『 インパルス 』 ~宝くじで900億円当たったから、理想の国を作ることにした~
125話 間一髪
正巳が部屋に入る数十分前、一人の少女が連れられて来ていた。
その少女は、何を言われたのか、特別抵抗する様子も無かった。
特徴的なのは、その長い黒髪と強い意志を感じる黒い瞳だ。
その黒い瞳は、一人の男を映していた。
部屋の隅に灯った豆電球が、部屋内をオレンジ色に染めている。
――淡い光で、気持ちが落ち着く。
オレンジ色に染められた部屋内に、月の光がスリットを入れている。
――まるで、絵本の中の様な雰囲気だ。
……状況とはそぐわない、落ち着いた雰囲気がそこに在る。
普段であれば、落ち着いて一杯紅茶でも……となるのだろうが、今はそんな余裕がない。それこそ、コレが夢であれば、"悪い夢"として話の種にでもなったのだろう。
……食いしばった唇からは、鉄の味がした。
27度目のソレが迫る。
――ふと、護衛として一緒に暮らしていた女性の事を思い出す。
(ユミもこんな目に合っているのかしら……)
『"バチンッ!"』
左膝に、焼けるような痛みを感じる。
――声を漏らさないように呻く。
(もし、ここにユミが一緒だったら、もう少し我慢できるのに……)
……28度目の準備に入ったのが見える。
下劣な男だとは思っていたが、正直ここ迄だとは思わなかった。
噂で、その趣味の事や子飼いにしている者達の事を、聞いた事があった。しかし、噂で聞くのと、実際に目で見るのとは、天と地ほどの違いがあった。
噂では、あくまでも"少女趣味"や"SM趣味"としか聞いていなかった。
しかし実際は、そんな可愛らしいモノではない。
視界の端で床に裸で横たわる少女……まだ8歳にもならないだろう。そして、すぐ横の壁には、元の顔立ちが分からない程ボロボロになった少年がいる。
『"バチン!"』
少年に目を向けたタイミングで、鞭が体を打ち据えた。
――体を絞られたような、千切られたような痛みが走る。
「ッツ! ぅ……」
思わず声を漏らすと、鞭を振るっていた主が嬉しそうにする。
「むっふ~たまらんねぇ」
……舐めまわすような視線で、見て来る。
「どうだぁ? そろそろ、私の物になるって言ったら楽になるぞぉ?」
少し前だったら諦めていたかも知れない。
――しかし、今は私の護衛がいる。
……誰よりも強く美しく温かい、ユミお姉ちゃん。
前回も、前々回も、もう駄目だと思った時に、助け出してくれた。
今度も、きっと来てくれる。
そう信じて、口を開いた。
「醜いですね、自分で慰めでもしたらどうです――『"バヂン!!"』」
29度目は顔の左側、頬の上を掠った。
頭部への衝撃が理由か、単に大した傷ではないのか、痛みは感じなかった。
しかし、明らかな異変があった。
さっき迄は確かに見えていた筈の、視界の半分が暗くなっていた。
……もしかすると、額が切れて、血が目に入っているのかも知れない。
「うるせぇ!」
そう叫んだ後で、『お前ら親子揃って見下して来やがって』などと呟いているが、父が誰かを見下す事は見た事が無い。ただ、決まりを守らない者には厳しいのは確かだが……
呟きながら、鞭の柄の部分を"ガシガシ"と噛んでいる。
どうやら、相当頭に血が上っているようだ。
腕を震わせながら、鞭を持ち上げたり下ろしたりし始めたが……?
