【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
五十二時限目 彼の甘さを佐竹琴美は許さない[前]
夕暮れどきのダンデライオンは、妙に居心地がいい。
慣れ親しんでいる時間帯、ということもあるが、なにより、この席から見る景色が好きだった。夕景を眺めながら美味しい珈琲を嗜む。なんて贅沢な暇の潰し方だろう、そう思いながらアイスコーヒーに手を伸ばした。
ひっきり無しに客が入れ替わる大手のカフェチェーン店と違い、個人経営で客が少ないから居心地がいい、ということもある。マスターの照史さんには申し訳ないが、このまま隠れ家的な店であり続けて欲しいものだ。
カウンターに座っていた男性は、僕が席に座って直ぐに退店した。残っている客は僕も含めて四人。閉店も近い時間帯だから客が少ない、のではなくて、ダンデライオンが人目に触れないような場所にあり、圧倒的に知名度が無いのがいけない。
照史さんの腕はたしかなのに、店を知らなければ振るう腕もない。こういうのを、宝の持ち腐れ、とでも言うのだろうけれども、照史さんが他の店舗、それこそ大手に就職したところで、これまで培ってきた腕を活かせるということもない。
マニュアル通りに珈琲を作成するチェーン店舗では、個性や腕前を必要としない。むしろ、あったほうが邪魔だとも言える。だれでも均質な珈琲を提供することができるからこそのマニュアルであり、それが最重要項目とも呼べる。万人が飲んで「こんなものか」と妥協できる味こそが大切なのだ。
また一人、客が減った。
店内にいるのは、カウンター席の隅っこで煙草を薫らかしている老齢の男性と僕のみ。照史さんは僕らを気にする様子もなく、黙々と作業を続けている。母親が夕飯の準備をするかのように、まな板をリズミカルに叩く音がキッチンから訊こえてくるので、明日の仕込みをしているのだろう。
ちらっと腕時計を見やった。琴美さんとの待ち合わせ時間はとうに過ぎて、ダンデライオンの閉店時間はどんどん迫っている。もしかしてすっぽかされたのではないか、と疑い始めた頃、カラリンコロリンと軽々しい音をドアベルが奏でたのであった。
「はろんろー、優梨ちゃん」
遅刻したにも拘らず、悪怯れる素振りなんて一切ない。それが佐竹琴美という女性の性質であり、性格だ。自己中心的というよりも、他人に関しての興味が希薄。いや、対人関係を「どうでもいい」と思っているような節がある、としたほうが柔らかい表現だろう。
「はろんろ、じゃないですよ。どんだけ待たせるんですか」
呆れながら言うと、琴美さんは「大変だったんだから」みたいな顔をした。
「えー、だって仕方がないじゃん。急に呼び出されたんだからあ」
と演技っぽく言って、僕の真向かいにドサッと座った。
無理にお願いした手前、三〇分くらいの遅刻は穏便にはからうべきだろうか? いや、それにしても三〇分の遅刻は大人としての自覚を疑いたくもなる。
「どうして遅れたんですか?」
それを知ってどうなるわけでもないが、便宜上、そう訊ねた。
「電車が遅延したのよー」
嘘だな、と直ぐにわかった。
「へえ、そうですか」
携帯端末を取り出して、電車の運行状況を確認する。上下線共に問題なく運行しているのだが、琴美さんはどの線路を通って東梅ノ原にきたのか。いやあ、不思議だなあ。携帯端末をテーブルの中央に、琴美さんが見えるようにして置く。これが証拠だ、と犯人に突きつけるように。
「じゃあ、重そうな荷物を抱えて歩道橋を上がろうとしているおばあちゃんの手伝いをしてたってことで」
「枕詞に〝じゃあ〟って付けた時点で嘘丸出しですね」
因みに、東梅ノ原に歩道橋はない。
歩道橋を必要とするほどの大通りは無いし、車の往来も少ない。観光地は、あるには、ある。新・梅ノ原駅から車で一〇分くらい進んだ場所にある大きな湖だ。かなり昔に『死体が上がった』と噂が立つ曰く付きポイントで、その湖を目指す道中にも歩道橋はない。
「……遅刻の理由はソレですか?」
ソレに視線を移すと、琴美さんは自分の隣に置いてある物を睥睨して気色の悪い笑みを頬に湛えた。
「まあねー」
琴美さんの隣には、此見よがしに百貨店の紙袋が二つ置かれている。
紙袋の大きさから推測して、食料品ではない。仮に、食料品を買うのならば地元のスーパーで購入したほうが安全である。食中毒防止用の氷サービスもしているが、その氷が瞬く間に溶けてしまうような暑さだ。道中で食材が傷む可能性も捨てきれない。加工食品という線もあるが、その場合の多くはレジ袋が使われる。
とどのつまり、琴美さんがあの百貨店で購入したのは、食品以外のなにか、だ。
「袋の中身が気になるう?」
「いえ、別に」
知らないならば知らずのままがいい。知らぬが仏、好奇心が人を殺すのだ。
琴美さんが得意な顔をしているときは、碌でもないことを考えている証拠だけれど、現状、実害は無い。琴美さんの個人的な物だと思うことにして、本題に入るべく「では」と口にした。
「あー、その前に飲み物頼んでいい?」
「どうぞ」
頷く。
「ヘイマスター、アイスココアを汁だくで!」
急に大声を出したせいで、カウンター席に座っていた老齢の男性が「ごほごほ」と噎せた。煙草の煙が気管に入ったのかも知れない。「歳も歳ですし、そろそろ禁煙してはいかがですか?」と照史さんが諭した。でも、禁煙する気はないらしい。「変なところに入っただけだ」と言って、もう一本の煙草に火をつけた。
照史さんは男性に一礼して、琴美さんに目を向ける。
やれやれ、みたいに肩を竦めて、
「もう少し静かに注文してくれないかな」
迷惑そうに言った。
「いいじゃない。減るもんじゃなし」
少なからず、お客様は減りそうだが……。
「アイスココアのLサイズでいい?」
自分の発言を無視してオーダーだけを通そうとする照史さんの態度が気に入らなかったようで、殊更にムスッと頬を膨らませながら、小さい声で「ノリが悪い」と文句を垂れた。
「アイスココアの気分じゃなくなったから、アフォガートちょうだい」
フリーダム過ぎるでしょ、この人。それとも、守りたい世界でもあるのかな? 女心は秋の空なんて言葉もあるといっても、梅雨時期の天候くらいには気まぐれだ。
「はいはい」
注文を訊いた照史さんは、一匙分の珈琲豆を電動式のコーヒーミルに入れてスイッチを押す。ガリガリと硬い豆が粉砕される音は馴染み深くなっていた。冷凍庫からバニラアイスを取り出して、専用のカップに盛り付ける。そこに、熱々のエスプレッソをかければアフォガートの完成だ。バニラアイスの上にミントの葉を添えて提供するのがダンデライオンスタイルである。
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