【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
五十八時限目 初デートは愁いを帯びて ④[前]
『両足をばたつかせながら、右手と左手を交互に回転させる。片手を回転させるとき、反対の手は目的地に向けて水面と並行させるように前へ。回転させている手を着水させる際には、斜め四十五度くらいの角度から指先をピンと伸ばして入水させるとよりよい』
小学四年生の頃、プールの授業で平泳ぎの次に習ったのがクロールだった。当時の僕は一十五メートル泳ぐのが精一杯だったが、六年生になって二〇〇メートルは泳げるようになっていた。
陸上競技は高校生になったいまでも苦手だけれど、水中は陸上と違って浮力がある。だから得意だ、というわけでもないが、水の中では自在に体を操ることができた。
だが、得意であるからといって、泳ぎが早いとは限らない。水を掻く手が重たいのも、どれだけ手を回しても、どれだけ足をばたつかせても、思ったより進んでいないのは明らかだった。体感よりも、スピードは出ていないのだろう。
クロールの合間に顔を上げて、天野さんの場所を確認する。
まだ、遠い。
気持ちだけが前のめりになっても仕方がないのに、緊迫した状態では心を平静に保つなんて不可能だった。
普段の自転車通学のおかげで、肺活量だけは成長しているらしい。苦しいけれど、我慢できないほどじゃない。持久走より万倍マシだ。それに、苦しくても立ち止まるわけにはいかなかった。
いまも天野さんは足の痛みに耐えながら、必死に抗い続けている。なんとか酸素を取り込もうと顎を上げて、だれかの救助を待ち続けているのだ。
こんなことになるなら、もっと筋トレをしていればよかった。後悔と焦りが、両腕と両足、そして思考を鈍らせていく。
あと少しだ──。
「天野さん!」
僕は、天野さんの体を抱き寄せた。
体に当たる柔い感覚がどうの、なんて考えてる場合じゃないし、気にしている余裕もなかった。
溺れている人間はパニックに陥っており、救助活動が極めて困難になると訊いたことがあった。が、僕に抱きしめられている天野さんは、片手を上下に漕ぎながら体を託している。凄い精神力だ、と感心してしまった。
「ゆう……し、く……」
僕の左肩に顎を乗せ、顔を固定させる。ちらりと横目に入れた表情は、苦悶に満ちていた。
「遅くなってごめん。もう、大丈夫だからね」
返答は、無い。返事をするのが煩わしく思えるほど、体力の限界が近いのだろう。大丈夫、とは言ったものの、かなり沖まで流されてしまったようだ。足元は暗く、僅かに底が見える程度。水温も冷たいし、どんどん体が流されていく恐怖は計り知れない。
「左足が」
わかってる、と返した。
「攣ったんだね? 痛いだろうけど、もう暫く我慢して欲しい」
天野さんの左手を僕の肩に回して、腰を支えながら引き返そうとする。けれど、思い通りに進まない。それどころか、岸からどんどん離れていくような気がした。
このままでは、危険だ。
僕も、天野さんも助からない。
「ごめん、なさい」
天野さんは、か細い声で囁いた。
「なんとかするから、大丈夫だよ」
離岸流に巻き込まれたときの対処法は、昨夜に見た。一字一句、全部思い出すんだ、と思考をフル回転させる。
離岸流は、岸から沖へ戻ろうとする海流だ。流れは直線である。速さは2m/secで、一秒間に約二メートル進むこともあるらしい。これは、人の早歩きくらいのスピードと同等らしいが、体感はもっと早い。
流れの長さはそこまでなく、数10〜100メートル程度だったか。
細かい数値まで記憶しているとは、我ながら大したものだ。
離岸流の性質上、岸から離れれば流速も弱まる、というのもあった。流れの幅も広くなく、10〜30メートルだと記憶している。
海岸と並行に少し移動すれば、離岸流から逃れることも可能だと、動画では説明していた。
僕が出来る最善の選択は、対岸と平行線を辿るように泳いで流れから逃れることだ。
「天野さん、もう少し我慢して。僕が絶対に岸まで運ぶから」
「うん……。わかっ、た……」
絶対に戻れる、などという保証はどこにも無い。嘘もも使いようだ。この状況で真実を伝えるよりも、希望的観測を伝えたほうが心に余裕も持たせられるだろう。
誇れることではないが、嘘やブラフは得意だ。
ポーカー、ダウト、読み合いが発生するカードゲームの勝率は、かなり高いと自覚している。
……いや、本当に誇れるようなことじゃないな。
現実逃避しても詮方無いだろう、と気合いを入れ直す。
どうやって体を動かせば効率よく進むのか、天野さんの負担を軽減させられるのか。人を支えながら泳ぐことの難しさを甘くみていた僕が悪い。だれか気づいてくれ、と祈るように岸を見ながら横に泳いだ。
ふと、流れが弱まった気がした。
離岸流の対処方法は間違えていなかったらしい。とはいえ、油断は禁物だ。これまで油断しまくっていたのだから、と気が緩みそうになるのを堪えて岸を目指した。
「天野さん、もう少しだよ」
声をかえたが、応答がない。
「天野さん」
既に満身創痍といった感じで、僕の言葉も届いていない様子だ。それでも、天野さんの心が折れないように励ましの言葉を続けた。
「諦めたら駄目だからね。あと数メートルで対岸に着く。それまで頑張って」
首が少しだけ動いた気がする。よかった。まだ心は折れていないようだ。だが、それも時間の問題だろう。天野さんの体が、先程よりも重くなった気がする。体力の限界に達したのかも知れない。クソ、もう少しなのに!
なにを伝えればいい? どんな言葉をかければ、天野さんの気力を呼び戻せるんだ。海水を何度か飲んで、口の中が塩辛い。僕以上に飲んでしまっている天野さんは、足の痛みも相俟って苦痛だろう。
「天野さん。僕は、変われるかな」
励ましの言葉が出てこないのは、誰かを励ますという経験が不足しているからに他ならない。取り敢えず、口だけは動かすようにしよう。そう思って口を衝いた言葉は、まるで懺悔のようだった。
「みんなが望むような存在に、なれるだろうか」
耳元に浅い呼吸をしている。
返答は期待していなかった。
僕だけのワンマントークショウでいい。
口の中に海水が入って吐き出すを、喋る合間に何度も繰り返しながら、死に物狂いで口を開いた。
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