怪獣のラプソディ

浮艇景

3 ソラノイロ

 吟遊詩人と出会った次の日の夜。ラプソディは笛を手に巣穴に別れを告げました。


 彼と出会って気がついたのです。ラプソディは今まで男が来るのを待ってばかりでした。だから、今度は自分から男に会いに行くのです。


 フクロウの声と夜風が草木を揺らす音が静かな森に響きます。明かりといえば、茂みの中から時々見える小さな二対の瞳と、それから星明りくらいでしょうか。それだけの明かりでもラプソディは十分です。暗闇の中でも目はよく見えるのです。


 捜すといっても、ラプソディは男の事を何一つ知りません。どこに住んでいるのかも、彼の名前さえも。
 唯一の手がかりは、毎日会いに来ていたのだから、森の近くに住んでいるかもしれないということ。
 それも遠くに行ってしまっていたのならそれまでの話なのですが、今はそれをたよりにするしかありませんでした。


 森は思っていたよりもずっとずっと広く、なかなか森を抜けることができません。自分の世界がどんなに小さいものであったか、彼は思い知ります。吟遊詩人はどんなに広い世界を知っているのだろう────ラプソディはそう思いました。


 結局、森を抜けたのは夜が明けた頃。日が昇るのは早いもので、少し空が明るくなったと思ったらあっという間に太陽が顔を出して朝になってしまうのです。


 今日もとてもいい天気。野に咲く花は太陽に向かって咲き、透き通った風は森とはまた違ったにおいがします。


 ラプソディは、おもむろに笛を口にあてて息を吹き込んでみました。が、人間に合わせて作られたもののため、ピョロ~ロロロ……と変な音しか出ません。吟遊詩人の奏でる笛の音とはほど遠いものです。
 それでも少し慣れるとちゃんとした音が出るようになり、さらに続けると吟遊詩人ほどではないですが、指のツメを動かして簡単な音楽も吹けるようになりました。


 ラプソディは少し楽しくなってきました。
 笛を吹きながら、しばらく草原の中を行進するように歩いていると。


 ん? 何か聴こえる?


 笛とは違う音がどこからか風に乗って流れてきたのです。もしかして吟遊詩人でしょうか?


 くるりと向きを変え、音の方へ行進していきます。


 すると、まもなくラプソディは小さなおうちを見つけました。


 なんだろう、あれは? はじめて人間のおうちを見たラプソディはドスドス足音を立てて近寄っていきます。


 開け放たれた窓を覗くと、一人の人間の少女が窓際で椅子に座っていました。そして彼女の横の机の上には、固い音が流れる不思議な箱。


 ラプソディがそれに合わせて笛を吹いていると、突然音楽がぴたりと止まりました。


「素敵な笛ですね」


 少女はラプソディの方を見ていました。長い金髪をきらめかせて、小首をかしげて笑っています。


 ラプソディは戸惑って何も返事をできずにいました。
 この少女は細くて子ジカのようで見るからに臆病そうです。でも子ジカと違って逃げる様子もありません。あの男や吟遊詩人もそうでしたが、人間ってみんなこんなものなのでしょうか?


「……あら? そこにいらっしゃるのでしょう?」
「い、いる。ここに」


 泳いでいた少女の青い瞳は、ラプソディがうなずくと再び彼の顔の方へ向きました。


「ふふ、変わった声をお持ちなんですね。私はアンナ。よろしければ、あなたの名前も教えてくれませんか?」


 名前。吟遊詩人がくれた、僕の。


「ラプソディ」
「ラプソディ……いい名前」
「いいなまえ?」
「ええ、とても!」


 アンナはふわりと顔をほころばせました。


「あの、あなたの笛で何か吹いてみてくれませんか? 毎日同じ曲を聴いているので、たまには違う曲も聴いてみたいんです」


 さて、どうしましょう。アンナは大きな目でラプソディを見つめています。ですが、ラプソディはまだ笛を吹き始めたばかり。しかも曲なんてほとんど知りません。
 迷った末、ラプソディは吟遊詩人の唄の一つを吹いてみることにしました。
 上手くできるかどうか自信はありません。でも、巣穴で最初に聴いてとても気に入っていたのです。


 笛を口にあててうろ覚えに音を奏でていくと、しばらくしてアンナも一緒に歌いだしました。


 おうちの周りに少しぎこちない笛の音色とアンナのよく澄んだ歌声が混ざり合って響いていきます。


 ラプソディはさっきからずっとアンナの方を見ていました。アンナは世界に入り込んでいるように目を閉じて、笛の音に合わせて歌い続けています。
 我慢ができなくなったラプソディは思い切って笛の音を止めました。それと一緒にアンナの歌も止まります。


