『 インパルス 』 ~宝くじで900億円当たったから、理想の国を作ることにした~
86話 帰還 [夕日色]
”施設”へと着いた一台の車両から、一匹の白いネコが飛び出して来る。その後、一人の女性が降り、その後ろから一人の少女が降りて来た。その少女は、桜色の肌と、『白』と言うよりは、ピンクに近い白……『桜色』の髪をした少女だった。
その少女は、駆けて行った”白いネコ”と目の前の”女性”を交互に見比べた後、”白いネコ”の後を付いて行く事にした様だった。
◆
車から降りたサナは、周りをぐるっと見渡した。
”施設”での記憶しかないサナにとっては、その光景一つ一つが新鮮であった。
広範囲にわたって見渡せる場所。
”ナニカ”が建っていたらしい”跡地”に空いた穴。
周囲に積み上げられた瓦礫と土の山。
微かに見える山々は、沈みかけている夕日に照らされ、紅く燃えている。
それらの光景を瞳に刻み付けていたが、ふと、視界の端に走りゆくネコの姿が映った。
「にゃんにゃん……お兄ちゃん?」
一緒に居るネコが、とても頭が良い事は知っていた。
そんなネコが、駆けだして行く……
何となく、車内での怯えたネコの姿が思い浮かんだが、それにしては走って行く方向が、やけに確かな気がした。
「お兄ちゃんなの!」
一瞬、目の前の”お姉ちゃん”にも声を掛けようと思ったが、忙しそうだったので、一人で行く事にした。
途中、通り過ぎる大人の人達がこちらを見て、驚いていたが『お兄ちゃん、探すの!』と言うと、何やら納得したような、困ったかのような、複雑な顔を向けられた。
それでも、ねこにゃん……ボス吉の姿を見失わないように、走って行った。
……ボス吉が止まったのは、ある”部屋”の上でだった。
見ると、ココだけ部屋になっている。
……他の場所は只の”穴”なのに、ここは”部屋”なのだ。
上から、”部屋”を眺める。
……屋根が剥がされ、見取り図の模型の様になっている。
「お兄ちゃん?」
ボス吉の横に並んだサナがそう呟くと、ボス吉が小さく『にゃ』と答えた。
残念ながら、サナにはその意味は分からなかったが、下にある”部屋”へと飛び降りたボス吉を見て”こっち”と言ったように感じた。
「おりれるかなぁ」
そう言って下を見たサナの目には、地下一階の地面が映っていた。……実は、もう少し先へと移動した場所に”階段”が有ったのだが、サナは気付いていなかった。
「えいっ」
そう呟いたサナは、2メートル強の高さを飛び降りていた。
『”タンッ”』
軽い音を立てて着地したサナは、体に問題が無い事を確認して歩き出した。
ボス吉は、降りた後、真っすぐに歩いて行った。
「ネコにゃん?」
ボス吉の事を呼びながら歩いて行くと、少し広い”階段の付いた場所”の床を引っ掻いているボス吉が居た。
ボス吉は、大きくなっていて、その背丈は成人男性程の高さがあった。
……ボス吉が引っ掻いた床には、既に無数の”爪痕”があり、コンクリートの床が抉られている。
その光景を見たサナは、瞬時にその意図を理解した。
「にゃんにゃん、退いて!」
そう言ったサナは、体に力を入れて”必要なサイズ”になった。
かかった時間はほんの数秒であった。
そこには既に、幼い少女はいなかった。
居たのは、綺麗な桜色の髪をした、大人の女性だった。
あまりの”変化”に驚いたボス吉が、飛び退いた。
……姿が変わったのに驚いたのではない。
その”圧”が変わったのだ。
まるで、海面で水遊びしていたのに、深海まで一気に移動したかのような、そんな”圧”の変わり方だった。
女性は、久しぶりの冴え渡る感覚に、酔いそうになる。しかし、ボス吉が飛びのいたのが見えたので、爪痕の残る床に対して、屈みこむようにして”照準”を合わせた。
「ハアッ!」
打ち込まれた”拳”が、その”床”にめり込む。
『”ズンッッ”』
地響きの様な衝撃が加わる。
「まだダメね」
そう呟いた女性の視線の先には、粉々に砕けたコンクリートの床と、その間から覗いた”鉄板”が見えていた。
……恐らく、この鉄板は補強的意味合いよりも、遮断を目的にして加えられていたのだろう。そうでなければ、一度の衝撃で変形する筈がない。