鞭の先に、髪の毛が絡まっているのが見えた。
どうやら、先程鞭が当たった際に、ごっそりと持って行かれたらしい。
……ユミに洗って貰った、髪の毛なのに。
極限の状態にあるせいか、異常なほど頭が回る。
現状を整理してみると、相当に不味い状況だ。
痛みはないものの、見えなくなった視界が回復する気配がない。
……例え生きて出られたとしても、治らないかも知れない。
それに……鞭に絡め取られた髪の毛を見るに、無理やり引っこ抜かれた様に見える。
抜かれた箇所からは、二度と髪が生えないかも知れない。
……女としては、醜い姿だろう。
……だとしても、ユミならきっと――
片眼が不自由でも、醜い姿でも、側に居てくれるだろう。
もしかしたら、今までよりもよりもずっと近くに、ずっと一緒に居てくれるかもしれない。
――そう考えてみると、笑みが漏れて来た。
『一つだけ……一つだけ、大切なものが残れば、それで十分』
自分では気が付いていなかったが、その時、綾香は一つの"極地"に居た。
その姿は美しかった。
そんな綾香を見て、部屋の主である男……岩斉保文は、振り下ろした鞭を思わず止めそうになった。しかし――
――既に手遅れだった。
綾香に向けて振り下ろされた鞭は、残された眼球を確かに捉えていた。
……岩斉は鞭に関して、それなりの手練れだった。
狙った場所を外すほど、腕は悪くない。
一瞬手元がブレたが、その程度で影響はないのだ。
――鞭の先が当たろうかと言う瞬間だった。
部屋の温度が、急激に下がったかのような"悪寒"が走った。
――体を駆け抜ける寒気。
肌が泡立ち、首筋に手を這わせたくなる。
そして――……ソレを見た。
紅い髪を揺らしながら、綾香との間に立つ――"鬼"。
その姿は、"鬼"としか言い表せない。
……その"鬼"と、鞭で繋がっている。
綾香に鞭が当たる寸前に、"鬼"が掴んだのだろう。
鞭の先端は、視認できるような速さではない。それを掴むとは……
思わず後ろに倒れ込むが、握ったままだった鞭のお陰で、一瞬体が止まった。
……背中が浮いている状態だ。
本当だったら、鞭など今すぐ手離したい。
しかし体が、腕が、思うように動かない。
だが、問題無い。
「お、お前を言い値で雇ってやろう……そうだな、毎月一千万で――」
誰しも、金の持つ魔力には抗えない。
そう、聖職者であっても、人を導くような立場の者であっても。
だから、金で釣ろうとした。
しかし……
「ヴぁッ?」
思いっきり引かれた鞭に引っ張られ、前につんのめる。
そして、そのまま床に顎と肩を打ち付けた。
「貴様ぁ――」
『何をしているのか、分かっているのか!』そう言おうとしたが、最後まで言葉が続かなかった。その瞳を見た瞬間、何も言えなくなった。
……太ももの辺りに、生暖かいものを感じる。
「動くな」
男の言葉にただ、頷く他なかった。
◆
正巳は、部屋の中に入った瞬間、理性が吹き飛んだのを感じた。
この状態になると、自分でも制御ができなくなる。
だからこそ、部屋に入る前、"自分に"言い聞かせたのだ。
しかし、無駄だった。
中の光景が目に入って来た瞬間、全てを理解した。
理解したのと同時に、タガが外れたのだ。
正巳が見たのは、男による蛮行の痕だった。
床に横たわる少女と、その状態。
壁にもたれている少年は、元の顔が分からない程に痛々しい。
木に拘束されている少女は、特に危険な状態だ。
気に拘束されている少女……綾香は、片方の目からは血が出ており、その頭部は一部が抉れていた。
……自然に体が動き、綾香へと迫っていた"鞭の先"を掴んだ。
正に、"間一髪"だった。
コンマ一秒遅れていたら、鞭の先端が当たっていた。
普段の正巳であれば、その欲するままに目の前の男……"伍一会の岩斉"を始末していただろう。しかし――
不思議な事に、正巳は落ち着きを取り戻していた。
