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RIP!

斎吏・伊匡

急 葦鶴は緋色を知り、熒惑を見る。

  

 緋い焔。
 そこでは、猛る炎が踊っていた。息を吸えば肺臓の奥底まで焼き尽くされかねない。そう思わせる、馬鹿げた熱量を放って。

 鶴院ランカ--、チルドレン鎮圧。

 その威力は凄まじいという言葉で表現するには、少しばかり陳腐さと物足りなさを感じるほどであった。
 天井に張り付いていたランカとパトリシア。
 祷術を解除して飛び降り、そうして空間に身が浮き落下を続けている間にパトリシアは氷結と降雪の術式を多重展開する。
 爆発事故でも起きたのかのような跡は、忽ちに凍土へと姿を変えた。

 ランカとパトリシアは見た。
 爆心地に近かった壁や床は溶融されており、地上に墜ちた隕石、或いはマグマや鍾乳石のそれと似ている。

 これを、私がやったのか。

 そう思うランカ。自然、掌中に背中にと玉のような汗が湧き出る。パトリシアにかからないようにと気をつけながら、手をぶんと振る。
 ほうと息を吐き、そして手のひらをぐっと握りしめるランカ。目立った外傷がないその可愛らしい御手手は、それでもなお湿り気を帯びていた。

 はたと気付く。
 彼女ランカを抱きしめ移動役に徹するパトリシアの肌は、何故か冷えた鉄のように冷たかったのだ。
 いや。今思えば幼少の時分より面倒を見てくれたパトリシアは、恐ろしいほど低体温だったなとランカは思い返す。

 ────今、それは些事だ。

 ランカは、そうして思考することをやめた。
 一方のパトリシア、龍の爪のような飾りがつま先と踵に拵えられた靴を器用に用い、その爪で床を剥がして見た。

 ────ほう……。

 唸った。

「鉄板の剥がれた箇所、裏にある土までもが焦げている、か……。いやはや全く、全くなんという熱量であるのか」

 言い、すると「やはり、『凄まじい』などという評価では--ああ。あまりに陳腐であるな」と賞賛の言葉を続けた。
 それほどでも。目は横を向き頬を搔くランカだが、やがてそれ・・に気づいた。

 まずランカが狙ったチルドレン五体だ。それらは、ランカが願望したとおりに砂塵にすることはできた。

 それ・・とは、マザー。


 マザーには、僅かに一個たりとも創痕はなく。
 せいぜい目元の包帯を焦がし、橙色に輝く目が見えるようになったくらいだ。

 ニタリ。

 マザーは微笑した。見る者は悪寒を身体に走らせること間違いなしのその微笑み。目には、筆舌に尽くし難い悪意を含ませていた。

 ────な、んで……マザーは、なんで傷を負っていないのっ……!?

 歓喜と恐怖、苛立ちで掻き混ぜられたランカ。

 だがそれも一瞬。
 なぜなら、「指揮官の焦りは隣にある朋友から命を奪う」が故に。

 ────それだけは、嫌だから。

 純粋に、あとは祷力が尽きるまでの戦闘。
 固く絞り水気がなくなった雑巾を、それでももっと固く絞るように。後は、満身に眠る力を振り絞って最後まで殴り続けて、そして打ち鳴らされてその音を響かせるゴングに合わせて両腕を振り上げることができる、そんな者だけが美酒を呷ることができるのだ。
 陽気に、しかして目は鋭き者だけが凱歌をあげることができるのだ。

 正気を保持せねば、迷惑をかけてしまう。

 ────そんなこと、わかっている。

 ぐらり。
 だが、理性に言い返すランカの意に反し、岩にぶつかった船が沈むように意識が一瞬遠のいた。一瞬、いや、それどころか何秒も。身体の末端が全く言うことを聞かなくなっている。自分の身体でありながら、その支配権を失いつつあり、意識さえも朦朧として始めたのだ。

 ────視力の低下……。

 色彩感覚の異常。獣のように嗅覚が鋭敏化。
 ワイヤーでも巻かれたのかという強烈な締め付ける頭痛。冬の夜に外出して鼻の奥が冷えて痛むのに似たあの苦痛。喉が酷く渇き、漏れる声は水中で発するそれのようになっている。聴覚は、ただ鼓動だけを拾う。背中は凍り、腰は針を当てられたような。下腹部が石でも詰めたのかのように重い。脚に至っては、どういうわけか邪魔でしかない不要物にしか思えない。
 指先の感覚を完全に喪失。多量の汗をかいた身体を拭うと、しかしそれ以上の汗は出ない。

 ────そして、何より。

『冷静さが限界にまで研ぎ澄まされている』

 それらは、過度な祷力の消費による症状だ。
 ランカは過去に一度経験したことがある。


 ここまで全力を尽くしたのは、確か二度目だったっけ。
 そう力無く笑う。

 普段から全力を尽くしておけば変わっていただろうに。
 そう伏目で嗤う。

「準備完了だ!」

 自嘲的になっているそんな中、磊落な女声が響くのを聞いた。
 現在ランカ達の背後で、犬型の自己という隣人アルター・エゴによる束縛を解呪していた武麟が、ドームを持ち上げ手だけを出し叫んだのだ。

 その指に、二人は、人類と頂点を争い続けた獣を見た。

 ランカは、ぶれてぼやけた視界の真ん中に、赤熱した肌の武麟を置くと、指示をする。

「ちっ、るル……はぁ、はぁ……チルドレン、鎮圧完了……ッ! 麻痺薬自体は、そう、長くは持たないのでッ……! 『今』ですッ!」

 それは、ただの、本当に気力だけでひり出した声だった。

「パトリシア……私たちも、行こう……!」
「……相分かった」

 パトリシアに指示を出した、その瞬間だった。

 戦場が熱を孕んだ。

「ルる、ウ、おォオ……!!」

 威風堂々たるその立ち姿、輝く体躯。
 巨竜の肉を断ち、骨を砕き。相対する者は誰であろうと確実に命を落とすであろう鋭くも太い牙。
 腹の底まで響いて記憶にこびりつくような低くて重い、まさに魔性もとい神性持つ者の声。

 ────この、〝狼〟はッ……!?