見ると、床の端四か所が、其々四角く綺麗に残っていた。
その、四か所以外の部分のコンクリ―は粉々に砕けているのに、だ。
「ココが”支え”か……」
そう呟くと女性は、順番に四か所を壊し始めた。
……数秒後、最後の”支え”を破壊していた。
『”ドゴンッ!”』
……最後の支えを破壊し終えた瞬間、床が落ちた。
――
一瞬の事で咄嗟に”戻った”サナは、ボス吉の上に落ちていた。
落下の際、『当たる面積が小さい方が負傷の度合いが小さくて済む』と考えての行動だったが、その事は既に忘れていた。
……いや、分からなくなっていた、と言う方が正確だろうか。
過去に一度だけ”大きく”なった事のあるサナは、前に大きくなった時と同じく、何処か”モヤモヤ”する頭を振り払って、ボス吉にお礼を言った。
「にゃんにゃん、ありがとなの」
咄嗟に、ボス吉がクッションになってくれたから良かった。もしそうでなければ、金属の破片などで傷ついていたかも知れない。
……元に戻ったサナは、すべて忘れるわけでは無く、大体の事は覚えていた。
ただ、どうして『四か所を壊したか』かは、いくら考えても分からなかった。
『にゃお、にゃ……』
ボス吉がそう答えるのを聞いて、一度モフモフした。
普段はそのまま数十分単位でモフモフするのだが、今回はその限りでは無かった。
「お兄ちゃん!」
そう、自分が探しに来たのは”お兄ちゃん”である正巳なのだ。
改めて、周囲を見る。
……散乱した瓦礫、反る様にして曲がった鉄板、僅かに覗いている床には茶色い紙と、液体が漏れ出しているのが見えた。
しかし、それ以外は四方が壁に囲まれた一つの部屋だった。
「にゃにゃにゃ!」
急に鳴き始めたボス吉の上から降りる。
すると、ボス吉は正面の”壁”を引っ掻き始めた。
……何となく、ボス吉が引っ掻く”向こう”から、『”ドン”』と言う音が聞こえる気がする。
「壁の向こう……!」
ボス吉が引っ掻く壁に近寄ると、壁を殴った。
『”ドンッ!”』
大人からしても、恐るべき力だ。
しかし、それでも壁を”壊す”は愚か、ヒビを入れる事すら出来ない。
本来、人間が生身でコンクリートを砕く事など、出来るはずも無いのだ。
……とは言っても、再び”大きく”なる事も出来ない。
あれ自体、細胞を酷使して行う”最終手段”なのだ。
再び使う等出来る筈がない。例え出来たとしても、それをした瞬間、細胞が其々勝手に”成長”し始めてしまうだろう。
”お兄ちゃん”に合えたとしても、それでは意味が無い。
そんな風に困っていると、後ろに下りてくる気配があった。
『”タンッ”』
軽い音を立てて下りて来たのは、車の中で沈黙していた機体だった。見ると、その手には何やら機械を手にしている。
「マム、なの?」
そう聞くと、少女が答えた。
「デス、はい、マムなのですよ……『――同期操作を切断、ローカルシステムに切り替えます――』……はい! ここは電波の入りが悪いようなので、分離しました!」
「なの?」
少女は、よく分かっていないであろうサナに『マムが壁を開けます!』と言い、手に持っていた機械を床に置いた。
「起動、座標指定、掘削位置確認、認証、――開始」
マムがそう言うと、先がドリル状になった機械が動き出した。
◆
正巳は、壁を左右交互の腕で殴っていた。
途中、何となく地鳴りが起こった気がして、手を止めた。しかし、直ぐに気のせいだと思い直し、壁を壊す作業を再開した。
……気のせいか、殴った瞬間少し壁が凹んだ気がした。
……いや、気のせいだとしても、この可能性にかけたい。
どうせ、砕けても治るのだ。
……痛いは痛いけど”実験体”として受けた痛みに比べれば、何でもない。
今度は、数歩下がる。
左足を少し前に出す。
『スーハ―……』
二度呼吸をして、息を整えた。
「よし……」
左手左足が出ている状態から、右足を踏み出す――右足を出した瞬間に体を捻らせ、ボールを投げるようなフォームで突いた。
……そのフォーム自体は投球の動きであったが、右腕は振りかぶらず、脇を締め、体の横から突き出したのだ。
拳が、壁に当たる瞬間、壁の下部から”ナニカ”が突き出した気がしたが、既に遅かった。
