マーブルピッチ

大葺道生

第14話【助走】

不審者のマスクとサングラスを剥ぐとそこから出てきたのは清野がよく知った顔だった。髪も髭も伸び放題で随分とみすぼらしくなっているが見間違えるはずもない。昨秋まで自分たちを指導してきた大石監督その人だった。


++
とりあえずこのままここで話をするのはまずいと思った常木が主将の石田、2人の副主将の青木、寒河江だけを連れて部室で話すことにした。花緑学院は数年前まで女子校であったため比較的部外者が校内にいることには厳しい。大石がどうやって校内まで侵入してきたかは謎だが、警備員に見つかりでもすれば大事になるのは間違いないだろう。
「監督、一体今まで何をしてたんですか」
そう尋ねたのは副主将の寒河江だった。
「とりあえず監督クビになってからは家の手伝いしてたよ」
大石の実家は八百屋を営んでいると野球部の面々は過去に聞かされたことがあった。
「それでお前たちが柊光と当たるって聞いたから心配になって練習を見に来たんだよ。侵入するにはその辺のフェンスを乗り越えた。それが土曜日のことだな。ところが入ったはいいものの、今度は警備員の目をかいくぐって外に出るのが思ったより難しくて結局今日まで校内にいるはめになっちまったってわけだ」
捕まらなくてよかったですね、と石田はあきれながら言った。同時に大石が監督を務めていた時代何度も思わされた計画性のなさを改めて感じていた。どこか懐かしい気持ちにもなる。
しばらく部室のなかには沈黙が流れる。それを破ったのは常木だった。
「大石監督、単刀直入に申し上げます。チームに戻ってきていただけませんか」
常木はそう言って頭を下げる。
「今は監督じゃねえよ。それにあのクソ理事長とは春大会の前に約束しちまってたからな」
「約束ですか?」と寒河江が尋ねる。
「春大会の予選を3試合全勝で終えることができなければクビでいいってな」
「なんでそんなこと」
「いや。だってよぉ。あの理事長が練習見に来てイチイチこんな調子で甲子園に行けるのかって嫌味ったらしく言ってくるもんだからよ。野球のことはてんでわからないくせに。だからつい言っちまったんだよ。とりあえず春の予選を全勝してみせるからそれまで口を出さないでくれって」
「そんなこと一言も言ってくれなかったじゃないですか」と青木がぼやく。
「まあそういう裏の事情を話してお前らに余計な力が入るといけないかなと思って」
「いきなり監督がいなくなるほうが余程精神面に悪影響ですよ」と石田が言う。
「そうか。その辺は俺の配慮が至らなかったな。とにかく。常木、先生だったか。俺はそのとき、理事長にじゃあできなかったらクビでいいね、と言われ思わず頷いちまった。一度約束しちまった以上は今更クビをなかったことにしてほしいっていうのもなんだし、それにあの理事長が俺を雇い直してくれるとは思えねえな」


++
「ですから、私では技術的な指導をするだけの能力が足りないんです」
花瓶が揺れて、その水面がふるふると瓶から零れ落ちそうになる。
常木が机の上を叩いた衝撃のせいである。いつも落ち着いている彼らしからぬ振る舞いだった。大石が理事長が自らを雇い直す気はないのではないかと言うので、常木が石田たちと大石を連れて理事長室に直談判に訪れたところだった。
「我が校が甲子園に行くためには間違いなく大石さんの力が必要なはずです。現に大石さんのコーチング能力は確かなもので、2,3年生はこの前の柊光との試合でも十分に健闘していました」
理事長はこちらに背を向け、窓の外を見ながら嘆息する。
「なるほど。常木先生の言い分はよくわかりました。しかし大石前監督は春の予選を全勝で通過できなければ辞任すると了承しているわけですからね。彼の実力についても私は懐疑的です。柊光との試合善戦と常木先生は言いますが、結果は8対1で7回コールドだ。もちろん最終的なスコアだけで全てを判断することはできませんが」
そう言って理事長は手元のコーヒーを一口すする。
「――今度私のツテで練習試合を組みます。そこで大石前監督と2、3年生だけで試合をするというのはどうですか」
「その試合に勝てば大石監督の復帰を認めてくれるんですか?」と常木が問う。
「もちろん。勝利すれば大石前監督の実力を認め、改めて監督の座に就いていただいても構わない。仮に負けても善戦したと私が判断すればその場合も再雇用を約束しましょう。もっともそのような曖昧な基準に賭けるよりは勝つことが確実だと思いますが」
そう言いながらこちらへ向き直った理事長は皮肉めいた笑みを浮かべていた。


++
常木や大石が部室で話し合っていた頃、その様子を気にかけながらも他の選手はグラウンドで黙々と練習をしていた。
谷口の横手投げから繰り出されたボールが緑色のネットに突き刺さる。石田は部室で話し合い、2番手捕手の井之口は赤沢の相手、1年生の水戸は宮道の相手をしているため谷口の相手はこのネットである。
谷口の目下の目標は左右に変化球の出し入れをできるようになることだった。谷口の持ち球はカーブとスライダーだけのため、その目標を成し遂げるにはシュートやシンカーなどの利き腕と逆方向に曲がる新しい球種を習得する必要がある。
そんなことを考えながら投げた谷口のシュートはネットに突き刺さる。少なくとも谷口の視点からはほとんど曲がらなかったように見える。先はまだ長そうだ。
「谷口さん、ちょっとフォームのアドバイスもらっていいですか」
突然の声に驚き後を向くと、その声の主は宮道だった。上投げの宮道がサイドスローの自分に何を聞きたいというのだろうか。しかし――
「ちょうど俺もお前に頼みたいところがあったところだ」と言って谷口は微笑する。

コメント

コメントを書く

「現代ドラマ」の人気作品

書籍化作品