 神話の巨狼が、此処に顕現した。



 ◇



 赤くて黒き神話の生命体。
 胸に輝ける傷跡を持つ狼となった安武麟アン・ウーリンは、まず第一に痺れて倒れ伏した雑兵──チルドレンを片付けることを念頭に置いた。

 ────何体かは倒してくれたみたいだが生き残り・・・・もいる。それに邪魔だしな。

 そう考えたからだ。 
 ただそれではマザー戦のときの火力が、もとい祷力が足りないかもな……。
 そう思い、もしものこと、すなわち最悪の事態を考え、自身の術式のうち最高威力のものを放とうと決めた。
 なにせここの皇帝は艦の修復、民の守護の両方を難なくこなせるヤツがいるのだからと。

 そう考えた時だった。


 頭痛がした。

 吐気も、いやそれどころか寒気すらした。同時に昂揚し興奮し血が沸き立ち、毛が逆立ち目を見開き自然と牙がむかれる。
 たとえばそれは、圧政者に統治された国家に『自由』という思想が輸入され、それにより暴力的な民主的革命運動が国中に広がったような。そのようにして祷力が空間に満ちていったのだ。

 ────良い仕事だ、パトリシア・ガルベス・デ・ガンテ!

 自身とは真反対の位置で敵の妨害をする彼女から供給された祷力だった。


 ところで武麟は、パトリシアの本気を、はっきりとは見たことがない。

 一度本気を出してもらったことが、確かにある。だがその一遍を見れなかった。
 というのも、武麟はパトリシアのえげつないプレッシャーと狂気にあてられて戦き、それで瞬きをした。したのだが、その後。それこそコンマの世界なのだが、四肢を切り落とされて遠くへ捨てられ、そして何も無かったのかのように再生していた自分の身体を見たのだ。
 回復の術式は坐学で理論を学び、自分の手の甲に刃物を突き立て実践し、そうやって習得していくのが一般的だとされている。

 だが。

 だが、縦い治療や医療、恢復に関する知識があり、その術式に深く精通していたとしても、──やはりと言うべきか当然と言うべきか──限界があるものだ。
 身体から離れてしまった、もしくは離した部分を治すなど、埒外に程がある。
 門外不出の、その家に代々伝わる術式と考えれば、なるほど。確かに珍しくはないのかもしれない。

 ────どう考えても気が狂っているってレベルだがな……。

 しかしそこな気狂いは、純粋に優しく、また残虐非道の果てにいる。
 独裁国家で人権思想を遊説したときもそうだった。その国でクーデターを実行したときもそうだった。自ら立ち上げた災害ボランティア等非政府組織では先頭に立ち、戦争が起こると、両当事国の戦傷者を無償で治療してしまうのだから。
 結果として京不知夜の支援者や賛同者を増やしているので『それが目的だったりして?』とエイブラムスは問うた。だが、『支援者も賛同者も、別にいなくて良いんだけどね。大したことをした訳では無いし、ハッキリ言ってその程度の輩では利益なんかないし』と笑った。
 要するに、自身、ひいては国家にとっても無用者不要者でしかない怪我人を救っているわけである。
 ただの自己満足かとの考えは、しかし。パトリシアのその光を受容できぬ目を見て線香花火のように消えていった。
 そうして、気がついたときには、武麟はパトリシアに--心底惚れ込んでいた。

 ────ああ、懐かしい……な……。

 思い出し、すると少し酸味のある温かい液体が上がってきた気がした。
 達磨になった痛みは、なんとなく覚えているのだ。

 とにかくそれよりも、だ。
 しかし、

「《しかし……ここまで祷力を貯め込んでいるとはな。なあオイ、ケント?》」

 そう融合中の自己という隣人アルター・エゴ--ケントという名の小さな狼に話しかける。
 紅色の狼であるケントは、確かに、と言いたげな表情を浮かべた気がした。

 ────せっかくだ。本気……の半分よりちょっと控えめ……でも出しましょうかね!

 闇より黒い邪悪な知慧を持つ、我らが帝王。
 冷たく硬い理性の盾と、情熱との銘が彫られた剣を携えし眩しき英雄。

 ────そして何よりも、気兼ねなしに肩を組める朋友……。

 あれが守っている限り鶴院も艦も大丈夫だろうと、そう考えて祷術を展開した。

「ル、う、オォ!」

 両肩の太陽を象ったスカリフィケーションから零れた光。
 その白い光はやがて全身に鎖の模様を描いてまとわりついた。
 それを、

「ルゥオォオオォォオ!!」

 爆発。
 武麟を中心に祷力エネルギーが球状に広がり、チルドレンを焦がしながら術式は解放された。


 次の瞬間。

 そこに彼らの死が受肉した。

 陰影さえ見えるほどに隆起した筋肉は、まるで写実的な彫刻のよう。各所にある血管も浮き出ており、蛭が血を吸うように脈打っていた。ガラス、或いは水晶とも見えるような半透明の皮膚の下には揺らめく炎なんてものが見えている。そんな神々しい頂点捕食者の身体は、今では先程の倍はある、おおよそ5メートル台にまで巨大化していた。

 一歩踏み出せばその鋭き爪に大地が泣いて喚きそうな。

 隈取りされた細く鋭い目には傲岸さ不遜さが見え、しかしそれは全身から溢れ出るアウラにより納得できる。見る者は畏れ敬い感動し、もしもの話となるが、今の彼女の姿をあまりに長く見てしまえばその色彩の虜囚となってしまうだろう。
 そんな彼女であるが、

 ────…………? くっさい!

 黒い身体から発するのは白い炎。
 対し演習場を焦がすは青い炎。高温の硫黄ガスが空気に触れて発火したように妖しさを孕んだ蒼だ。揺らめく炎はまるで新死鬼。どこまでも幻想的で神秘的で、けれども熱気と悪臭がそれを現実のものであると、ただ冷酷に証明している。そこに、一切合切の浪漫はなかった。

 糞を詰めた壺に泡立つ生活排水を加えて数年間日の当たらぬ所で放置したような、そんな拷問的とも言える最悪の死臭。
 今にも吐きそうな思い、加えて、喉元に重みと酸の苦痛を抱えながら周りを見回す。すると容易にその発生地点を発見した。
 近くに、チルドレンの焼死体があった。

 ────まさか、カルディアをほんの三割程度解放しただけで死ぬとは……。

 ため息をつくと汚物をこぼしてしまいそうなので、気持ちだけで溜息をつく。ケントもうんざりした顔をしている。
 地獄の神の裁きを具現化したような姿の武麟は、まず地面ごと剥がしてそれらを吹き飛ばして端へと寄せた。

 そういえば。
 ヴァンキッシャーを焼いてこんな臭いがしたことなど、戦いを始めた4歳から今の18歳までの間に、見聞きしたり経験したりしたことなどない・・。全くもってないのだ。
 というのも、ヴァンキッシャーは倒されると、花弁はなびらのような祷力塊を散らして消えていくからだ。

 では何故、常識的でないヴァンキッシャーの焼死体という物体が存在し続けるのか。

 おかしい、ありえないと考えていた。
 もしやと考え、またその答えが正しいと確信した時だった。

 ────ッ!?