明確な理由は分からない。
ただ、正巳の脳裏には、一瞬見えた綾香の表情が残っていた。
その表情はとても安らかで、"何故か目が離せない"そんな魅力があった。
そんな事を考えていたら、岩斉が何やら戯言をほざいて来たので、手に握っていた鞭を引いた。
岩斉が倒れたのを横目で見ながら、綾香の様子を確認しようとしたが、岩斉と言う男は存外、打たれ強いようだった。
……岩斉が憤慨した様子で『貴様!』と続けている。
そこで、殺気を込めて短く『動くな』と言った。
……流石に"殺気"には耐性が無かったようで、失禁していた。
このままでは、床に横たわった裸の少女が汚れてしまう。
そこで、少女を抱き上げると、毛皮のコートで包んで床に寝かせた。
このコートは、部屋の隅に掛けられていた物で、無駄に高そうだ。
……僅かに視線を感じる。
そちらを見ると、岩斉が拳を握りしめていた。
……本当に打たれ強いと言うか、懲りないと言うか、このままでは無駄な手間が増えそうだったので、先に拘束しておく事にした。
腰に付けたポーチの一部を上に引くと、一本のワイヤーが出て来るので、そのワイヤーを持って岩斉の前まで行く。
「俯せになれ」
「……くそっ」
どうやら、一応は観念したらしい。
……油断などしないが。
少し殺気を含ませて命令する。
「両手を後ろに組め」
「ひぃっ」
ビクッとした後で、大人しく腕を後ろに回している。
それにしても、随分と良いものを食べているようだ。
……腕がむっちりしている。
……ボンレスハムみたいだ。
岩斉の腕を掴むと、ワイヤーを一周させ、もう片方の腕も同じようにする。そして、ワイヤーを回した両腕を最後にまとめた。
足も同じように縛ったが、危うく岩斉の"水溜り"に足を付けそうになった。
下手に動かれると、色々な意味で困るので、足の方はきつめに縛って置いた。
……これで、一先ず大丈夫だ。
ワイヤーで特殊な縛り方をした。
もし強引に解こうとしたら、ワイヤーが喰い込む事になる。
岩斉を縛り終えたので、再度三人の状態を確認した。
……優先順位が一番高いのは、木に拘束されたままの綾香だろう。
服は破け、両腕の打撲痕も酷いが、出血及び頭部へのダメージ……特に、眼球の状態が心配だ。このままでは、取り返しのつかない事になる可能性がある。
流石に、死んでしまったら手の施しようがなくなる。
……死んでさえいなければ大丈夫だ。
状態を視認しながら近づいたが、何やら反応が悪い。
……『安心したのに、再び不安になって来た』と、そんな所だろうか。
(何故だ?)
そう考えてみて、ふと自分の姿の事を思い出した。
「マム、ヤモ吉の視点を出してくれ」
そう言うと『はい、パパ!』と返事があり、薄暗い部屋の中に立つ"般若の面"を付けた男が見えた。……これは、俺でも怖い。
「……マム、面を外してくれ」
そう言うと、マムが『カッコ良いのに……』と言いながらも、外してくれた。
……外れた仮面を見ると、普段通りのツルっとした能面に戻っている。
「さて、これで良いか?」
そう、綾香に話しかけると、心なしか表情が和らいだ。
「外すぞ?」
そう言いながら、綾香を拘束している器具を解いて行く。
途中、腕の拘束を外した時点で倒れ込んで来たので、体を支えながら拘束を完全に解いた。
再度、その容態を確認する。
……一刻を争う事態だ。
綾香の表情を伺うに、痛みは感じていない様だが、恐らく"脳の安全装置"が働いたのだろう。これは、"正気を保てなくなる程の痛みが生じている"と言う事だ。
人間の脳は上手く出来ていて、強すぎる信号が来た場合、全ての信号をシャットアウトするのだ。シャットアウト……つまり、"痛み"と言う信号を脳が受け取らなくなる。
つまり、今のまま放っておくと、痛みを感じないまま――死んでしまう。
綾香を見ながら("治療"の手段を用意しておいて良かった)と心底ホッとしていた。