『”ッドドォォォンッ!”』
正巳の拳が壁に炸裂した瞬間、壁が吹き飛んだ。
鈍い痛みが右腕に走る。
……拳が原型を留めていない。
自分の拳を見ながら(痛そうだな)と、何処か他人事のように考える。
今はそれよりも、壁だ。
”吹き飛んだ”壁を見る。
「おお……外だ……」
壁があった場所には、大きな穴が開いており、未だ砂埃で様子が確認できないながらも、その先には紅い光が見える。
どうやら、外は夕方らしい。
……朝焼けとは紅さが違う。
一歩踏み出す。
二歩目を踏み出そうとしたところで、直ぐ前に何かが立っているのに気が付いた。
その影は、自分と同じほどの高さであり、その影を中心にして、幾つかの壁の破片が浮いていた。
「ん?」
なんだろう、と思った瞬間、その影の両脇から二つの影が飛び出して来た。
「おにいちゃ!」「にゃ!」
飛び出して来た一人と一匹が、そのまま飛びついて来る。
一瞬、状況が理解できずに固まる。
しかし、飛びついて来た一人と一匹を撫でていて、我に返った。
「サナ? それに……ボス吉なのか?」
そう聞くと其々『そうなの!』『にゃん!』と答えて来た。
少し気になる事もあったが、確かに目の前に居るのはサナとボス吉だ。
「サナ……少し大きくなったか? それに、ボス吉は真っ白になって……それに小さくなってないか?」
サナは大きくなった気がする。
以前は、俺の胸のあたりまでしかなかった身長が、今や俺よりも少し小さい位だ。
それに、着ている服が、所々解れてしまっている。
……何が有ったのだろうか。
対して、ボス吉は以前の毛並みは愚か、体の大きさも変わっている。
こちらは、大きくなるのではなくて、縮んでいるのだが……
「あ、すまん……」
右手でボス吉を撫でていたのだが、真っ白の毛並みに、赤い血が付いてしまっている。
……拳は既に再生していたが、その手には”血”が付いていたらしい。
「おにいちゃ、けがなの?」
サナが、そう言って心配してくる。
……黒い瞳だと思っていたが、少しだけ赤みが掛かっている。
「あぁ、いや、もう治ったん――」
言い終える前に、口を挟む存在が居た。
「怪我! 怪我をしているのですか、パパ!!」
どこから……と、思っていると、目の前に浮かんでいた壁の破片(と言っても、一つ一つが体ほどの大きさが有る)が、脇へと飛んで行った。
……そこには、心配そうに眉を歪ませたお人形が居た。
薄暗くなりつつある、夕日の中でも分かるくらいに白い肌。
その髪は白だが、何処か青を感じる”白”だ。
「……マム、か?」
近寄って来た少女を見ると、嬉しそうな表情を浮かべるも、直ぐに心配そうに聞いて来た。
「パパ! 何処か怪我をしているのですか? マスターが治療薬を持ってきているので――」
「ああ、大丈夫。どこも悪くないさ、ほら……」
そう言って、手を挙げるポーズを取る。
『”ガシャン”』と、左腕に付いたままだった、鉄の枷が音を立てる。
一瞬、枷に目を向けたマムだったが、俺の周りを歩き始めた。
……マムの体には、尻尾が付いていた。
……ユラユラ、しっぽ……クルクルしっぽ……
しばらくそうして尻尾の動きを見ていたら、サナが聞いて来た。
「……お兄ちゃん、しっぽ好きなの?」
……まさか、視線の動きを見られていたとは思わなかった。
「いや、まぁ……そうかもね……」
そう言った処で、新たな声がした。
「まさか”地下二階”が有ったとは……正巳君!? いるのかい?」
聞き覚えのある声だ。
「はい、ここに居ます!」
そう答えて、少し歩いて行く。
既に見る影も無かったが、確かにそこは地下へと降りて来た”フロア”だった。
……床の端には、液体がこぼれ出ている。
恐らく、段ボール箱に入っていた”薬品類”で間違いないだろう。
視界には入ってはいたが、天井が抜けている。
そして、抜け落ちた天井の端、僅かに残っていた”階段”に居た。
色々と話したい事があった筈なのだが、一言、言うしか出来なかった。
しかし、それで十分だとも思った。
「…………ただいま」
「おかえり、正巳君」
『仕方ないなぁ』という顔をして答えた今井さんの顔を見て、自然に笑みを浮かべていた。そんな様子を見てか、自然とサナとマムが両脇から抱き着き、ボス吉は足元へとすり寄って来た。