 悪意。敵意。憎悪。
 疑問に思っているとき、強い思念を感じた。言うなれば、冷えた剣山で肌を突き、塩を刷り込むような。そんな痛みすら感じる思いだ。

 ────……くっ。

 本能が警鐘を鳴らす。それに従い、もとい抗えずに右前方へステップし、翻り悪意の方向に身体を回転させた。

 その瞬間だった。

 ヒュウと、体の横を暴風が通った。
 武麟の思考は速かった。得意の炎で、地面に対して垂直で分厚い壁を造ったのだ。

 その壁が、揺らめいた。

 それに追いついてきたのは爆音。
 破砕と爆発の音だった。

「る、オ……ウ、る、ルル……!?」

 猛るマザーが火砲を放ったのだ。
 先程のよりも強かったらしく、着弾点を見ると、世界の航空艦の中でも特に防御力に優れているとされる、あの・・京不知夜の壁を砕いていたのであった。
 防衛関係の術式や祷力装甲、ダイアモンド粒子を織り込み、さらには世界で最も耐久性に優れている植物ということで有名な地上のとある木板などを何重にも重ねているこの艦。
 さらにその防御力をより必要とする演習場は、当然それ以上に強く作られているはずなのだが、この有様。
 着弾点付近にあったというだけで、直接中てられたわけではない調整室が粉々となり、見るも無惨な有様になっている。
 埒外、超常の大災厄に見舞われた風の光景だ。

「ギぃ……グ、グガ、ガァっ!!」

 マザーは、攻撃の手をとめない。
 威力こそ火砲よりは低いが、それでも人類基準で考えると馬鹿げているほどに強い祷力塊を、数珠状の光輪から休みなく連射する。
 だが、武麟も手を止めようとしなかった。情報の精査が終わるまではと考えていたのだ。
 喉の異界に通じる穴を狙い、数種類の火弾を飛ばす。

「グぉォォぉぉん……」

 情報は正なりと。
 武麟は火弾がいずれも吸われるのを見ていると、

「ルぅっ……!」

 光弾。
 回避は不可能だと悟る武麟。瞬間、決断する。あえて受けて死中に活路を切り開くこととしたのだ。

「ゴっ、あ、がアアア……!!」

 苦痛の声を上げさそうな自身に、武麟は理性という名の猿轡を無理矢理はめた。
 少し経つと冷静さを取り戻し、すると、武麟はあることに気付いた。

 ────どうやら赤白黄の三種の光輪で弾が違うらしい。

 赤は拡散弾。
 接触時に四方八方十六方に祷力エネルギーがビーム状に放散される。またその祷力エネルギーは爆発性なので、避けるよりも焼き尽くすのがより良い選択。

 白は追尾弾。
 命中時に反時計回りに物体を深く掻き混ぜるらしく、恐らくパトリシアほどの治癒の大家でなければ一生傷が残るだろう。対処法としては、拡散弾と同じく前もって焼き尽くすことだろう。

 問題は最も痛みを感じた黄色だ。
 目に見えるのは発射時だけで、すぐに光の透過率が100パーセント、或いはそれに近い数字に至る。しかも、反時計回りに爆風を引き起こす特殊な大爆発を起こすようだ。ちょうど今、その謎の弾が壁を抉ったところだ。不可視化ほど厄介なモノはそうないのだ。

 祷力を沢山使える今なら、これにもまた焼き尽くすという選択肢が取れるのであろう。
 この身体から発生する炎は祷力であり、ただ存在するだけでは酸素を使わないのだが、身体から離れた炎は違う。ただの炎となるのだ。それは当然酸素を使う、使ってしまうのだ。
 だが、この演習場にはそんなにも多くの空気の出入口があるわけではない。

 ────せめて黄色の、できるだけこっちにダメージなく壊せるのか……?

 目に見える大抵の物質には、壊し方があるものだ。
 ならば発射と同時に壊すかと考えていると、

「ぐルぉ、ウ……ッ……!」

 正面から見据えて、光輪の下後方、蜘蛛でいう腹部にあたる部分にある噴進砲。
 それを連続で放つことにより、素早い武麟の横腹に中てることができたのだ。

 驚いたことに、これは本当の兵器だ。

 正確には、祷力エネルギーを祷力エネルギーのまま放ってきた先程の光弾とは違い、祷力エネルギーを火薬などを詰めた砲弾に変えて放っているというのだろう。

 ────錬丹・錬金術の類まで使う……だと……!?

 やはりマザーは--、オマエは人間・・だったというのか。

 お前の答えは正しいぞと証明されたのだ。

 ────だが、これは嬉しくない。

 ため息か唸り声か、深く息を吐くと腹部に痺れる熱を感じた。
 飛び出た筋肉は焼けており、薄皮一枚がその肉をぶらんぶらんと繋いでいたのだ。
 邪魔だ、引きちぎろうと思い、後ろ脚の爪をその皮の根元に当てようとした。
 その瞬間、幻影のように消え去った。

『……余計なお世話かね?』

 脳内に響くおっかなびっくりの声は下降調でありて。
 反射的にあの女の方を向く。

 やはり、パトリシアからの念話だった。
 気だるげに持ち上げられた左手、その人差し指には回復術式を使った跡が残っていた。黒の渦に赤光が輝き、血のような泥のような固化した祷力滓という禍々しさたっぷりの痕跡は、ランカには恐ろしく映っているようで、しかし知っている者にとっては寧ろ安心できるものであった。通称〝京不知瑕みやこきずしらず〟、死神が広げたかいなから命を横取りし救う奇跡の治癒。

 ともかく、武麟はオーバーとも言えるほどの治癒がなされたのだ。
 元々は傷口だったその左腹部を見て、武麟はごろごろと喉を鳴らして応じる。
 素直な嬉しさがぽうっと熱をもって胸に広がる。同時に、しくじった、少し侮りこのザマだとの恥ずかしさもある。
 内心反省していると、

 ────冷却は? 弾は確かに祷力だが、その祷力は自家製なのか?

