めおと湯けむり紀行

奥嶋光

活火山からの恵み、天空の出湯《濁河温泉 旅館御岳》

今から10年前、2011年の夏の夜、私は大きな不安を抱きながら漆黒の闇の中車を走らせていた。手には汗が滲みベタっとハンドルにくっついている。
まだマイカーを所有していない頃実家の車を借りては妻とドライブ旅行に繰り出していた。
今回は長野県の諏訪湖や奈良井宿を観光しに来ていた。諏訪湖はとにかくデカく雄大で周りは栄えていた、奈良井宿はタイムスリップしたのかと錯覚させるような歴史情緒の有る所だった。
観光を満喫した私達は山道をドライブしてどこか立ち寄り湯にでも入って帰宅しようと考え車を走らせた、もう日が暮れ始めた頃だった。
ちょっと走れば何か有るだろうと楽観していた若い私だったが、段々と日が暮れてその内に真っ暗になった。
長野県と岐阜県の県境の深い山中で何も無いのと、夜で閉店していた。
ふとメーターに目をやるとガソリン残量が無くなっている。ヤバいこんな夜の山の中でガス欠したら…と思うと心細くなり脇からは汗が滴った。
とにかく店が有りそうな市街地に出ようとするが道も分からなく霧が出ている山の中を延々と走る羽目になる。
どうしよう…と運転しながら周りを見ていると霧の中にポツンと安心させるようなオレンジの灯りが見えた。
車を寄せてみると旅館の看板で旅館御岳と書いてあった。
こんな山の中に旅館が有るのかよ、しかもまだまだ山を入った先に有るようだった。
旅館まではどれ位かかるのか不明で、山の上に上がって行くような道を走るようだったので心細くなっていた私はその場を後にした。
その後やっと交通量の有りそうな国道に出てしばらく走ると青看板が出てきた、あれっ?これは奈良井宿を通るのではと気付き安心した。
メーターに目をやるとガソリンランプは点灯し時間は21時になろうとしていた、この夜が怖くなった私は奈良井宿に入った。
そして何軒か飛び込みで宿を回ると優しい女将さんの民宿に泊めてもらえる事になった。
夜分遅い中ありがたい、助かった。ホッとした私達夫婦はドッと疲れが出た。夕飯は無いものと思っていたが女将さんが出来合いの物で良ければとご飯を出してくれた。良かったと感謝しながら食べた、深くは考えなかったが何故か豚のすき焼きだった。
お腹も満たされてビールでほろ酔いになり、一安心した私は夜の奈良井宿を観たくなり少し散歩に出た。
昼間の奈良井宿とは全く違った風景で暗い。人は歩いておらずメインの道の両脇に長屋のような家屋がずらっと並んでおり、オレンジ色の灯りも延々と続いていた。
映画のようなセットのような風景に何とも言えない不思議な気持ちになった。若者風に言えばエモいというのだろうか。暫くその風景を目に焼き付かせて宿に戻った。
その夜布団に入り寝ようとするが、先程の霧の山中で見かけた幻想的な看板が頭から離れなくなった。
どんな旅館なんだ?温泉旅館なのだろうか?あの看板からどれだけ山奥に進むのか?
いつか行ってみたいと思いながらその夜は眠りに落ちた、そうして奈良井宿での夜は更けていった。

【それから2年後の秋】
2013年11月初旬、私は旅行サイトを眺めていると例の宿を見つけた。あっ!これはあの時の旅館ではないか?
宿の紹介を観ると温泉が自慢らしく、そして自然に囲まれた旅館なのでゆっくりできそうだった。星降る宿といい、晴れていれば星が凄いらしい。
私の心は決まった、あの時の想いを成就させよう。すぐ予約した。

