RIP!
I’ the Hope my Fatherland Lies
────青天。
今でこそ空は青いが、実はつい先程まで雨が降っていた。片手の五指で数え切れるほどの、ほんの僅か数分前に、暗く濁った灰の雲はなくなっていたのだ。今となっては、その清々しい青さに嫉みすら感じるほどの天、冷えた空気に包まれた涼しく明るい朝の空となっている。
過去のものとなってしまった豪雨だが、その篠突く雨のその様子は、まさに槍衾そのものであった。殴るような暴力的な雨は、木々を激しく揺さぶる雨は、地球の陸土に脆みを孕ませた。
誰にも知られず息の緒をすげて、そしてこれより誰にも知られず雲になる泡沫の川雉子は、その生の最後にと空を仰いだ。
まるで青のベルベットだ。
ベルベットには白銀の太陽ひとつと蒼白い片割れ月がふたつ輝き、それらを抱き締めるように綿花が置かれていた。
雲の下に浮かぶとある孤島。
名も無きその島には、同心円状に雌蛭木と岩が顔を出した湖〝祈願の海〟がある。
不吉ささえ感じるほど透明な水は、限りなく海水に近い塩分濃度の高さを誇る淡水だ。その濃度故に、『海』なのだ。限りなく海水に近く、しかしその他のことは不明。羊水にも近いとはある研究者の言。またその透明さ故に水底に輝くような白砂が見えているのだが、その湖の特徴は他にもある。
例えば、水面から幾つも顔を覗かせている黒い岩峰により、鳥瞰した際、揚羽蝶のような文様が見えるというものだ。ちなみにだが、祈願の海にある、通称『墓場』と呼ばれている蝶の目にあたる部分。此所は、古代に行われた世界規模の大戦争その終戦地であると伝えられている。
それともう一つ、先述の通りなのだが、透明度の異常なまでの高さだ。古代の聖像や兵器が砂に埋まっているのが、それらがはるか上空からでも見られるほどの透き通り具合だ。それらは揚羽蝶と共にはっきりと見えている。
祈願の海から塩海へ流れ出る水は、雨の影響を余り受けていないのだろうか。
大雨が降っていたにも関わらず、濁ることなく綺麗なままだ。いつものように澄んだ流れが、ただ勢い盛んな奔流となって塩海へ、外洋へと注いでいる。
蝶の翅の、その先に港や軍港があった。
輸送艇は行き来し、青みがかった黒の軍艦が磨かれ、兵士達は体を動かし汗を流していた。
丁度その上空。
夏の群青に模様を付ける白い雲には、幾つもの巨大な影が動いていた。
銀梅草のように優しげな白の海に浮かんで、それは宙の路を行く。ぼふっと、少しく間抜けな音を立てて雲海から現れたそれは──島だった。
黒く輝く十の護衛艦に囲まれた航空する島である。
中央に鎮座する島は太陽のように赫奕と燃える赤を基調としていて、十の護衛艦の艦首には名前代わりに国章を記していた。その国章は梅の花を図案化したものだ。
今の時代では唯一の航空島国家〝京不知夜〟は、今日も人口約八十万を抱えて空を泳ぐ。
◇
この世界は、大きく分けて三つの段階を経て今に至っている。
第一は『原初世界』。地球の発生、そしてそれと共に生まれた旧き神が発狂し、世界廃滅の意志を持つ化け物と成り下がり、大陸の九割以上が荒廃するまでの時代。
第二は『旧世界』。善悪を超越した破壊と創造の女帝オルテンシアの顕現と、その女帝オルテンシアのもと、世界が安定期に入るまでを一般に旧世界と呼ぶ。オルテンシアは女神なのではないかと言われることが多々あるのだが、それはこの顕現の際に、時期的に起こるはずがない皆既日食が起こったのだ。このことが女帝に神性を見出す原因の一つとなったと、専門家は分析する。
そして第三段階、歴史の記述が全くなく、長寿人類の口伝によってのみ知られることとなった空白の時代──通称、『崩壊時代』へと至る。
特に、『神の残り滓』と呼ばれる、生きとし生けるものに憑依する怪物の出現から、女帝、もとい人界最新の女神オルテンシアと娘である十一名の王による『神の残り滓』の浄化と殲滅。そしてオルテンシアら母娘の戦死などによる消滅までを、とくに『前期崩壊時代』と言う。またオルテンシアの消滅に際して魔法の消滅までもが起こった。
余談ではあるが、オルテンシアが消滅間際に述べた「それ以上やったのなら人でなしであると言われるまで、私はこの世界を護り続けてみせよう」との言葉は有名である。
その異形は女神オルテンシアの消滅とほぼ同時期に現れた。
異形--『ヴァンキッシャー』と呼ばれるモンスターだ。
その脅威の存在ヴァンキッシャーが猛威を振るう『後期崩壊時代』がついに始まった。人類は奮戦するも虚しく、ただいたずらに人口と生活可能領域を狭めるばかりであった。しかしヴァンキッシャーは、当然の事ながら破壊をやめない。暴戻の刃は鋭く、強く、重く。確実に人を傷つけ、確実に世界を荒廃させた。人類やその他生命体は加速度的に生息域を狭めていくことになった。
そしてある日。
人類は、ヴァンキッシャーは海洋から出現し、またその多くは飛行能力がないということに、漸く気づいた。その後の行動は迅速で、航空艦──方舟を造ることとなった。人類は多数の生命と共に乗り込み、空へと逃げることにしたのだ。
しかしヴァンキッシャーは、やはり手を止めない。
それどころか更に加速した。逃がすまい、全て滅ぼす。その意志のもと行動しているようだった。
その日。
幾億幾兆もの死が積み重ねられ、血の海は夏の熱気で濃密な刺激臭を放ち始めていた日、──女神オルテンシアが方舟の船首に立って再臨したのだ。
しかし、その姿は生ける神と称されていたときとは全く違っていた。
十四対の濡鴉の翼も、不死鳥の如き尾もないただの人間という脆弱な身であったのだ。
ほっそりとしていて優美な貴人とも見えるその様。とてもじゃないが敵を倒すような力を持っているようには見えなかった。
それでも毅然とオルテンシアは一言、陸土を捨てて天へと生活を移すよう告げた。そして船首から野原を、山を、川を、海を覆い尽くす『ヴァンキッシャー』のいる地上へと飛び降りた。
