【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
七十七時限目 彼と彼の宿題 15/16
合宿は、二日目を迎えた。
今日も外はかんかん照りで、洗濯物がよく乾きそうだ。巷で人気のプールでは、最新のウォータースライドが話題となり、混雑を極めているらしい。朝食中、そのニュースを見ていた佐竹は、「いきてえなあ」と羨ましそうに呟いていた。
合宿といってもラジオ体操があったり、座禅などのレクリエーションはなく、ただ黙々と学校から出された課題に取り組むだけ……なのだが。
佐竹の中で〈夏休み〉という期間は、特別な意味を持っているらしい。
夏休みか、と僕は思う。当初の予定は、七月中にある程度の課題を終わらせて、後は全て自分の趣味に当てるはずだったのだが、蓋を開けば予定にないことの連続である。
天野さんと海にいったのは、事前に約束していたから省くとしても、佐竹を自宅に招き、勉強を教えつつ課題を進めるなんて。
昨日は、本当に酷い有様だった。頓珍漢な質問と解答に、何度頭が痛くなったかわからない。同じ質問を往々とされて、教えたはずなのに間違える……それでも。
僕の教え方がいいのか、根気よく教えたからだろうか、真綿に水が染み込むようだと比喩してもいいくらい、佐竹は成長しているように思える。それは実に喜ばしい限りだけど、普段からしっかり予習と復習をしていれば、こんなことにはならなかったはずで。然し、生粋の勉強嫌いは、こんなものだろう。
佐竹のノートを見せてもらったが、字が汚く、ただ黒板に書いてあることをひたすら写す作業をしているだけだった。これでは、理解できるものも理解できない。授業において重要なのは、黒板を写すことにあらず、教師が『重要だ』と語る言葉を記すことにある。重要なら黒板に記せ、とは思うけど……。
そういった〈基礎的な努力〉を怠れば、出された課題ができなくて泣きをみる羽目になるのだ。
これを機に心を入れ替えて、真面目に授業を受けるようになれば、次に控える長期休みは悠々自得に過ごせるはず……。
* * *
それにしても──。
「本当は勉強ができるんじゃないの?」
「なんだよ、藪から棒に」
しかつめらしい態度で、佐竹。
邪魔をするつもりは毛頭なかった僕は、素直に「ごめん」と頭を下げた。
「ごめんついでに訊くんだけど、そこのところどうなの?」
仮にも梅高は〈私立〉である。最難関とは言わないけれど、そこそこの偏差値で合格できるほど甘くはないのだ。それゆえに、佐竹の学力では平仄が合わない。裏口入学した、というのなら話は別だが、高校を裏口入学するというのは、あまり訊いたことがないもので。
「んー」
と、佐竹はシャーペンを置いて腕を組んだ。
「勉強よりも〝いま〟を大切にしてるんだ」
「佐竹」
真面目に答えろ、という意味を込めて、仏頂面を作ってみせた。
「そう睨むなよ、マジで」
佐竹はアイスコーヒーを一口飲んで、「そうだなあ」と呟き、滔々と語り始めた。
「勉強はできるに越したことはないと思うぜ? だけど、高校生活の全てを勉強に捧げるのは違う気がするんだ」
いまを楽しむことだって大切だろ? と僕に同意を求めるような眼差しを向けてくる。
続けて、
「俺たちが一緒にいられる時間は三年間しかないんだしな」
喉に詰まった憂いを呑み込むような、苦々しい笑顔を見せた。
「……っていうのは言い訳だ。普通に」
「僕が知りたいのはそういうことじゃなくて」
……まあいいや。
なんだかもう、どうでもいいって気分になってしまった。
「でもこれだけは言っておくね」
「なんだ?」
佐竹は首を傾げた。
「いつか痛い目を見ることになるよ。その考え方だと」
