【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
六〇時限目 初デートは愁いを帯びて ⑥[前]
海に家に戻ると、熊田さんは軒先で私たちを待っていた。海に出る前にあれほど注意を受けたというのに、申し開きが立たない。熊田さんの表情は厳しかった。つい後退りしたくなる衝動を、ぐっと腹の底で押さえ込んで、僕は頭を下げた。
「すみませんでした」
僕に続いて、天野さんも頭を下げる。
「おう」
熊田さんはそれだけ言うと、「早く入れ」と僕らを促した。
店内は橙色の光に包まれていて、南国にあるビーチサイドバーを連想させた。無論、海外など行ったことはないので、海外ドラマや旅番組から得た知識を専らとしていた。昼間に見た大衆居酒屋然とした雰囲気が嘘のようではある。これに加えて、バーカウンターがそれなりにあれば完璧だろう。もっとも、短冊のお品書きが無ければの話ではあるが。
「あ、あの!」
熊田さんの背中目掛けて、レンちゃんが焦るように言う。声に反応して立ち止まった熊田さんは、徐に振り返った。
「なんだ?」
「あ、いや。……それだけかなと思って」
「起きてしまったことを、とやかく言うつもりはねえ。海ってのは気まぐれだ。一秒前は穏やかだったのに、急に荒れることもある。自然を前にしたら、人間なんて無力なもんよ」
近くにある椅子を僕らに差し出し、「まあ座れ」という目を向けた。
「お嬢ちゃんの足が攣ったのだって、運がなかっただけだ」
「ですけど……」
「言っただろ? とやかく言うつもりはないって。それに、堂島が待ってるしな。早くいかないと。アイツ、細けえから」
ああ、そうだった。もう一度、お礼も込めて、堂島さんの元へ向かわないといけなかった、と熊田さんの話を訊いて思い出した。気が進まないけれど、今更どうこう言っても詮無いことだ。
「シャワーを浴びて着替えてきな」
これ以上語る必要はないと判断したのか、熊田さんは店の奥へ。
天野さんに先を譲り、交代してシャワーを浴びる。狭いシャワー室で着替えるのは、なんだか久しぶりな感覚だった。
シャワー室から出ると、
「へえ。やっぱり女にしか見えねえなあ……」
いつの間に戻ってきた熊田さんが、僕の姿を見て感心したような声を上げた。……ああ、この姿での一人称は〈私〉か。男子だってバレてしまったから別にいいかって気がしなくもないけれど、油断は禁物だって琴美さんも言っていたし、最後まで〈優梨〉を貫き通そう。
「優志君……ユウちゃんを待っている間、どうして女装することになったのか、熊田さんに説明したの」
それで、あの反応か。
熊田さんは顎髭を撫でながら、
「男にいうのもあれだけど、ベッピンじゃねえか」
愉快そうに笑った。
熊田さんと別れを告げたその足で、海難救助隊本部へと向かった。自ずと無言になる。また堂島さんと顔を合わせるのかと思うと、沈鬱な気分だ。私の態度から察したのか、レンちゃんの表情も硬い。
叱られるのが確定していることも相俟って、足取りは重かった。
* * *
本部のドアは鍵が閉まっていた。レンちゃんと「どうしようか」って顔を見合わせると、ドアの隣にインターホンらしき物を見つけた。押してもいいのか数秒考えて、私がインターホンを押す。スピーカーから男性の声で『なにかご用でしょうか』と。
用というほどではないが、
「溺れていた友人を助けて頂いた者です。もう一度、堂島さんにお礼をと思いまして、参りました」
かなり畏まって告げる。
『ああ、キミか。ちょっと待ってね』
随分と軽い挨拶だな、と思いながらドアの前で待つ。見覚えのある若い男性隊員がドアを開けた。
「……おや? キミが溺れていた子だよね」
「そうです」
レンちゃんが頷く。
続け様に、私を見た。
「もしかして、キミが女装趣味の鶴賀君かい? いやあ、話には訊いていたけど、凄いクオリティだねえ」
おそらく、この人に悪気は無いのだろう。
だけど、相手に悪気が無くても、自分が悪意を感じれば、それはもう悪意に他ならない。
批評も、意見も、求められたらするものだ。
相手に対して暴言同様の批評・意見をするのは、はっきり言ってはた迷惑な行為である。だが、その線引きは曖昧だ。『これくらい大目に見ろ』と言われれば、たしかに騒ぎ立てるほどではないし、わざわざ反論するのも馬鹿げている。
穏便に済ませるには、言われた当人が我慢する他にないらしい。
釈然としないまま無言で頷くと、
「……おっと、世間話をしている暇は無いんだった。実は会議中でね。堂島隊長には話を通してあるから、どうぞ中へ」
指示に従って廊下を進む。緑色の廊下は学校を彷彿とさせた。中央に引かれた白線の右側を進むと、覚えのある場所に出た。右側の壁の向こう側に、レンちゃんが眠っていた救護室がある。更に奥へと足を進めると、堂島さんの部屋があった。隊長クラスにもなると、自分の部屋が割り当てられるのか。
なるほど。ライフセーバーも縦社会らしい。体育会系ではないようだけど、それは堂島さんが隊長だからかも知れない。陰で〈インテリヤクザ〉って呼ばれていそうな気風だし。
コンコンコンと三回ノックをしてから、
「後藤田です。彼らを連れてきました」
この人の名前は〈後藤田〉というらしい。後藤ではなく、藤田でもなく、後藤田。埼玉県ではあまり訊かない苗字だが、どこの出身だろう。中部、近畿、四国辺りか。全然範囲が絞れていなくて草、と自分自身にクソリプを送った。
『どうぞ』
ドアの内側から、堂島さんの冷徹な声。
「失礼します」
後藤田さんがドアを開く。
堂島さんはパソコンを前に、キーボードをカタカタと打っていた。眼鏡を掛けている。多分、ブルーライトカットだ。私たちが室内に入ると顔を上げた。眼鏡のせいで、余計に目が鋭く見えた。インテリジェンスな顔つきが、殊更に怖い。
「後藤田君は会議に戻りなさい」
「はい。失礼します」
私たちを一瞥して、部屋を後にした。
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