ある長寿族の少年がその飛び降りる前に問うた。『偉大なりし女帝、太陽すら恋焦がす女神オルテンシア様。嗚呼、貴女様はどうして私どもを助けるのですか』と。女帝オルテンシアはそれに答えたとされるが、崩壊時代以前の記録もあまり残っていない現状では、様々な説がある。
ただ、雷鳴の如く駆け抜け、誰よりも多く血を流して独りで三年数ヶ月もの時間を稼いだという事実だけはすべてに共通して残っている。ある伝記の一部を引用する。
────三ヶ月が過ぎた
弓を引き矢を放って射貫く
六千万を斃した
────六ヶ月が過ぎた
矢を使い切れば 弓を棒術のようにして扱う
一億一千万を斃した
────九ヶ月が過ぎた
弓が壊れれば弦で首を捩じ切り また腰に佩く剣を握り 踏み込む
一億七千万を斃した
────一年と六ヶ月が過ぎた
弦が切れたなら 剣が折れたなら盾で殴り そして盾を砕かれれば拳を打ち込む
二億八千万を斃した
────三年目を迎えた
拳が壊れたなら 腕をもがれたなら 歯が折れることすら意に介さず喰らいつく
三億三千万を斃した
────その日 太陽は沈んだ
────その日 新たな太陽を天は戴いた
脚を切り落とされても地虫のように這って戦う。
方舟に乗っていた者達は、女神のその闘争を見て拳を力強く握った。
隣の彼を見た。
隣の彼女を見た。
彼も彼女も、また別の彼と彼女を見て、覚悟を伝播させていった。
そして、既に頭部と胸部のみとなった女神オルテンシアのもとへ駆けつけ、ともに戦った。
方舟の操作を担当していた大人も飛び出して戦いに行った。
血を流し 血を飲み 肉を断たれ 肉を断ち。
方舟が地を離れて暫くすると、女帝オルテンシアが再臨した場所は文字通りの血の海となっていた。この場所こそが後の、『名も無き島』、そして『祈りの海』である。女神オルテンシアの最期は、帝王であり傾国の美女であり絶対者であり、そしてなによりもまさしく戦士だった。戦い尽くして、若い命を守ってこの世界から去ったのだから。
以上が、世界最新の女神の最期である。
実は、女神オルテンシアはその凄惨な最期を迎える前に、自身の命を代償に数種類の魔法を行使していた。
その一つは、地球上の全大陸を世界樹で持ち上げ、それにより海から生まれ地上を跋扈するヴァンキッシャーを監禁するというものだ。つまり、旧世界以前の大陸は現在で言う樹上大陸にあたる。方舟で逃れた後、そこに居を構えよということだろうともされている。また新しく発生した土や岩の隆起などでできた大陸、ヴァンキッシャーがいるそこを樹下大陸と呼ぶのは、樹上大陸との対となる関係が故だ。
もう一つは、世界の理を捻じ曲げ、滅び消えたはずの魔法とよく似た力--〝祷力〟なるものを創造するというものであった。謂わば新世界の最低基準の秩序を定めたとも言える。
その後女帝オルテンシア、女神オルテンシアと扱われるようになった。伝説では、現在、祈願の海に生い茂っている数多の雌蛭木へと身を変えたと言われている。
一万年前、こうして『後期崩壊時代』は終了した。
方舟の艦長以下一般人までもが皆子どもだったが、彼ら彼女らは協力して版図をわずかながらだが回復した。ある山を霊峰と定め、そこを拠点にして方舟を増やし、一航空艦を事実上の国家とする時代を始めた。
これが『現世界』のはじまり、新人類史の古代である。
現在ではヴァンキッシャーをただ只管に斃すことのみを目的とする国際機関『VENDETTA』の発足により……。
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「────の発足により、人類はさらに版図を回復しつつあります。えと、資料集で言うところのー……」
背が低く、少女的な容姿をした丸眼鏡が似合う尖った耳の女性が、彼女の胴ほどの大きな資料集をパラパラとする。
今は火曜日の午後2時3分、この高等部の教室で行われている3年1組の五時限目の授業は『基礎神話学』だ。授業内容、試験は実に簡単で、この国〝京不知夜〟では単位を楽に取れる科目として有名だ。また、小等部中等部の間に難度の高い授業を受けるという気風のため、高等部になってこんな簡単な授業を取っていてもおかしくはなかった。それに、オルテンシア研究は毎年進歩を見せる。その為、何度でも受けることができる科目となった。故に、できるだけ卒業間際に受けておこうという者が多いのも事実だ。
ホワイトボードの左半分には簡単な世界地図と矢印が数本、右半分には箇条書きで説明文が書かれている。
彼女の名はマルケサシュ・バッガム。
最近京不知夜の同盟国から移ってきたので、この京不知夜所属中等学校兼高等大学院の教職員としては新入りと言える。ニックネームはまっちゃん。年齢は──ギリギリで──二桁の、キツい酒とシジミの甘辛煮が好きな才媛。
その困っているマルケサシュに、彼女と同じ部屋に住まうある女子生徒が、資料集をぶん回しながら救い船を出した。
「83ページですよん」
「ん。そう……ですね。はい右下の方ですね。ありがとうございますパッティー」
パッティーとあだ名で呼ばれた少女、パトリシアはにかっと笑った。
全寮制の学院である京不知夜学院では通常、室数が不足することなどない。
ないのだが、VENDETTAに属する国家としては上位に位置する此處京不知夜は、毎年同盟国間における生徒や教職員の渡来、例えば転校・転勤、或いは移住──多くの場合は永住のみ可能──などが非常に多い。
特に今年は例年よりも渡来者数が多く、莫大と表現しても良いほどであった。スペイン、ポルトガル、チュニジアが特に多く、これら三カ国で京不知夜人口全体の何と三割を占めるようになったくらいだ。そのため室数が珍しくも不足し、一人一室の原則が此度書き直された。その影響をモロに受けた教師マルケサシュは彼女パトリシアの部屋に住まうことになったのだ。
マルケサシュは素直にパトリシアにお礼を言う。
パトリシアは「お礼なんて良いよー」と言おうとしたが、言葉は続かなかった。他でもないマルケサシュによって断たれたのだ。