「マム、治療だ……」
「はい、パパ。綾香さんの容態ですと……レベル3の治療薬を使って下さい」
持って来た治療薬は、"レベル1~5"迄の5種類だが、その内『レベル3』と言う事は、"効力が3段階目に強い"と言う事だ。
……逆に言えば、まだ二段階上があると云う事でもある。
正直、正巳自身もレベル毎に、どの程度の効力が有るのかを知らない。
と言うのも、正巳が過去使ったのは、"レベル1"を一度のみのなのだ。
あの時は、両足を複雑骨折していた者の治療をした。
『治療をした』と言っても、治療薬を飲ませただけだが……翌日にはすっかり良くなって、走り回っていたのには驚いた。
そんな事を思い出しながら、マムに『分かった』と答えた。
"レベル5"でも良い気がしたが、マムが『レベル3』と言ったのだ。
特に問題無いのだろう。
そう判断したところで、上着の内ポケットから、淡い赤色を帯びた薬品を取り出した。
……前回使用した際に『変な効力(ハク爺を治療した時の様な)は無いよな?』と聞いた。すると『はい、大丈夫です。逆巻さんに使用したのは、試験薬だった"原液"なので……完成品は、元に"治す"だけです!』と答えがあった。
マムの説明に納得していたら、その後で『"原液"の場合、きちんと個人に対して調整しないと、最悪即死ですからね……パパにそんな危険な物渡せません!』と呟いていて、『ハク爺、失敗してたら……』と少し青くなったのだった。
何にせよ、この治療薬を飲ませなくてはいけない。
見た感じ、既に体を上手く動かせなくなっているようだ。
「……飲めるか?」
綾香の口元に、治療薬の入った容器を添えるが……口元が微かに震えるだけで、飲む事が出来ない。少し口元に流し込むも、飲み込めずに溢してしまっている。
一応、視線は薬を追っているが……薬は其々一種類しか持って来ていない。治療にどれくらいの量が必要か分からないが、これ以上少なくなると、取り返しがつかない可能性がある。
そこで、正巳は残りの治療薬を口に含んだ。
その少女は、何を言われたのか、特別抵抗する様子も無かった。
特徴的なのは、その長い黒髪と強い意志を感じる黒い瞳だ。
その黒い瞳は、一人の男を映していた。
部屋の隅に灯った豆電球が、部屋内をオレンジ色に染めている。
――淡い光で、気持ちが落ち着く。
オレンジ色に染められた部屋内に、月の光がスリットを入れている。
――まるで、絵本の中の様な雰囲気だ。
……状況とはそぐわない、落ち着いた雰囲気がそこに在る。
普段であれば、落ち着いて一杯紅茶でも……となるのだろうが、今はそんな余裕がない。それこそ、コレが夢であれば、"悪い夢"として話の種にでもなったのだろう。
……食いしばった唇からは、鉄の味がした。
27度目のソレが迫る。
――ふと、護衛として一緒に暮らしていた女性の事を思い出す。
(ユミもこんな目に合っているのかしら……)
『"バチンッ!"』
左膝に、焼けるような痛みを感じる。
――声を漏らさないように呻く。
(もし、ここにユミが一緒だったら、もう少し我慢できるのに……)
……28度目の準備に入ったのが見える。
下劣な男だとは思っていたが、正直ここ迄だとは思わなかった。
噂で、その趣味の事や子飼いにしている者達の事を、聞いた事があった。しかし、噂で聞くのと、実際に目で見るのとは、天と地ほどの違いがあった。
噂では、あくまでも"少女趣味"や"SM趣味"としか聞いていなかった。
しかし実際は、そんな可愛らしいモノではない。
視界の端で床に裸で横たわる少女……まだ8歳にもならないだろう。そして、すぐ横の壁には、元の顔立ちが分からない程ボロボロになった少年がいる。
『"バチン!"』
少年に目を向けたタイミングで、鞭が体を打ち据えた。
――体を絞られたような、千切られたような痛みが走る。
「ッツ! ぅ……」
