【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

三十九時限目 月ノ宮楓は明るい未来を目指す ①


 滑るようにしてベッドの縁に座り込み、「くわあ」と欠伸をしてから背伸びをした。夜更けまで勉強をしていた私にとって五時半起床というルーティンは少々辛い。休日なのだから、あと一時間は眠っていてもいい……とならない理由は、早朝から活動できるようになるために続けている訓練のようなものだった。社会に出れば、この時間に起きるのが当たり前になる。学生の身分から体を慣らしていれば、その分だけ周囲に差をつけられるはずだ。

『目覚めた瞬間、仕事が始まっていると思え』

 お父様の言葉通りに生活をしているのは、私が月ノ宮家に生を受けたからに他ならない。偉大な父と母の背中を見て育ち、「いつか、あんな風になりたい」と自ら望んだ。月ノ宮家の掟に従うのは当然であり必然でもある。なにより、掟に従っていれば掟の範囲内で自由に活動できる。ルールがあってこその自由であり、ルールの無い自由には、無作法な輩しか集まらない。特にソーシャルネットワークがいい例で、あの空間はなによりも耐え難い無礼者が集まる場所と認識していた。情報を得るには手っ取り早くても、四六時中居座るような世界ではない。

 ベッドサイドテーブルの上には、一欠片のレモンと氷が入ったピッチャーが置かれていた。ピッチャーの表面は濡れていて、けいそうのコースターがほんのりと湿っている。用意したのは高津さんでしょう。察するに、置かれてから一十五分くらい? と推察しながら伏せてあるコップに注いで一口飲んだ。レモンがほのかに香り、朝焼け色に染まるカーテンが爽やかな朝の訪れを告げた。




 朝食を終えた私は部屋に戻り、ドアから正面の壁に沿って設置してある勉強卓の椅子に座った。

 この勉強卓は小学校入学祝いにお父様がプレゼントしてくれた品。私はガラス製の勉強卓が欲しいと強請ったけれど、お父様は『ガラス製は耐久性が低い』と言って焦げ茶色の渋い勉強卓を選んだ。当時こそ厳かな見た目をした勉強卓を「可愛くない」と言って不貞腐れていたのに、いまとなってはこの勉強卓も悪くない、と愛着が湧いている。

 引き出しからわに皮の手帳を取り出した。ワインレッドを選んだのは、あの人を連想させる色だから。〈July〉と書かれたページを捲ると左側に曜日が記入されていて、右側には予定を簡単に記載するスペースが設けられている。本日の予定は朝から勉強と記入してあったけれども、今日の分は昨夜に済ませた。それもこれも、朝からお兄様に会いに行くためだ。

 お父様と対立して家を飛び出したお兄様を責めたりしないのは、お兄様にはお兄様なりの考えがあり人生がある。それを尊重したいから、私は月ノ宮の人間としてやるべきことをやる。お兄様のためではないと言えば嘘になるけれども、それ以上に、目指す場所に到達したいから。

 その場所に、どうしても必要な人がいる──。

 ちらりと横目に時計を確認する。ダンデライオンが開店するまで数時間の余暇があった。開店前に訪ねてもお兄様は店内へ通してくれるけれど、それではご迷惑をかけてしまう。開店前から店にいたら、「アルバイトを雇ったのか?」と常連様に勘繰られてしまうかも知れない。その問いに対して、お兄様は苦笑いを浮かべながら「そんな余裕は無いですよ」とお答えするでしょう。

 お兄様のためならば無給で働くのも厭わないものの、それを許さないのがまたお兄様の素晴らしいところではある。だけど、ちょっとくらい頼ってくれてもいいのに……。

「……なんて、我儘を言うものではありませんね」

 席を離れて本棚に向かった。

 無駄に時間を使うならば読書をして知識を付けたほうが有意義だ、と思った。本棚はウェインスコット・オークを使用した特注品で、地震で転倒しないように地面から天井まで隙間なく伸びている。並んでいる本は、主に経済などの専門書が多い。漫画や小説の類もいくつか並んでいるけれども、それより勉学に通ずる教材が全体の八割を占めていた。女子高生らしくない本棚だ、と自分でも思ってしまう。私を慕ってくれているクラスメイトの方々は、流行りの漫画や小説などを並べているに違いない。

