【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
八十四時限目 大和撫子でいられれば ①
カチ、カチ、カチと、白い壁に掛けられた時計の秒針は、一秒、また一秒と、天井のど真ん中に貼り付けられている白色蛍光灯が照らす部屋に刻々と響く。
時計が時を刻む音が苦手だというひとは多いけど、僕はそこまで神経質ではない。……ではないのだけど、今日に限ってはやたら煩わしく感じる。それは曖昧に終わらせたあの話が、僕の喉元に引っかかって取れないからだろう。ハッピーエンドでもバッドエンドでもない『to be continued……』では是も非も問えず、『観るひとを選ぶ作品だ』としか言えない。まあ、その時点でもう駄作感は否めないけど、『強いひとが使えば強い理論』を通せば首の皮一枚程度は繋がる。
その繋がった首の皮に、何かしらの意図を感じてならない僕は、月ノ宮さんが帰宅した後、部屋に籠りきって勉強机に突っ伏しながら、あの時、月ノ宮さんが語ろうとしなかった真意を探っていた。だけど、ノーヒントでは如何ともし難い……。あーでもない、こーでもない、これでもないこれでもないと、まるでバグった猫型ロボットのように頭の中にある思考を部屋に散らかしては、その片付けすら億劫に思い、足の踏み場もない我楽多塗れの壮絶さに疲弊した。
僕の対応は間違っていたのだろうか? 多分、間違っていたんだろう。然ればとて、何が正解なのかもわからない。曖昧模糊模糊モッコモコ。モロッコヨーグルが食べたくなるまであるあ……ないな。
物事には矛盾が付き物だ。憑き物と言ってもいい。それを暴くのはさぞ爽快だろう、愉悦さえ感じる。だが、暴かれた本人は殊更、人心地無いだろう。──知られたくない事を公然に晒されるのだ、そんな不愉快極まりない事はない。……だけれど、月ノ宮さんが浮かべた寂しげな笑顔が、痛ましい微笑みが、僕の脳裏に焼き付いてしまって離れないのだ。『どうか真相を暴いて下さい。それだけが私の願いです』とばかりに──。
「はぁ……」
不意に溢れた溜め息は思いの外深く、気骨が折れると本音さえ洩れた。自分の事でも手一杯で、いっぱいいっぱいでおっぱ……ゲフンゲフン、未だに脳はバグっているらしい。鶴亀鶴亀。
ええっと、何について考えていたんだっけ? ああそうだ、おっぱいについてだ。違う、それはどうでもいい。僕が考えていたのは月ノ宮さんの真意についてであり、そんな邪な事を深く考えた所で意味が無い。何とかこの思考から抜け出さなくては! 乳んぷいぷい! ……余計に近づいた気がする。
生き恥を曝すような益体もない悪ふざけはここまでだ。
暗礁に乗り上げてしまった思考を正すように両頬をパシパシ叩いて、再び僕は月ノ宮さんの意のある所を汲み取ろうと、ゴールの視えない迷宮に足を踏み入れる。
そもそもどうして、月ノ宮さんは僕に会おうと思ったんだろうか?
名状し難い心境を吐露するなら、それこそ僕なんかより天野さんを選ぶべきだ。もしかしたら同情を誘えるかもしれない。あわよくばそこから縁が深まり、いい感じの関係になれるかもしない。可能性がゼロではないから宝くじは売れるし、ギャンブルは成立するのだ。こういう考え方を月ノ宮さんはするだろうか? どうだろうなぁ……。でも、少なからず相手は僕じゃなかったはずだ。それでも僕をわざわざ選んだという事は、そこにヒントが隠されているかもしれない。考えろ、思考を止めるな。何か見落としいるはずだ。多分。きっと。
僕はおでこに掛かる前髪の先を指で遊ばせながら、眉を顰めて眼を閉じる。こうしてみるとなんだか隣で『私、気になります!』と眼を爛々と輝かせながら頑是無く問う、名家のお嬢様を思い出すも、その愛らしさを余所目に、僕は月ノ宮さんをそのお嬢様に重ねながら、公園での出来事を思い出そうとする。
公園でゲームする子供達、違う。
見知らぬ風景を物珍しげに視る、違う。
四阿のベンチに座る、ここからだ。
『私を好きになっても望みはない』そう月ノ宮さんは言ったが、それと相反して『彼女にならないか?』とも提案している。これには平仄が合わないと苦言した。だからこの部分に疑問は無い。
「月ノ宮家の家訓……」
……そうだ。この話題から、月ノ宮さんの表情に影が差した。