思わず声を漏らすと、鞭を振るっていた主が嬉しそうにする。
「むっふ~たまらんねぇ」
……舐めまわすような視線で、見て来る。
「どうだぁ? そろそろ、私の物になるって言ったら楽になるぞぉ?」
少し前だったら諦めていたかも知れない。
――しかし、今は私の護衛がいる。
……誰よりも強く美しく温かい、ユミお姉ちゃん。
前回も、前々回も、もう駄目だと思った時に、助け出してくれた。
今度も、きっと来てくれる。
そう信じて、口を開いた。
「醜いですね、自分で慰めでもしたらどうです――『"バヂン!!"』」
29度目は顔の左側、頬の上を掠った。
頭部への衝撃が理由か、単に大した傷ではないのか、痛みは感じなかった。
しかし、明らかな異変があった。
さっき迄は確かに見えていた筈の、視界の半分が暗くなっていた。
……もしかすると、額が切れて、血が目に入っているのかも知れない。
「うるせぇ!」
そう叫んだ後で、『お前ら親子揃って見下して来やがって』などと呟いているが、父が誰かを見下す事は見た事が無い。ただ、決まりを守らない者には厳しいのは確かだが……
呟きながら、鞭の柄の部分を"ガシガシ"と噛んでいる。
どうやら、相当頭に血が上っているようだ。
腕を震わせながら、鞭を持ち上げたり下ろしたりし始めたが……?
鞭の先に、髪の毛が絡まっているのが見えた。
どうやら、先程鞭が当たった際に、ごっそりと持って行かれたらしい。
……ユミに洗って貰った、髪の毛なのに。
極限の状態にあるせいか、異常なほど頭が回る。
現状を整理してみると、相当に不味い状況だ。
痛みはないものの、見えなくなった視界が回復する気配がない。
……例え生きて出られたとしても、治らないかも知れない。
それに……鞭に絡め取られた髪の毛を見るに、無理やり引っこ抜かれた様に見える。
抜かれた箇所からは、二度と髪が生えないかも知れない。
……女としては、醜い姿だろう。
……だとしても、ユミならきっと――
片眼が不自由でも、醜い姿でも、側に居てくれるだろう。
もしかしたら、今までよりもよりもずっと近くに、ずっと一緒に居てくれるかもしれない。
――そう考えてみると、笑みが漏れて来た。
『一つだけ……一つだけ、大切なものが残れば、それで十分』
自分では気が付いていなかったが、その時、綾香は一つの"極地"に居た。
その姿は美しかった。
そんな綾香を見て、部屋の主である男……岩斉保文は、振り下ろした鞭を思わず止めそうになった。しかし――
――既に手遅れだった。
綾香に向けて振り下ろされた鞭は、残された眼球を確かに捉えていた。
……岩斉は鞭に関して、それなりの手練れだった。
狙った場所を外すほど、腕は悪くない。
一瞬手元がブレたが、その程度で影響はないのだ。
――鞭の先が当たろうかと言う瞬間だった。
部屋の温度が、急激に下がったかのような"悪寒"が走った。
――体を駆け抜ける寒気。
肌が泡立ち、首筋に手を這わせたくなる。
そして――……ソレを見た。
紅い髪を揺らしながら、綾香との間に立つ――"鬼"。
その姿は、"鬼"としか言い表せない。
……その"鬼"と、鞭で繋がっている。
綾香に鞭が当たる寸前に、"鬼"が掴んだのだろう。
鞭の先端は、視認できるような速さではない。それを掴むとは……
思わず後ろに倒れ込むが、握ったままだった鞭のお陰で、一瞬体が止まった。
……背中が浮いている状態だ。
本当だったら、鞭など今すぐ手離したい。
しかし体が、腕が、思うように動かない。
だが、問題無い。
「お、お前を言い値で雇ってやろう……そうだな、毎月一千万で――」
誰しも、金の持つ魔力には抗えない。
そう、聖職者であっても、人を導くような立場の者であっても。
だから、金で釣ろうとした。
しかし……
「ヴぁッ?」
思いっきり引かれた鞭に引っ張られ、前につんのめる。