「ただ────、どうして御抹茶を点てているのです!?」
『今更かよッ!』
「別にオールコレクトぅっしょー」
『全然オールコレクトぅじゃねぇよッ!』
両者ともに教室内のほぼ全員に突っ込まれていた。
「んにゃああぁぁ……ああぁもおおぉぉっ!!」
マルケサシュは両手でわしわしと髪をかきあげながら叫び、糸が切れた人形のように腕をだらんとした。その際に教卓に思いっきり腕をぶつけていた。痛そう、ただひたすらに痛そうだった。ガンとぶつかる音を聞いただけなのに、こちらまで痺れそうなほどだった。
「んっ!? くくくぉぉっほい!! 堪えたぞ私は……! はぁぁぁ、ビリビリする……。えぇっと、83ページ右下にある写真を見てください。左から順に粘土板、パピルス紙、和紙、魔力板、自動人形の脳チップ。あと信憑性に欠けますが、女帝オルテンシアの宝具である左義手に埋め込まれていたとされる竜の心---」
────キーンコーンカーンコーン……。
本来であれば「---臓の、なんと木乃伊……とのことです」と続きを言うのだが、しかし、授業終了のチャイムのために中断した。京不知夜は時間厳守をモットーとしているのだ。京不知夜陸海空軍の教育でもそうだが、時間厳守を本当に大事にしているのだ。宣伝省の大臣曰く、時間を守れない奴が自分の命を護れるかとのことらしい。
「はあぁぁーこれで授業を終わります学級委員よろしくお願いしますねはぁ……」
マルケサシュはこの授業時間に何度吐いたかわからないため息を、自然な流れでまた吐いた。もはやその道のプロフェッショナルだと言えるほどに、ごく自然に。
基本的には皆授業を真面目に──個々人で真面目の表現に差は多少なりともあるのだが、皆授業は真面目に受けている。別言すれば、授業を受ける生徒の中には不真面目な生徒もいるわけで。
パッティーはまぁ天才、いや天災だから。
そう脳内、あるいは心中で呟いたマルケサシュは、とりあえず、という感覚で学級委員の名を呼んだ。それに、はい、と言って黒髪と黒縁メガネの細身の生徒、グンドバルプという名の少年が応答した。
「起立。気をつけー……。礼っ。したー」
彼のその容姿に反し、やる気なさげ、若しくは軽薄だと印象を与える挨拶を聞き終えるや否や、マルケサシュは「あぁ、そうそう。鶴院さんは放課後に職員室来てくださいね」と淡々と述べた。
名前を呼ばれた彼女--、鶴院ランカは青ざめた顔をしていた。心当たりが多くありすぎたのだ。
教室中の注目がランカに集まった。
その小柄な背中は冷や汗で湿った。
男女ともに人気のあるパトリシアに、ランカはこっそりは目を向ける。が、彼女がランカの方を向いていないとわかり安心した。クラスどころか学校、そして国家の長である彼女に白眼視されるということは、京不知夜での居住が困難になることを示すのだから。
居心地の悪さという意味で困難になるという意味である。
いやいや十年来の関係だよ? 同じ釜の飯を食べた仲だよ? 『孤児院時代は』っていう注釈つくけども、それでも国外追放は……。
そこまで考えて、
────とにかく。
そう心の中でつぶやき、掻き乱された心を整えた。そして、
「なんでですか!?」
必死の形相で彼女は問うた。それも、割と必死な顔つきでだ。
そうして問うたのだが、教室内で罪状をつらつらと読み上げられ無事死亡した。詳しく言うと授業中に描いていた漫画の内容をさらされたり、加えてテロリズム的に様々な場所に設置してある、女神オルタンシア女神像の胸とか尻とかを人目を忍んで触りまくっていたりしたことである。男子生徒は「わかる」と心底同情した目を向け、女子生徒は「後半はわかるわ。うん、後半は割と……」と生あたたかい目を向け唇を苦笑いに歪ませていた。
────仕方ないでしょ! 揉みたいんだもの!
ランカは、叫びたかった。
ちなみにパトリシアが他者を白眼視するようなことなど、実際にはない。余計な心配だったということだ。
◇
午後5時45分。八限目の授業を終えて、ランカは日直の仕事である教室清掃をしていた。気づけば、もうこんな時間になっていたのだった。
今はマルケサシュ教諭のいる、この西棟とは真反対にある東棟第四ノ二職員室に向かっている最中だ。
パトリシアと、である。
彼女は所属する文芸部に行かず、教室に残っていた。その際に理由を問うと『まっちゃんに呼ばれちったーん』と。
では行かなくて良いのかと、ランカがさらに問うと、『ランカ氏と来いやぁ、だってさ。あ、掃除手伝うよん』と。それでランカは掃除を手伝ってもらったのだが。
────やはりパトリシアがいると違う。
そう思わざるを得なかった。作業効率が、ランカの気持ちの上では10倍になったのだ。
『というか速度、質ともに10倍だったネ』
そう後に、白目で語るのは鶴院ランカさんだ。
さて、そのランカは、渡り廊下を歩きながら憧れのパッティーに質問しまくっていた。
「今度の遠征試験、パッティーは誰と組むの?」
「んー……え? あー、もうそんな時期か……。いつだっけ?」
「え……。明後日、だよ」
マジかー。そう呟くパトリシア。『その反応って、つまり忘れていたってことか。むしろこっちがマジかーって、そう言いたい』と、ランカは苦笑した。
「今回も私だけ試験内容変わるんじゃない? ほら私ってさ、艦長に生徒会長とかの他に皇帝も兼ねてるし……」
通常、一般生徒の試験は3種類ある。
ひとつは基本的に論述での解答が殆どの学力検査。学習能力の高さや具合を調べるための試験であるので、所謂応用問題というのが多い。
二つ目は対ヴァンキッシャーを考慮した模擬戦闘だ。形を模したマシーンや、人形に憑依術を行使して教師陣が操るというものが相手だ。
三つ目は体力テスト。地味ではあるが、いずれヴァンキッシャーとの実戦に投入されることを考えると最も重要な試験であるとの評価を下せる。
これを二ヶ月ごとに行うのだが、しかしパトリシアの試験はそれらの上位互換だ。
例えば『140キロメートル走タイムアタック』など。さらに他にも沢山あるのだが、詳しく知っているのはごく一部だけであり、生徒はと言えばパトリシアが零した情報以外を知っていない。
