別れを告げられた日には。

アビコさん。

別れを告げられた日には。

最初から誰も好きになったりしなければよかったのかもしれない。
唯一、気を引かれた相手との最後のデートは、駅ビルの地下にある小さな喫茶店。
カウンター席で隣り合わせに座り、終始下を向いているだけの相手の横顔を眺めているだけ。
何を思っているのかさっぱりと伝わってこないような、ぼんやりとした表情がやけに印象的だった。


ただ、何をするわけでもなく、雨の街をぶらぶらと歩き続け、夕刻にそのカフェに辿り着いた。
当時、お金のない浪人生だった僕には、他に行く所が思い当たらなかった。
そもそも、女性と二人っきりで何かをするという経験をもったことがなかったので、それ以上どうしたらよいのか分からなかったのだ。


カップに入ったブラックコーヒーは、すっかりと冷めてしまい、静かに表面が波打っている。
そこに自分の不安そうな顔が反射している。
好きだという気持ちを伝える術も、そもそも何をどうやって異性と交流したらよいのかが分からない。
そして、なぜ彼女が少しでも自分に好意を寄せてくれたのかが疑問だった。


自分は客観的に見て、カッコイイなどとは程遠い。
お洒落というわけでもなく、気の利いた話題を振れるわけでもない。
何か趣味を持っているわけでもない。


それどころか、大学浪人という身分でありながら、こうやって授業をサボって女の子と過ごしている。
頭に自信があるから、講義を抜け出してこの場にいるというわけでなく、ただ単に異性と接したかっただけのこと。


彼女が黙ってからもう20分近くが経過した。
貸す予定で持ってきた漫画本を3冊、くたびれたショルダーバッグから取り出すとテーブルの上に置いた。彼女がその漫画本に目線をチラリとも動かすことはなかった。
反応に困ってしまった僕は、1巻だけ手に取るとパラパラパラとページをめくってみた。
めくり終えると、2巻も、3巻も同様にページをめくった。


3冊ともやり終えたところで、突然、彼女は口を開いた。


「漫画...持ってきてくれてありがとう」


それだけをかすかな声で述べただけで、またプツリと言葉は途切れた。


僕は何も答えることなく、手持ち無沙汰になり、なんとなく彼女の頭に触れてみた。
一瞬、彼女の身体がピクリとこわばる感じに反応したが、それだけだった。
僕の指の間を彼女の流れるような髪の毛が一本、一本すりぬけていく。


決して捕まえることの出来ない、その髪の流れは、まるで彼女と同様に掴みどころのないものだった。


ただ、無言で頭を撫でるような仕草を続け、自分が何かしらのコミックの主人公のような気持ちに少しなった。
この撫でる行為だけで、彼女の気持ちを繋ぎ止めることが出来たらどれだけいいだろう。いや、出来るのかもしれない。そんな気持ちにさせられた。


少しふざけた口調で「良い毛並みだ」なんて、まるで犬か何かペットに接する時のようなセリフを吐いてみた。
そんな言葉を使うことに照れが出てしまったのか、僕の手のひらには汗がにじみ出していた。


彼女は「ふふっ」と大人びた声で、小さく笑ってくれた。


それが彼女に触れた最後の瞬間だった。


1ヶ月ほど、返信が途絶えた。


その間も、僕は何通ものメールを送っていた。
もともと、彼女からの返信は、1日に3,4通という少ない数だった。
あまり連絡を頻繁に取らないタイプの人なのだから、1ヶ月くらい返信が無いこともあるのだろうと、自分を納得させようとしていた。普通に考えてみれば、1ヶ月を返って来ないということは、それが答えなのだ。ただ、僕はそれを認めたくなかった。


あらゆる文面でメッセージを送り続けた末に、ついにこの言葉が出てしまった。


「ごめん、貸した漫画返して」


もう、これしか言えなくなっていたのだ。
これを言ってしまえば、全ての終わりの気がしていたが、もうこれ以上に何かを発することが出来なかった。


頼むから返信が無いままでいてくれという気持ちが生まれてきた。
だが、その通りにはならなかった。


「ごめん、ずっと返信しなくて...」で始まるメールが彼女から届いてしまった。


メールを開く勇気を持てず、少しの間躊躇してしまう。


開けば全てが終わることが明確だ。
だが、唯一、彼女から来たメールなのだ。30日ほど振りに彼女が自分のために打った文章なのだ。
そのことを思えば、どんな答えがそこにあろうとも、見ずにはいられないと感じた。


そこに綴られていたのは、やはり終わりの言葉だった。


彼氏が出来たこと、もう会えないことが、長文で記されていた。
顔文字や絵文字が多様されていて、冷たさが残らないような配慮がみれた。
だが、結局は、もう会えないという事実は変わらない。


漫画本は、郵送で返すと書かれてあった。


漫画を手渡すことさえ、もうしたいと思えないのかと絶望した。


もう僕の手には、彼女の髪の柔らかさが残っていない。
だが確かに僕の手の中で彼女の髪は、さらりと流れたのだ。





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