そして、そのまま床に顎と肩を打ち付けた。
「貴様ぁ――」
『何をしているのか、分かっているのか!』そう言おうとしたが、最後まで言葉が続かなかった。その瞳を見た瞬間、何も言えなくなった。
……太ももの辺りに、生暖かいものを感じる。
「動くな」
男の言葉にただ、頷く他なかった。
◆
正巳は、部屋の中に入った瞬間、理性が吹き飛んだのを感じた。
この状態になると、自分でも制御ができなくなる。
だからこそ、部屋に入る前、"自分に"言い聞かせたのだ。
しかし、無駄だった。
中の光景が目に入って来た瞬間、全てを理解した。
理解したのと同時に、タガが外れたのだ。
正巳が見たのは、男による蛮行の痕だった。
床に横たわる少女と、その状態。
壁にもたれている少年は、元の顔が分からない程に痛々しい。
木に拘束されている少女は、特に危険な状態だ。
気に拘束されている少女……綾香は、片方の目からは血が出ており、その頭部は一部が抉れていた。
……自然に体が動き、綾香へと迫っていた"鞭の先"を掴んだ。
正に、"間一髪"だった。
コンマ一秒遅れていたら、鞭の先端が当たっていた。
普段の正巳であれば、その欲するままに目の前の男……"伍一会の岩斉"を始末していただろう。しかし――
不思議な事に、正巳は落ち着きを取り戻していた。
明確な理由は分からない。
ただ、正巳の脳裏には、一瞬見えた綾香の表情が残っていた。
その表情はとても安らかで、"何故か目が離せない"そんな魅力があった。
そんな事を考えていたら、岩斉が何やら戯言をほざいて来たので、手に握っていた鞭を引いた。
岩斉が倒れたのを横目で見ながら、綾香の様子を確認しようとしたが、岩斉と言う男は存外、打たれ強いようだった。
……岩斉が憤慨した様子で『貴様!』と続けている。
そこで、殺気を込めて短く『動くな』と言った。
……流石に"殺気"には耐性が無かったようで、失禁していた。
このままでは、床に横たわった裸の少女が汚れてしまう。
そこで、少女を抱き上げると、毛皮のコートで包んで床に寝かせた。
このコートは、部屋の隅に掛けられていた物で、無駄に高そうだ。
……僅かに視線を感じる。
そちらを見ると、岩斉が拳を握りしめていた。
……本当に打たれ強いと言うか、懲りないと言うか、このままでは無駄な手間が増えそうだったので、先に拘束しておく事にした。
腰に付けたポーチの一部を上に引くと、一本のワイヤーが出て来るので、そのワイヤーを持って岩斉の前まで行く。
「俯せになれ」
「……くそっ」
どうやら、一応は観念したらしい。
……油断などしないが。
少し殺気を含ませて命令する。
「両手を後ろに組め」
「ひぃっ」
ビクッとした後で、大人しく腕を後ろに回している。
それにしても、随分と良いものを食べているようだ。
……腕がむっちりしている。
……ボンレスハムみたいだ。
岩斉の腕を掴むと、ワイヤーを一周させ、もう片方の腕も同じようにする。そして、ワイヤーを回した両腕を最後にまとめた。
足も同じように縛ったが、危うく岩斉の"水溜り"に足を付けそうになった。
下手に動かれると、色々な意味で困るので、足の方はきつめに縛って置いた。
……これで、一先ず大丈夫だ。
ワイヤーで特殊な縛り方をした。
もし強引に解こうとしたら、ワイヤーが喰い込む事になる。
岩斉を縛り終えたので、再度三人の状態を確認した。
……優先順位が一番高いのは、木に拘束されたままの綾香だろう。
服は破け、両腕の打撲痕も酷いが、出血及び頭部へのダメージ……特に、眼球の状態が心配だ。このままでは、取り返しのつかない事になる可能性がある。
流石に、死んでしまったら手の施しようがなくなる。
……死んでさえいなければ大丈夫だ。
状態を視認しながら近づいたが、何やら反応が悪い。
……『安心したのに、再び不安になって来た』と、そんな所だろうか。
(何故だ?)
