シルバーブラスト Rewrite Edition

水月さなぎ

4-6 ナギ・インヴェルクとして 2


 大切な記憶が、一つずつ消えていく。

 思い出せないことも思い出せないぐらい、自分の中から思い出が消えていく。

 ナギは消えていく思い出に手を伸ばそうとはしなかった。

 これは自分が選んだことだから。

 自分がナギ・インヴェルクとして生きていく為に、手放すことを選んだ記憶。

 だからこそ、惜しむ資格は無い。

 辛い記憶。

 温かい記憶。

 幼なじみの記憶。

 殺してしまった記憶。

 そして、マーシャの記憶。

 記憶と、思い出と、そこに絡み合う感情。

 それらが少しずつ消えていく。

 泡となって弾けていくイメージだった。



 最後にトリスが立っていた。

 幼い姿のトリスは、ナギを見て寂しそうに笑っている。

 ナギの中に残された、最後のトリス。

 名残である彼は、ナギが選んだ道を祝福してくれた。

 寂しそうにしていたけれど、笑ってくれている。

 そのまま踵を返して消えようとしていた。

 しかしナギはその手を捕まえた。

「?」

 トリスは不思議そうにナギを見ている。

 どうしてそんなことをするのだろうと、その表情が問いかけてくる。

「トリス」

「なに?」

 あどけない表情でナギを見るトリス。

 年齢も同じ姿なので、本当に鏡合わせのような相似だった。

 まるでそこに自分自身がいるような錯覚に陥りそうになる。

 しかし違うのだ。

 そこにいるのはトリスで、ここにいるのはナギだ。

 違う自分なのだ。

 だからこそ、伝えたい言葉がある。

 伝えなければならない言葉がある。

「今までありがとう」

「え?」

 恨み言を言われるのなら分かる。

 しかしどうして礼を言われるのか、それが理解出来なかった。

「俺は本来ならば記憶を受け継ぐことはなかった。だけど俺の中に残されたお前が、敢えてオリジナルの記憶を蘇らせたんだろう?」

「……その通りだけど、それならば尚更恨みそうなものだけど」

「もちろん恨みたい気持ちはあるさ。でも、分かっていたんだろう? ただクローンとして造られただけなら、あそこまでの戦闘能力は発揮出来ないって」

「………………」

「俺を失敗作として処分させない為に、オリジナルの戦闘経験を蘇らせた。そうすることで、処分から護ろうとしてくれた。俺が自分自身を偽物だと思い込んで苦しむことになっても、それでも俺を生かす為にそうしてくれたんだろう?」

「……それでも、辛い目に遭わせたことは確かだ」

 トリスは否定しなかった。

 それが事実だったからだ。

 ナギの中に残されていたトリスの人格の欠片。

 それはナギを護ろうとしていた。

 そしてこれからは自分の守護は必要無いと判断して、納得してナギの中から消えようとしていたのだ。

 捨てられる記憶としての寂しさは残るけれど、それでもナギが幸せになれるのなら、これまで自分がやってきたことは無駄ではないと、そう思えるから。

「いいんだ。今までごめんな。護られていたことにも気付かなかった。ううん。気付こうとしなかった。トリスはずっと、俺のことを考えていてくれたのにな」

 小さなトリスをぎゅっと抱きしめる。

 外に居るトリスには絶対に出来ないことだが、この小さなトリスには素直になれた。

 大きなトリスは外側から、そしてこの小さなトリスは内側から、ずっとナギを護っていてくれたのだから。

 素直になれるのは、自分達の他に誰も居ないからなのかもしれない。

「………………」

 小さなトリスが涙ぐんで震える。

 こんなに涙もろいトリスの姿は初めてだった。

 いや、意地を張らずに、ただ素直な少年として生きていたのだとしたら、これこそがありのままの心だったのかもしれない。

 アメジストの瞳から流れる涙を優しく拭ってやる。

 そして同じ顔で笑いかけた。

「今まで恨み続けてごめんな。そして、護ってくれてありがとう。俺はもう、大丈夫だから。これからは俺として、ナギ・インヴェルクとして、ちゃんと幸せになるから。だから、もう心配しなくていいよ。安心して、眠っていいんだ。お前の分は、きっとあのトリスが幸せになってくれるから」