一般生徒としては、大変だな程度の認識であり、詳しく知ろうとする者あまり居ない。
冷たい言い方だが、パトリシアが既に桁外れな存在であることなど、とうの昔に知っているのだから。
ランカもそのひとりだ。
「んー……そうなのかなー?」
なのでつい適当に返してしまった。
言ってから、申し訳なく思ったランカ。やってしまったと深く後悔している、そんな表情のランカに対し、パトリシアはランカの頭を優しく撫でて、それから数度ぷにぷにと頬をつついた。
「ま、何も問題は無いけどネっと、到着ぅ!」
そのまま、「まっちゃん、今夜も一緒にお風呂入ろーよー!」と叫びながらパッティーは職員室に入っていった。
今、パトリシアはドアに触れてなかった。
では、何故、扉は開かれた。
疑問を抱いたランカ。
ふと、膕に突然水で濡れた冷たい指でなぞられたような不気味さを感じて、呼吸を忘れかけた。足はコンクリートに埋められたように重くなり、心臓には鉄製の鉤爪が食い込んでいる。そのような感触を得た。だというのに、何故かランカの頭は、寒さが少し緩んだ冬の晝に曇天を見上げたかのように冷静であった────或いは、思考できてないのか。
職員室は生徒だけでの立ち入りはルール上不可能となっている。
入室の際、誰も彼もが権限を取り上げられ、平等となる。それが艦長であろうとも、だ。
入室するには、声紋に指紋、虹彩などの生体認証を必ず受ける必要がある。そして許可が降りて漸く入室できるのだ。時間にして三分はかかるだろう。尤も緊急性を孕んだ状況に陥った場合はその限りではないが。
しかし、パトリシアは何もしていない。
全く何もしていなかった。少なくともランカにはそう映っていた。
熟考し始めたランカ。だが頭はよく回らず、視覚情報の処理さえ遅れていると、ランカは自身のことを他人のように見ていた。
そんな時に、ぐいっと。
「ほあっちゃ!?」
ランカは突然手を引っ張られて、クンフーじみた声を上げた。
所属するのは普通科で、所属クラブは帰宅部、検品アルバイターであるランカにとって、他人と触れ合う機会は非常に珍しく、また他の人に手を引っ張られるのは割と怖いことなのであった。しかしその手を引っ張っているのがパトリシアと気づいた時には、先ほどの恐怖を忘れて尻尾をぶんぶんと振っていた。実際には、尻尾などないのだが。
ランカとしては「わあい、柔肌わあい」と叫びたかったが、ギリギリのところで理性が慾望に対してサディスティックに轡をはめた。
「ヘイヘイ大丈夫かーい?」
「パッティー。何故彼女はこんなにゲスい顔で涎を垂れ流しているのです?」
実際、ランカの顔はひどいものだった。控えめに言ってヒドイ。
「理由はわかるけど、アレかな。言いたくはないかな」
「あっ……うんわかったよ……」
泰然自若のパッティーでさえ、笑っていない笑顔だったのだ。
普段は真っ赤な目が、今は仄暗い色をしていた。マルケサシュは顔を引き攣らせて返事をしていた。ランカとしても社会的地位を殺されるのは嫌なので、顔をいじって真顔に戻した────現実はどうあれ、少なくともランカ本人は戻すことができたつもりである。
「あの、お呼びでしょうか? まっちゃん先生」
ランカがキリッとして問うと、僅かに呆けた顔をしたマルケサシュは、頭をぶんぶんと振りひとつふたつ咳払いをし、こう言った。
「明後日のパッティーの試験に関わる話でね」
丸眼鏡が光った。
パトリシアはそれだけで内容が予測できたらしく、「椅子借りるねー」と言ってマルケサシュの隣に座って読書をし始めた。対してランカは理解できていない。頭上にはクエスチョンマークが林立してもはやアマゾンとなっていた。
「鶴院さんにはパッティーの試験について、如何程の知識を持っている? あとさパッティー、何読んでんのさ?」
「んも? 古代語ことわざ辞典ミニだよ。あとクッキーとお紅茶貰ってんよーい?」
「もう飲み食いしてんじゃねぇか……」
目の前で二人だけの空間ができていたが、ランカは気にせず記憶の海に潜る。
「あーっと……。誰にも知られていない、一部の先生達は知っている。ぐらいですかね?」
「他には?」
「高難度の試験で、独りで、とはよく聞きます。ハイ」
ランカがそう言うと、マルケサシュはむむんと悩み始めた。それを聞き、ランカに目をやったパトリシアは、「やっぱりその程度の認識だったかー」と。
マルケサシュは暫しの沈黙のあと、言い放った。
「よし鶴院さんをリーダーに据えることに関しては変わらず……と。良いね? パッティー」
「異論ないよー?」
「……はぇ?」
ランカは素っ頓狂な声を出した。
慮外のことであったのだ。
話の流れから察するに、パッティーの試験に自分が部隊長として参加するらしい。
────自分が。
鶴院ランカが。
────パッティーの。
生徒会長兼艦長兼皇帝の、朋友パトリシア・ガルベス・デ・ガンテの。
────部隊の。
部隊というのだから複数人いるのだろう。当然か。当然だな。うん。
────長……。
ヘッド、指導者、ボス、頭、親父ドノ。
「え」
「え?」
「えぇええぇぇぇぇ!!?」
職員室中、いや、東棟に響き渡った。
◇
日に焼けた赤髪のフェミニンボブを揺らす少女ーー鶴院ランカは、目の前の阿鼻叫喚を見て思考中であった。
その阿鼻叫喚地獄についてだが、具体的に言うとだ。
「あ、見てよこの娘! それなりには可愛い! しかも祷力防御壁を一日につき三度まで展開可能だってさ! あーちゃんに似合うよ割とっ!」
虫籠から取り出した、数え切れないほどいる蜈蚣を手に乗せてイイ笑顔を振り撒く友人と、
「あーちゃん言うな! あと割とかよ……って重たい痒い足いっぱいッぴひゃあああぁぁああぁ!?」
その友人のどうやら友人らしい女性、つまりランカにとっては知らない女性だが、その彼女がパトリシアの手から零れ落ちた蜈蚣数匹に全身を這われているという光景だ。
────どうして、こうなったのかとね!?
