神が遊んだ不完全な世界

田所舎人

主人公(仮)と枕

 ハイオク邸に戻った圭介は手早く着替え、損傷箇所を修復、再生することで何事も無かったかのように装う。時刻にして深夜二時。爆轟が屋敷まで届いたのかメイド達が慌ただしく状況報告や屋敷内の調査等を行っていた。
 圭介は申し訳ないと思いつつも一日の疲れを抜くため、ゆっくりと休むことにした。肉体的損傷は再生や細胞分裂、体組織の魔術的補完等によって無理はきくが、精神的疲労や肉体的疲労といったもの自体は燻り残り続ける。どうしても休息は必要なのだ。
 圭介は瞳を閉じると、緊張は解け、泥水に浸かったように体は重くなり、意識は深淵に埋没する。


 白い机に白い椅子。白い時計に白い床。白いに白い天井。光はなく影もない静謐な空間の中、圭介は立っていた。
[久しぶりだな。野村圭介]
 椅子に座っている人物が圭介に話しかける。白い髪に白い服。瞳を閉じたまま圭介を見つめる。
 圭介は口を開こうとしたが、言葉を発しようとするが音にはならない。
[この空間で発声はできない。対象に伝えたいことを思い浮かべ、対象に投げかけるように意識をすれば伝わる]
 発音無き声が頭の中に自然と意味が伝わる。
[こうか?]
[そう。この空間では発声は意味をなさない。話す舌も聞く耳も嗅ぐ鼻も見る目も必要ない世界。ここは君の魂の一室だ]
 白い人物は圭介にそう伝える。
(魂……)
[厳密に言えば、魂の中でも思考や記憶といった物を司る部分。この空間でどのようなことが起こったとしても君の肉体は一切傷つくことはない]
[……裏を返せば、ここで何かが起これば思考や記憶に影響が出るってことか]
[その通り]
[……それで、あんたは何者なんだ? まぁ察しはつくけど]
[ご察しの通り……と言いたいところだけど、たぶん違うだろう。だが、全て間違っているわけでもない]
 白い人物は圭介の思考を読み取るような言い回しをする。
[私が現れた理由は君に伝えなければいけないことがあるからだ]
[伝えなければいけないこと?]
 文字盤のない白い時計はただただゆっくりと動く。
[君の魂は少し欠けている。君の魂が剥き身なままあちらとこちらの世界を行き来したことが原因だろう]
[魂が欠ける?]
[魂は肉体に宿り、君達が呼ぶ魔素が魄の働きをすることで魂は保護される。剥き身な魂は霊界に移転するか、時の流れに従い摩耗し最後には消滅し、単なる魔素になるだけだ。君の魂も多分に漏れない]
[魂が摩耗するとどうなるんだ?]
[記憶の欠如、肉体的欠損、精神的欠落、様々な事象が考えられる]
(記憶の欠如……)
[君が時々行っている物質や魔術の分解や吸収や桁外れの魔素保有量や魔素流量。これは君があちらとこちらの世界を渡ったことによる影響だ。全ての世界に繋がる扉を潜ることで君の魂に刻まれた知識による副次的な力なのだろう]
[あれは俺自身の力じゃないのか?]
[違う。君自身は普通の青年だ。こちらの世界の人々よりも少しだけ知識を多く蓄えただけの普通の人間]
 そう白い人物は言い切った。圭介自身はただの人間だと。
[一つ聞きたい。俺がこの世界に呼ばれた理由はなんなんだ?]
 その質問をきっかけに世界に亀裂が生じる。白い壁は剥落し、異なる部屋が見え、白い時計はその針を目まぐるしい速さで動かし、天井は音も無く落ち、床に亀裂が走り、白い机や椅子は生じた亀裂から落ちる。
[その理由を話すにはまだ早い。君はまだ(仮)なのだから。その代わりといってはなんだが、君の魂の一部を補完してあげよう]
 白い人物はそれを最後に消えてしまう。崩壊を続ける部屋の中で白い時計が鳴る。