 様々な疑問が、それにそれにと湧いてきた。
 武麟はそれについて思考し、故にほんの少しであるが意識が逸れている。そこをキキと嗤うマザーは踏み潰さんと脚を振り上げる。

「ギュう、オ、お、オぉォ────ッ!?」

 武麟はマザーの下腹部が爆発するのを見た。
 まさかと思い、しかしそれでも思考と走ることはやめずにそのまま考える。
 馬鹿げた威力の代償に頻繁な冷却が必要らしい。そうらしい--いや、当然のことなのだが、そのことを知らず、──もしくは気付かずだが、それはまあこの際良いとしよう──武装のクールダウンをしなかったのだ。軍事や戦闘に関して無学だったのだろう。田舎の娘だったのかもしれないなと、ふと思った武麟。
 次弾高速装填は戦闘車両としての機能が昇華したのだろう。だが冷却を怠ったために装填と同時に発射されたのだ。

 ────この解答は恐らく……よし、正解だ。

 パトリシアの涼しい顔がそう言っているのだから。
 そう考え、続いて、ワンチャンスあれば勝利まで全く問題がないのだがと心中で思う。この世に佰パーセントというものはない。寧ろ捌拾パーセントにまで達したらかなり良いくらいだ。それでも情報量が少ない今は、少しでも佰パーセントに近づきたいと人は思うものだ。
 危険であると判断している、煙で隠れた腹部の口を見る。すると、

「ぐ、ガガ……!」

 ノーダメージ。

 少し下腹部にある方の口内が煤けただけであった。
 むしろこっちの方がマイナス要素を得たと、舌を打つ。マイナスとは、マザーは冷却が必要であると気づいたということ。そう見て良い。

 これからは冷静に立ち向かってくるはず。
 移動し蹂躙するかの要塞はもう慢心しないのだろう。
 反対に恐れを忘れた死兵と化したと考えられる。

 死兵は厄介極まりない。己の持てる全て・・賭けベットして最後の勝利にこだわるからだ。

 ────ならば……!

 持てる全て。つまりはと考えた武麟は、深く食らいついた。箇所は蜘蛛型の膨らんだ腹部だ。

「るゥ……!!」
「アァァ、グァァォオオオオッ!?」

 振り落とそうと暴れ、暴れ、暴れ。
 達磨の女が床に叩きつけようとしたその瞬間、武麟は天を向く多連装ロケットランチャー部分に移動し、そこから後ろ脚で蜘蛛でいうところの腹部を蹴った。
 相手が見た目だけではない、本物の蜘蛛としての性質も持ちあわせているんだと判断した武麟は、もしや糸があるのではと考えたのだ。また金属の床板を溶かす能力をマザーは見せたのだ。警戒し尽くしても寧ろ足りないくらいだ。故に武麟は、まずは入口を壊して歪めることで糸を封じようとする。
 ぐにっと歪む音。
 武麟は成功したと確信し、そこで、何かにぞぶりと。見れば自身の腹が貫かれていた。

「ルぅ、あァォ……オおッ!?」

 薄気味悪い光。臓物の総数では足りないほどの光がそこにあった。

「が、グッご、ゴォ……!」

 チルドレンが、また生まれてきていたのだ。
 抑抑、壁床が溶けたあとに急速冷凍された世界を見た時、ヴァンキッシャーはマザー一体だけだった。

 ────なのに、あたしは……どうして生き残り・・・・と表現したんだ……?

 あの時には既に、生まれていたのか。



 ◇



 武麟とマザーの一体一、一体複数の戦闘が始まり、何分経ったのだろう。


 パトリシアは、ランカが戦わないよう説得し続けていた。『過度な祷力術式の使用は、将来に悪しき異物を残してしまう』と。

 ランカは、パトリシアに共闘させるようこいねがい続けていた。『今此処この瞬間を戦わなければ、何れにせよ我々の内の誰かの未来が死んでしまう』と。


 どちらも折れない。


 民を背負う皇帝として、肩を組む友人として、孤児院で面倒を見てきた妹のようで娘のようでもあるランカを傷つけたくない、死なせたくないと強く思っているパトリシア。

 対して我らがために汗水流す皇帝を想う国民として、指を絡めて背中を合わす友人として、拾ってくれた姉のようで母のようでもあるパトリシアと、その朋友である武麟にばかり背負わせたくないランカ。

 正義。主張。信条。
 主義。意志。心情。

 それらは、とても素手では、そして縦令武装しても折ること壊すこと能わぬ巨大な石柱のように強く堂々と聳え立つ。

 彼我の情念が静かにぶつかる戦争が繰り広げられる中、彼女らはふと気付いた。

 山ができていた。
 肉の山だ。

 一体、どれほどの死を積み重ねたのだろうか。
 ランカ達がいる場所の真反対に置かれていて、凄惨な肉塊はもう見えてはいない。見えてはいないのだが。

 ────濃厚で、酷い死臭。

 黒が入り混じった蒼炎が、チルドレン・ヴァンキッシャーを焦がし尽くした臭い。
 それは酷く臭くて、パトリシアから飛び降り、ランカは我慢出来ずについ吐いた。床に拳をつき、肉の焼け焦げた匂いを嗅ぎながら生暖い酸味と苦味のある液体をぼとりぼとりとこぼしていく。痺れる口内の肉を無視し、それはまだ出る、出る、出る。それを止めようとしても甲斐はなく。小さな背中が震えていた。
  生まれ落ちたばかりの仔鹿を思わせる頼りなさだった。

 すこし落ち着き、総体の力みが抜けていく。
 すると、すぐにまた下腹部から肋骨下部、胸に不快感は集まっていき、土の上の鯉のように背が激しく波打った。
 胃から食道、口を通り飛び出た吐瀉物は刺激臭を放つ。
 ランカはその自らの様を恥に思う。
 汚いものを見せたことは当然だが、自身の無力さが何より恥ずかしいし、気持ち悪くて仕方が無い。

 パトリシアは、肩にかけた小さなマントを外した。そしてランカの汚物で汚れた顎を持ち上げて引き寄せ、

「使いたまえよ、君」

 口元に優しく当てた。

「あ……。そんな! ご、べん……なさっ! うっ……!!」
「気にしなくていい。貴女の尊厳を守れるのだから、きっとマントも喜んでいることだろうさ」

 それに、

「それに、口元が荒れてしまってはその美しい顔を損なってしまいます。それはあまりに勿体ないじゃないか」

 では、土産話に期待していなさい。
 そう言って背を向け、歩いていくパトリシア。

 ────そんな、優しい声で言わないでよ……!

