って、そのままタクヤを地面に転がせた。その時間まさに刹那。護身術の一つだろうか? 動画で観た〈空気投げ〉にも視えなくはなかったけど、動きが洗礼され過ぎてて見逃してしまった。
「……え」
半身を部屋に、そのまま天井を見つめるように倒れたタクヤは、自分に何が起きたのかわからず、といった具合に、呆然と天井のヤニ汚れを仰いでいる。一方、ケンジはその様子をゲラゲラと笑うだけで、タクヤを立たせようともしない。
「だっせぇなぁ、タクヤ。こんなガキんちょに投げられてんじゃねぇよ」
「これ、アンタの友達だろ? やっぱ類は友を呼ぶってやつか。お互いにクズでお似合いカップルだな」
エリスは寝転がったままのタクヤを一瞥してから、蛆虫を視るような眼をケンジに向けたのだろう。その一言でケンジの表情が一変した。
「は? 殺すぞ? つか死んだわお前」
今度はケンジがエリスの胸ぐらを掴む──だが、こういう場合の対処法も心得ているらしく、エリスは全く動じなかった。それぱかりか、余裕すら感じてしまう。
「離せよ。それともそこにいるゴミと同じように、地面に口付けをご所望か?」
「──死ね」
ケンジは空いた右手をエリスの顔目掛けて振り翳そうとするが、どういう訳か、いくら待ってもその拳がエリスの頬に触れようとしない。ピタリとその場で拳が止まっている……よく視ると、エリスの左手にはパスタを食べる時に使っていたフォークが握られていて、それがケンジの腹に突きつけられていた。
「オ……、私は痛いだけで済むけど、アンタの場合はそれだけじゃ済まないだろうな。たかがフォークって侮ると後悔する結果になるぞ」
いやいや、ここでも『オレ』から『私』に言い換えなくてもいいのに……。でも、それだけエリスには余裕がある証拠だ。
「この位置だと腸か。……なあ、盲腸って死ぬほど痛いらしいな。知ってたか?」
「お、お前……、狂ってるぞ」
「こういうご時世だ。いつどこで何が起きるかわからない。明日、隕石が地球に落ちて全人類が絶滅したっておかしくないんだ。アンタらにはそれが今日訪れる、……それだけの話だろ?」
フォークがテカテカのダウンジャケットに食い込んで穴を開けた。そして、エリスはわざとフォークをぐるりと一回転させる。まるで、「こういう風になるんだぞ」と、ケンジに警告をしているような、そんな印象を受けた。
「……チッ。おいタクヤ、いつまで寝てんだよ! 行くぞ!」
ケンジはエリスの胸ぐらから手を離すと、我に返ったタクヤを起こして、そそくさと退散していく。
「今年はガキに厄でもあんのか……クソ」
そんな声がタクヤかケンジか、それともどちらかが吐き捨てたのを、私は聴き逃しはしなかった。
* * *
一歩間違えたら大惨事になっていたかもしれない。元々、エリス、流星は血の気の多い分類で、本人曰く喧嘩に明け暮れるような人生は歩んでいない、と言っていたけど、先程の手馴れた動きを目の当たりにしてしまったら、その言い訳はさすがに苦しいだろう。更に言えば、あの時ケンジがエリスの頬を殴りつけていたら、血を視る事態になっていたかもしれない。それだけ緊迫した瞬間だった。
「エリス──」
大丈夫? と、声をかけようとしたけれど、その言葉は喉奥に引っかかって出てこなった。緊張から? それとも恐怖から? 私はおそらく、目の前に立っている雨地流星に恐怖心を抱いていた。だから踏み出そうにも足は動かず、ばくばくと走る鼓動は止まない。開け放たれたドアがまるで〈事故現場〉ようにも思えてくる。キープアウトのテープが貼られるような事にならなくてよかったけど、そうなる未来もあった。そうならなかったのが不幸中の幸いだ。
深呼吸をして息を整えれば、酸素がようやく全身に行き渡り、脳も正常に動くようになった。
「エリス、大丈夫?」
「ああ。……まあな、ね」
だから、こういう場合でも言い直さなくていいのに。然しそれは、エリスなりのジョークだったんだろう。私が怖がらないように、気を利かせてくれたのだ。それなら私も、その冗談に嬉々として便乗させて貰おう。
「ヤムチャしやがって、だよ」
「ヤムチャだったら、今頃はクレーターの真ん中で寝そべってるだろ」
そう言いながら私に振り向いたエリスは、どこか清々したと言わんばかりの満遍の笑顔だった。あの状況の後に、これだけの笑顔を作れるその精神力もそうだけど、やっぱりエリスは、私とは違う存在なんだと自覚させられる、そんな笑顔だと感じた。
「それにしても、凄い動きだったね。何あれ? もしかしてエリスって異世界から転移してきたとかない?」
「異世界? 何の話だ」
「だってあの台詞とか動きとか、常人を凌駕してたよ」
芝居がかったあの台詞は今思い返してみると、異世界へ渡った主人公がチート能力を相手に披露する状況に近しいものがある。特にあの『隕石云々』の下りは「今死ぬか、明日死ぬか、どちらか選べ」と相手の首筋に剣を突きつけるようにも見受けられた。まあ、突きつけたのは剣じゃなくてフォークなんだけど。
「これでも男らしくなるように色々と鍛えてるんだ。さっきのは護身術の一つで、ネットにも上げられてるぞ」
エリスはその動きをスロー再生しながら、自室で動きを真似して覚えたのか……その涙ぐましい努力が今日、満を持して発揮されたのは喜ぶべき事か考え倦むけれど、助かった事に変わりない。だけどやっぱり、もっと穏便に済ませられたような気もする。そんな事、何も出来なかった私が言うのも烏滸がましいけど。
「何だか興が削がれたね」
「全くだ。……でも」
エリスはそこで一呼吸置いてから、
「あの馬鹿共のおかげで色々と吹っ切れた。ある意味〝めっちゃゴリゴリウェルカムウィーケン〟も、捨てたもんじゃない」
「あの二人にしても、エリスにしても、いい薬になったってこと?」
これでもかと言わんばかりの皮肉を洩らすと、エリスは苦笑いを浮かべながらフォークをお皿の上に置いた。そして、ぐいっと大袈裟に背伸びをすると、真面目ぶった表情で答える。
「勘弁してくれ。劇薬もいい所だ、わよ」
この度は【女装男子のインビジブルな恋愛事情。】を読んで頂きまして、誠にありがとうございます。
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まだまだ未熟な筆者ですが、これからも応援をよろしくお願いします。
by 瀬野 或
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