正巳から見える景色は一面、夕日色、唯一色に染まっていた。
その少女は、駆けて行った”白いネコ”と目の前の”女性”を交互に見比べた後、”白いネコ”の後を付いて行く事にした様だった。
◆
車から降りたサナは、周りをぐるっと見渡した。
”施設”での記憶しかないサナにとっては、その光景一つ一つが新鮮であった。
広範囲にわたって見渡せる場所。
”ナニカ”が建っていたらしい”跡地”に空いた穴。
周囲に積み上げられた瓦礫と土の山。
微かに見える山々は、沈みかけている夕日に照らされ、紅く燃えている。
それらの光景を瞳に刻み付けていたが、ふと、視界の端に走りゆくネコの姿が映った。
「にゃんにゃん……お兄ちゃん?」
一緒に居るネコが、とても頭が良い事は知っていた。
そんなネコが、駆けだして行く……
何となく、車内での怯えたネコの姿が思い浮かんだが、それにしては走って行く方向が、やけに確かな気がした。
「お兄ちゃんなの!」
一瞬、目の前の”お姉ちゃん”にも声を掛けようと思ったが、忙しそうだったので、一人で行く事にした。
途中、通り過ぎる大人の人達がこちらを見て、驚いていたが『お兄ちゃん、探すの!』と言うと、何やら納得したような、困ったかのような、複雑な顔を向けられた。
それでも、ねこにゃん……ボス吉の姿を見失わないように、走って行った。
……ボス吉が止まったのは、ある”部屋”の上でだった。
見ると、ココだけ部屋になっている。
……他の場所は只の”穴”なのに、ここは”部屋”なのだ。
上から、”部屋”を眺める。
……屋根が剥がされ、見取り図の模型の様になっている。
「お兄ちゃん?」
ボス吉の横に並んだサナがそう呟くと、ボス吉が小さく『にゃ』と答えた。
残念ながら、サナにはその意味は分からなかったが、下にある”部屋”へと飛び降りたボス吉を見て”こっち”と言ったように感じた。
「おりれるかなぁ」
そう言って下を見たサナの目には、地下一階の地面が映っていた。……実は、もう少し先へと移動した場所に”階段”が有ったのだが、サナは気付いていなかった。
「えいっ」
そう呟いたサナは、2メートル強の高さを飛び降りていた。
『”タンッ”』
軽い音を立てて着地したサナは、体に問題が無い事を確認して歩き出した。
ボス吉は、降りた後、真っすぐに歩いて行った。
「ネコにゃん?」
ボス吉の事を呼びながら歩いて行くと、少し広い”階段の付いた場所”の床を引っ掻いているボス吉が居た。
ボス吉は、大きくなっていて、その背丈は成人男性程の高さがあった。
……ボス吉が引っ掻いた床には、既に無数の”爪痕”があり、コンクリートの床が抉られている。
その光景を見たサナは、瞬時にその意図を理解した。
「にゃんにゃん、退いて!」
そう言ったサナは、体に力を入れて”必要なサイズ”になった。
かかった時間はほんの数秒であった。
そこには既に、幼い少女はいなかった。
居たのは、綺麗な桜色の髪をした、大人の女性だった。
あまりの”変化”に驚いたボス吉が、飛び退いた。
……姿が変わったのに驚いたのではない。
その”圧”が変わったのだ。
まるで、海面で水遊びしていたのに、深海まで一気に移動したかのような、そんな”圧”の変わり方だった。
女性は、久しぶりの冴え渡る感覚に、酔いそうになる。しかし、ボス吉が飛びのいたのが見えたので、爪痕の残る床に対して、屈みこむようにして”照準”を合わせた。
「ハアッ!」
打ち込まれた”拳”が、その”床”にめり込む。
『”ズンッッ”』
地響きの様な衝撃が加わる。
「まだダメね」
そう呟いた女性の視線の先には、粉々に砕けたコンクリートの床と、その間から覗いた”鉄板”が見えていた。
……恐らく、この鉄板は補強的意味合いよりも、遮断を目的にして加えられていたのだろう。そうでなければ、一度の衝撃で変形する筈がない。
見ると、床の端四か所が、其々四角く綺麗に残っていた。
その、四か所以外の部分のコンクリ―は粉々に砕けているのに、だ。
「ココが”支え”か……」
そう呟くと女性は、順番に四か所を壊し始めた。