ランカは半泣きだった。
午後7時19分。
本来ならばこの時間、ランカは夕食を終えてヴァンキッシャーに関する勉強など、同室の者がいない彼女は、独りで過ごす悠々自適の時間を満喫しているはずだった────彼女の名誉のために記述するが、友人が全くいない訳では無い。
だが先ほどランカは、ある指示を受けた。
パトリシア・ガルベス・デ・ガンテの受ける試験を、その彼女を率いる部隊長として共に受験せよというものだ。その重責そのプレッシャー故に引き受けまいと抵抗したのだが、暫しの熟考タイムを経ると、尊敬するパッティーの舞台に入れるレアな機会に目が眩んで慾望に打ち負けた。
ランカは、自分の理性という名の轡が弱い件について、また強い轡の作り方について小一時間ほど自問自答したかった。
パトリシアの試験は最悪の場合、完全に星になる。シンプルな言い方をするなら、死ぬ。
そのことにランカが気づいたのは職員室を退室した後。
熟考タイムとはつまり、慾望願望希望を脳内或いは心中でただ復唱するためだけの時間でしかなかった、ということだ。パトリシアに抱きつきながら『パッティー、ワタシ、シヌカモォォゥン!?』と叫びながら言うと、『部隊構成員は私が決めるから安心安全だよー』と、彼女は明るい笑顔で返した。パトリシアはどこかズレていた。
後にR氏はこう語る。『胃痛薬を持っていて良かったと。何なら愛と胃痛薬だけが友達説、大いにある』と。
近くにあったベンチに座り、ランカとパトリシアはそれぞれレモンスカッシュとソルティライチを飲んでいたのだが、矢庭にパトリシアは首に提げていた石が付いたネックレスを外した。そして、「起動セヨ、起動セヨ」と言うと石部分が光り輝き、それに話しかけ始めた。
『あーちゃんカモン。場所は第四ノ二職員室前。んあ? 今夜? 近接戦闘訓練かえ? 私は後方支援の者デスヨ? ん、酷いなー。ファッション後方支援係とか……りょーかい、足腰プルプルのミニバンビちゃんにしてやるよ、ベッドで。……え? 違うって? 私のお父様に会いたいって、えー……もう、お莫迦さんめ! そろそろ切るねー』
『はるみん来て。ん。第四ノ二職員室前よん…………りょーかい、臓物マラソンね…………えー、馬型ヴァンキッシャーのー? あいつ足速いんだよねー…………そうだねー、蚊やらの羽虫の方が早く感じるわネー。ん、じゃあねー』
『お、エイちゃん早速だけど第四ノ二……うぬ? 宿題? とりあえず焼夷弾作っとけば良いんじゃないの? うん。そーそう。安全ピン抜いて投げて落下時の衝撃ボーンで……ん? それそれ。金属片或いは祷力を放散するタイプのはイイぞよ? はいはーい。で、第四ノ二職員室前に来てよー』
妖しい光を放つ石灰の色をした石は、「スイッチオフ! おやすみ!」とパトリシアに息を吹きかけられると、まるで夜闇のような黒となって光るのをやめた。そこだけペンキで塗られたように、表面の凹凸や丸みを全く認識できない黒さである。
「ヘイ?」
「今、連絡終えたから待っとこーか?」
呵呵と笑いながらパトリシアがそう言うと、ランカはいやいやそうではなくて、と問うた。
「それって、何なの?」
「それ? ……あー、これか? 見たまんま【ジュエル】って言うの。まあ私のはジュエルって言い乍ら宝石をベースとしちゃいないんだけどネ。ランカ氏たち一般生が使うスマートフォンに当たるものだね。試作段階だけどなかなか便利でね。んあ、それも買いに行くからねー」
ランカが「お、おうぅ……?」と気の抜けたコーラのような返事をし、その数分後。
先ほど連絡されたらしい三名が東棟第四ノ二職員室前に集まった。
そして今、
────そして今、購買に武装を買いに来た。はず……だよね?
何故、動物を見ているのだろうか。というか虫だ。うわーお、向こうにゃナナフシ。
思考が追いつかない。硬直した眉間をほぐし、耳の裏に流れる赤の髪を反時計回りにくるくると弄り、ランカはそしてため息をつく。
「ふ……やはり合成獣は浪漫……機械化されていたらなおヨロシいとヨロシ……」
────ぐるぐる眼鏡《ブルートゥス》、お前もか。
ランカの祈りは通じない。
それも当然、最高の皇帝として神格化されたオルテンシアにとっては専門外なのだから。抑々オルテンシアは神格化を望まなかった世界皇帝であるし、またランカは無神論者でもある為、祈りといっても適当なものであった。
────無情、無慈悲である。しかしそれもあるがままに受け入れましょう……。
悟りへの道に足を踏み入れかけた途端、肩に手が乗せられた。
振り返ると頬にムニッとその手の指が当たった。桃色の髪の、同じ年齢ほどに見える少女がいた。元は金髪だったらしく、所々綺麗な明度の高い黄金が見えた。
きっとこのピンクツインテール人はマトモ。ランカは願わずにはいられない。
しかし、
そんな切なる願いは、
「ランカちゃんは何派? パトリシアと武麟の蜈蚣派? それとも黒峯さんの合成獣派? そ・れ・と・も……まさかの大穴、蛆虫派閥でした感じ!?」
「アンタは何を言ってんだよおおおぉぉぉぉ?!」
光の速さで塵と化すのであった────。
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購買のおばさんに「五月蝿いぞ羽虫共! 今アタシが野球見てんだからだぁっとれアホ!」と怒鳴られ、そこで漸く冷静になったランカ達。
途中様々なことがあったが、今では気を取り直していたランカは、こう問うていた。
結局何しに来たの、と。
するとパトリシアは「武装、他消耗品等を買いに来たのだワン」と不遜な表情で腕を組んだ。ふんすっふんすっと。
────……いや、貴女犬苦手でしょう?