「あら? どうかされたのですか?」
「……こわくない?」
「え?」
「ぼく、こわくないの?」
「どうして私があなたを怖がるのです? おかしなですね」


 アンナがクスクス笑います。


 ラプソディはこのとき気がつきました。アンナが彼を恐れなかったそのわけに。


「あの、私もおかしな事聞いてもいいですか?」
「……うん」
「空って……どんな色をしていますか」


 彼女は濁った瞳で窓から空を見上げました。


「あお。まっさお」


 ラプソディはそう言いましたが、きっとアンナはその青もよくはわかっていないのでしょう。今、窓越しに話しているモノが人間ではないということも。


「私……生まれつき目が見えないんです。だから私の楽しみは音楽を聴くことだけ。家族以外と話すことも久しぶりでした」


 やっぱり、と思いました。だから彼女はこんなにも細くて小さいのでしょう。


「……見てみたいな。空や、お父さんお母さん、それにあなたも」


 この盲目の少女のために僕はどうすればいいんだろう。


 自分の姿を言うとまた嫌われてしまいそうで伝えられませんが、空だけは伝えることができそうです。でも、この青も知らない彼女に空を伝えるにはどうしたら……


「そら、おんがく、つたえる……」


 ラプソディはそう呟いて笛を構えました。
 少女に空を伝えたい。そしてラプソディにできるのは笛で表現することだけ。
 曲は決まっていました。吟遊詩人が教えてくれた大空を舞うトンビの唄です。どこまでできるかはわかりません。でも、これしかないと思いました。


 どこまでも続いていく氷のような青い空。冷たい明日への風に乗って、遥か西の空へ消えていくトンビ。
 風によく似た、流れていくような澄んだ笛の音色。トンビのように気ままな旋律。


 アンナは目を閉じて笛の音に耳を傾けていました。彼女は彼女の空をまぶたの裏に描いているのでしょう。


 唄が終わると、アンナはゆっくり目を開けました。


「……きれい。私のために、ありがとうございます」


 彼女の儚げなほほえみは、花のようにとても美しいものでした。


「……手、握ってもいいですか? あなたの存在を感じたいんです」


 窓の向こうからアンナは白い手を差し出してきます。
 この鋭いツメの生えた手で握ろうものなら、彼女の手は簡単に砕けてしまいそうです。それに、きっと自分がおぞましい怪獣だということも気づいてしまうでしょう。そうしたら彼女も────


「こわい。きみは、ぼく、きらう。こわい」
「恐れることはないですよ。私は逃げたりしませんから」


『俺が、お前の見た目が怖いというだけで逃げると思うか?』


 男の言葉が頭をよぎりました。


 ラプソディの手がアンナの手にそっと触れました。アンナはその手でラプソディの太い指を優しく握ります。


「私は目が見えないことを嫌だと思ったことはないんです。これはきっと神様の贈り物……私は目に見えない心をこうして感じることができるのだから」


 もしかしたら、アンナはラプソディの正体に気づいていたのかもしれません。そしてそれを承知で彼の手を握った────


 ふいに手がラプソディの手から離れました。


「いけない、お父さんが来たかもしれない。もしあなたを見つけたら……」
「え、え?」


 アンナのいる部屋の向こうから、わずかにバタバタと足音がします。うろたえるラプソディにアンナが言います。


「陰に隠れていてください。終わったらすぐ呼びますので」


 とっさにラプソディはおうちの側面に回り込んでしゃがみこみました。ここは草原、隠れられそうな所がなかったのです。
 耳を澄ますと、小さくアンナとそのお父さんらしき人の会話が聞こえてきました。


「アンナ、話声がしたけど誰かいたのか?」
「ううん。私が歌っていただけ」
「そうか……ならいいんだけど、ついさっき森の近くで恐ろしい怪獣がうろついてるのを見たって町の人が言っていたから、アンナも気をつけるんだよ」
「ええ。わかったわ」
「とりあえず、危ないからこっちの部屋に来なさい。アンナは知らないだろうけど、昔は怪獣もたくさんいて危険だったんだからね。乱獲でかなり減ったけど……そうだ、狩人を呼ばなきゃな」
「お父さん。そんな事しなくても大丈夫よ! かわいそうでしょう」
「もしもの事があったら困るだろう。さ、そのオルゴールも持ってきてあげるからおいで」


 窓が閉じる音がして、アンナの声もそのお父さんの声も聞こえなくなってしまいました。そしてそれきり、再び窓が開くことはなかったのです。

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