……数秒後、最後の”支え”を破壊していた。
『”ドゴンッ!”』
……最後の支えを破壊し終えた瞬間、床が落ちた。
――
一瞬の事で咄嗟に”戻った”サナは、ボス吉の上に落ちていた。
落下の際、『当たる面積が小さい方が負傷の度合いが小さくて済む』と考えての行動だったが、その事は既に忘れていた。
……いや、分からなくなっていた、と言う方が正確だろうか。
過去に一度だけ”大きく”なった事のあるサナは、前に大きくなった時と同じく、何処か”モヤモヤ”する頭を振り払って、ボス吉にお礼を言った。
「にゃんにゃん、ありがとなの」
咄嗟に、ボス吉がクッションになってくれたから良かった。もしそうでなければ、金属の破片などで傷ついていたかも知れない。
……元に戻ったサナは、すべて忘れるわけでは無く、大体の事は覚えていた。
ただ、どうして『四か所を壊したか』かは、いくら考えても分からなかった。
『にゃお、にゃ……』
ボス吉がそう答えるのを聞いて、一度モフモフした。
普段はそのまま数十分単位でモフモフするのだが、今回はその限りでは無かった。
「お兄ちゃん!」
そう、自分が探しに来たのは”お兄ちゃん”である正巳なのだ。
改めて、周囲を見る。
……散乱した瓦礫、反る様にして曲がった鉄板、僅かに覗いている床には茶色い紙と、液体が漏れ出しているのが見えた。
しかし、それ以外は四方が壁に囲まれた一つの部屋だった。
「にゃにゃにゃ!」
急に鳴き始めたボス吉の上から降りる。
すると、ボス吉は正面の”壁”を引っ掻き始めた。
……何となく、ボス吉が引っ掻く”向こう”から、『”ドン”』と言う音が聞こえる気がする。
「壁の向こう……!」
ボス吉が引っ掻く壁に近寄ると、壁を殴った。
『”ドンッ!”』
大人からしても、恐るべき力だ。
しかし、それでも壁を”壊す”は愚か、ヒビを入れる事すら出来ない。
本来、人間が生身でコンクリートを砕く事など、出来るはずも無いのだ。
……とは言っても、再び”大きく”なる事も出来ない。
あれ自体、細胞を酷使して行う”最終手段”なのだ。
再び使う等出来る筈がない。例え出来たとしても、それをした瞬間、細胞が其々勝手に”成長”し始めてしまうだろう。
”お兄ちゃん”に合えたとしても、それでは意味が無い。
そんな風に困っていると、後ろに下りてくる気配があった。
『”タンッ”』
軽い音を立てて下りて来たのは、車の中で沈黙していた機体だった。見ると、その手には何やら機械を手にしている。
「マム、なの?」
そう聞くと、少女が答えた。
「デス、はい、マムなのですよ……『――同期操作を切断、ローカルシステムに切り替えます――』……はい! ここは電波の入りが悪いようなので、分離しました!」
「なの?」
少女は、よく分かっていないであろうサナに『マムが壁を開けます!』と言い、手に持っていた機械を床に置いた。
「起動、座標指定、掘削位置確認、認証、――開始」
マムがそう言うと、先がドリル状になった機械が動き出した。
◆
正巳は、壁を左右交互の腕で殴っていた。
途中、何となく地鳴りが起こった気がして、手を止めた。しかし、直ぐに気のせいだと思い直し、壁を壊す作業を再開した。
……気のせいか、殴った瞬間少し壁が凹んだ気がした。
……いや、気のせいだとしても、この可能性にかけたい。
どうせ、砕けても治るのだ。
……痛いは痛いけど”実験体”として受けた痛みに比べれば、何でもない。
今度は、数歩下がる。
左足を少し前に出す。
『スーハ―……』
二度呼吸をして、息を整えた。
「よし……」
左手左足が出ている状態から、右足を踏み出す――右足を出した瞬間に体を捻らせ、ボールを投げるようなフォームで突いた。
……そのフォーム自体は投球の動きであったが、右腕は振りかぶらず、脇を締め、体の横から突き出したのだ。
拳が、壁に当たる瞬間、壁の下部から”ナニカ”が突き出した気がしたが、既に遅かった。
『”ッドドォォォンッ!”』
正巳の拳が壁に炸裂した瞬間、壁が吹き飛んだ。
鈍い痛みが右腕に走る。
……拳が原型を留めていない。
自分の拳を見ながら(痛そうだな)と、何処か他人事のように考える。