 涙で頬を濡らし、垂れ流す汚物のことなど忘れてパトリシアを見る。
 向かう先は血を流し、心做しか火が弱まった狼と、美醜の両面を備えたヴァンキッシャー。

「鶴院ランカ」

 振り向きもせず、パトリシアは言う。

「人は死にます。永訣は不可避にして不変、絶対の真理です。事実、朋友・・の多くは朽ち果てたのですから。だけど、ね。朋友が遺した思いは生き続ける……」

 そして、一説には、かの女神の最期の言葉は以下のこれだったとも言われています。

 その瞬間、そんなことを知るはずもないランカの口が何故か動いた。
 無意識の予測だったのかもしれない。

 いや、或いは運命もしくは必定か。

 ────君よ、情熱よ。永久トワにあれ!

「……っ! く、くか……は--、はっはっはっははは!! 何だァ、よぉくわかってるじゃあないか!」

 さて。少しヴァンキッシャーの情熱を見てくるさ。
 そう背中を向けて言ったパトリシア。もう顔も見えないのに、何故だろうか、ランカには笑っていた気がした。

 ジジジと音が鳴る。
 パトリシアの両足は黒い渦に輝き放つ赤光に包まれ、足元ではドリッピングのように血色の祷力エネルギーがぶちまけられている。黒い渦がゆっくりとした遅さで太股を包む。蛞蝓なめくじのようにじっくりと臀部を通る。そうして背中を介し金に輝く肩章に辿り着くと、今度は逆に燕のように速く指先までを覆い隠した。

 パチンッ!
 フィンガークラップをひとつ。すると、球状のエネルギーが広がっていった。
 それがパァンと破裂した。
 同時に、有り得ない量の祷力が放たれたと、全身が知覚した。先程、武麟が狼となったあたりや、治癒をしたときでもそうだったのだが、今回のはそれをはるかに上回る。

「す……ご、い……」

 稚拙な表現だが、ランカにはそれが最適と思えた。
 簡単に、しかし深い響きを持つ言葉を紡ぐと、ランカは意識をふっと手放した。


 目指すべき者が、そのとき瞼に焼き付いたのであった。



 ◇



 ランカ、私は呪いのようなものだ。

 どうか憧れてくれるな。


 そう呟いたのは誰だったか。



 からからと笑う声が武麟の耳に届いた。
 その女は、先ほどのような軍服に似た制服ではなく、京不知夜海軍の礼装を着ていた。笑い声は、やはり顔には不遜さを滲ませて歩く女のものだった。

「武麟、安武麟! 余が来たぞ!」

 その女が髪を後ろへと掻き揚げて、巨狼に話しかける。

「しかし、なァ、おい。異形の皇帝たる余のために、レッドカーペットでも敷くものはおらぬのかねェ?」
「ル、る、ウぅ……!」
「ああそうか。そうかそうか、そうだったな! はっははっ!」

 女--パトリシアと、巨狼の武麟は念話で会話する。

「《改めて……マザーについて、何かわかったか?》」
「《わからん! ……ただ、人間じゃないかとも思う》」

 やはりと呟くパトリシアに、武麟は続ける。

「《それに一通り殲滅したはずのチルドレンがうじゃうじゃと出てくるんだほらよっ!》」

 自己という隣人アルター・エゴとの同化による弊害だろうか、普段よりも声が高く、また低くと安定しない。
 そんな不安定な武麟の声であったが、その声からパトリシアは、武麟は確かに焦りと苛立ち、そして恐怖を内心抱えていると察知した。
 様々な絵の具を混ぜて黒色になった、そのような武麟の声を聞いたパトリシアはと言えば。

「余はそれが欲しいのだが……」

 くつくつと笑い、武麟の見据えている方向に合わせて目を向ける。
 ちょうど、マザーの身体を裂いてチルドレンが生まれてきているところだった。

「ほう? ……それで、次は何を見せてくれるのかね?」

 水滴の近くに別にもうひとつ滴を落とすと、それらが合わさり一つの大きな粒になるあの瞬間のように、マザーの身体もまた瞬間的に再生した。

「……素質はアリ、か」

「《おおう。これはキツいね……ああ、体感的にはこれこの通り、無限》」
「《無限・・、か……》」

 興味なさげに返したパトリシア。
 いや、その低い声には若干の不満が見え隠れしていた。しまった、表現を誤ったかと考えた武麟はまず、ああ、と前置きの言葉替わりに応答語を用いる。

「《……無限とか、それはありえないだろうと思っても、でも実際そう感じさせるほどの再生力だろ。それにアレさ、最悪のロケット砲だ。何せ祷力エネルギーを錬丹術や錬金術の応用で非祷力の科学兵器に変えてるし--》」

 --砲弾は多分、あんたの祷力さね。

「《────解析した》」

 はあと深く息を吐く。
 室内の二酸化炭素濃度がドンッと、跳ね上がっているなこりゃあ。武麟がそう思うほどに深いため息だった。

「《あの娘は、確かに元人間である。試しに精神を乗っ取ってみたが、どこにでもあり、どこにも存在すべきでない悲劇を見たよ。……ああ、砲弾に関してだが、そのようであるな……》」

 迷惑をかけてしまったな。

「《ん、気にすんな。────んで、今のあたしはあんたから祷力を借りているだろう。体内蓄積可能祷力量の限界まで入れさせて貰ってて、それで余剰分は空間に流して後で使おうとしていた……》」
「《それをマザーが噴進砲にして使用。厄介だが……いやなるほど、なかなかにやるな……》」
「《今までのヴァンキッシャーとどこか、いや、遥かに違う。祷力を吸収できる半ヴァンキッシャーなら京不知夜ここにも沢山いるが、元人間ヴァンキッシャー自体は珍しいな。その上、変換するまでがあまりに速い……速すぎるくらいだ……》」

 とにかく、

「《とにかく、それはカルディアによるものかもしれないが、所詮は警戒すべき不明の一に変わりはない》」
「《確かにな。ならば……》」
「《なれば--、今暫くは首断ちに専念だ。私はサポートにまわろう》」

 余裕があれば転入生としてスカウトするさ。
 対して武麟は、

「《お前本気出すなよ? 絶対だぞ? 艦どころか雲上海ごとブチ抜いちまうし》」
「君が言うかね? ……ああ、そうか、《君が言うかね?》」

 それよりも、今のはフリかね?
 戯けて聞き返すパトリシア。

「《いや、フリじゃねぇから!? ……あと、了解ってな!》」

 それを聞いたパトリシアは、馬大頭に捩じ切らせた鉄パイプを受け取る。
 その鉄パイプに、

「ん……んぅ……」

 キスをした。
 舌を絡めるような、アツい口付けだった。
 両太腿で挟まれ腹筋に沿い、さらに胸の谷間を通っている鉄パイプは、--次の瞬間打ち鳴らす桴となった。
 右手で持って叩きつけ、跳ね返ったそれを今度は左手で持って叩きつけて、次は右次は左と繰り返す。
 金属が打って打たれてこの戦場を奏でる。

 悲鳴、まさにそれである。

 U字に折れ曲がり、両端が鈎爪のように欠けたパイプを放り捨てた。

 とぷん。
 そんな音がマザーの耳に届いた。見れば緑の髪の女--パトリシアは、なんと自身の親指で左の頬肉を貫いていた。
 そのま残りの四指でゆっくり、ゆっくりと。

 ────ははははッ……!