本当はそう突っ込みたかったのだが、そこで突っ込まないのはランカの優しさ。
自分のツッコミが、どこかずれてきている気がするからやめた、という訳でもあるのだが。
「そこでワタクシ、パトリシアはまず購買部の隅にィ! ん……つまり此処なんだけど。で、擬似生命創造科が定期的に行うモーション研究があるんだけどね。先日終わったんだけどそれはそれネ」
横にでも置いといてとの動きをするパトリシア。
すると、
「パッティー、明日の体育何!?」
隣のクラスの女子が飛び出てきた。
体育は合同で行うので、他人との交流が盛んとは言えないランカでも名前は分かる。獣とともに非人間社会で育ちました野生児ですというような容姿、天真爛漫や自由闊達と言った四字熟語が似合うとの印象を抱かせる笑顔八重歯。
そんな元気女子が大声で聞いてきた。人通りの多い通路であるにもかかわらず。
────確か、コムーネだったはず。
「んお? ハイジェン=ルドルフじゃん。騎馬戦と玉入れと対ヴァンキッシャー想定訓練を同時に行うっぽいよー」
「ありがとー!!」
全然違った。小胸は身体的特徴だった。
ハイジェン=ルドルフ・ザトウィーゲン・グリゲンジャビット。長すぎて小胸とランカは内心でそう呼んでいたのだ。
去りゆく小胸、もといハイジェン=ルドルフの背中を見てると、かなり臀部が大きく実っていることがわかった。
────窒息死が得意そう。
そんな益体もないこと考えていると、
「えっと、どこまで話したか……。あー、その際に活躍してくれた生命体【自己という隣人】と契約を結ぼうとしたのですブルヒヒィン」
真顔で説明するパトリシア。蜈蚣型の巨大生物を全身に這わすパトリシア。
しかし、なるほど。無駄な馬さ、もとい上手さだ。
だから「驢馬のつもりでしたニャン」とか聞こえないことにする。
────しかし……こうして見ると、本当に綺麗なんだよねー……。
例えば髪。
右前髪は少し長くあり、左はベリーショートのアシンメトリー。それぞれ緑がかった白金と紺色で色が異なっている。
例えば肌。
色素を忘れた、或いは人物画なのに人に色を塗り忘れてしまったかのような白さで、しかし青く浮き立つ血管が見えているというわけではないという雪肌。
例えば目。
狂気的に紅い瞳。さらには男性性をどこか感じさせる何かを、その蛾眉は持っていた。眉目間の距離が近いほどイケメンの法則を体現した皇帝。
黙っていれば本当に端麗な女帝パトリシアを、小さめに見積もっても目測1メートルはある蜈蚣が這っている。
────アリ、かも……。いやこの性癖はマズイだろぉッ!!
ランカは耐えた。
しかし『美女×蟲』というジャンルに一歩近づいてしまった自身の末路を思うと、ランカはマルケサシュのように呼吸を兼ねたため息を吐くしかなかった。
そこで冷たく、かつ穏やかな声がした。
「あたしはパトに呼ばれたから来たし、何の話か見当はつくが。そうだな。一応、一応話を聞かせてもらいたいんだが。って蜈蚣なんかよく頭に乗せられるよなパト……」
さらに「お前、ほんっっと蜈蚣とか馬大頭とか好きだよな……」と続けた声の主は、遠い目をしているランカの右隣の女だった。真っ赤で雑にまとめられた髪は、まるで肉食獣を思わせる。そんな彼女の声だったのだ。先程蜈蚣に全身をカサカサと這われ、またパトリシアから『あーちゃん』と呼ばれたいたのが彼女だ。
────てか見た目怖っ! デカっ!? 『あーちゃん』似合わなっ!
その感想も当然のもの。身長が154センチメートルのランカに対し、全身傷だらけの肉食性猛獣擬人化系彼女は188センチメートル。173センチメートルのパトリシアが可愛く見える。
────別に、可愛くは見えなかった……。
自身よりも身長は高く美麗だという点は変わらないので、結局のところ可愛くは見えなかった。
どちらにせよ私より19センチメートル以上は高いじゃないか。
そう変な笑いを、脳内で。
────あれ、そう考えると蜈蚣さんって小さいのか……も……? あー、それはないな、ウン。
無意識のうちに『さん』付けしてしまっているが、ランカはそれに気づけていない。
ランカはふと疑問に思い、故に問うことにした。
「あのぉ……」
「どうかしましたか? ちみっこい感じの?」
返答したのはピンクのツインテール--ラビット・スタイルが特徴的な少女だ。ランカに対して「ちみっこい」と言ったが、団栗の背比べ。実にいい勝負である。
ランカは立ててしまいそうだった青筋と中指を、努力して収め、素直にあることを問うことにした。
「いえ、その……。【自己という隣人】ってなんですか?」
そう言うと、パトリシアは別段顔を変えず、しかし他三名は「あー……」と納得したような声を出した。蜈蚣の方は、どうしてだろう、心做しか同情的な目線をランカへ向けていた。
いつの間にかパック売のソルティライチ四本目を空にしていたパトリシアが、ぽんとランカの肩を叩き、そしてぐるぐる眼鏡に顔を向けた。
「はるっち、よろしく」
「え……おぇっ!? お、おう、ガルベス・デ・ガンテの頼みだ……。りょ、了解した……」
『即決ゥ!』
「んじゃっ、私は休もうかな〜」
『おいっ?』
えっ、えっ。
戸惑い、ぐるぐる眼鏡がランカと、あーちゃんがピンクツインテールと互いの顔を見た。ランカ組は「パトリシアは何もしないのかい!」と突っ込むために、あーちゃん組は「あたし達はパトに着いて行くか」「そうしましょうか」と話し合うために。
そしてパトリシアの方を向くと、
『消えてる……』
周りには隠れるスペースなどはない。
一体どうやってとランカは思うが、同時に、
────彼女は権限ある三軍を統帥する皇帝だ。自分以上に京不知夜に詳しいだろうし、なんらかのタネがあるのだろう。
と考え、それで強引だが納得した。
納得したことにする。
「お前達も、手伝ってくれ……」
「あー。あたしは消耗品補充しときたいし……」
「んー。エイブラムスちゃんとしてはー? これに、武麟に着いて行こうって。そんな感じでしてね?」
「そ、そんな……。あと、武麟はもっと物を大事にすべ--」
『よっし、買い物行くぞー』
「--きだ、ぞ……」
ガクンと肩を落としたが立ち直りも早いらしく、まずは、と「はるっち」と呼ばれたぐるぐる眼鏡の彼女は言った。
その際に学者のように眼鏡をクイッと正したのだが、何故だろう、眼鏡がピカリと光った。光でも反射したのだろうか。そのせいで、近くで目を半開きにして眠りかけていた豚が、声を上げて飛び起きた。列車の中、鼾をかいて寝ていた中年男性が目的の駅ではっと目を覚ましたときのような声だった。
────シュール……。
