【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
一百二十二時限目 霜を踏んで堅氷至る
一番線に停車した電車に乗り込むと、車内が電車独特の匂いに満ちていた。この匂いは本当に名状し難い。匂いの元は恐らく、椅子の下にあるヒーターなのかもしれない。嗅ぎ慣れた匂いではあるけれど、これは嗅ぎ慣れてしまっても大丈夫な匂いなんだろうか? 例えばヒーターに温められたゴミの匂いだったら? 椅子に蓄積した汗の臭いだったら? ……考えていたら気分が悪くなりそう。
佐竹君は扉の直ぐ隣の席一人分を空けて座った。私は『どうして隙間を空けたんだろう?』と小首を傾げながら視ていると、佐竹君が相手いるスペースを左手でポンポンと叩いた。──座れ、という事らしい。
私は椅子の隅が好きだけど、電車に乗るひとの過半数は総じて隅が好きだろう。それは佐竹君も例外ではないはず。それでも譲ってくれたのだから、ちゃんと感謝しないとね。
「ありがと」
まるでエスコートされているようで気恥ずかしいなと思いながらも、私を〈女性〉として視てくれているのがほんのにょっぴりだけ嬉しい。私の体にはこの格好に不釣り合いな物が付いているから、それだけで世間は『女装癖のある男』と認知する。それはとても悲しい事で、……だけど、揺るがない真実だ。もっと世間的にも認められたらいいのにと思う反面、それはとても難しい事だとも理解している。だから、ちゃんと私を理解してくれているひと達が私の周りにいるのが奇跡で、幸福な事なんだろう。
この車両には私達の他に、数人の利用者が乗っていた。等間隔で設置されている平行の椅子それぞれにひとりずつ。平日はこんなものだろう。大学生だかフリーターだかわからないけど、私達よりは年上に視える彼、彼女達はこぞって携帯端末の画面を仏頂面で視ていた。SNSのチェック、保存した動画の視聴、音楽、読書までも出来てしまうそれは、手持ち無沙汰で無聊を託つ場面に重宝する。私だって隣に佐竹君がいなければイヤホンジャックを差して、雰囲気に合いそうな曲を再生するだろうけど──
「そういえば、お前はいつも音楽聴いてるけど」
とてもタイムリーな話題だったので思わず「え?」と訊ね返してしまった。
「普段、どんなの聴いてんだ?」
「うぅんと……」
この格好をしているのに「馬鹿野郎! って叫ぶような激しい曲」とは言いづらい……。だからと言って父親の影響で好きになった洋楽を答えても白けてしまいそうだ。だから私は、
「ダンデライオンで流れているような静かな曲かな」
……とだけ答える。
「そうなのか? お前が教室で音楽を聴いてる時って大抵音漏れしてるけど、とてもじゃねぇけどそんなお洒落な曲を聴いてるようには思えないぞ? ……見栄張ったな?」
「あはは……、バレてたかぁ」
私は膝に置いてあるバッグから携帯端末とイヤホンを取り出してジャックを差し込み、イヤホンの片方を佐竹君に渡した。
「実は主に、こういう音楽を聴いてるの」
佐竹君がイヤホンを装着して、「どれどれ」と聞き耳を立てるのを確認してから、ボリュームを低くして、いつも聴いている『馬鹿野郎!』な音楽を流した。
世間的に言えばそれ程認知はされていなくて、どちらかと言えば毛嫌いされそうな青臭い歌詞と泥臭いボーカルの歌声。はみ出し者とか、夜の冷え切ったフェンスによじ登るとか、赤煉瓦煙突の上で骸骨が踊ってるとか、……後者は抽象的な歌詞なのでよくわからないけれど、やり切れない気持ちを代弁してくれているようで聴き心地がいい。──なんて事を佐竹君に語っても、理解出来ないだろうと噯にも出さないでいたら、
「かっこいいな、ガチで。なんつうか、飾らない音楽って感じだ」
以外にも好印象だった。
「気に入ってもらえたらうれ──!?」
今更ながら、佐竹君の顔が近くにある事に驚いて思わず顔を離すと、佐竹君の左耳からイヤホンがすっぽり抜け落ちて、私と佐竹君の丁度隙間に転がる。
「あ、おい。せっかくサビだったのに」
「ご、ごめん!」
焦りながら手元のコードを手繰り寄せてイヤホンを拾うと、イヤホンからシャカシャカと音が漏れていた。
「な? 漏れてるだろ? 今度からカナル型にしておけって」
「そうだね……」
なんで私はこんなにドキドキしてるんだろう?