「うん……」

 ぐしゃぐしゃに顔を歪ませながら、それでも頷くトリス。

 このトリスはナギの中にしか存在しない幻だ。

 そしてだからこそ、ナギ自身がその手で眠らせて、見送ってやらなければならない。

 しっかりと抱きしめて、安心して眠れるようにその背中を撫でる。

「ばいばい、ナギ」

「ああ。ばいばい、トリス」

 トリスは最期にナギへと笑いかけて、そして光の粒子となって消えていった。

 その笑みにはもう寂しさは隠されていなかった。

「………………」

 トリスが消えるのを見送ってから、ナギは記憶の海に一人佇む。

 これでトリスの記憶はほぼ消えてしまった。

 トリスの記憶の要となっていた人格の欠片が消えてしまったから、そこに繋がっていた記憶もほとんど消えた筈だ。

 残っているのは、ナギとしての記憶。

 ナギとして知覚した記憶はトリスのもの含めて残っているが、それはナギ自身の記憶として納得出来るものだった。

「本当に、俺は馬鹿だな。大事なものに気付けなかった。自分のことばっかりで……」

 自分の中と向き合うまで、あの小さなトリスの存在にも気付けなかった。

 どうして自分の中にオリジナルの記憶が残っているのか、その理由を考えようともしなかった。

 ずっと護られていたのだ。

 生きていて欲しいという願いと、幸せになって欲しいという願いを託されて。

 あの小さなトリスこそ、本物という意識を持たない、ナギを手助けする為の偽物だったのに。

 それを分かっていて、恨まれるのを分かっていて、これまで護ってくれていた。

 もっと優しくしてやれば良かったという後悔は既に手遅れだ。

 彼はもう消えてしまったのだから。

 ただ、彼が願ったように、幸せになろうとする気持ちだけは持ち続けようと決めた。

 そうすることが、今まで護ってくれていた彼に対する唯一の恩返しになるだろうと信じたから。







「………………」

 目が覚めると、そこは見慣れた自分の部屋だった。

 どうやら眠っている間に病院から移されたらしい。

 傍にはトリスが付いている。

 どうやら目覚めるまで待っていてくれているらしい。

 あの小さなトリスといい、この大きなトリスといい、どうして自分をこんなにも護ろうとしてくれるのだろう。

 自分を恨んでいる偽物のことなど、見捨ててくれてもいいのに。

「………………」

 少し前までならそんな気持ちになっていただろう。

 しかし今は素直にありがたいと思う。

「おはよう、トリス」

「っ!?」

 うたた寝していたらしいトリスはすぐに目を覚ます。

「お、おはよう、ナギ。調子はどうだ?」

「うん。悪くないよ」

「そうか。記憶の方は、どんな調子だ?」

 トリスが心配そうにナギを窺う。

 消えた記憶がどれだけナギ自身に影響を与えているのかが心配なのだろう。

「うん。大丈夫だ。消えた穴は大きいし、そこにちょっとした空虚な寂しさもあるけど、トリスの記憶はちゃんと消えてるよ。これからはその記憶に苛まれることもない」

「そうか。良かったな」

 トリスはナギの頭をくしゃくしゃと撫でる。

 それに合わせて獣耳がぴくぴくと動く。

 まだ優しくされるのは照れくさいらしい。

「トリス」

「な、なんだ?」

「俺は、もう大丈夫だから」

「………………」

「だから、もう心配しなくていいよ。ちゃんと、トリスも自分の為の人生を始めた方がいい」

「俺は……とっくにそうしているよ。マーシャとレヴィさん、そしてみんながその未来をくれたから」

「でも、俺のことは気がかりだっただろう?」

「それはまあ、そうだが」

「だからもう心配ない」

「とはいっても、心配ぐらいはさせてくれ。家族なんだから」

「なんか、心配されると子供扱いされているみたいで面白くないんだ」


「む、難しいな……」

 心配するのと子供扱いするのとは厳密には違うのだが、断じて違うとは言い切れない部分もある。

 心配するのは危なっかしいからで、危なっかしいのは子供として見ているからだ。

 だからこそ子供扱いされていると責められても否定出来ない部分があるのだ。

「俺は大丈夫なんだ。ちゃんと、見送ることが出来たから。護られていることを知ったから」

「ナギ……」

 トリスはナギの中に存在した人格の欠片のことは知らない。

 それでも、同じ願いを抱いていたからこそ、ナギの言いたいことが分かったのだろう。

「俺はもう、自分の足で歩けるよ。自分の意志で、自分の思い出で、未来に進んでいける。だから、トリスも同じようにして欲しいんだ」

「頑張るよ。つまり、俺も周りから見たら危なっかしいってことなんだな?」

「そういうこと。図体だけでっかいのに、中身は俺と変わらない子供みたいな感じだからな」

「い、いくらなんでもそこまでは……」

「どうかな~。マーシャに訊いてみたら?」

「……酷い答えが返ってきそうな気がする」

「自覚はあるじゃないか」

「う……」

「俺たち、これからだ」

「そうだな」

「頑張ろうぜ」

「………………」

 何度も差し出された来たトリスの手を、ナギは少し前にようやく握り返すことが出来た。

 だから今度はナギからトリスに小さな手を差し出す。

 吹っ切れた笑顔で、未来を信じて、その手を差し出す。

 トリスは少し驚いた表情になっていたが、それでも嬉しそうに笑ってからその手を握りしめた。

「そうだな。俺たちはこれからだ」

「そうだぞ。これから幸せになるんだから。でも俺はトリスよりもずっとずっと幸せになってやるからな」

「え……」

「なんとなくだけど、そうしたら『勝ち』の気がする」

「そ、そういうものか? もちろんそれは俺も同じように願っているが」

「違うよ。トリスも幸せになる努力をするんだ」

「え?」

「どっちがより幸せになるのか、一生をかけて勝負するんだよ」

「し、幸せ勝負?」

「そう。楽しい勝負になりそうじゃないか?」

「た、確かに」

「よし。じゃあ決定だな」

 ぎゅっと握ってくる小さな手。

 幸せな勝負をしよう。

 二人で生きていく為に。

 それは別々の人生を歩み始める自分自身に対する、精一杯の祝福だった。

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