 個人的には優志さんの部屋にある本棚が気になっていた。一体、どのような本を読めば、あれほど卑屈な思考になるのか興味があるとはいえ、最近は〈ハロルド・アンダーソン〉にご執心だ。

 お兄様がまだこの家に住んでいた頃に、お兄様のお部屋──現在は物置小屋同然の扱いをされている──を訪ねたときに数冊見かけて、この分厚い本はなんでしょう? と手を伸ばしたら、「楓にはまだ早いよ」と読ませてくれなかった。あの日のお兄様は笑っていたけれど、私にはいつものお兄様の笑顔ではない気がして、以降、その本に触れることはなかった。小学校六年生にはまだ早いと思ったのか、それとも、精神的にも幼い私が本に影響されるのを阻止したかったのかはわからない。いずれにしても、ハロルド・アンダーソンを好む読書家は少なく、それでいて『変わり者が多い』という噂も耳にしたこともある。

 お兄様が私をハロルド・アンダーソンから遠ざけたい理由はそこにあるのではないか? とも考えたが、迷信めいた噂話を鵜呑みにするような人でもないので、真相は未だに謎のままになっていた。

 本棚の前で昔の日々を思い出しながら、用途順に並ぶ本を見やる。「どれにしようかな」と歌いながら、右手の人差し指でタイトルをなぞるようにして選んで、一冊の本に指が止まり手を伸ばした。

 表紙になにも記入されていない本。

 いいえ、これは本ではなくてアルバム。

 書籍サイズのアルバムはあまり見かけたことがなかったため、見つけたときは心が弾んだ。なんといっても表紙に使われている色が薔薇色だったのと、他人が開封できないように鍵ができる要因が大きい。このアルバムは二冊目で、予備にあと一冊購入しておいた。同じ色のアルバムを同時に購入するのは少々躊躇われたけど、このアルバムが彼女の写真で埋まると想像したら、恥ずかしさよりも興奮が勝った。 

 引き出しの奥にしまっていた鍵を取り出し、金色の鍵穴に入れて右に軽く回す。カチャンとロックが外れる音とともに金のベルトが外れた。この瞬間が堪らなく好き。一ページ目は決まって彼女の横顔が鮮明に写っている写真にしていた。勉強卓の棚にも、同じ写真がガラスのフォトフレームに収められている。私のお気に入りの一枚。

「今日も素敵です。恋莉さん」

 今日だけではない。常に素敵なのは言うまでもなく、彼女を前にすれば巷で人気のアイドルさえも霞んでしまう。

 大きい目、小ぶりな鼻、首筋にある小さなほくろ、腰は括れてお尻も小さい。モデルのような体型で、身長もそれなりにある。大人顔負けのスタイルにだれしもが振り返るけれど、それを寄せ付けまいとする堂々とした佇まいに私の目は釘付けになった。

 殿方の目を惹くファクターをこれでもかと詰め込んだ容姿の彼女でも、恋人がいたことはないらしい。

「恋莉さんの素晴らしさは外見だけではなく、心根の優しさこそが魅力だというのに、殿方の見る目を疑ってしまいますね」

 とはいえ、それで彼女の純潔が守られているのだから、見る目の無い殿方たちには感謝を申し上げたいところでもあった。

 気がつけば、アナタの姿を目で追っていた。

 一挙手一投足を見逃さないよう細心の注意をしながら付かず離れずの距離を保つ日々はヤキモキしたけれど、その感情さえ愛おしく思えた。恋仲になるのが私の本願ではあるけれども、アナタは私を受け入れはしない。

『臆すれば死ぬと思え』

 と、お父様から教わったのに、アナタの前では〈月ノ宮楓〉でいられなくなってしまう。

 どうして彼女から目が離せないのだろう。

 そう考えたから、私は恋に落ちていた──。








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 by 瀬野 或

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