 大笑いしながらも、その右手は頬を筋繊維から懇切丁寧に剥がしていく。
 そうして剥ぎ取ったそれを見て、シュルルルルッと、蛇のように舌を鳴らした彼女。

 ぬちゃ、ぬちゃ。

 両膝を突いて座り、そのまま。

『……っ!?』

 ヴァンキッシャーは、見た。
 まるで、飢え苦しむ子どもが一心不乱に食物に齧り付くようにして食べる、悍ましいその姿を。
 泥濘を足裏で叩くような、もしくは邪鬼が瑞々しい人肉にでもありついたような。そんな誰もが不快に思える音を立てて、パトリシアはただ食む。露出したその歯は血濡れていて、それらの赤い歯の隙間から唾液と血液が混ざった何かを時折垂れ流し、只管に喰らう。
 食べ終えた彼女は、手の甲で剥き出しの歯を拭き、次いで。

『────、────!!』

 張り巡らされた全神経が、身の端に行き渡る血が凍ってしまうような。
 そんな歪んだ笑みを、にっかりと口が裂けるほどの笑みを浮かべたパトリシア。
 むしろこの狂気こそが本性なのかもしれないと、見る者は武麟も含めた皆が思った。
 今まで警戒していたために近寄れなかった者、武麟を追い掛ける者。
 絶句し立ち尽くしていた全てのヴァンキッシャーは、脳内に浮かぶ選択肢からそれを選びとった。

 ────アレを、一刻も早く殺す!

 団結あるいは統合された意思と言える判断だ。

「あ、ああぁあ……ガァ────!!」

 そこでハイヒールで地面を叩くような音。それを叫び声に従わせて走るマザーを見て、接近戦を仕掛けるのだろうと理解したのか。チルドレンは散り、パトリシアを囲むことにしたらしい。

 パトリシアとマザーがぶつかるまで、残り10メートルを切った。

 残り8メートル、7メートル、6メートル。

 そして5メートルを切る。

 ついには4メートル。
 その地点でパトリシアが消えた。

 どこだ! どこに消えた!

 まるでそう叫んでいるかのようなヴァンキッシャー達。その中で一際大きな声を張り上げていたマザーは突如腹部に、もっと言えば胎に激痛を感じた。

 鬼さんアチラ冥府の方へ、ってね。

 声が、愉快そうに戯れる声が聞こえた。

「まあ、こちらに来てくれても構わないのだが」

 温度を感じさせない笑顔で言う女がとった行動は、一見すると簡単なものであった。
 マザー・ヴァンキッシャーの下を通り抜け、多連装ロケット砲と背部の間に潜り込み、そうやってパイプを突き刺したのだ。その際には、重力制御で紙切れ一枚よりもはるかに軽くなったり、敵意識拡散などで意識を逸らしたりしたので、実はこの行動、複雑であったとも言えるだろう。

 胎から床へと突き刺された鉄は酷く熱く、また松毬や魚鱗、或いは鋸のような造形をしていたのだろう。少し動くだけで掻き毟りたくなるような苦痛が体内で暴れる。

 ────痛い、痒い、痛い。痛い。痒い。痛い痒い痛い痒い痛い痒い痛い痒い痛い痒い痛い痒い痛い痒い痛い痒い痛い痒い痛い痛い痛い……!

 暴れのたうち回っていると、その苦痛から解放された。

 同時に、ボドリと。

 腹が裂けてズタズタとなった子宮を落としたのだ。

 この一瞬でこの攻撃、一体どうやって。
 そう考えるが、

 違う! それはドウデモ良い。それよりも私の子どもたちが……!

 手段などよりも、マザーにとってはそちらの方が重要重大なのだ。
 胎内で眠っていた子どもたちは無事起動したが、もうこれ以上新たに子を作れなくなったということを悟り、マザーは悲痛な顔を浮かべて叫ぶ。
 それにより始まったのが捨て身の猛攻だ。

 しかしここまで読みどおりなのだろう。
 潜む武麟は、パトリシアを見てそう考え、

 ────違う。

 それもまた否定した。
 この状況にパトリシアが誘導したのだと。

 地面に転がった子宮を見ても、パトリシアは特に表情を変えず、サーカスで戯けるピエロのような若気顔のままだった。
 ジグザグと、しかし軽やかで滑らかに移動するパトリシアを追い、マザーは血が上ったのだろう。特攻じみた突進を多連装ロケットランチャーの射出とともに只管繰り出すだけとなった。忽ちに世界を火と煙と金属片で覆う。
 そうやって鋭い切り返しをするパトリシアを追おうとするが、それら全てをすんでのところで躱される。

 それは高速化していき、残像が見え始めた頃だった。

「グッ! ガ……ガ……ガァッ!?」

 ぐりん、と足首が言う事を聞かず、ついに自重を支えきれなくなったために体勢を崩した。

「《────武麟》」
「《もう少し仰け反らしてくれ!》」

 それを聞き、パトリシアは、

「しゃぁッ……」

 チルドレンは状況が最悪のため、手を拱いているばかりだった。
 それを横目で見て、全身を一個の鞭のようにして繰り出すエアリアルキック。マザーの顎はぶちぶちっとの音を立て、ついには今にも剥がれ落ちそうなポスターが強風に煽られ飛んでいってしまったかのように、彼方へ消えていった。

「《さんきゅ、いけるともよッ!》」

 パトリシアは、その返答が届いた頃には既に拘束術式によるチルドレンの無力化という行動に移っていた。
 マザーがおお、おおおっと、激痛に堪えきれず叫び背を反らしたのはワンテンポ遅れてからであった。そこに、天井に張り付いていた武麟が、獣人化し機動力に賭けた姿で背中側に飛び乗る。そして背中を引き裂き、肩甲骨付近から折れたために飛び出た肋骨を、表皮に沿うように調整した膝蹴りで抉り切る。

「ぎギ、がァあああああああ……!?」

 パァッと鳴ると、光輪は消え果てた。だからと言って脅威がなくなるわけではない。それからも武麟は背中を一心不乱に殴り、或いは蹴り続ける。
 青ざめた白のパレットに薄葡萄、躑躅、鴇、朱殷、茜が置かれていき、そして。

