誰よりもきれいな色になれ

みずかなで

ひまわりは誰の方にも向かない-1

 あの日からだいぶ時間が経った。
 僕はパソコンのWordの白紙ページをずっと映しながら、キーボードでタイピングしては消してを繰り返す。何度も頭を抱えながら巽教授の講義レポートをどう書こうか悩みに悩んでいた。
 当初は見て感じたことを素直に書こうとは思ったものの、それを本当の気持ちで書くべきか嘘で塗り替えるべきか。
 記憶が新しいうちに書きたかったが、このままだと一文字も書けない気がしたのでパソコンの電源を落とした。
 さてどうしようか、と僕は椅子に座ったまま考える。思わぬ暇な時間ができてしまったので、何か時間を潰せることはないかと模索する。
 そういえば、と。僕はスマホであることを調べる。あの展覧会の開催時期だ。なんだかあそこに行けば、また彼女に会える気がした。散々会わないほうがいい、関係はここで断ち切ったほうがいいと自分の中で決めていたのに、ずっと気持ち悪いほど頭の中に居座り続けている。幸いなことにあの展覧会はまだやっていて、行こうと思えば行ける。
 だからモヤモヤを晴らすために再び出向くのも悪くないのかもしれない。
 おそらくだけど、ゴッホが描いたのはあの【ひまわり】だろう。強烈な作者の名前と見た時に感じた違和感、頭の中がパンクしていく感触。あの時は彼女の絵がアレだろうとは言わなかった、いや言えなかった。
 贋作だと思ったが本物だと語る。その意図は一体なんだろうか。実在しないはずのものを本物だと言い張るのが謎なんだ。
 彼女が描いたものが本物になる? 推測であろうがそう考えるとピッタリとピースがハマる。でもそう考えると当然だがおかしいのだ。
 ただそのおかしさ、不可思議さを究明したい。僕の興味は全てそこに集約したのだ。
 僕は軽く出かける準備をする。あの展覧会に出向こうと自転車に乗り、駅へと向かった。

 二駅離れた街に前回僕たちが訪れた美術館、展覧会があった。前情報通り、まだ「近代西洋絵画展」は開かれていた。けれどもこないだほどの人はいなかった。前回訪れたのが土曜日で、今日が平日だからよくよく考えてみれば人が少ないのは当然なのかもしれない。
 僕は再び入口の回転ドアをくぐり受付に入館料を支払い、底知れない違和感がある不思議な城に入城した。
 あの日から何も変わっていない。白の空間が相変わらず絵画の放つ特殊な色色が不思議な空間を作り出し彩る。そして僕はその空間の異物として歩みを進める。そしてあの絵があった「印象派」の通路へ向かおうとする。だけど恐怖めいたものが脳内に浸食し支配しようとする。
 息を呑んで目を閉じて僕はその絵に対峙しようとして気持ちを高める。そんな気持ちを押し殺すように歯をくいしばる。