私の住む街からはかなり遠く道中は気合を入れて運転した。
霧の中で見かけた看板を超えて山深い御嶽山を上がって行き、開田高原も通過し濁河温泉の看板を入ると御嶽山6合目の色づいた原生林に囲まれた中に小さな温泉街が有った。
まさに秘境、そして秘湯であろう。温泉街を入って行くと1番大きな旅館が今日の目的地だった。
広めの駐車場に車を停めてロビーに入ると広いなと思った。豪華な作りだ、旅館というよりはホテルのよう。
チェックインを済ませて部屋に行くと和室だった、とにかく疲れたので早く温泉に入りたい。妻を急かして大浴場に向かう。
脱衣所に入ると内風呂と露天風呂が有るのが見えた、さっさと服を脱いでシャワーで体を清める。先ずは内風呂からだ、ざばーと浸かると丁度良い温度で木製の浴槽だった。
長時間の運転で固まった体がほぐれていくこの感覚は堪らん、思わず口元が緩んでしまう。
お湯を見ると薄茶色というのか濁った鶯色っぽい温泉だった。少し甘いような匂いもする。優しめのお湯だなと感じた。
内風呂で暖まった私は露天風呂に出た、岩風呂の岩には茶色く温泉成分がこびり付いており雰囲気を醸し出していた。
そして一本大きな傘を模した雨よけが立っている。
西日が当たる中は私は大きな傘の下に身を沈めた。
露天風呂に入ると原生林が近く、山に囲まれているのだと実感する。しかも珍しい濁り湯でやはり山奥の温泉は凄いなと思った。
そうだこんな山奥はそうそう来れなかった、駐車場からは御嶽山のてっぺんが見えたのだ。
大きな傘の下には小さな飲泉所が有った、源泉がチョロチョロと流れている。飲んでみると鉄っぽい味で美味しくはなかったが体には良いかもと何杯か飲んでみた。鉄分が入ってるなら女性にとっては恵みの飲泉かもしれない。
露天風呂で体を暖めた私は部屋に戻りビールで喉を潤した。その後散歩しようと外に出てみるが11月の濁河は肌寒かった。
一気に湯冷めし断念した私は旅館に入ると、スタッフが館内から下に降りるともう一つお風呂が有りますよと教えてくれた。
渓谷露天風呂と言い、旅館御岳の名物らしい。館内を出て160段ほどの階段を降りるから行って帰るのが大変なのと、混浴だからちゃんと前を隠してくれと2点注意を受けた。
混浴ならば妻と入ろうと部屋に戻り誘ってみた。館内を出て階段を前にすると成る程、大変な階段だ。降りるのは良いが、帰りは面倒臭そうだなと思った。
そう思いながら階段で下に降りると男女に分かれた小さな脱衣所が有る。
服を脱いでタオルを巻いて出ると立派な岩風呂が視界に広がった。
しかも人がおらず貸し切り状態、渓谷露天風呂と言う位なので川が近く水の流れる音がBGMだった。そして例の濁り湯である。本格的な岩風呂で立派だなと思った、さすが旅館の名物。
切り立った崖が迫ってくるようで凄い迫力の風呂だ。それにしても貸し切りや混浴は良い、夫婦で温泉を楽しむ事が出来るからな。
この濁河温泉という所は、標高1800mの高地に有り通年で自家用車で行ける温泉としては群馬の万座温泉と並び1番高い所に有る温泉場らしい。
それ以上の標高になると冬季は雪深くなり閉鎖したりするから一般的に最高峰の高地温泉と言えるだろう。
正に希少な名湯だと思った、そしてここに来れた事が自称温泉通の私達夫婦にとっては光栄な事である。
私達夫婦は自然からの出湯の恵みを全身で受け止めた。そして帰りは大変だった、温泉でリラックスし緩んだ体に鞭を打って160段ほどの階段を上がると館内に戻った頃には足がプルプルしていた。妻もゼーゼーしており正に楽あれば苦ありといった状態。
部屋に戻ろうと食堂の前を通ると良い匂いがした。味噌の匂いだろうか、少し甘めの味噌の匂いがする。
夕飯が楽しみだなと妻と話しながらエレベーターに乗った。
暫く休憩した後に食堂に向かった、もう待ちに待った夕飯なのだ。
御嶽山は山岳信仰と言い、神様が住む山らしい。食堂に入るとそんなイメージなのか少し格式の有るような凝った作りの落ち着いた雰囲気の食堂だった。
ツインテールのスタッフから食事の説明をされるとこれか!と思った。豚肉を朴葉味噌で火を通すのがメインディッシュだ。
先程香った食欲を刺激する匂いだ、朴葉が奥飛騨の山中に来た事を実感させる。
内容は少し刺身も出たが、山の物を中心に出していた。天麩羅は揚げたてで美味い。
私は飛騨の地酒を頼み山の幸を楽しんだ、最高に豊かな時間だった。
締めのご飯には卓上に有った蕎麦ふりかけをかけたのだが、カリカリとサクサクが合わさった絶妙な食感で香ばしい。初めて食べるふりかけだ、お土産に買って帰ろうと決めた。
そして食事が終わりほろ酔い気分でお土産コーナーを見ていると、おやっ?
ラウンジに目をやると火が見える、近付くと薪ストーブに火が入っていた。
この辺りはもうすぐ雪が降り厳しい白銀の世界になるようだ、11月ともなればかなり寒い。その中での薪ストーブの暖かさは優しかった灯りだった、真っ暗な山の中を彷徨っている中見かけたあの灯りのように。
ほろ酔いの頭を静かに燃える炭を見て落ち着かせるこの時間は旅の醍醐味だな。
しばしの間私達は薪ストーブの側で過ごした。まあ妻はただ単に寒いから暖まりたかっただけのようだが。