「ガぁッ……!?」

 斑点と斑点が繋がっていき全体が赤黒くなった背中。
 やがて背骨が腹部から飛び出て、逆くの字に折れ曲がって俯せに倒れかける。それと同時に武麟は腹から顔を見せる骨を回し蹴りで収めて、くの字にする。
 そのまま俯せに倒れ伏したマザー。
 そこで武麟は、左頬から右頬へと腕を回して、ただきつく締上げる。
 ミシミシと、罅割れた頬から破砕音を鳴らしてどこか喘ぎ声に近い声を上げるマザー。熱い金属の床に額でキスしながらも、最後の力で振り落とそうとする。
 だが、

「喰ゥゥラァ……エェェェェェ!!」

 それ以上に、顔面をきつく絞り上げている武麟が圧倒的に強かった。

「ガ、うウンぐ、ガあァァァァッ……!?」

 頬が完全に砕けて、罅が顔中を巡り巡るヴァンキッシャーは、しかしなおも抵抗を続ける。

 そこへ、

「君、そのままで話を聞いてくれないか?」

 薄ら笑いを浮かべるパトリシアは、マザーの目の前に立ってそう言った。
 それに合わせて武麟がフェイスロックを止めて、消える。

 いい娘だ。
 そう言って目線を合わせようと近づいた。

 その時だった。

 とぷんと、パトリシアの胸の谷間をマザーの脚が貫いたのだ。
 パトリシアはそのまま蹌踉めき、後ろ向きに倒れる。ということはなかった。

 マザーが胸を突いた、その瞬間。
 木の板をガンガンガンと、金槌で力一杯に殴っているかのような音が連続的に鳴り響き始めた。打つ金属音。それは、まるで誘蛾灯に魅せられた蛾のように、チルドレンの放つ弾丸がパトリシアの元へと飛来することで鳴った戦争音楽だったのだ。
 チルドレンに合わせてマザーも攻撃を続ける。
 多連装噴進砲は煙の世界を創り、悪逆の光弾はその煙を一所に留める。

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 --
 -

 3分が過ぎた。


 穴があき、ボロボロの手袋のようにされた何か。
 後頭部から目を貫かれ、頭蓋が砕かれ脳と脳漿を零すなにか。
 肋骨が花のように開き、中の臓物を熱された床の上に置いて焼くナニカ。

 そこに残ったものは、生臭い死体だった。

 ────奴は素晴らしいエネルギー塊だった。なら食ってしまおう。

 そう考えて、マザーは不用意に--近づいてしまった。

 コツン……。
 間抜けな音がマザーの額に物が突きつけられることで鳴った。
 それは一体何なのか、いつの間にこの女は--、再生しているのだろうか。
 眼前で、2倍速の逆再生のように少しずつ元の場所に戻っていくパトリシアの破片をぼうと見るマザーの脳内では、山積する疑問の処理で機能が停止しかけていた。

 心臓が大動脈を伸ばし、そうして欠損部分を回収する。
 腸が這いつくばり胃を探す。
 遠くに飛来していた骨の類は、カタカタぐちょぐちょと音を鳴らして、筋肉塊の中へと身を埋めていく。

 見るも悍ましい光景。
 正気の沙汰から放り投げられたような気分を、正気の沙汰の外にいたはずのマザーが味わっている。

 ついに、

「よシ、モンだイは--ないようだな」

 立ち上がった。
 胸や頬、そして服までもが修繕された状態でパトリシアは笑っている。ただ、髪はロングの青みがかった白金色・・・・・・・・・になっていたという違いはあるが。

 ────此奴は……いや貴方様こそ、もしや……!!

 マザーの目は、もといヴァンキッシャー達の目は見開かれていく。
 思考したことについて否定したかったがために。同時に、思考したことについて、正しくあってほしいと懇願したがために。

「勝利を求める執念、機会と見るや踏み出す勇ましさは、いや、実に素晴らしい。……ああ、素晴らしくはあるが、この余の話は何も彼もを放棄してでも聞くべきであるが?」

 唇を舌でなぞり、雪より白い手の甲を見せるようにして髪を耳にかける。
 そうして身だしなみを整えると、這い蹲るマザーのもとに身を寄せて、椅子を召喚して座った。そのまま隣で這い蹲う壊れたマザーの抉れた頬を持ち上げ、顔に近寄せる。パトリシアはマザーの額に彼女の額をコツンと合わせた。

「君は、そうだな……『化粧をして最低限の品とテーブルマナーを身につけたような、まるで粋がる田舎者』のようだ。君を形作る多大な量の栄養が、このように大きく成長させたのかもしれないが、しかし--」

 --ああ無駄さ、何もかもが。ああ見窄らしいな、何もかもが。

「よく思考するための脳に育っていないのだから。……おお、おお、そうか! そうだ! 痛い目に遭えば、例えば頭にでもドデカい穴でも開ければ風通しは良くなって、頭の回転或いは耳の聞こえが良くなるかもしれないなあ」

 いつの間にかパトリシアは、マザーの蟀谷こめかみに拳銃を突き付けていた。
 その引き金を、引いた。


 マザーは目を瞑った。

 だが、待てど暮らせど痛みが来ない。
 迎えたいなどという思いはないが、目を開きたい。開けば楽園か地獄か何かがそこにある。願わくは、楽園にいますように。そう希ったのだ。

 白い金属の床と壁。
 眩しい照明。
 かつて自分がいたスラム街とは違い、恐怖心や持ち主の狂気すら感じる潔癖の部屋。

 ────ここは、自分が送られてきた場所だ。

 そう思い、ふと気付く。
 倒れ伏していた自分が、直立していると。この身が、部屋が一切合切の傷を失っていると。

 目線を少し下げてみると、影のような椅子に座っていた女がいた。

 一切の表情を浮かべぬ女は銃を構えている。
 そして、それは自身の額から遠く離れたところで発射された。銃口の向く先に、マザーの頭があった。

 パンと銃らしい音が鳴る。そのときのマザーの心は、穏やかに凪いだ海のようだった。
 死出の旅に出るのかと、そう思った、もとい確信した。

 だが、その銃はマザーの脳髄をぶちまけるものではなかったのであった。

 撃たれたのは銃弾ではなく--、ただの紙吹雪であったのだ。
 そうして拳銃を、術式だろうか、原子レヴェルまでに分解して捨て、女は立ち上がる。それに合わせて椅子は夢のように消えた。