ランカとしては変な笑いが出そうだった。
そしてそんな豚の様子を見たぐるぐる眼鏡の彼女は「ちょうど良いか……」と呟くと、その豚を指差して、
「アレを、FOHってのを聞いたことあるか……?」
問うた。
────フォフ。
生物基礎の授業で最初に習う、『生物の区分』という項目の最終ページに、僅か数行で書かれている程度のものだったか。
そう考えたランカは、断片的ではあったが何とか思い出すことができた情報を述べる。
「確か……『The familiars of Hortensia──オルテンシアの眷属のこと。姿形は、通常私たちが目にする動植物と酷似しているが、実は細胞などが祷力のみで構成されている。ペットとして所有した場合はその所有者の祷力に依存して能力値が増減する』……ですよね?」
「教科書ではそう、だな……正確には生き物とは言い難いし、肉体を構成する祷力も全身の80パーセント以上であれば良いとかいう、色々と基準緩めで定義付けが難しい存在なのだが……いや、まあそれはそれ……だいたい正解だな……」
そう言うと、彼女は自身のブレザーの内側を探った。右を探り、左を探り。
途中でいつの間にか傍にいたパトリシアのスカートの下の秘境、もとい臀部をまさぐってもいたが、ついには諦めた顔をして、彼女ぐるぐる眼鏡は背負っていたリュックサックからソレを出した。ちなみに、そのころにはパトリシアは消えていた。
「こいつが、その、FOHだ……今は休息用カプセル内で眠っているが……」
今開けると、そう言うと、カプセルの上方に幾重もの幾何学的な模様が描かれた魔法陣が現れた。それに向かって彼女は息を吹く。すると魔法陣は風に吹かれた砂のように消えていった。
顕現したのは--、
「なっ……?!」
--ドラゴンであった。
手のひらサイズと、かなり小型ではあるが、眠そうに欠伸をするドラゴンの口にチョロチョロとした火が見えているのを見ると、やはり生命体で最強の種族だとランカは実感する。
「コイツがFOH……それを購入などの手段で獲得し、自分のものとしたのが自己という隣人だ……」
「フォフ……自己という隣人……というか何故出し渋ったのです?」
「あぁ……一人の人として権利を保証されるから、会議の代役とかも任せられる……あと出し渋ったわけではなく、寝覚めが凶暴だから出したくなかったんだ……」
────そんなこと、私は何故知らなかったのだろう。
ランカがそう考えた瞬間、
「この瞬間まで国家機密だったからね、しゃーないね」
パトリシアが被らない程度に、しかしズレなく続くように答えた。
首に蜈蚣が巻き付いており、中々にB級ホラーのような様相である。
────いや、いつの間に。
「ジュエルもそうだけど基本的には──、VENDETTAからの許可が降りている人しかフォフは買えないんだ。この京不知夜の生徒では五人だね」
おや、とランカは思う。
というのは、VENDETTAと述べる際に一瞬忌々しげに顔を歪ませたように見えたからだ。
触れるべきではない。そう考えたランカは、ただ疑問をぶつける。
「……五人、ですか? あと蜈蚣さん減ったし縮みましたね」
「ん。蜈蚣に関しては、今さっき雇用契約書書いて雇って、そんでもって筆頭格にだけ外界に出てもらって、さらには縮んでもらってんの。んっと、五人ってのはここに居る、私含めての四人と、もう一人は旅に」
いつの間に契約したのだと、ランカ以外の三人は驚いていたが、ランカとしては一人旅をしている人のほうが気になって仕方がない。
仕方がないのだが、
「はっはは……今はまだ国際的機密なんだ。詳しくは聞かないでくれると助かる。あと、誰にも話さないでねー?」
パトリシアは呵呵と笑って言った。
警告か、それとも単に聞かれたくないのか、将又それ以外か。とにかくランカは、とりあえずではあるが問うことをやめにした。その意思を理解したのだろう、パトリシアは「はるぴょん、よろ。食堂行って席取っとくわ」と言って、消えていった。
「はるみん、はるっち、はるぴょん……次ははるにゃんだろうか……あ、えと、基本的にはだが、人型も動物型も雇用契約後は二頭身のディフォルメ体型を取れるようになるんだ……」
「道理で小柄なわけですね。可愛い」
顎を撫でると蕩けた顔できゅうきゅうと鳴くドラゴン。
「む? この声……初めて顔を合わせるというのに懐くとは珍しい……私には特に反応はなく、ガルベス・デ・ガンテには……なんだろうな、畏敬だろうか……そうだな……畏敬するように頭を垂れるというのに……」
「おぉ〜可愛い可愛い……え、パッティーに畏敬?」
ぐるぐる眼鏡は「そうそう、実はな……」と続けた。
PostScriptum
--東棟第四ノ二職員室--
────職員室を出た鶴院さんは、どうやらパッティーに泣きついているらしい。
そんなことを考え乍らマルケサシュは外の景色を楽しんでいた。
彼女は、仕事は既に終わっていて、どうも手持ち無沙汰で困っているところだった。
特に理由はないが、紅茶を飲もうと思った。
考え無しに角切りの黒糖を二三個底に沈めて、まるでイタリアのコーヒーのようにして飲んでみると、甘さのあまりつい顔を顰めた。香りは柔らかくなり、しかし一方で味は格落ちしてしまった。勿体ないことをしたものだと苦笑いを浮かべると、ふとある言葉が頭の中をちらりと走りすぎた。五時限目の授業の際に、彼女が言い終えたくて、でもできなかったあの言葉だった。
「確か……『信憑性に欠けますが、女帝オルテンシアの宝具である左義手に埋め込まれていたとされる竜の心臓の、なんとミイラとのことです』……だったかな?」
竜のミイラ化した心臓とは、資料集に掲載されている写真で、オルテンシアの右手義手の薬指にはめられた紅玉のことを指す。
墨のような色の義手に紫縮緬の手袋をしたもので、それもあってか指輪が目立つ。メビウスの輪の如く捩れた金銀二つの輪にぽつんと輝く璧。マルケサシュにはなぜかその義手が、ほとんど悲しい気を起こさせるほど美しく思えてならなかった。
マルケサシュは、いや、彼女のこの手は机の隅で眠っていたある本を揺すって起こしていた。何故こんなことをしたのか、彼女としては記憶にないので、どうやら思考の外で動いていたらしい。
醒めたのは孔雀の極彩色の翼を思わせるマーブル紙で装幀された大きな本だった。クリーム色系統の地の洋紙にマーブリングをしているのだろうか、表に出るマーブル色もどこか柔らかい印象を受けた。表紙を撫ぜると、あたたかな見た目とは裏腹にひんやりとしていた。
小口に指をかけ本を開く。するととびらには、
