怪獣のラプソディ

浮艇景

1 キオク

 あれはいつのことになるのでしょう。白いカラを突き破った幼い怪獣が一番最初に見たものは、赤いひげが特徴的なたくましい人間の男でした。
 その男ははじめは怖い顔で銃口を怪獣に向けていましたが、しばらくすると突然銃を降ろしてなぜだか代わりに冷たい水を分け与えてくれました。そして男は暗い巣穴の中で目をぱちくりさせる怪獣にこう言ったのです。


「このままではお前は死んでしまう。俺と一緒に来ないか」と。


 このとき怪獣は幼いながらに、この人が僕のお父さんなんだ、はっきりとそう感じました。夢中で小さなツメの生えた手で巣穴から這い出ました。
 男はもう怪獣に背を向けて歩き出していて、怪獣はその背中を必死に追いかけました。
 その背中を怪獣は今でもはっきり覚えています。とても大きく強そうで一緒にいるだけで安心するような、そんな背中でした。


 その日から男は怪獣の住む巣穴に毎日決まった時間に会いに来ては、一緒に森の中を歩きながら色々な事を教えてくれました。同じ森に住む動物、ここに咲く花々、甘い果物────男は誰よりも森に詳しく、彼が何かを指さして語るたびに怪獣は好奇心で目をキラキラ輝かせるのでした。


 少し年月が経った頃、怪獣はあることに気がつきました。


 森の動物たちが自分の姿を見るだけで一目散に逃げていくことに。
 不思議に思った彼は最初は追いかけたりしたのですが、あまりにもみんなが怯えるのでそのうち悲しくなって追いかけることをやめました。


 なんで、みんな僕を見て逃げるの?


 そのことが気になってしょうがなくなった怪獣はある日、川の水に自分の姿を映して見てみました。そして、とんでもないことを知ってしまったのです。


 裂けてるみたいに大きくて真っ赤な口、ひとつひとつがナイフのようにギラギラ光るキバ、ヘビそっくりな鋭い目は父親のように思っていた男とはほど遠く、自分でも想像以上に恐ろしく、醜い姿をしていたのです。


 さすがにこの頃には、あの男と同じ人間ではないとわかっていましたが、それでも少しは人間に近いと思っていたのでとてもショックでした。森の動物がなぜ逃げていくのかがわかってしまいました。もし自分があの動物たちの立場だったら、きっと自分も逃げてしまうでしょう…………


 醜い生き物の映る水面に背を向けて、逃げるように巣穴に潜り込みます。


 この日だけは、いつも通りに男が来てもこの姿を見せるのが嫌で巣穴から出ることができませんでした。


「どうした? 何かあったのか」


 外から男が呼びかける声がしました。


「こないで!」


 このとき、身振り手振りで会話をしていた怪獣がなんと人間の言葉を発したのです。
 実は男は動物にしては物覚えのいいこの怪獣に簡単な言葉も教えていたのですが、ここまではっきりと喋ったのはこれが初めてでした。
 でも、実際出してみるとなんてガラガラのダミ声で汚い声なのでしょう! 怪獣はもっと恥ずかしくなりました。
 男は少し黙ったあと、いつもよりも優しい口調でそんな怪獣に語りかけます。


「せっかく話せるようになったのだから、何があったのか俺に話してごらん。少しは楽になれるかもしれない」
「……もりの、どうぶつが、にげる」


 ちゃんと男が聞いてくれているのか、この真っ暗な巣穴の中ではわかりません。でも、怪獣は教えてくれた言葉を繋ぎ合わせながらしどろもどろに紡いでいきます。


「かわのみず、みた。みずにうつったじぶんが、こわかった。だから、どうぶつがみんな、にげる……でも、おとうさんは、にげない。なぜ?」


 男は何も言いません。でも怪獣は男の答えが聞きたくて、辛抱強く待ち続けました。


「……俺が、お前の見た目が怖いというだけで逃げると思うか?」


 やがて男は静かにこう言いました。


「森の奴らはみんなお前の見た目ばかりに気を取られて中身になんか気づいちゃあいないが、俺は知っている。お前は本当は優しい奴だってな」


 普段と同じ低くて無愛想な声なのに、なんだかとても温かい響きです。
 自分を理解してくれている人間はここにいる。それだけで暗い心に光が灯ったような気分でした。


「みんなに嫌われるのは辛かろう。だが、今はあいつらは自分の身を守ろうと必死になっているだけだ。いつか、お前の心に気づいたその時は────みんなわかってくれるさ」


 怪獣が巣穴からそっと顔を出すと、男は巣穴の前でいつもと同じとおりしかめ面で待っていました。彼はあまり笑わない人間なのです。でも、怪獣に歩み寄るとごつごつとした手で怪獣の頭をなでてくれました。


「さあ、行こうか。今日は美味い木の実がなってる所を教えてやる。堂々と歩けよ。大丈夫、俺もいる」


 こうして今日も一人と一体で森を散策することになったのですが、森を歩けば動物たちに出会わないわけがありません。そしてやっぱり、動物は怪獣を見て逃げていくのです。


「実は俺も動物にはよく嫌われるたちなのだ。だから動物が逃げるのはきっと俺のせいでもあるのかもしれんな」
「え?」


 ぼそっと呟いた男の言葉に少し怪獣は驚きました。こんなに優しいのに……?


「そうさ。だから懐いてくれたのはお前くらいだ。だが俺はお前がいればそれで十分だ」


 男はそう言って不器用に笑いました。


「動物に嫌われてもお前は何も悪くはないのだから気にすることはない。だが、もし辛くなったらいつでも俺に言え。俺はずっとお前の味方だ────」









 それは昔の話。まだ怪獣が幼かったころの話。


 成長した彼の隣に今、男はいない。ある日を境に突然来なくなってしまったのでした。

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