旅館御岳のもう一つの名物、屋上天文台。そろそろ星空鑑賞の時間だ。
妻と上着を着てしっかり防寒して屋上に上がった、スタッフに促されて屋上に出ると晴れていて満点の星空だった。
標高が高いからか、空気が澄んで綺麗だからなのかプラネタリウムの如く星が散りばめられていた。とにかく星の数が多い、例え話で○○は星の数程と言うがそれ程無数の星だった。
天の川も見える中、寒い中星空を見上げていると首が疲れてくるがはっきりと流れ星も見えた。しかも何回も、流れ星の連発は初めての事だった。
さすが星降る宿とは言ったものだ、まだまだ見ていたいけどいい加減寒くなってきた。
気の済む迄見てから部屋に戻って、温泉で暖まってその夜は寝た。素晴らしい充実感が私を満たしていた。

朝目覚めると露天風呂に入りたくなった、原生林に囲まれて空気が美味い。飲泉で乾いた喉を潤した。
朝食で印象に残ったのは濁河温泉の源泉で炊いた温泉粥、おかわりをしてしまった。
朝食後ラウンジで無料コーヒーを飲んでいると早々とチェックアウトしていく客がちらほらいる、御嶽山を登山するのか?はたまたこの辺りは滝が多いからハイキングでもするのか?ゆっくりしたい私達からしたら勿体無いなと思った、人それぞれだから大きなお世話か。
そんな事を考えていると無性に寂しくなった、まだ帰りたくない。まだここでゆっくりしたいと思った。
少し夫婦で考えてフロントに伝えた、気に入ったから同じ料金でもう一泊したいと。
空きも有りフロントのスタッフは快く了承してくれた、こんな成り行きで泊まるのは初めての事だった。

【明朝】
チェックアウトをして宿を出た時、また絶対に来ようと心に決めた宿だった。

そしてそれから数年、毎年のようにお世話になった。沢山の思い出も出来た。
滞在した数日後に御嶽山が噴火したり、肩を手術した後の療養に利用したり、近くのスキー場まで夜星を見に行ったり、すぐに有る登山口から少しだけ登山したり、百草丸という和漢薬を知る事ができたり。
その間運営会社は2回ほど変わったようだった。最後に利用したのは2018年GW明け、足かけ5年通った。
2019年春予約しようと旅行サイトを観てみるが、どこにも載ってない。旅館御岳のHPを観ると設備不具合の為休館しているらしい。その後もHPをチェックするが、そのまま閉館となってしまった。
寂しい最後だったが私達夫婦今もあの温泉を思い出す、本当に良い思い出しかない。
ありがとう旅館御岳、いつか再開してまた泊まれる事を願っている。
今までお疲れ様でした、そしてありがとう。
霊峰御嶽山の麓での夢のような出来事であった。

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