<img src="/storage/image/2pqFbkBdzBiKjmwkKAfiZlV0y6tXr3ZrFsFGjJ0l.jpeg" alt="2pqFbkBdzBiKjmwkKAfiZlV0y6tXr3ZrFsFGjJ0l.jpeg">
──Ihre Schatzkammer──
──Patolicia Garvez De Gante──
「アドアの秘宝……著者パトリシア・ガルベス・デ・ガンテ」
マルケサシュ達の帝王が自ら記した資料集だ。
基礎神話学などの授業で使う資料集には、実は詳しいことがあまり書かれていない。そのため、欲した者にのみこの宸翰とも言うべき図書が与えられる。
マルケサシュ達の帝王は実に聡明だ。古代のヴェールを剥がし、オルテンシア家の研究を大きく進めた。そして京不知夜を発展させ、今や軍事力では『双するはなし』と評される超大国に育て上げた。国の果てまで光被し、その威武は世界に轟く。
────そんな帝王は、一体どのようなことを記されておるのだろうか。
マルケサシュはページをめくる。めくる。めくる。
「……あった……」
そこにはあらゆる角度から撮られた太古の女帝の義手があった。
自分でも情けない声を上げてしまったが仕方ないだろう、渇望した視覚情報をこの眼がとらえて脳髄に電流より先に興奮を送ったのだ。そう、自分に言い聞かせて。
そしてマルケサシュは───
───思わず、見蕩れた。見蕩れてしまった。
今のマルケサシュは、謂わば咲き誇った後の寒緋桜の花弁だ。わずかにでも風が吹けば、わずかにでも雨が降れば、わずかにでも地震が起これば、間違いなくすぐに散って果ててしまう桜花だった。今の彼女が他人から触れられたなら、たとえそれがどんなに繊細で優しい触れ方であっても床に倒れ転げてしまいそうであった。
そんなマルケサシュを助けたのが、刺身の隣で顔を覗かせる菊のように傍に置かれた注釈であった。死が同居した冷え込む夜にひとが火を手にしたように、彼女も縋るようにその注釈に指を伸ばす。
「指輪には文字が、それも愛を囁く文が刻まれている、か」
何分経ったであろうか。
しばらくしてマルケサシュは、腕の中に抱くこの宸翰を見下ろしながら、ため息とともに出たかのような口調でこう云った。その内容は濃く、特に自分が気になったところだけを挙げたらこうなったのだ。
────或いは、気に入ったところ、か。
そう考えてしまえば、確かにそれが最適な表現に思えてくる。
いや、事実、最適な表現なのだろう。
『MAN ── LA ASHEG SHAVM』
我、──を愛す。
訳してみれば、文字に起こしてみれば、なんと寂しく思えるか。
声に出せば、心底から息を吐いて読み上げたら、なんと熱き思いなのか。
途中で愛を囁く対象が刻まれている部分が削れているが、マルケサシュにはそれがより一層美しく思えてならない。
同時に悲しく思った。
オルテンシアのエピソードに、こういうものがある。
人類の敵オルテンシアが、人間の女に恋をして、生命の守護神になったというものだ。最もありえないとされている学説で、一体どうしてそんな説が生まれたかわからないほどのものだ。否定され批判される説だが、その理由としては三つの点がある。
一つは、オルテンシアが人類の敵というのは、反オルテンシア主義の長寿族が考え、長きにわたり主張してきたものだ。反オルテンシア主義というのは、『未だに滅びず生物種として存在しているから、亜人差別やヴァンキッシャーに怯えて暮らさなければならない。それもこれもオルテンシアがいたからだ』という悲観的人生観に基づく思想の一だ。
二つ目には、「人間の女に恋をした」という点だ。現今では亜人差別が改善されつつあるが、それでも人類亜人類間の相互敵視は根深く、亜人の大部分を筆頭に「人間の女」という点に否定批判がある。京不知夜はそういった差別や偏見、蔑視というものがないから、マルケサシュには実に暮らしやすかった。
三つ目だが、「生命の守護神となった」という点だ。オルテンシアを成る神とは捉えていない神学者や宗教は多く、またオルテンシア自身が「(私は)生まれながらの神である」と発言したとされていることから「なった」のではないと否定が集まっている。ただ書物によっては「(私は)生まれながらの帝王である」とも、「(私は)生まれながらの守護者である」ともされているため真偽は依然として不明である。
「『私は生まれながらの宇宙そのものである』なんてのもあったな」
どこに向かうともなく、マルケサシュの言葉はため息とともに宙を浮いた。
彼女としては、この恋をしたという説、宇宙であるという説が好きで肯定すらしている。
ロマンティックだから。
肯定する理由はそれだ。人生、それぐらいが丁度いいのだ。
オルテンシアの目撃情報は、屡々世に出る。
やり残したことがあるから、なんて言われている。他にも『人類を護る為』という説や、『重大事件の予防の為』という説もある。逆に『いつまでも争い合う人類に絶望し、いっその事と人界廃滅を行う為に観察しに現れる』との説もある。
マルケサシュは、少し違う。
オルテンシアという存在は、人間の女に恋をして生命の守護神になったのだ。しかもその女を正室に迎える為なら何でもするという恋と愛に狂う王としての側面も持っているのだ。
ならば、だ。
「……生きているはずがない愛する者を探し求めて、今もさまよっているから」
違うのですか、オルテンシアよ。
これ以上の思考は、辛いだけだ。
そう考えて、マルケサシュは資料集を置いた。そして彼女は椅子から立ち上がると、窓のクレセントに指をかけて思いっきり開いた。換気したいのもそうだが、熱がこもった首もとを冷やしたかったのだ。幸いにも職員室、それも此處マルケサシュの机に近い所には、同僚はいなかったし、風で飛ばされるような書類もなかった。
頬を風が横切った。
しっとりとした涼風が、下の庭園で開いた花の香りとともに上って来たらしい。「ヒョウ」と吹いたそれは、冬と同居した春の吐息のようであった。
【今回の登場人物の好きな和菓子】
鶴院ランカ……桃山
パトリシア・ガルベス・デ・ガンテ……小城羊羹
安武麟……雲平
エイブラムス・ヴァーン……淡雪羹
黒峯小春……雷おこし
注
1)祷る力と書いて祷力。オルテンシア女神への信仰すなわち祈りによるものとして、古い時代にそう命名されたが、信仰心の深さ、それどころか有無に関わるものではない。また、祷力を用いることで様々な効果を発揮させる技術を『祷術』と呼ぶ。太古に存在した魔法と異なる点は『オルテンシアが生成した』という点だけである。
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