「多くの者が歓迎しようとしないこと……真実とは、一体何だろうか?」

 突然問うた。

 望ましくない真実ならば沢山見てきたと、マザーはパトリシアに目をやる。
 ふるふると首を振ると、惜しいとだけ応えた。

「正解は君が先程強く感じていたはずのもの……」

 ────怒り、か。

「……私か? 私はそれを詳細に知っている」

 本当だとも。
 そう言うと、パトリシアはくるりと回ってからからと笑った。マザーにはちょうどその顔は見えなかった。

「それはね、君……」

 すぅと息を吸う。
 そうして抱くようにして組んでいた腕を、今度は大きく広げて、言う。

「自分の胸の奥、或いは腹の底、或いは脳髄の果て……。そのどこかに発芽し、精神の平常を掻き乱し、揺さぶり乍ら蔦を伸ばす有毒のおそろしい植物だ」

 それは、こうも言い換えられる。

 言うと、続けるために深く息を吸いて吐いて、そうやって。

「……まるで……あぁ溶岩だ猛烈な勢いでッ! ……噴き出し、頬を伝う涙さえも蒸発させ、かんばせはだえを焼き尽くし、ついには我々、或いは彼ら彼女らの愛しく思うよすがすらも灰にする……」

 荒々しく、しかし最後に弱々しく呟き。
 すると彼女は先程刺した鉄パイプを引き抜き、兇暴な化け物と言い表せる目で続けていく。

「怒りに巻きつかれたものは、暗い水底で届かぬであろう日の光を求めて瞳を見開く」

 無意味だ。

「歯が砕けて血肉が混ざり合うほど食いしばり、溢れる血を味わい、ついには自分の肉を喜び勇んで食らう……」

 無価値だとも。

 すうっと背を反らして大きく息を吸い、そして吐いて腕を振り上げる。
 瞬間、限りなくノイズに近づいた、叩きつける音が響いた。
 パイプを叩きつけたときのそれだった。

「ふ、はははっ……」

 パイプを捻じ曲げると、大きく振りかぶって投げ捨て、そうして今度は呵呵と哄笑を漏らした。

 ────嗚呼、世界。世界よ! 私は、貴方が憎い! 憎い憎い、ただ憎いッ……!

 強く握りすぎたのだろう、指が深深と手のひらに突き刺さっていた。
 それらを、きゅぽんと一本、また一本と少しずつ抜いていくと、パトリシアはその場に座り込んだ。

「……………。『私は誰も憎んだことはない』などとは、私はこの世の誰にも言わせるつもりはありません」

 言うと、パトリシアの手前の空間に血を流す裂け目が突然現れた。
 裂け目に腕を突っ込むと、その血を流す裂け目は遠くにあるマザーの頬の横にも現れ、そこからパトリシアが挿入した腕が出てきた。

 空間を歪ませたのだ。

 そのまま、パトリシアはヴァンキッシャーの頬に手を当てる。
 空いている片手もまた、捻じ曲げられた空間により、マザーの腰を抱き寄せるように伸ばされた。

「これは、君に同情し、そのために言った言葉ではありません。私を構成する要素にそれがあるというだけです。それに君は、知っているでしょう? 世界は気まぐれで、残酷で、あまりに身勝手だということを。同時に貴女は醜く、残虐で非道です」

 ですが、

「ですが私は--私も、それにきっとオルテンシアも。貴女の持つ美醜も善悪も、全てを肯定します」

 ええ、ええ。肯定を、してしまうのです。

 それは、するりと口から流れ出たような言葉だった。
 それを聞いたヴァンキッシャーは顔を歪ませ--、大粒の涙を流し始めた。その身体は、水底の空気が泡となって浮かび上がっていくかのように光の粒を天へと散らしている。

 醜く歪んでいた顔はついに、ただどこにでもいるようなひとりの女性の、独りの母親の泣き顔と変わった。

 とぷんと血溜まりの如き裂け目を通ったパトリシア。
 マザーの前に出た時、その背には黒い大鷲の翼が羽ばたいていた。
 暗い赤の目を閉じたパトリシアは、抱き寄せたマザーの背をとんとんとする。それも、息子や娘にするような。どこか慣れているような振る舞いだ。

「これから貴女が向かう先……あの世界は限りなくこの世と似ていて、しかし限りなく程遠いところです。春風駘蕩たる日常とはいかないかもしれません。何せ一度死んでいるわけですから。ですが……今よりは良い世界ですよ」

 そうだ。
 マザーの体を引き離して肩に手を乗せたまま声を上げると、

「サルヴェ・ズィーバーという名を贈りましょう。私の地元の言葉なんですが〝美しき糸杉〟という意味です。貴女に似合う良い名だと、私はそう思うのです」

 そのまま額に接吻し、

「────サルヴェ・ズィーバー」

 パトリシアは皇帝でも艦長でもヴァンキッシャーの敵対者でもない、ただひとりの人間として彼女の名を呼んだ。

「『誰か鴉の雌雄を知らん』と、言います。専門分野とでもしていない限り、視界に映るカラスが雄であるか雌であるか判別するなど難しいですよね。それと同じで、善悪や人心、ものの道理や是非などの判定判別は非常に難しいのです。ですが……きっと、貴女が善であれ悪であれ、たとえその外にいたとしても、また他の何であろうと問題はないのです」

 だから、

「だから、おやすみなさい。良い時を……」

 ヴァンキッシャーのチルドレンがまず消滅し、次いで──サルヴェ・ズィーバーという名を得た女が笑顔のまま、パトリシアの胸の中で光となって消えた。



 ◇



「あー、腰骨ズレてる気がするー……」

 腰に手を当て、上体を右へ左へと振るパトリシア。

「メイド長にでも頼むか?」
「……利用可能かな? 昔、あーちゃんからもらったマッサージ券」

 そう来るかよ。
 笑う武麟は、しかし楽しげであった。

「ま、いいぞ」
「頑張れ! 全力出せぬ戦闘のあとで疲れてるだろうけど!」
解体バラされる方が疲れそうなもんだがなぁ……」

 呟く武麟に、肩入れをしながらパトリシアは答える。

「とりあえず帰ろーやー」
「そうだな」

『…………』

「ロック掛かってんじゃねコレ!?」
「ウケる。いや、ウケないわウケないわウケないわー!」










【今回の登場人物の好きな本のジャンル】
 鶴院ランカ……伝奇
 パトリシア・ガルベス・デ・ガンテ……エッセイ
 安武麟……旅行記
 エイブラムス・ヴァーン……言語学
 黒峯小春……バッドエンドもの

「ファンタジー」の人気作品

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