月ノ宮さんは口ではああ言ってるけど、本心ではどうだ? 僕が「窮屈だ」と言った時、月ノ宮さんは『確かにそうだ』と肯定している。……いや、これでは月ノ宮家の問題に首を突っ込む事となり、僕の力でどうにかなる問題じゃないと考えに釘を刺したはず。だから、これも違う。──でも、進むべき方向性を示す指針にはなった。
まだまだ考える余地はあるけど、さすがにもう疲労で頭が痛くなりそうなので、残りは明日、学校で訊けばいい。
……そう思って床に着いた。
* * *
翌日、月ノ宮さんは学校に来なかった。
担任が言うに風邪との事だが、あんな事があった次の日だ。どうも腑に落ちない。
放課後、西陽が窓から教室を照らし、黒板の文字の消し後がノスタルジーに拍車をかける頃、僕の席の前に佐竹が、隣の席には天野さんが僕を包囲するように座っている。
「風邪かぁ……。休むヤツが増えてきてるし、流行ってんのかもな」
「アンタは風邪引かないでしょ? 羨ましいわ」
「まあ、最近は引かねぇかなぁ……」
佐竹、そうじゃない。
天野さんは『馬鹿は風邪引かない』という皮肉を言ってるんだ。しかし、能天気な佐竹にはそれがわからなかったんだろう、「羨ましいだろ?」と肩を揺らしながら哄笑している。それを傍目に視ながら「本当に羨ましいわ……」と引き気味に天野さんは微苦笑を浮かべるも、直ぐに表情を戻した。
「それにしても楓が休むのは初めてね」
「つか、俺らが真面目過ぎるだけじゃね? 割とここまで俺らは勤賞だぞ? 普通に」
学校を休むのには、休むに足る理由が必要だ。その内、『風邪』という理由は一番わかり易く、そして、ひとによっては疑わしい。月ノ宮さんはいつも真面目に授業を受けているし、発言だってする。だからこそ、風邪という理由に疑いを持つ者はいない。──僕を除いては、だけど。
佐竹も、天野さんも当然に、その有り体な理由を疑っていないようだ。それは『季節の変わり目は風邪を引きやすい』という迷信めいた常識によるものかもしれない。現に僕も、昨日の件がなければその理由に懐疑の念を抱く事もなかっただろう。……当然だ。知らなければ知らないままで、登校した時に『風邪の具合はどう?』とか『もう大丈夫なの?』とか、形だけの見舞い言葉を述べればいいだけなんだから。それを鵜呑みにするのは頭の中に広大なお花畑が拡がっている脳内ガーデニングの達人くらいなもので、当人からすれば机の上に花瓶が添えられてやしないかと胃が痛い。さすがに悪意を盛り過ぎな気がしなくもないけど。
胃が痛むのは僕も同じだ。
意味深な事をあやふやに終わらせてしまったのだから、その痛みは憂き身を窶す。
心ここに在らずな僕を訝しむように、佐竹が「どうかしたか?」と訊ねてきた。
話すべき、だろうか──。
月ノ宮さんが話し相手に僕を選んだと言う事は、少なからず、このふたりの耳には入れたくないと思ったはずだ。その意思を尊重しなければ。
「いや。佐竹は毎日が楽しそうでいいなと思ってね」
「そうね。私の皮肉も効かない程度には楽しそうだわ」
「……どうだろうなぁ」
あれ、いつもなら下手なツッコミが来るのに、どうも肩透かしな反応だ。
「姉貴が恋人と揉めてて、毎日面倒なんだわ。ったく、痴話喧嘩なんて犬も喰わないってのによ」
「「おおっ」」
「なんだよ!?」
あの佐竹が『痴話喧嘩は犬も喰わない』なんて例えを知っているとは意外で、僕と天野さんは声を揃えて驚いた。
そう言えば夏休みに佐竹の家に行った時、そんな事を訊いた気がするけど、未だ解決には至っていなかったのか……それはその、何というか、ご愁傷様とでも言っておこう。
「琴美さん、結婚するの? 相手は?」
職業は? 年収は? 長男次男? 家柄は? なんて続いたら、僕は女性恐怖症になっていただろう、くわばらくわばら。
「同じ大学で同じサークルの〝同性〟だ」
「それは……そう、難しい話ね」
「あー、面倒臭ぇ……」
相当気が参ってるな、佐竹。
頑張れ、応援してるぞ、佐竹。
……他人事にも限度がある。
しかし、それくらいプライベートな問題だ。僕らが興味本位で野次馬のように土足で踏み込んでいい問題じゃないけど──じゃあ、どこまでは踏み込んでいいんだろうか? その境界線がわからない。そういうパスポートがあるなら話は別だが、バックステージに踏み込めるのは関係者のみで、部外者の立ち入りは憚られる。
この日は結局何事も進展はせず、何事も解決せず、日がな一日、僕は鬱々とした感情に苛まれていた──。
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