今はそれよりも、壁だ。
”吹き飛んだ”壁を見る。
「おお……外だ……」
壁があった場所には、大きな穴が開いており、未だ砂埃で様子が確認できないながらも、その先には紅い光が見える。
どうやら、外は夕方らしい。
……朝焼けとは紅さが違う。
一歩踏み出す。
二歩目を踏み出そうとしたところで、直ぐ前に何かが立っているのに気が付いた。
その影は、自分と同じほどの高さであり、その影を中心にして、幾つかの壁の破片が浮いていた。
「ん?」
なんだろう、と思った瞬間、その影の両脇から二つの影が飛び出して来た。
「おにいちゃ!」「にゃ!」
飛び出して来た一人と一匹が、そのまま飛びついて来る。
一瞬、状況が理解できずに固まる。
しかし、飛びついて来た一人と一匹を撫でていて、我に返った。
「サナ? それに……ボス吉なのか?」
そう聞くと其々『そうなの!』『にゃん!』と答えて来た。
少し気になる事もあったが、確かに目の前に居るのはサナとボス吉だ。
「サナ……少し大きくなったか? それに、ボス吉は真っ白になって……それに小さくなってないか?」
サナは大きくなった気がする。
以前は、俺の胸のあたりまでしかなかった身長が、今や俺よりも少し小さい位だ。
それに、着ている服が、所々解れてしまっている。
……何が有ったのだろうか。
対して、ボス吉は以前の毛並みは愚か、体の大きさも変わっている。
こちらは、大きくなるのではなくて、縮んでいるのだが……
「あ、すまん……」
右手でボス吉を撫でていたのだが、真っ白の毛並みに、赤い血が付いてしまっている。
……拳は既に再生していたが、その手には”血”が付いていたらしい。
「おにいちゃ、けがなの?」
サナが、そう言って心配してくる。
……黒い瞳だと思っていたが、少しだけ赤みが掛かっている。
「あぁ、いや、もう治ったん――」
言い終える前に、口を挟む存在が居た。
「怪我! 怪我をしているのですか、パパ!!」
どこから……と、思っていると、目の前に浮かんでいた壁の破片(と言っても、一つ一つが体ほどの大きさが有る)が、脇へと飛んで行った。
……そこには、心配そうに眉を歪ませたお人形が居た。
薄暗くなりつつある、夕日の中でも分かるくらいに白い肌。
その髪は白だが、何処か青を感じる”白”だ。
「……マム、か?」
近寄って来た少女を見ると、嬉しそうな表情を浮かべるも、直ぐに心配そうに聞いて来た。
「パパ! 何処か怪我をしているのですか? マスターが治療薬を持ってきているので――」
「ああ、大丈夫。どこも悪くないさ、ほら……」
そう言って、手を挙げるポーズを取る。
『”ガシャン”』と、左腕に付いたままだった、鉄の枷が音を立てる。
一瞬、枷に目を向けたマムだったが、俺の周りを歩き始めた。
……マムの体には、尻尾が付いていた。
……ユラユラ、しっぽ……クルクルしっぽ……
しばらくそうして尻尾の動きを見ていたら、サナが聞いて来た。
「……お兄ちゃん、しっぽ好きなの?」
……まさか、視線の動きを見られていたとは思わなかった。
「いや、まぁ……そうかもね……」
そう言った処で、新たな声がした。
「まさか”地下二階”が有ったとは……正巳君!? いるのかい?」
聞き覚えのある声だ。
「はい、ここに居ます!」
そう答えて、少し歩いて行く。
既に見る影も無かったが、確かにそこは地下へと降りて来た”フロア”だった。
……床の端には、液体がこぼれ出ている。
恐らく、段ボール箱に入っていた”薬品類”で間違いないだろう。
視界には入ってはいたが、天井が抜けている。
そして、抜け落ちた天井の端、僅かに残っていた”階段”に居た。
色々と話したい事があった筈なのだが、一言、言うしか出来なかった。
しかし、それで十分だとも思った。
「…………ただいま」
「おかえり、正巳君」
『仕方ないなぁ』という顔をして答えた今井さんの顔を見て、自然に笑みを浮かべていた。そんな様子を見てか、自然とサナとマムが両脇から抱き着き、ボス吉は足元へとすり寄って来た。
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