そう考えてみて、ふと自分の姿の事を思い出した。
「マム、ヤモ吉の視点を出してくれ」
そう言うと『はい、パパ!』と返事があり、薄暗い部屋の中に立つ"般若の面"を付けた男が見えた。……これは、俺でも怖い。
「……マム、面を外してくれ」
そう言うと、マムが『カッコ良いのに……』と言いながらも、外してくれた。
……外れた仮面を見ると、普段通りのツルっとした能面に戻っている。
「さて、これで良いか?」
そう、綾香に話しかけると、心なしか表情が和らいだ。
「外すぞ?」
そう言いながら、綾香を拘束している器具を解いて行く。
途中、腕の拘束を外した時点で倒れ込んで来たので、体を支えながら拘束を完全に解いた。
再度、その容態を確認する。
……一刻を争う事態だ。
綾香の表情を伺うに、痛みは感じていない様だが、恐らく"脳の安全装置"が働いたのだろう。これは、"正気を保てなくなる程の痛みが生じている"と言う事だ。
人間の脳は上手く出来ていて、強すぎる信号が来た場合、全ての信号をシャットアウトするのだ。シャットアウト……つまり、"痛み"と言う信号を脳が受け取らなくなる。
つまり、今のまま放っておくと、痛みを感じないまま――死んでしまう。
綾香を見ながら("治療"の手段を用意しておいて良かった)と心底ホッとしていた。
「マム、治療だ……」
「はい、パパ。綾香さんの容態ですと……レベル3の治療薬を使って下さい」
持って来た治療薬は、"レベル1~5"迄の5種類だが、その内『レベル3』と言う事は、"効力が3段階目に強い"と言う事だ。
……逆に言えば、まだ二段階上があると云う事でもある。
正直、正巳自身もレベル毎に、どの程度の効力が有るのかを知らない。
と言うのも、正巳が過去使ったのは、"レベル1"を一度のみのなのだ。
あの時は、両足を複雑骨折していた者の治療をした。
『治療をした』と言っても、治療薬を飲ませただけだが……翌日にはすっかり良くなって、走り回っていたのには驚いた。
そんな事を思い出しながら、マムに『分かった』と答えた。
"レベル5"でも良い気がしたが、マムが『レベル3』と言ったのだ。
特に問題無いのだろう。
そう判断したところで、上着の内ポケットから、淡い赤色を帯びた薬品を取り出した。
……前回使用した際に『変な効力(ハク爺を治療した時の様な)は無いよな?』と聞いた。すると『はい、大丈夫です。逆巻さんに使用したのは、試験薬だった"原液"なので……完成品は、元に"治す"だけです!』と答えがあった。
マムの説明に納得していたら、その後で『"原液"の場合、きちんと個人に対して調整しないと、最悪即死ですからね……パパにそんな危険な物渡せません!』と呟いていて、『ハク爺、失敗してたら……』と少し青くなったのだった。
何にせよ、この治療薬を飲ませなくてはいけない。
見た感じ、既に体を上手く動かせなくなっているようだ。
「……飲めるか?」
綾香の口元に、治療薬の入った容器を添えるが……口元が微かに震えるだけで、飲む事が出来ない。少し口元に流し込むも、飲み込めずに溢してしまっている。
一応、視線は薬を追っているが……薬は其々一種類しか持って来ていない。治療にどれくらいの量が必要か分からないが、これ以上少なくなると、取り返しがつかない可能性がある。
そこで、正巳は残りの治療薬を口に含んだ。
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