自分の根幹となる〝なにか〟を諦めてしまうと、そこから根腐れを起こして取り返しのつかないことになる……かつての僕がそうであったように。
「すでに耳がいてえよ」
そういうものなんだよ、と思った。根が腐るって意味を、佐竹はもっと真剣に考えるべきなんだ。佐竹はなかなかに高スペックな人間だからこそ、腐るのも早い。そして、一度腐れば一瞬で腐敗し、底辺まで落ちていくだろう。
そうなる前に、なんとか──。
「さて、続きするか」
佐竹はシャーペンを握り、再び課題に打ち込んだ。
時刻は十五時半を過ぎた。
「今日はここまでにしようか」
本を閉じてテーブルに置くと、佐竹は気怠そうな息を吐いて突っ伏した。
「夕飯はどうしよっか」
昨日のカレーは、夜遅くに帰ってきた父さんたちが食べてしまい、カレーうどんを今日の昼に考えていた予定が狂ってしまった。ので、本日のお昼はザルうどん。
夕飯は麺ではなくて、ご飯物にしたいところだが──。
佐竹は頭を振った。
「連泊を考えてたけど、帰るわ」
「え」と顔に出ていたようで、佐竹は「なんだよその顔」と僕を茶化した。
「それとも、もう一泊したほうがいいのか?」
そこまで言うなら仕方ねえなあ、みたいな顔で僕を見る佐竹に多少の苛立ちを覚えた僕は、「べつにどうでもいい」とそっぽを向いた。
「〝どっちでもいい〟じゃなくて〝どうでもいい〟か。毎度ながら辛辣だな、ガチで」
佐竹はテーブルに突っ伏しながら、顔だけを僕に向ける。
「寂しいならもう一泊してもいいぞ?」
──執拗いぞ。
帰ると言っておきながら、未練たらたらなのは自分じゃないか。
「そんなことよりも」
立ち上がり、読んでいた本を棚に片付けた。
夏休み中に読もうとしていた積み本は、まだまだ沢山ある──。
「残った課題は一人で大丈夫なの?」
とてもじゃないが、佐竹一人で終わるとは思えない量が残ったままだ。家庭教師を引き受けた身としては、最後まで責任を果たしたい気持ちがあった……けれど。
「なんだよ、やっぱり寂しいんじゃねえか」
挑発するような佐竹の態度に、内に秘めていた義務感が消し飛ぶ。
「……と、いうのも、ちょっとだけ姉貴が気がかりなんだ」
「なるほどね」
琴美さんは佐竹のことなんて気にしてないと思うけれど、そういうことじゃないんだろうな。
佐竹は優しい男だから──。
なんやかんやあったって、姉弟という関係は崩れないのだろう。僕は一人っ子だから、兄弟を慮る者の気持ちがよくわからない。家族の絆とか言われても、ちょっと薄ら寒くすら感じる。背中がむずむずするみたいな。
「もし俺を心配してくれるんだったら、課題の残り半分を片付けてくれてもいいんだぜ?」
「知人価格で、ひと教科につき八千円で代行してあげるよ」
「うわ……読書感想文と理科だけでも、べらぼうな価格じゃねえか」
と言いつつ、佐竹は財布を取り出して中身を確認する。そして、みるみるうちに顔が青ざめていった。なにごとも、ご利用は計画的に、である。
一頻り絶望した後、佐竹はゆっくりと体を起こした。
「メッセージでアドバイスを貰うのは……?」
僕の機嫌を窺うような、生硬い笑みを浮かべる。
「それくらいなら」
「よっしゃ!」
と、胸元でガッツポーズをして喜びをみせた佐竹に、僕は不敵な笑みで応対した。
「ひとアドバイス五百円でいいよ」
ふぁっく! と声を上げて大袈裟に倒れこんだ佐竹。この反応、やっぱり愉快だ。ついつい悪ふざけをして、佐竹のリアクションを見たくなってしまう。
「冗談だよ。わからないことがあったら訊いて」
アドバイスくらいなら、苦にならないわけで。徒労に終わることは、あるかもしれないけど……。
「それを訊いて安心したわ」
そういって、ほっとしたように息を吐き、帰り支度を始めた。
コメント