「野村様」
 圭介が目を覚ますと、サクヤが圭介を起こしに来ていた。
「おはようございます、野村様。朝食の準備ができております」
「あ……ああ。ありがとう」
 圭介は起き上がる。すると左腕から疼痛がする。
「野村様! どうなさったんですか!?」
 サクヤは圭介の左腕を凝視する。圭介は驚きの光景を目の当たりにする。掛け布団を剥がすと圭介の左半身はどす黒く血に染まり、既に凝血していた。
「あー……。ごめん。汚しちゃった」
 寝ぼけた頭で謝罪の言葉を述べる。
「野村様! すぐに医師を呼ぶのでお待ちになってください!」
 サクヤは医師を呼ぶため迅速に行動する。
 慌てるサクヤとは対照的にのんびりとした圭介はまず上半身裸になり、出血源を探す。どうやら疼痛している左腕が中心のようだった。圭介は水で血塗れの体を洗う。左腕は既に治っており、更なる出血や傷が開くといった心配はないようだった。ただ、不思議なことに今まで忘れていた傷痕が左腕にあった。十六針縫った切創だ。
 圭介は今の今まで忘れていた。自身の左腕に傷があったことを。何故今更そんなことを思い出すのか不思議に思った。そして何よりも、いままでこの傷がこの肉体に無かったことに驚いた。過去に負った傷がこの世界に来てから無くなり、今更傷が浮き出てきた。圭介にとって気持ち悪い現象だった。
 左目が疼く。圭介は咄嗟に左手で覆い気分を落ち着かせる。右目だけを開き、自分がきちんと存在していること。自分が自分のことを考えていること。自身に肉体があること。自身の存在の確実性を求めるようにあらゆる器官とあらゆる思考を巡らせ、自身の存在性を探し出す。見える。聞こえる。臭う。触れる。寒い。柔らかい。明るい。朝の薫り。陽の薫り。血の臭い。疼く。立つ。あらゆる挙動の反作用により自身を確立する。抓る。掻き毟る。爪を食い込ませる。痛い。痒い。熱い。疼く。自傷により自身の存在を確認する。しかし、その痛みすらもどこか他人事のように感じる。
 奇行を繰り返している内にバタバタと複数人の足音が聞こえる。
 サクヤ、凛、カンナ、ニーナ、ユズル、ハイオク、多くの住人や客人が圭介の部屋におしかける。ベッドは血塗れで血の臭いが部屋を満たし、圭介は呆けたまま右手を握っては開き、握っては開きを繰り返していた。
「野村様! 安静にしていてください!」
 サクヤは圭介の肩に触れる。圭介はビクリと肩を跳ねらせ、サクヤの顔をじっと見つめる。
「ケイスケ!」
 カンナが駆け寄り、圭介の左腕に手を当てる。治癒をしようと試みるが既に完治している傷痕を治すことはできない。この傷は魂にまで至る傷なのだから。
「とにかく、野村さんをベッドへ!」
 ユズルが圭介に肩を貸し、血塗れのベッドに寝かせる。
「ケイスケ! ケイスケ!」
 カンナは一生懸命に圭介の名前を呼ぶ。名前を呼ばれる度に圭介の強ばった表情はゆっくりと氷解していく。
「圭介。気をしっかり持ってください」
 凛が落ち着いた声で圭介に話しかける。圭介の耳には落ち着いたその声が全身に広がるように感じた。
「ど、どうしましょう!?」
 慌てるニーナ。
「これは……どういうことなんだ?」
 医師のような妙齢の女性が圭介の体に触れる。
「傷は完治している。それにこの傷痕……切創だな……誰かに襲われたのか……」
「おかしいですね? 野村さんにこんな傷は無かった筈ですが」
 ケアが一足遅れてやってくる。
「それはどういうことですか?」
 凛がケアに問いただす。
「昨晩、お風呂をご一緒したのですが、このような傷は無かった筈です。それにこの傷痕。自然治癒したものじゃありませんね。この白い斑点。傷を縫い合わせた痕なのでしょう」
「そうなんですか? マヒルさん」
 サクヤは妙齢の女性に問いかける。
「……ええ」
「しかし、そうするとおかしいです。圭介は人並み外れた自然治癒力がある。わざわざ縫ったりする必要はない」
「ということは……どういうことなんでしょう……」
「ケイスケ! ケイスケ! ……ケイスケ……」
 カンナは圭介の左腕を握ったまま何度も何度も呼びかける。
 その姿を見たケアはゆっくりと圭介の傍に立つと腕を振り上げ、思いっきり圭介の頬を打つ。
「スミス! 何をするんですか!」
 凛がケアに詰め寄る。
「大丈夫。これで野村さんも目が覚めるでしょう」
「ああ、目が覚めたよ」
 強い痛覚により意識がはっきりとした圭介は打たれた頬を撫でながら、へらへらと笑う。
「ケイスケ!」
 カンナは思いっきり圭介に抱きつき、圭介の頬にキスをする。痛みは直様引く。
「ありがとう。カンナ」
 圭介はカンナの頭を撫でて、抱きかかえる。
「ごめん。ちょっとトリップしてただけだから。気にしないで」
 カンナを地面に下ろし、脱いだ血塗れの服をサクヤに渡す。
「申し訳ないけど、洗ってもらえるかな?」
「え……あ、はい!」
 サクヤは服を受け取る。
「朝飯前ってのにスプラッタなものを見せてごめんね。さぁさぁ美味い飯が待ってるんだから食卓に並べ並べ」
 そう言って部屋の中にいる人達を追い出し、着替えるからと断り扉を締める。
「ふぅ……危なかった」
 圭介は大きく深呼吸をする。冷たい大気が肺を満たし、寝起きの思考はクリアとなる。
 忘れていた傷痕。左目の疼き。血塗れの左半身。見ていた夢を忘れたことを覚えている。
「切っ掛けは夢……だろうな」
 圭介の直感はこの一連の騒動の原因は内容を忘れた夢のせいだと思った。
「忘れていた傷痕。あー……嫌なこと思い出した」
 自傷の記憶が蘇る。あれはどんな理由で自傷したのだっただろうか。それこそ埋没した記憶だ。
「やめやめ、飯が不味くなる」
 圭介は左腕の傷痕をじっと見つめる。
(俺が忘れている傷痕……他にもあるのかな?)
 圭介は裁縫道具を取り出すと継ぎ接ぎだらけのシャツを作り頭と腕を通し、食卓に向かう。



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