【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
八〇時限目 そのオチは落ちずとも彼の腑には落ちたらしい[前]
路地裏にある小さな喫茶店〈ダンデライオン〉。立地環境がそうさせるのか、或いは知名度が足りないだけなのか。兎にも角にもこの店が繁盛している風景を、僕は一度足りとも見たことがない。隠れ家的な意味を説くのならば、最高の環境だ、とも言えるが。先刻までいた三人のお客さんの最後の一人が、三〇分前に退店してしまい、店に滞在しているお客さんは、僕のみである。
店内に流れる陽気なフュージョンジャズを肴にして、テーブルに肘を付き、表情はちょっとアンニュイな感じで決めて、窓の外を眺めながらアイスコーヒーを飲む。きりっとした苦味と芳しい香りが口の中いっぱいに広がり、僕は至福の時間を思う存分に楽しんでいた。
夏休みも残すところ一週間と少々だが、課題が終わっていない学生たちは、血なまこで課題に取り組んでいることだろう。そう思うと、いま自分が置かれている状況が、とても素晴らしいように感じてにやけてしまいそうになった。ビバ開放感! 優越感に浸りながら飲むアイスコーヒーの味は格別だ。
店内を見渡すと、どこで購入したのか不明なアンティークの小物が、ところどころに飾ってある。おそらく、照史さんが購入したであろう物品の数々は、どこかファンタジーな物ばかりで。でも、俗物根性を見せびらかすような嫌味っぽさはしない。
バロック調の鏡や棚、傘立てなどもあるけれど、一番印象深いのは、出入口付近に置かれた振り子時計。月ノ宮家に仕える執事・高津さんをイメージするとぴったりだ。
時計の次に目を引くのは、僕が着座している席の真後ろの壁に飾られている、ベネツィアの街並みを描いたであろう絵画。あまり褒められた腕ではない作品だが、何度も見ているうちに目が慣れてしまった。これはこれで愛嬌があっていい……のかもしれない。勿論、僕が描くより数百倍くらい上手いのだけれど。
一頻り店内を観察したところで、アイスコーヒーをもう一口飲む。氷が溶けて少し薄くなってしまったが、これはこれで悪くない。佐竹宅で飲んだ薄いアイスコーヒーと比べれば……いいや、照史さんが淹れるアイスコーヒーと比較するのが間違いだった。
遠路遥々ダンデライオンに訪れた理由は、〈佐竹の課題を手伝う〉という照史さんの依頼の報酬である〈珈琲一杯無料〉の権利を、余すことなく行使するためだ。無料で美味しいアイスコーヒーが飲めるのだから、これを使わない手はない。往復の電車賃を考慮すると、寧ろマイナスではあるけれど……細かいことは気にしない、ようにしている。
「窓際の席で憂いを浮かべながら珈琲を飲む少年……か。うん、なかなか絵になるね」
照史さんは両手の人差し指と親指で四角を作り、片目を閉じて僕を覗き込んだ。そのポーズは写真好きがよくやるけれど、照史さんはカメラの趣味も持ち合わせているのだろうか。湖のほとりで一眼レフカメラを構え、野鳥の姿に目を据える照史さんを想像してみると、なかなか様になっているように思えた。
喫茶店〈ダンデライオン〉のマスター・月ノ宮照史は、同級生である月ノ宮楓の兄だ。とある事情により実家から勘当され、いまに至る。
月ノ宮家で育った教養のよさも然ることながら、目鼻立ちが整った好青年。そんな人がマスターを務めていて女性ファンがつかないはずがないのだけれど、ダンデライオンに訪れるお客さんのほとんどは、昔馴染みの高齢者が多い。
「おかわりはどうかな?」
と、照史さんは口元に薄らと笑みを作りながら僕に訊ねた。照史スマイル、と僕は心の中でそう呼んでいる。
最初の一杯は無料、という契約なので、おかわり分はちゃんと請求されるだろう。本音を言えば無料分だけを頂いて帰宅したいところだが、今日はダンデライオンでコーヒーを飲みながら本を読んで過ごすと決めているので、「じゃあ、アイスカフェラテを」と、頷く程度に頭を下げた。
僕の注文を受け、照史さんはスマートな物腰でカウンター内に戻り、アイスカフェラテに取り掛かる。
僕は再び、テーブルの上に放置していた本に目を落とした。この本の物語も佳境を迎えているが、残り数ページで終わるのに、これまで意味深に張られていた伏線が全く回収されていない。ページ数を考えると、全ての伏線は回収されずに終わりそうだ。ハロルド・アンダーソンの作品は、こういうところが売り、とはいえど、読み終えてもやもやするのがなんとも言い難い。
このまま終わってしまえば〈駄作〉という烙印を押さずにはいられないが……僕が持っているハロルド本のほとんどは、照史さんから譲り受けた物だし、駄作を寄越すとは考えにくい。きっと読者の度肝を抜くどんでん返しがあるはずだ……本当に頼むぞ、と祈るような気持ちでページを捲った。
「そういえば」
アイスカフェラテを飲みながら本を読んでいると、カウンター内で作業をしている照史さんが声を掛けてきた。
「この前、楓たちとプールにいってきたんんだよね?」
どうして照史さんがその情報を知っているんだ? と一瞬だけ疑ってみたが、よくよく考えるとあの日、話し合いが行われたのはこの店だった。マスターである照史さんの耳に入らないほうがおかしい。
「はい。高津さんが運転する車でいってきました」
「楽しかったかい?」
「それはもう……」
一呼吸置いて、
「散々でしたよ」
思い出しただけでも、あのときの疲労感が押し寄せてくる。
僕はもう、夏に水遊びをしたくない気持ちでいっぱいだ。
とか思っても、来年には今年の憂いなんて忘れているのだろう──。
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