佐竹君に? ……佐竹君にドキドキしてるの!? た、多分これは動悸だよね? 救心救心。それとも命の母? バファリンの優しさ成分でどうにかならないだろうか。ならないよねぇ。バファリンと、イブクイックと、ルナは、動悸、息切れに効く薬じゃないもんね。でも大丈夫、私達のロキソニンさんを信じろ! ロキソニンを飲む時は、ちゃんと薬剤師さんの説明を守ろうね! ──なんで薬の事を考えてるんだろう。救心救……無限ループって怖くね? そんな下らない事を頭の中で繰り広げていると、大分冷静になってきた。
「……佐竹君のばか」
「謂れ無き唐突な罵倒!?」
側から視て、私達はどういう関係に視られるんだろう。カップルだと思われてたりするんだろうか? だけれどこの車両に乗り込んでいる乗客達は私達なんてお構い無しで、手元にある現代叡智の結晶に見惚れているだけで、私が危惧しているような状況に陥っていないらしい。
対向電車の風圧で窓が轟々と鳴り、私は景色に眼を向けた。
電車は川の上を渡すレールを走っている。窓の外には色を落とした芝生と車輪の轍が伸びる土手。斜めに切り取られたような斜面の下には、緩やかで、それでいて水深がありそうな川が流れる。更に奥へと眼を向ければ、国道に沿って建てられた、地域最安値という噂のガソリンスタンドと、まるでギャングの秘密基地をイメージして作られたようなゲームセンターがあり、中学生時代はこのゲーセンでボーリングをして遊んだ記憶が甦った。確か、ペアになったのは柴犬だったな。アイツ、私に負けじとボールを転がしていたけど、私同様に下手くそでガーターを連発していた。
……あまりいい思い出ではない。
国道を沿うようにして走るこの電車が、目的の駅に到着するのはまだ暫く後だ。目的の駅に到着しても、そこから更に電車を乗り継がなければならないので、ダンデライオンがあるいつもの駅に到着するのはまだまだ先。ガタンゴトンと揺れる電車は揺り籠のように眠気を誘う。ふっと隣にいる佐竹君を横眼に入れると、窓を枕にするようにして寄りかかりながら眠っていた。とても無防備な寝顔で少し微笑ましく思いながら、私も佐竹君に倣うように目蓋を閉じる。
気持ちよく意識が途切れそうになった頃を見計らうように、バッグにしまった携帯端末がブルブルと震えた──。
折角眠れそうになったのに、一体何処ぞの馬の骨だと心の中で文句を垂れながら携帯端末をバッグの中から取り出すと、そこに表示されていた名前は、これから合流する楓ちゃんでもなければレンちゃんでもなく、今回の買い物に全く関与していないはずの『アマっち』と冗談で書き換えた名前が表示されていた。
雨地流星、本名を『流星』と読む彼は、自分の性に疑問を持ち、男性として生きる事を決断した元・女子で、私に「お前は両性になれ」と言い放った張本人でもある。私に性別の選択肢を与えてくれた恩人でもあるけど、このタイミングで連絡を寄越されると、何か面倒事を持って来るんじゃないかと人心地が無い。気づかなかった体で後日「ごめん寝てたー」って返信してもいいけど、妙に聡い彼はそんな言い訳が通用する相手でもなく、結局私は流星から送られて来たメッセージに眼を通した。
『ダンデライオンで珈琲を飲もうと出向いたら、義信の姉と名乗ってるぶっ飛んだ女子大生に絡まれたんだが、これ、優志の知り合いか?』
メッセージの下には画像が添付してあり、殊更迷惑そうな顰めっ面をしている流星と、態とらしく眉間に皺を寄せながら、中指を立てて流星と顔を並べる琴美さんの姿が写されている。これだけでもう面倒事確定なんだけど、気持ちよく寝ている佐竹君を起こすべきだろうか? 取り敢えず「うん。不本意ながら」と送った。
今日はダンデライオンに寄る用事は無い。だから流星が適当に琴美さんをあしらってくれたら問題無いのだけれど、現在、佐竹君は琴美さんと喧嘩していて一触即発状態にある。これを解決しないと佐竹君はいつまでも私の家に滞在するようになるので、私としては早急に解決して貰いたい。
──だけどそれは、今日じゃなくていいんだよなぁ。
どうしてこうも〈予期せぬ事態〉が立て続けに起きるんだろう。折角の眠気もどこ吹く風と過ぎ去ってしまい、寝ている場合じゃないと、機能を停止しかけていた脳を叩き起こす。
『今どこにいるんだ? 近くにいるなら回収してくれ』
流星から正式に救援要請が下った。まあ、そうなるよね。琴美さんの相手って、全神経を使うから疲れるもん。そんな姉を持つ佐竹君の気苦労は計り知れないだろう。なんて可哀想な話だなぁと達観出来ればどんなに楽だろうか。
はあ……と、溜め息が零れる。
メーデーを受けたなら、それを無視するのは寝覚めが悪い。隣で気持ち良さそうに眠る佐竹君を起こしてこの画像を視せたら、佐竹君も字面通り『寝覚めが悪い』だろうけど、こういう姉を持った自分を呪って貰う他に無い。
私は予定を狂わせた張本人にほんの少しばかりの恨みを込めて、無防備なおでこめがけてデコピンを浴びせた──。
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