【ひまわり】ーーフィンセント・ファン・ゴッホ

 その絵とその作者は当然だが変わっていない。だけど、僕は覚えている。彼が生前描いた【ひまわり】と一致しないことを。
 ーーこれは何枚目なんだ?
 記憶違いだといいな、と何度も思った。だけど繰り返し調べてもこの絵があるなんて情報は見つけられなかった。
「やあ。君は私の講義を受けている生徒だったね」
 後ろから声をかけられた。急に声がしたのでビクッと肩を震わせ、そしてワンテンポ遅く、声のする方へ振り返り声の主を見やる。
「……巽教授、でしたか」
 講義で見ているときとは違い、清潔感を感じた。色褪せてない新品のようなスーツを着込み黒いハットを被っており、白髪混じりの髪は後ろの方で束ねていた。ただこれだけで不潔感を感じえなくなるのか、と失礼ながら感じてしまった。
「あれかな、君は講義のレポートのためにやってきたのかな? 美術館というのはなかなかいいものだよ、自分の価値観を補いうる可能性がある」
 相変わらずのしゃがれ声で聞き取りづらいところがあったが大体言いたいことは理解できた。
「はい、そうですね。でも、なんだか書けなかったからもう一回来ました」
 あながち間違っていない。目的が少し違うだけだ。
「ほお、興味がないと言っていたのに随分と熱心だ。じゃあ君のレポートを楽しみにしておこう、えーっと」
「佐伯って言います。レポートはあまり期待しないでください……」
「佐伯くんか。すまんね、名前も知らずに声をかけてしまったね」
 そしてそれから少しばかりの静寂が訪れる。当然と言えば当然で、もともとは違う世界で生きてきた二人であるから共通の話題なんかなくて沈黙してしまう。気まずさが今の空間を支配する。
「先生、この絵についてなんですけど」
 やっと口を開いて沈黙を破いた。僕は例の絵画を指差し、巽教授に尋ねた。すると彼は目元を上げなにやら意味深な含み笑いをする。
 何か知っているのか? と期待をした。
「これは【ひまわり】だね、おそらく君でも知っているゴッホという画家が描いたものだ」
 聞きたいのはそういうことじゃない。この絵がゴッホという故人の描いた絵ではない、という返事が欲しかった。美術学のエキスパートの巽教授でも、この絵に違和感を感じない……?
 再び僕の頭が混乱してざわめく。僕がおかしいのかもしれない、そんな不安が来襲する。世界の理に自分が順応してないんじゃないか、とも思う。
「先生、ゴッホって確か同じのを何枚か、描いてたんですよね」
 自分が調べた知識を確認のように問いかける。そして彼は確かにそうだ、と大きく頷く。そして僕は畳み掛けるように問いかけをする。
「この絵は何枚目か、知っていますか?」
 核心をつく質問だろう。そして彼の表情の変化を見たかった。しかし驚くことに彼の表情に変化はなく飄々としていた。そして口角が上がり、それが含み笑いを気持ち悪いほど助長していた。
「先生……?」
 僕は言葉を発せず笑う巽教授が不気味で思わず声をかける。
「ああすまん。少し思い出そうとしていただけだよ、これは確か」
 一拍置いたのち、彼は答えようと口を開く。
「8枚目、かな。これは」
 彼は淡々とそう述べる。そして僕は言葉の違和感に気付く。衝撃的な言葉で一瞬息を吸うことさえも忘れてしまった。そして迷う。彼のいう間違い、違和感に僕みたいな知識のない若輩者が口出してもいいものなのか、と。
 もしかしたら美術館の資料室で読んだ本自体が間違いじゃないのか、と邪推する。あの時読んだときは、【ひまわり】は「7枚」だと記述してあった。これが間違いなのか?
 淡々と受け答え、表情は少し笑みが漏れてはいたがからかって嘘ついているようには見えない。だったら本の記述は把握漏れなのか?
「8枚目、ってそれは本当なんですか?」
「本当だよ」
 即答した。すかさず彼の顔を見る、がその目は据わっていて嫌な予感が沸き起こる。
「君はおそらくだが、インターネットだが本とかで【ひまわり】は「7枚」だと知ったのだろう? でも今私の口から8枚目というのを聞いて、違和感がある、ということだろ? その違和感を拭うのは簡単だ。これが新しく発見された……これならどうだい? 腑に落ちるだろう?」
 ニヤついて目元を隠すようにハットの唾を指で掴み深く被る。違う、嘘なんじゃないかと直感で悟る。でも納得はできる。筋は通っているから反論するには難しい。
「でも、それだったらテレビとかニュースで、報道されているんじゃ……。そんなニュース見たことが」
 僕は何とか言葉をひねり出し、反論をかざす。でもそれは巽教授の目を見てしまったがため、途中で止まる。瞳の奥がどす黒い感情で塗り固まっているように見え、それに驚いて怯えてしまう。
「佐伯くん」
 僕の苗字を呼ぶ声は、低かった。しゃがれ声が低く発せられたことでその語気の強さが際だつ。背筋が凍るのを感じる。嫌な予感がゾゾゾっと不気味に現れて僕の背中を舐め回す。
「世の中にはね、暗黙の了解というものがあって、たとえそれがおかしくても黙認していなければならない事柄がたくさんある」
 それでね、と言葉を続ける。変わらずその言葉の強さに押され続けている。
「君はもしかしたら気づいているかもしれない。だけど、ダメなんだよ」
 そしてかさかさの唇に人差し指を押し付ける。シーっと人をあやすような動作だ。
 やはり僕はいつの間にか深い闇に、とんでもない沼に片足を突っ込んでいたのか、と自覚する。暗黙の了解とはなんなのだ。そして8枚目の秘密とはなんなのだ。疑問がぐるりぐるりと脳を真っ白に染め上げる。
「これはね、仕方のないことなんだ。絵画という芸術を楽しむ人間すべてが許容して楽しんでいるんだよ。私もその中の一人だ。だから誰も邪魔しないしされたくない。皆がそう、君だけが否定しようとしてもこの現状は変わらない」
 僕は「ゴッホ」を頭に浮かべて、そして戦慄する。まだ全貌を理解しきれていないが、この会話の背景には“彼女”が少なからず関わっているのは事実だろう。そして僕は彼女の全てを知っているわけではないが、何かしら悲しみその闇の深淵を知ろうとしている。だからその快楽のために彼女は我慢して、その果ての犠牲にしか思えないのだ。
 「それは、何らかの犠牲があるんじゃないんですか」
 僕は何とか絞り出した言葉を目の前投げかける。この言葉の意味を正確に説明できるとは自分でも思わない。
「犠牲って、何のことだい?」
 案の定、聞き返されて僕は言葉に詰まってしまう。何も答えられない自分が悔しいとも思えた。
「君がどこまで知っているのかは知らないが、知らぬが仏。美術に興味がない君は、幸せになれる理由がちゃんとあるんだよ」
 その通りだ。僕は本来、関わることなんかなかったはずなんだ。だけど僕はメーデーを受信してしまった。彼女にとって唯一見つけられた救難信号を発しられる人物は僕なんだろう、そうだと思いたい。
「じゃあ、君のレポートを楽しみにしておくよ。君の思うがまま書いてくれ、私はもう行かないと、だからね」
 僕に背中を向けハットを手のひらで掴んで少しだけ脱いで会釈する。そして再び被ると完全に背を向けて絵画のトンネルの中をゆっくりと闊歩していく。
 腑に落ちない事柄がたくさんある中で、僕は何とも言えない気持ちに陥る。これは僕だけでは何ともできない問題で、そうなると彼女のメーデーに答えられないということで。
 好奇心は、真実を明らかにすることなんかできやしない。分かったのは、僕は彼女を助けるに値しない人間だった、ということだ。

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